2009-12-28

ロスタイム

今年ももう終わる。年の初めに「一年間」と書いたけど、まだいくつか書いておきたいこともあるし、もう少し続けることにします。夏場や師走の今の時期のように、いろいろな理由でぜんぜん書けない期間もあって、なかなか思った通りにはいかないね。仮に週二回のペースでずっと続けられていたら、今ごろは100回を数えていたはず(もちろんそんなペースが守れるとははじめから思ってなかったけど)。なので、とりあえず100回分になるまではなにか書こうと思います。あいかわらず、ここがわからん、あれがわからん、みたいな与太話だと思うけど。

しかし古文を読むようになって二年くらいたつけど、ちょっとは読めるようになってるのかね。正月休みでどこまで読めるか。まあそれはさておき、みなさんよいお年を。

2009-12-16

『ちんちん千鳥の鳴く声は』

忙しかった。源氏物語もなかなか進まない。いまは「少女」を読んでるんだけど、読み始めてから二か月近くたつのにまだ半分くらいだ。まあまたちょっとずつ進み出したので、そのうち読み終わることであろう。途中『戦争と平和』並行して読んでたりしたし。

山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は』(講談社学術文庫)という本について。最初に単行本が出たときにも話題になった本だそうだけど。鳥の鳴き声を昔の日本人はどう聞いてきたか、ひとつには擬音語として、もうひとつにはいわゆる「聞きなし」として、どう文字に写してきたかということについての研究。

僕は鳥が好きなので、そういう自然科学的なおもしろさと、言葉の研究としてのおもしろさとが相まって、なおさら楽しめた。

平安時代にすでに、ホトトギスは「死出《しで》の田長《たをさ》」という異名を持っていた。冥途の農夫のかしらで、死出の山を越えてやってきて農事を励ます鳥と信じられていたらしい。「死出の田長」という異名は、時にはホトトギスの鳴き声とも考えられたようで、『古今和歌集』にこんな歌がある。

いくばくの 田を作ればか ほととぎす 死出の田長を あさなあさな呼ぶ
(=ホトトギスは、いったいどのくらいの田を作っているからというのだろうか、「シデノタオサ」と毎朝叫んでいるよ)

「死出の田長」が、ホトトギスの鳴き声とも考えられている。  ホトトギスは、冥途からの使者だから、あの世にいる人のことも尋ねればわかるはずだ。平安時代の人は、こうも詠む。

死出の山 越えて来つらん ほととぎす 恋しき人の 上語らなん
(『拾遺和歌集』哀傷)

「死出の山を越えてきたに違いないホトトギスよ、あの恋しい人のことを語ってほしい」。毎年、夏になるとどこからともなくやって来て、激しく鳴くホトトギスは、冥途からの使者と感じられたのであろう。

(山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は 日本語の歴史鳥声編』講談社学術文庫、p. 84)

田植えの歌とホトトギスというのは、前に枕草子の話で書いたことがあるが、それにはこういう背景がある、と。平安時代の例としてもうひとつ。フクロウについて。

『源氏物語』でも、フクロウの声は、不気味な「から声」をあげる鳥として登場している。

夜半《よなか》も過ぎにけんかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、梟はこれにやとおぼゆ。(「夕顔」)

光源氏が、青春の情熱をかたむけて愛した女性は、夕顔。その夕顔が、物怪にとりつかれて、はかなく死んでしまった。光源氏は、今、その女の屍体を前に呆然としている。時刻は、夜半すぎ。あたりには、風が荒々しく吹き、鬱蒼と茂る木々がさけび、異様な鳥がしゃがれ声で鳴く。どうやら、それは、フクロウの声らしい。

フクロウは、「気色ある鳥(=ひとくせある怪しげな鳥)」であり、「から声」で鳴いている。

「から声」とは? 「老人のような低く濁ったしゃがれ声」のこと。「枯声《からごゑ》」「嗄声《からごゑ》」と書く。「うつろな声」とする説もあるが、うつろなことを意味する「空《から》」ということばは、この時代にはまだ存在していない。

(同書、p. 165)

個人的にとくに面白かったのは、平安時代ではないんだけど、ヌエ(鵺、トラツグミ)がなぜ怪物の名前になったのかというくだりと、ウトウヤスカタというへんてこな名前の鳥についてのところ。鳥や鳥が出てくる古い本の写真がたくさんあるのもよい。

ところで、僕は前までスズメというのは鳴き声が鈴みたいだからそういうのかなあ、となんとなく勝手に思い込んでいたんだけど、そうではなかった。この本にも控えめに触れられているが、大野晋と丸谷才一の対談に「雀はチュンチュンだからスズメでね」とあって(『日本語で一番大事なもの』中公文庫、p. 16)、これも鳴き声からきていたのであった。上代にはサ行の音は /ch/ に近い音だったから(森博達『日本書紀の謎を解く』中公新書など)そうなるのだろう。

2009-11-19

冷泉家 王朝の和歌守展

(11/20 追記あり。)

東京都美術館でやっている、「冷泉家 王朝の和歌守展」を観てきた。こりゃやばい、鼻血出そうだったぜ。俊成、定家、為家筆の古写本類がどっさり。正直こんなとこに置いといちゃいけないのではないか、と思わせるようなシロモノばかりが並んでいる。デフォルト重文、たまに国宝みたいな。

いちいち書いてたらうるさくなるので書かないけど(紫式部メソッド)、みんなが素通りしそうな細かいとこを挙げると、以前ここで紹介した「賀茂保憲女集」(賀茂女集)があったよ。表紙に定家のあの独特の文字ででっかく「一首無可取哥」と書いてある。後世この人物の評価を決定してしまった、定家本人からしてみればあくまで実用的なつもりで書いたこの覚え書きに「これかあ……」とつくづく見入ってしまった。

あと、源順のけったいな私家集の「雙六盤の歌」(だと思う)も必見。手元に展示品リストがあるが、どうも前期のほうが内容がおもしろいような気がする。

メジャーどころでは『明月記』の展示部分が定家の父俊成の死の場面(元久元年冬)であったのがよかった。僕は堀田善衞の『定家明月記私抄』でこの記述を知ったのだけど、父の死というのはヨーロッパの小説には時折凄まじいものが出てくるが(『チボー家の人々』とか)、これにはそれらに匹敵する迫力があるなと思っていたのだ。また、この場面は日本語の表記の歴史について考えるときにも大事なところだと思う。

俊成は九十一歳、雪が食べたいと言い、定家の家令の文義がこれを探して来る。臨終の日、十一月卅日の日記は漢文の中に、父の言葉としての和文が入ってくる、珍しいものである。すでに日本での生活の中での漢文の限界というものが明らかに見えて来ているのである。雪を口にして、
「殊令悦喜給、頻召之。其詞、めでたき物かな猶えもいはぬ物かな。猶召之。おもしろいものかな。人々頗成恐、取隠之。」(傍点筆者)

日本の文章が漢字仮名まじりにならなければならなかった必然が、この危急の瞬間にすでにあらわになっているのである。右の文をいままでのように読み下すとすれば、
「殊に悦喜《ヨロコ》バシメ給ヒ、頻リニ之ヲ召ス。其ノ詞……猶之ヲ召ス。……人々頗ル恐レヲ成シ、之ヲ取リ隠ス」となる。

「此の天明ノ程ニ仰セラレテ云フ、しぬべくおぼゆト。此の御音ヲ聞キ、忩《イソ》ギ起キテ御傍ニ参ズ。申シテ云フ、常よりも苦シクオハシマスカト。頷カシメ給フ。申シテ云フ、さらば念仏して、極楽へまいらむと思食《オボシメ》せト。……」

齢九十一歳、老衰死ということもあるであろうが、父が、死ぬべくおぼゆ、と言い、子が、さらば念仏して極楽へまいらむとおぼしめせ、と言いきかせ、かくて父が死んで行くのである。

死ぬべくおぼゆ、と言って死んで行った人を私は他に知らない。

(堀田善衞『定家名月記私抄』ちくま学芸文庫、pp. 211-212、引用にあたり傍点は太字に置き換えた。)

そしてここで引用されている部分がまさに展示されている(展示入れ替えがあるから、23日まで)。原典には、

卅日 天晴
 ……
 ……
              …… 殊令悦喜
給頻召之其詞めでたき物かな猶えもいはぬ物かな
猶召之おもしろいものかな人々頗成恐取隠之
 ……
               …… 此天明
之程被仰云しぬへくおほゆ聞此御音
忩起参御傍申云常よりも苦御座令頷給
申云さらは念仏して極楽へまいらむと思食せ

とある(と思う――自信ないけど)から、これから行く人は確認してみよう。

余談。会場はオバサンばっかりなので注意(何が)。「思ってたのとちがうワ、帰りまショ」とか言ってるオバサンもいたらしい。「お宝」目当てだと、本ばっかりだから当てが外れるだろうな。

追記。きょう (11/20)、もう一度ゆっくり見ようと思って平日の午前中に行ってきた(ちなみにあんまり空いてなかった)。ら、展示されてたのは十一月じゃなくて十二月からだった! これは展示内容が変わったんじゃなくて、前に見たときもそうだった(俊成の葬儀についての話があったのは覚えていたので)。

要は、もともと僕の頭の中に俊成の死についての『明月記』の記述が印象にあって、たまたま展示でその年の十二月の葬儀の段が出てて「ああ、あの場面か」と認識し、図録を買って帰ったらそこにちょうど十一月のくだりが載ってたので、それで十一月の分も展示されてると思い込んだのだった。あてにしてた人がいるとは思わないけど、いたらゴメンネ。(追記ここまで)

2009-11-15

技術的な話で申し訳ないのですが……。

Windows Vista/7 上の IE7/8 でここを表示したときにおかしなフォントでレンダリングされる場合があったようだ。一年も気づかなかったとはきついな……。それとも Vista なんてだれも使ってないから大丈夫だったかな? なんと、Vista/7 の IE8 は XP の IE8 とはレンダリング結果が違う。けっきょく複数の OS、ブラウザで確認する泥臭い作業がいまだに必要なんだな……。

「vista ie7 css フォント 異常」あたりでググるといくつかこの件について出てくるが、ちょっと情報が錯綜していて、正確に現象を把握するのがむずかしい。ていうかこれあちこちで起こってると思われるんだけど、ひどくないか。

スタイルシートを修正したので今は大丈夫だと思うけど、Windows 7 の IE8 でしか確認していない。ほかの環境でおかしかったら言ってください。

2009-11-14

先月、宝生能楽堂の普及能という催しで、はじめて能を観てきた。能が観たい観たいと言ってたら、友人が招待券を取ってくれたのだ。ありがとう。

古文を読むようになってから、能も一度観てみたいと思ってたんだ。要は「古文でやる劇作品」なわけだから、今なら結構いけるんじゃないかと。その一方で、複数の筋から「能は寝る」という証言も聞かされていた。僕は劇でも演奏でも映画でも行けばたいてい面白いと思えちゃうので、眠ったりは今までほとんどないんだけど、「何度か観たが今まで行った公演で寝なかったものはない」とまでいう人もいたので、そこまで言われるとさすがにちょっと不安だった。

寝なかったよ。全然いけるな、これは。事前準備さえしておけば恐れることはないね。逆に、あれを事前の予習なしで行くのは自殺行為だとも思った。それではよほど慣れてない限り寝ても仕方ないと思う。このへん観に行くときの心構えがあると思うんだけど、それはもう何度か観て自分の憶測が正しいことを確認してから書こうかな。

あと、古文を読んでいる人は、能も絶対に観た方がいいと思った(ていうか常識かしら)。さかのぼって室町とか江戸初期だし、どうせ新しいんだろ? とか思うかもしれないけど、どうしてなかなか、実際に歌や台詞を聞いてみると刺激的ですよ。

2009-11-09

わたくしは、こどものころから、歌に限らず俳句やら川柳やらの短い定型の作品を読みますたびごとに、その横に親切に付けられている口語訳とか、現代語訳というものに、違和感を覚えておりました。子どもが違和感ということを知るはずがありませんから、それは要するにいわくいいがたい、落ち着かない感じのようなものであったのだと思います。なにか違うのではないか、と。

(上野洋三『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』、1999年、臨川書店、p. 3)

(略)どちらの段階を通じても、わたくしは先学の解説、先人の注釈とあちらこちらでぶつかり合いました。承伏しがたい先注に出逢うたびに、無視するか否定するかして行きます。寂しく恐ろしい気分におそわれます。それを学生の前で語り、また文章に表して行くときは、そのつど跳び降りるような気がしました。やがてその日々の中から、作者がなつかしくなりました。いまわたくしが進んでその作品のことを人に告げたいと思う、これを作った人としての作者が、その時は唯一の同行《どうぎょう》のように思われたからです。

(同書、p. 6)

2009-11-07

最近『源氏物語』関連で大きい発見が続いている。まだ新しいものが見つかるもんなんだねえ。そのうち「かかやく日の宮」が出てくるかもとか、絶対ないとはいえないよなあ、こりゃ。

前者の「花宴」の末尾については、ここで以前取り上げたことに関係しているだけに興味深い。「蜻蛉」のほうはまだ読んでないのでいまはなにも言えないけど。

ところでさあ……、asahi.com の記事は、最初「花宴」のくだりを説明するのに「20歳の源氏が、恋心を寄せる朧月夜(おぼろづきよ)に車ごしに歌を詠みかけると、」と、確かにそう書いてあったんだよね。それで「車ごしじゃないだろ、何見て書いてんだ」ってここに書いてやろうと思って「花宴」読み返したりしてたのだ。ところがいま見ると「20歳の源氏が、恋心を寄せる朧月夜(おぼろづきよ)に、部屋を仕切る几帳(きちょう)ごしに歌を詠みかけると、」って、こっそり直してやがる。これがオトナのやることだぜ、みんな。

「はてなブックマーク」のエントリには、これを書いている現在でもページが取得された時点の「車ごし」の記述がぎりぎり残っている。キャッシュが更新されたら消えちゃうけどね。

誤字や「てにをは」ならこっそり直したって気にしないけどさ、こういうのはあんまり感心しないよなあ。しかし新聞社のウェブサイトではままこうしたことは見かける。

2009-11-06

『近世宮廷の和歌訓練』

さて、またここの対象とは時代が違うのだが、上野洋三『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』(1999年、臨川書店)という本について。

この本は、江戸時代初期の『万治御点(まんじおてん)』という書物についての著者による講義をまとめたもの。

『万治御点』というのは、江戸時代初期に後水尾院という人が後西天皇や飛鳥井雅章らに古今伝授のため歌学の勉強会を開いた、その添削の記録で、参加者の歌作とそれについての院による批評が記された文書である。

江戸時代初期ということで平安時代とは随分隔たっているわけだけど、当時の歌学の学習者、つまり歌の上級者ではなく中級者くらいの人々の歌作とその添削を見るのはなかなかおもしろい。

和歌というのは、平安時代の貴族階級の間ではおそらく教養であると同時に実生活でもあったように思われるが、やがて宮廷文化の衰退とともに特定の「家」に伝えられるような秘儀へと変化していったように見える。この変化の前後に横たわる断絶はあまりに大きく、生活とともにあった和歌というそのありさまは、いまの人間の想像からするとどこか童話的・神話的で、現実感の希薄な印象がつねにともなう(まあそれがみんなの言う「みやび」ってことなのかもしれないけど)。

後水尾院も後西天皇もその他の廷臣も、貴族皇族でありながらすでにこの断絶の「こちら側」の人間だ。このなかで、講義を行う院だけが、その言動から、こちら側から「あちら側」へと渡ることのできた、その境地へ達した存在であるかのように見える(後西天皇たちの目にも、院の姿はそう映ったに違いない)。和歌がわかった人間とまだわかってない人間との対比が、この文書に現れているわけだ。なかにはいかにも作り慣れてない感じの(それが僕みたいな人間にも感じられる)歌があったりして微笑ましい。

いっぽうで、『袋草紙』に見られた、しょうもないその場しのぎの実用テクニックやら、やたら細分化された歌の「病」に関するドライな形式的考察を髣髴させるものは、院の批評の言には見られない。歌が具体的・実際的なものではなく、「感じる」「体で覚える」秘儀へと変容しているからだ。

2009-10-31

和歌は、限られた世界で共有され、その中で研ぎ澄まされた文化です。たとえ自然を詠んでいても、人間の心情を詠んでいても、和歌に詠まれる限りは、自然そのものでも、ありのままの心情でもありません。荒ぶる自然は箱庭化し、人間にとって理解できる文化へと変質させたうえで、初めて和歌の素材となりうるのです。和歌に詠まれた自然が、実は人工的な箱庭であったり、絵画であったりすることは、よくあることです。また、歌枕という名所を歌に詠む行為も同様です。富士山は煙が立っているものとして詠むものであり、逢坂は恋人が会うイメージでとらえるもの、というように、土地の「本意」(もっとも価値ある姿)が最優先して詠まれるのです。自然の実際の姿は、さほど問題ではありません。これは、写実主義とは相反する姿勢と言えるでしょう。人は自然をありのままに理解するのではなく、和歌によって文化へと変質させてから、初めて理解していたのです。つまり、和歌は、日本人が自然や人間の心情を理解し、解釈するための装置でもあったのです。

谷知子『和歌文学の基礎知識』角川選書、2006年、pp. 11-12

2009-10-15

おうなのけさう

『新猿楽記』のことを書いた時にちょっと触れた、「老女の化粧」について。

新体系の註によれば、現存しない枕草子の「すさまじきもの」の段のくだりは、河海抄などに「すさまじきもの。十二月(しはす)の月、嫗(おうな)の懸想(けしやう)」とあったとされ、二中歴・十列には「冷物(すさまじきもの)十二月月夜…老女化借(けさう)…」とある、という(「朝顔」p.264)。

そうか、「けさう」「けしやう」では「懸想」か「化粧」かは区別つかないのか。意味としてはどっちも通るしね。あとは「二中歴・十列」というのがどういうものなのかよくわかってないが……。

2009-10-09

平安時代の暦、続き

前回の続き。

前回挙げた寛弘七年の図では、冬至は十一月のかなり終わりのほうに入っていたので、立春は一月の中頃に位置している。冬至が十一月のはじめのほうに位置する場合は、立春は十二月の中頃になる。二十四節気の区切りを示す上のモノサシと、月の区切りを示す下のモノサシとをずらしていくのを想像すればいい。中気から次の中気までの期間(気策、約30.4日)と月の長さの平均(朔望月、約29.5日)とはちょっと違うので厳密には合わないが、だいたいの傾向として立春は十二月と一月の変わり目ごろに位置するだろうということがわかる。要するに、「冬至のある月を十一月とする」という定義は、立春がおおむね一月一日ごろにくるようにするための工夫なのであった。

そういうわけで、「年の内に春は来にけり」というのは、立春が十二月に位置した場合で、これはとくにめずらしいわけでもなく、よく起こることであり、そういうよくあることについて歌っている、と。まあそれがわかったところで、この歌はどこまで真面目なのかよくわからんのだけど。

一年は354日の場合が多く、384日の時がたまにある(これらより一日ほど長さが変わる年もあるが)。この閏月のある年には、一年は長く感じられたことだろう。

年や日付には干支が割り当てられている。干支がなんだとかはここでは述べないが、ある年が「実際のところ」いつなのか、というのは干支の表記からはわかりづらい。そういう用途のために歴史的な年月日と西暦との対応を収録した本というのが存在する。内田正男『日本暦日原典』(第四版、雄山閣出版、1992年)などである。分厚いこの本はそのほとんどが暦日の対応表だが、末尾に暦についての解説と、宣命暦など旧暦の計算方法についての解説がある。じつをいうと前回と今回の記事はそこが面白かったので書いたようなものなのだ。数ページに要約された解説なので頭でいろいろ補わないといけないのだが、必要な情報は一通り載っている。(ここの趣旨に合わないので詳しくは書かないが、同解説をもとに宣命暦を計算するプログラムを書いてみたりもした。)

ところでウィキペディアの宣明暦の項にはこれを書いている現在「江戸時代初期には、二十四節気が実際よりも2日早く記載されるようになっていた」とあるが、これは「2日遅く」が正しい(岡田芳朗『暦ものがたり』角川選書、1982年、pp. 120-121)。

暦の計算とは直接関係しないが、『御堂関白記』には曜日の記載もある。岡田芳朗『暦ものがたり』によれば、七曜はユダヤ教に由来し、それが中国を経由して日本にやって来たものという (p. 98)。

七曜の繰り方は西洋のそれと全く同じで、東西が同一の曜日を使用していたのは、当然のことながら何か奇妙な感じがするものである。

(同書、p. 99)

『御堂関白記』記載の曜日がちゃんと現在のと連続しているということの確認例が『日本暦日原典』にある (p. 510)。

古文とはずいぶん関係ない話を二回も続けてしまった。暦についての話はこれで終わり。長引かせたくないから月木じゃないけど出しました。引き続き源氏物語を読んでるんだけど、まだまだでね。もう残された回数が少ないので、まだほかに紹介したい本とかについても書いておきたいのだけれど、最近調子があまりよくない。

2009-10-05

平安時代の暦

古文とは直接関係しないのだが、気分転換もかねて平安時代の暦についてちょっと調べていた。閏月とか、「年の内に春は来にけり」とはどういうことなのか。古文に出てくるこうした日時や節気の表現がどういうものなのかいまいちはっきりしなかったのだけど、だいたいわかったように思う。

平安時代に使われていたのは、宣明暦という暦である。暦マニアではないので、その制定の経緯とか精度については省略。で、この宣明暦というのは太陰太陽暦である。太陰太陽暦というのを、僕はいままで「旧暦」という言葉であいまいに把握していたが、これはかいつまんでいうと、こういうことになる。

  1. 季節のひとめぐりが一年になるようにする。これは当たり前のことのように思うけど、たとえば乱暴な話 1年 = 365日と日数を固定したような暦だと、季節と年はだんだんずれてくる。そういうことが起こらないように工夫されている暦であるということ。
  2. 月(天体のことね)の満ち欠けが月(こっちは日時の区切りかたのほう)の区切りを決定する。つまりその月の1日(ついたち)はかならず新月でありその月の中頃はいつも満月である。ひと月の長さは29日間か30日間のどちらかになる。前者は小の月、後者は大の月と呼ばれる。
  3. 一年の区切り目は月の区切り目に合わせられる。1. でいう季節のめぐりというのは太陽の運行による現象で、2. のほうは月の運行の結果によるものだから、両者はたがいに関係がない。したがって 1年 = nか月と定量的に決めてしまうことはできない。しかし、その日からが年の変わり目ですよ、という「その日」は月の初めの日に合わせられる。一月一日がいつもその年の第1日である。
  4. 結果として、一年は12か月か13か月のどちらかで運用されることになる。一年が13か月になる年は、ある理論(後述)によってそのうちのひと月が「閏月」とされる。閏月は前の月と同じ番号をつけて、「閏五月」などと呼ばれる。

太陽は天球上の黄道(黄道の説明は省略。ごめん。)を一年かかって一周する(この言いかたは同語反復的だけど)。北半球で太陽の位置がいちばん低くなる時が冬至で、宣明暦では冬至から次の冬至までを基準として一年を定義している。つまり、一年は12か月だったり13か月だったりするが、その一年間に冬至が二回入るということは絶対にない。一方、たとえば立春などは、ある年の年頭と年末の二回に含まれているということが起こりうる(例、寛弘四 (1007) 年)。

冬至から次の冬至までの期間を24等分して、それぞれの時点に名前を付けたのが二十四節気である。二十四節気は古語辞典の付録なんかだとたいてい春の立春から記載されているが、上の説明からすると、暦学的には冬至から始まっているということになる。二十四節気には中気と節気というのがあって、これは冬至が中気でそこから順に節気、中気と繰り返す。

いま、ある年の月の区切りが計算で得られたとして、それを記したタイムライン上に二十四節気の日時の各点を記していく。その結果、中気を含んでいる月が正式の月である。年によっては中気を含まない月ができるが、その月は閏月と呼ぶことになる。そして、冬至を含んでいる月が十一月であると定義されている。以降順に十二月、一月、二月……と、閏月を除いて割り振っていく。

太陰太陽暦の概要図。
(この図は死ぬほどがんばって作ったのでよく味わって見ていただきたい。)

以上が太陰太陽暦の暦の作られかたの概要だが、これを見ると、西暦の数字だけ見てその年の月の割り振りを簡単に決定できる太陽暦(グレゴリオ暦)はなんて簡単ですばらしいんだろうと思える。太陰太陽暦には宣明暦の他にも儀鳳暦とか大衍暦とかいくつかの種類があるが、やってることはどれも基本的には同じことで、違いは各種計算に用いる定数(観測精度の向上によって変化していく)や月齢計算に微妙な補正を入れるかどうかといったようなことである。

続く

2009-09-21

幼児の歌

鶯よなどさは鳴くぞちやほしきこなべやほしきははやこひしき

これは、まま母のもとに在りけるに、ちひさきつちなべの有りけるを、わがはらの子にはとらせて、このまま子にはとらせざりければ、鶯の鳴くを聞きてよめる歌なり。

(新日本古典文学大系29『袋草紙』、pp. 164-165)

これは泣ける……。

2009-09-17

古今和歌六帖

『古今和歌六帖』という歌集がある。これは万葉以来の秀歌数千首を「春」「夏」「山」「恋」といったテーマ別に分類して収録している本で、歌集というか、歌学の参考書みたいなアンソロジーだ。いま四つほど題材の例を挙げたけど、じつはその分類はかなり細かく、ほかにはたとえば「衣がへ」「星」「炭竈」「鮎」「ないがしろ」「一夜隔てたる」「二夜隔てたる」「来れど逢はず」等々と数百に渡ってある。「こういうシチュエーションを詠むときは、ええっと……」というときに引ける、かなり実用志向の本だったのだろう。

だからこれは平安時代の和歌を知るのにたいへん重要な本だと思うんだけど、活字でそれを読もうとするとこれがなかなか難しい。いま売られている古典文学の全集にはどれにも入ってないと思う。歌自体はほかの勅撰集や私家集にあるものばかりだからかな。しかし、平安貴族のネタ帳という意味でそのありさまには興味がわくところ。過去には久松潜一、山岸徳平監修『校註新訂 日本文學大系第十三巻』(風間書房、1955年)や、宮内庁書陵部編の上下二冊からなる『古今和歌六帖』(養徳社、1967, 1969年)などが出ていたようだ。

さて、風間書房の日本文學大系版が幸い図書館にあったので、さっそく手にしてその解題を読んでいたら、こんなふうに書いてあった。

撰者の漠然たるが如く撰時も明らかでない。集中の作者を以て契沖は寛和の頃(一六四五—四六)と推定したけれども、蜻蛉日記に引用したと見られる古今六帖の和歌などから推すに、或は天徳、應和の頃(一六一七—一六二三)の頃のものでは無からうかと思ふ。蓋し源順集によれば、天暦五年に次の如く梨壺に和歌所を置かせられた。

(久松潜一、山岸徳平監修『校註新訂 日本文學大系第十三巻』、p. 10、風間書房、1955年)

流して読んでたが、ふと年代の記述で目を疑った。一六四五? 『古今和歌六帖』は平安時代の書物のつもりでいたけど、もしや自分はとんでもない思い違いをしていたのか? ……と、焦ったが、その後すぐに気づいた。これ、皇紀だ。うおー。古い本とはいえ戦後だよ。国文学の本はすげえな。

と、内容と関係ないところで驚きましたとさ。

2009-09-14

和歌究竟の秘説

帥大納言云はく、「女房の歌読み懸けたる時は、これを聞かざる由を一両度不審すべし。女房また云ふ。かくのごとく云々する間、風情を廻らし、なほ成らずんばまた問ふ。女房はゆがみて云はず。その間なほ成らずんば、『別の事に侍ひけり』とて逃ぐべし。これ究竟《くつきやう》の秘説なり」と云々。

ある説には、「返歌を髣髴《ほのか》にその事となく云ふを、女房聞かざるの由を云ひて、またみさみさと云ふ。なほ聞かざるの由を云ふ時、『別の事に侍ひけり』とて逃ぐべし」と云々。また同じく、「女房のそへ事云ふには、知らざる事ならば、『さしもさぶらはじ』と答ふべし。いかにも相違なき答」と云々。

先年ある女房の許に小貝卅一に歌を一文字づつ書きて、ある人これを送る。女房予に歌を読み解くべきの由を示す。およそ力及ばず。仍りて萩の枝を折りてその葉にその事となき字を卅一、葉ごとに書きてこれを遣はす。件の所にまた読むことを得ず。両三日を経るの間、萩の葉枯れて字見えず。遺恨となすと云々。一説なり。

(新日本古典文学大系29『袋草紙』、pp. 26-27)

拙訳。

帥大納言(源経信)いわく、「女房が歌を詠んできた時は、聞こえなかったからと一、二度聞き直すとよい。女房がまた言ってくる。そうしている間に(返歌を)あれこれ推敲して、まだできなければもう一度聞き直す。そのうち女房のほうはふてくされて言ってくれなくなるが、それでもまだできあがらなければ『別の用事を思い出しました』といって逃げればよい。これ究竟の秘説である」と。

またある説には、「返歌を小さな声で、なにを言っているのかわからないくらいで言うと、女房は聞こえませんでしたと言ってくるから、またごにょごにょと言う。しつこく聞き返してきたら『別の用事を思い出しました』と言って逃げるべし」と。また同様に、「女房がなにか利発なことを言ってきたものの、意味がよくわからないという時には、『ははは、そんなことはありますまい』と言っておけばよい。たいていの場合はうまくはまってくれる」という。

先年、ある人がある女房のもとに小貝三十一枚に歌を一文字ずつ書いて送ってきた。女房は書かれた歌を読み解いてくれと、私のところにそれを持ってきた。さっぱりわからない。そこで萩の枝を折って、その葉の一枚一枚に、三十一文字、でたらめに書き付けてその女房に送ってやることにした。先方もさっぱり読み取ることができない。二、三日もすれば、萩の葉のほうは枯れてしまって、なんの字が書いてあったかもわからなくなる。してやられたと悔しがっていたが、これも一つの手である。

こいつらなにやってんだ。

2009-09-10

逆説の条件節が強調表現になるとき

※ ものものしい題を付けていますが、中身はただの与太話です。

駅のホームで高校生らしき集団がバカ話に花を咲かせては爆笑していて、僕は停車中の電車の中からそれをぼーっと見ていた。すると、その中の女の子がひとしきり笑ったあと、

「まじうけるんだけど(笑)!」

と言った。これを聞いたとき、この「逆説の条件節が強調表現になるとき」という言葉が頭に電撃のごとくひらめいた。「うけるんだけど」どうだというのか? どうでもないのだ! これだ、と思ったね。

「けど(けれど)」はもちろん接続助詞で、辞書の言葉を借りると「(ア)実際に起こった、または確かな事柄をあげ、それにもかかわらず(普通にはこれと矛盾するような)他の事柄が成り立つ意を表す(「けれど」『岩波国語辞典』)」。それともうひとつ、「《(ア)の用法で「けれど」のあとを表現せず言いさしのままで》相手の反応を待つ気持を表す。「行きとう存じます—」。転じて、ものやわらかな表現として使う(同項)」というのがある。しかし上記の例は「ものやわらかな表現」とはほど遠い。

これは強調だよね。この「けど」は、もはや逆説とかなにかの言いさしじゃない。「あんたうざいんだけど」と言われたら、それは「あんたうざいんだけど(、ほんとはお慕いしています)」の省略とかではなく、ただただうざいと思われているだけだ。勘違いしちゃいけない。

さて、条件節が強調表現になるといえば、コソ+已然形の係り結びだ。「昨日こそ早苗取りしかいつのまに」の「こそ」と「しか(キ)」。これは大野晋『係り結びの研究』に詳しい話なんだけど、コソ+已然形はもとは条件節を表す表現だった。それが古今集の頃には単純な強調表現になっていく。

たとえば先ほどの歌は「つい昨日早苗をつまんだばかりだというのに、いつのまにか」秋になってしまったなあ、という意味だから、まだ逆接の気持ちが残っている。ところが、

あふ坂の関に流るる岩清水いはで心に思ひこそすれ(古今五三七)

あたりの逆説か単純強調か微妙な表現を経由して、

雪ふりて年のくれぬる時にこそ遂にもみぢぬ松も見えけれ(古今三四〇)

のような単純強調表現が完成する(同書、p. 128)。するんだけど、逆説表現が強調になるって言われても、よく考えるとすんなりとは思い描きにくいところがないでもない。だけど現代語のこういう例を考えると似たようなもんなのかもね。

雪のいと高うはあらで、うすらかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ。(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 229)

雪があまり積もらずにうっすらと降っているのとか、まじをかしいんだけど!

ああ、わりといけるな。

(一応お断りしておきますが、これは与太話だからね。コソ+已然形が現代語の「けど」と同じニュアンスだとか本気で思わないように。)

2009-09-07

平安貴族の自然観、続き

前回からの続き。

〔二二六〕 賀茂へまゐる道に、田植うとて、女のあたらしき折敷のやうなるものを笠に着て、いとおほう立ちて歌をうたふ、折れ伏すやうに、また、なにごとするとも見えでうしろざまにゆく、いかなるにかあらむ。をかしと見ゆるほどに、ほととぎすをいとなめううたふ、聞くにぞ心憂き。「ほととぎす、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」とうたふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とはいひけん。仲忠が童生ひいひおとす人と、ほととぎす鶯におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。

〔二二七〕 八月つごもり、太秦に詣づとて見れば、穂に出でたる田を人おほく見さわぐは、稲刈るなりけり。早苗取りしかいつのまに、まことにさいつころ賀茂へ詣づとて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは男どもの、いとあかき稲の本ぞ青きを持たりて刈る。なににかあらんして本を切るさまぞ、やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかでさすらむ。穂をうち敷きて並みをるもをかし。庵のさまなど。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 263-264)

やっぱり新日本古典文学大系版が欲しいなあ……。一応、拙訳。

〔二二六〕 賀茂に参詣する道すがら、田植えをするということで、新しいお盆のようなものを笠にかぶっては立ち並んで歌をうたっている女たち、折れ伏すように、なにをするふうでもなく後ろ向きに進んでゆく。どういうわけかと不思議に思って見ていると、ほととぎすを愚弄する歌をうたっているのが聞こえてきていやな気分になる。「ほととぎす、あんた、あいつさ、あんたが鳴くので、おれは田植えだ」とうたっているが、いったい「いたくな鳴きそ(あんまり鳴くな)」と言ったのはどういう人だったのだろうか。仲忠の出生を言い落とす人と、ほととぎすは鶯に劣るという人は、まったくもって許し難いのである。

〔二二七〕 八月晦日、太秦へお参りに出かけてふと目をやると、穂のなった田を見てみなが騒いでいる。稲刈りであった。「早苗取りしかいつのまに」、先日賀茂参りのときにに見た稲が、まったく立派になったものである。これを、男たちが赤い稲の本の青いところを持って刈り取る。なにやら道具を使って根元を切っていくさまが、たやすげで、いつまでも続けていたくなりそうだ。なんのためだか、穂を敷いて並べているのもおもしろい。庵のさまなど。

二二六段が笑えるのは、話がそれているというところだ。めずらしい光景を目にした素朴な驚きが、些細なきっかけで理不尽な憤慨に変わり、それがそのまま「むかつくあいつら」への八つ当たりになってしまう。こういう人いるよね。

仲忠というのは『うつほ物語』の登場人物で、出生云々とは、作品中の二大主人公である涼、仲忠のどちらを贔屓にするかという定番の話題があって、そういうときに涼方の連中はきまって「仲忠は生い立ちが卑しい」と因縁をつけたのである。ほととぎすと鶯も、春の鳥として歌の世界では一種のライバル関係にある。まあ罪のない農民からすればいい言いがかりだ。

「早苗取りしかいつのまに」は「古今集」秋上の「昨日こそ早苗取りしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く」から。歌われている感慨そのものをまさに実感したというわけだ。ちなみに賀茂参りは五月のこと。

ここを読んで、おもしろいとは思ったものの、貴族階級の人間の思考の限界を見たような気もした。かれらは農作業の光景を前にしても、そこに物語や歌のトピックを彩る記号しか見ていない。和歌の世界にどっぷりすぎて、あまりにたやすく目の前の現実から目がそれてしまう。うらやましくもあり、気の毒でもある(いや、本音を言うとうらやましくはない)。

でもこうして清少納言が書いてるってことは、観察眼がないわけでもないんだよね。ただ、稲の根元をどうやって刈るか、なんてことは(「をかし」にはなっても)「あはれ」には結びつかない。だから「あはれ」の文学である『源氏物語』の描写には出てこないんだろう。それを考えると、『枕草子』は、ほかの仮名文学が書くに値しないとして見落としてきたことを書いたという意味で、やはりすごいのだといえる。ただ自己顕示欲が強いだけでは、こうした記述を残すことはできないと思う。

2009-09-03

平安貴族の自然観

以前、「須磨」の巻の話で、情景描写が記号化しているという感想を書いたけど、馬淵和夫『奈良・平安ことば百話』(東京美術選書、1988年)という本に、同じような印象が述べられている。

「若紫」の巻で、源氏が北山へ出かけるところ、北山の描写がある。

やや深う入る所なりけり。やよひのつごもりなれば、京の花ざかりはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひも、をかしう見ゆれば、かかるありさまもならひ給はず、ところせき御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峯高く深きいはの中にぞ聖入り居たりける。

そこはやや山深くはいる所なのであった。三月晦日なので、京の花盛りはみな過ぎてしまったが、山の桜はまだ盛りであって、段々山の奥へ入っていらっしゃるにつれて、霞の様子もおもしろく見えるので、こんな様子もまだご経験にならない窮屈な御身であるので、珍しくお思いになられた。寺の様子もまことにしみじみとした味わいがある。高い峯の深い岩崛の中に聖は入って座っていた。

さてこの文で、おかしなことは、具体的な情景はさっぱりわからないことで、よく読んでみてもどういう景色なのかまったくイメージがわかない。筆者紫式部の感想も、「霞のたたずまひ」も「をかしう」見えた(勿論文脈から言えば源氏の感想ということになるが)というのと、「珍しう」と感じたのと、お寺の様子が「あはれ」というだけである。どんなところが「あはれ」なのか、読者にはさっぱりわからない。

同じく若紫の巻に、お供の者が、地方の景勝の地を源氏に語るところは、

これはいと浅く侍り。人の国などに侍る海山の有様などをご覧ぜさせて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしの嶽。

とあり、これも「御絵がお上手になられましょう」というだけだ。ついで別の者の言った言葉には、「面白き浦々磯のうへ」というだけで、景勝の地を「面白き」というだけである。

(中略)

古来名文だと言われてきた「須磨」の巻の須磨の描写は、

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞えて、またなくあはれなるものは、かかるところの秋なりけり。

から始まるけれども、これも住居が海に近いというだけで、景色がどうだというわけでもない。

前栽の花いろいろ咲きみだれ面白き夕暮に、

とあるのも、前栽の花が色美しく咲き乱れた景色が夕方になって暮れて行く情景を「面白し」ととらえたというだけである。

要するに、『源氏物語』をひもといてみても、『枕草子』をくってみても、自然描写のこまかなものはない。これは女房たちの生活の中に大自然と対決するというような場面がなかっただろうから、要求するほうが無理なのだろう。

(同書、pp. 20-22)

同書ではその印象の原因について、女房たちがそもそも自然と対峙する機会がなかったからであろうと考えている。それはもちろんそうだろうけど、それに加えて、平安時代の貴族の自然観そのものが記号化された自然観だったせいもあると思う。記号化された自然観というのは、ようするに歌枕を通じて把握された世界ということ。

こうした世界観については、谷知子『和歌文学の基礎知識』(角川選書、2006年)という本に述べられてたと思うんだけど、残念ながらいま手もとにその本がない。またあとで紹介します。

それはそれとして、当時の貴族たちは自然の中に歌枕の語彙しか見なかった、そう言ってもいいと思う。これは現代でいうと、景勝地に行っても写真を撮るのにばかり夢中になって、実際にその地がどうであるかにまったく関心を払わない観光客のようなものだ。また、あまりに広漠とした大自然を前にして「ドラクエのようだ」などと興ざめするような感想をうっかり漏らしてしまいがちな我々(ある世代以降)と似ているともいえる。

さて、そういうことで思い出す『枕草子』のくだりがあるんだけど、長くなったので次回書くことにする。

2009-08-17

書籍の本文ができるまで

岩波文庫の『堤中納言物語』を見てみたら、これも『今昔物語集』同様「振り仮名は現代仮名遣いに改めた(本文の仮名遣いは原文通りとした)」となっている。仮名遣いが本文と振り仮名で違うなんてポリシーがいったいだれにとって嬉しいのか、理解できない。

古典を活字化するにあたってどういう表記方針を採るかというのに校訂者のセンセイ方が苦心しているのだろうというのは想像できるけど。

活字本の底本となる写本の仮名遣いというのは、じつは古語辞典の見出しを構成している歴史的仮名遣いとも違っている。歴史的仮名遣いというのはいってみれば語源をさかのぼって人工的に復元された仮名遣いであって、「い」「ゐ」、「お」「を」、語中の「は」「わ」といった仮名同士は、現実には慣例的な使い分けが実践されていたにすぎない。だから「ゆへ」とか「まひり給ふ」などと書かれている。これらは歴史的仮名遣いとしては「ゆゑ」「まゐり給ふ」となっているべきものだ。読者の便宜を図って仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一するというのは、一方で底本の仮名遣いの状況という情報が失われるということを意味している。

また、仮名文学の文字遣いは現代語の感覚からするとかなり恣意的な代物だ。「するらん」を「する覧」などと書くし、「むつかしき」など形容詞の連体形の「~しき」を「~敷」などと書いたりしている。というかそっちのほうが普通みたい。それでいて名詞や動詞など、現代語では漢字で書かれる多くの自立語のほとんどは平仮名で書かれている。漢字と平仮名という独立した別の文字体系を混在させて使っているという意識ではなく、仮名を中心に表音的に書いていくやりかた全体が「女文字」というひとつの書記体系を形成しているというほうが適切なように思われる(こういう言い方は自分でも小松英雄の影響が強いなとは思うけど……)。送りがなだって現代語のように活用語尾が変わるところで送ったりなんてしていない。「のたまふ」は「の給」、「たまひけむ」は「給けむ」と書かれたりする。これを統一すれば原典でのありさまはわからなくなるが、かといってそのままでは現代人にはおそろしく読みづらい。句読点のこともある。

  • 変体仮名の統一。
  • 句読点を打つ。
  • 仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一。
  • 仮名の一部を漢字表記に。
  • 当て字や助動詞などを仮名表記に。
  • 送りがなを補う。

こうした作業を加えた結果できあがるものが現代の書籍版古文の本文なわけだ。

個人的な好みからすると、僕は底本の文字遣いを振り仮名から復元できる新日本古典文学大系の翻刻方針がいちばんしっくりくるな。笠間文庫の『枕草子[能因本]』のように、「ん」「なん」で表記されている助動詞を「む」「なむ」に統一したり、「なめり」「たなり」とあるのを「なめり」「たなり」と作ったりするのは、ちょっとやりすぎに感じる。

それはおいておくにしても、本文を歴史的仮名遣いに統一しておいて振り仮名を現代仮名遣いにするのはどう考えてもおかしいよねえ。それなら本文も現代仮名遣いにしちゃうほうがまだ筋が通っている。

2009-08-13

けりがつく

ものごとが一段落することを「けりがつく」っていうけど、この「けり」って、助動詞の「けり」だったのね。知らなかったよ!

けり
『―がつく』『―をつける』結末がつく(つける)。▽平曲(へいきよく)など語り物で、話を「そもそも」で起こし、一段落した所に助動詞「けり」を据えたことから。「鳧」とも書いたが、当て字。

(『岩波国語辞典』第六版)

平安時代からこのかた、物語は「むかし某ありけり」といったようにこの「けり」を用いた文ではじめられ、そして「となむいひける」などといった「けり」のついた文で終わるのがひとつのフォーマットだったのだ(日本古典文学大系 9「竹取物語」解説)。

2009-08-10

須磨源氏

やっと「須磨」を読み終えた。

須磨源氏などという言葉があるが、たしかにここで頓挫する人は多かろうと思った。

すま げんじ【須磨源氏】 源氏物語が長編であるため、須磨の巻(第十二帖)あたりで読むのをやめてしまうこと。また、そうした人をからかっていう語。(『大辞林』)

「須磨」の巻は、源氏が左遷され、巻名にある須磨の地に隠れるというところなのだが、その須磨へ下ったり、下ってどうしたということについては、ほとんど記述がない。圧倒的大部分を占めるのは須磨に行く前の源氏の挨拶回りと、須磨に着いた源氏の京の人々との手紙のやりとりなのだ。読者からすると、あちこちに挨拶に行っては「このたびは……」みたいなことを言い合うくだりが延々と続いて、源氏はいつまでたっても旅立たないという印象を受ける。やっと出かけたかと思うと、肝心の須磨の地については行平の故事や歌枕をちりばめた常套句が並ぶばかりで、描写としてさっぱり現実味がない。そしてその須磨の地で、源氏はせっせと京に「あはれ」な歌を書いて送るのである。ここでは須磨の地は具体的な場所ではなく、もはや「流された人のいるところ」という意味の記号でしかない。

ストーリー的にもここは動きが少ない巻で、同じくらいの分量で「葵」みたいなダイナミックな筋運びをする巻を読んでしまっていると、正直この巻は退屈だ。歌について考えるときにはいろいろ示唆的な巻だとは思うものの、お話を楽しむという現代的な読み方からするとちょっときついところだと思った。

2009-08-06

心ことにこまかなりし御返

姫君の御文は、心ことにこまかなりし御返なれば、あはれなること多くて、

浦人のしほくむ袖にくらべみよ波路へだつる夜のころもを

(「須磨」新日本古典文学大系『源氏物語(二)』、p. 26)

源氏が須磨に流されて方々に手紙を書く。藤壺や朧月夜たちからも返事が届く。紫上(「姫君」)からも返事が届いて、というところ。脚注を見ると「格別に愛情をこめて書かれていた源氏の手紙への御返事なので」となっている。「心こまか」なのは、文で直後に続いている紫上の「御返」なのではなくて、もとの源氏の手紙なのだ。「心こまかなり」となっているからそういうことになるのだろうけど。

2009-08-03

古文を書く

前回引用した出雲路修著『古文表現法講義』という本は、これまで取り上げた種々の本とはすこし趣向が違っている。これは古文を読むことについての本ではなくて、書くことについての本なのだ。同書の冒頭から一部引用する。

物語を作ってみましょう。

物語というのは、《竹取物語》や《伊勢物語》や《大和物語》や《落窪物語》や《源氏物語》や《堤中納言物語》、といった、あのものがたりのことなんです。

「物語を作る」ということを、この講義は目指します。「平安時代の物語を作ってみよう」ということです。

(中略)

この講義で私たちがめざしているのは、平安時代の物語文化のなかに生きていた人々に「物語」として享受されうる言語表現を、実践することなんです。それをかんたんに「平安時代の物語を作ってみよう」と言っているわけです。平安時代日本語実習といったところです。

じっさい、始めてみればわかることなんですが、平安時代の物語めいたものを作るのは、そんなにむずかしいことじゃありません。古語辞典と簡単な文法書とがあれば、だれにでもすぐにできます。

いままでにこの講義と同じような内容の講義を何度かおこなってきました。そのときの試験の答案があります。力作ぞろいで、私はわくわくしながらよんだのですが、そのうちのいくつかを、今回の講義ではとりあげて、鑑賞し、添削めいたこともしてみたいと思っています。引用した答案は、ほぼ原文のままなんですが、かなづかいの誤り・活用の誤り・現代語の混用など、ケアレスミスと思われるものは、すでに訂正してあります。私自身もこういったミスがひじょうに多いので、ここを非難されたくない気持ちは十分に理解できます。ケアレスミスはまず除外して考えてゆきます。

(出雲路修『古文表現法講義』岩波書店、2003年、p. 1-2)

同書は著者が2001年から2002年にかけて大学でおこなった講義の記録をもとにしている。

古文といえば自然「古きを知る」という受動的な面に重きが置かれがちで、それを「書く」というと、すでに通用しない言語を使ってなんの意味があるのかという疑問も湧くかもしれない。けれども、たとえ実際に自分で擬古文を書くことはないとしても、書き手が「どうしてこういう文を書いたのか」ということを了解するためには、古文を書くときの思考の手続きというものを考えないでは済まされないものではないかと思う。自分ならこう言いたいときにはこう書く、という認識なしに、他人がこう書いたのはこう言いたいからだ、ということが正しく把握できるはずがない。それに、「知る」だけなら現代語訳でもいいわけだしね。

この講義のなかでは平安時代の物語の持つ特質について述べることもしてゆきます。私たちのめざす物語(けっきょくは空想の世界のものなんですが)をもう少しはっきりさせようということです。言ってみれば、どこにゴールすればいいのかといったことや、ゲームのルールの確認なんです。こういったルールの確認が必要なところが、現代文ではない古文の表現法の特徴なんです。

(同書、p. 2)

書いてみることで、あるいは少なくとも同書に載っている人たちが実際に書いた擬古文を読んでみることで、あらためて明らかになるような現代語と古典語の違いというのもある。たとえば、古文には出てくるが現代人が書いた擬古文には出てこない語句や言いまわしに気付いたり。係助詞「なむ」あたりはなかなか現代人には出てきにくいらしい(そりゃそうか)。推量や疑問を述べる場面で選択される表現も傾向が違う。おもしろい。

違うというのを言い出すと、現代の学生どころか、本居宣長の擬古文だって本物の古文とはどこか違っているわけだけど。

「物語」を作るにあたって、既存の歌を導く形で創作をするというアプローチもおもしろい。もちろん理想をいえば歌も自分で作れれば言うことないのだが、その前にこういう形で散文から入っていくのは、現代人にとって歌を理解するのにかえっていいのかもしれない。

まあ、そんな堅苦しいことを言わなくても、古文で遊ぶというのはおもしろそうだし、みんなもやってみるといいよ。

2009-08-01

デザイン変更。ようやく Blogger のテンプレートに手を入れた。本当のことをいうと、いままでのデザインはどうもあちこちだらしなくて好きじゃなかったのだ。おそらく IE6 ではたいへんなことになっているだろうけど、すみませんもう勘弁してください IE8 にアップグレードしてください。

なにせ字の多いサイトなので、本文の領域はこれくらい増やしたくらいでちょうどいい。それと、背景色を変えて引用部がわかりやすいようにした。偉大な先人によるあまたの著作に大きく依存しているブログなので、それらの引用が愚昧な拙文と見かけだけでも紛らわしくなってはいけないと思ってのこと。

2009-07-23

物名

物語のひとこまとして「『かきつばた』といふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」などということが述べられるのは、他に例がありません。この《伊勢物語》の場合だけが孤立しています。なぜ他に例を見ないか、ということよりも、なぜここにはこういったことが書かれているのか、と考えてゆくべきでしょう。

ここに「つま」として詠まれている女性は、二条の后高子です。ここに謎を解くカギがありそうです。

じつはこの《伊勢物語》は、初段、第二段に序章的な物語を置き、第三段以降に主人公と二条の后高子との恋物語が展開されています。その「二条の后物語」のひとこまとしてこの第九段があるのはだれもが知っていることなのですが、この二条の后という女性はまた、この《古今和歌集》巻一〇〈物名〉にも登場する人物なのです。

二条の后、春宮の御息所と申しける時に、めどに削花挿せりけるを、よませ給ひける  文屋康秀

445 花の木にあらざらめども咲きにけりふりにしこのみなる時もがな

「めど」の意味がよくわからないのですが、さほどくふうがある〈歌〉には見えません。《古今和歌集》巻一〇〈物名〉に収録されている他の〈歌〉と比べるならば、むしろ劣っていることが歴然としているようにさえ見えます。〈歌〉が秀逸だからこの〈歌〉が採られた、などとはとうてい思えません。

この《古今和歌集》巻一〇〈物名〉に〈歌〉の作者以外に登場するのはこの「二条の后」だけなのです。それ以外には、458 の詞書に「人」が登場していますが考慮しないでいいでしょう。

高子はおそらく「物名の〈歌〉好きの女性」として有名だったのでしょう。《古今和歌集》巻一〇〈物名〉にたったひとり登場するのも、そういった理由からでしょう。445 の〈歌〉も、高子にかかわる〈歌〉だから、というので採られたのでしょう。〈歌〉が秀逸であろうがなかろうが関係ないのでしょう。《伊勢物語》では、〈二条の后物語〉のひとこまだから、ということで、高子にかかわるストーリーだから、ということで、「『かきつばた』といふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」となったのでしょう。

そういったことを念頭に置いて、《伊勢物語》第三段をよんでみましょう。

《伊勢物語》第三段

昔、男ありけり。懸想じける女のもとに、ひじき藻といふものをやるとて、

思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも

二条の后の、まだ帝にも仕うまつり給はで、ただ人にておはしましける時のことなり。

ここに詠まれている〈歌〉、どうもあまりパッとしません。「ひじき藻」を詠みこんで「ひじきもの」というだけじゃどうも、…といった感じです。「ひじきもの」、通説は「引敷物」だと言うんですが、私はここは「ひしぎもの」つまり、目をふさぐ物、という意味だと思います。袖で目をふさごう、と言っているのでしょう。「おも火(おもひ)」「む暗(むぐら)」にかかわっての表現でしょう。それにしても、ヘンな〈歌〉です。

この第三段は、主人公があの「物名の〈歌〉好きの女性」二条の后にはじめて〈歌〉を贈ったことが描かれている章段なのです。

そのことを念頭に置いて始めてこの〈歌〉の「しかけ」が見えてきます。

この女性の気をひくにはなによりもまず言葉遊びでしょう。始めて贈るこの〈歌〉に言葉遊びの「しかけ」がない、などということは考えにくいことです。「物名」に決まっています。「沓冠」というしかけでしょう。

この〈歌〉、各行の最初の文字と最後の文字とを次の順に読むことによって、主人公が伝えたメッセージを読みとることができます。この順は「かきつばた」のばあいよりはちょっと複雑です。

もひあら(1)(6)
くらのやと(10)(5)
もしな(9)(4)
しきものに(8)(3)
てをしつつ(7)(2)

「おもはむにはそひねむ」「思はむには添ひ寝む」、好きだったらいっしょに寝よう、ということでしょう。

これが《伊勢物語》第三段で主人公が〈歌〉に託したメッセージなのです。

「物名の〈歌〉好きの女性」二条の后にはじめて贈った〈歌〉はやはり言葉遊びの技法を用いたものだったのです。

(出雲路修『古文表現法講義』岩波書店、2003年、pp. 113-116)

「ひしぎ」については、

ひし・ぎ【拉ぎ】
〔四段〕(1) 強く押しつぶす。「よもぎの車に押し―・がれたりける」〈枕二一四〉(2) 目をつぶる。「目を冥(ひし)いで坐り」〈三蔵法師伝五・院政期点

「めどに削花」については、

めど【蓍】
(1) 豆科の多年草。メドハギ。「蓍、女止(めど)、以其茎筮者也」〈和名抄〉(2) 「めどき」に同じ。また、それを用いて行う占い。「龜の卜(うら)、易の―などにて疑はしき事を勘(かんが)ふべきなり」〈尚書抄〉「筮、メド」〈いろは字〉(3) 目当て。「―が違うた」〈譬喩尽〉 ―に削り花「めど」(1) につけた、木を細かく削りかけて造った花。古今伝授の一とされた語。「―挿せりけるをよませ給ひける」〈古今四四五詞書

(ともに『岩波古語辞典』。)

2009-07-16

助動詞キの運用

小松英雄『丁寧に読む古典』に、補章として載せられている「助動詞キの運用で物語に誘い込む――物語冒頭文における助動詞キの表現効果」という一篇から。

『落窪物語』の冒頭には、最初の登場人物がつぎのように紹介されている。

今は昔、中納言なる人の、御娘あまたもち給へる、おはしき

平安時代の仮名文に多少ともなじんでいる読者なら、結びの助動詞キに、オヤ? と反応するに違いない。なぜなら、「今は昔」から予期される結びは、「おはしき」でなく「おはしけり」のはずだからである。当時の人たちは、ここにキが出てきたことに、現今の我々よりも、もっと敏感に反応したであろう。

(小松英雄『丁寧に読む古典』笠間書院、2008年、p. 274)

また、

古典文法の用語として〈過去〉は適切でない。平安時代の日本語は、現在と過去とを区別せずに文末が結ばれているので、現在か過去かの判断は文脈に委ねられているからである。ちなみに、未来表現には義務的に助動詞ムなどが添えられている。〈回想〉も使用をやめたほうがよい、言語は外へ向けた表出 (expression) であるから、内向きの回想 (recollection) を直接に表明する助動詞をもつことは原理的にありえないからである。

以上の検討から知られるように、助動詞キの機能は、それが話し手の行為、行動であったと積極的に表明すること、すなわち、事故の関与を読み手に認識させることである。「アフリカに象がたくさんいたよ」のタには、話し手の関与が表明されている。この場合のタの用法は、その点において平安時代のキの用法とほぼ同じである。現今と同様、昔の日本語も場面に即して柔軟に運用されていたことを、古典文法の専門家は忘れがちのように見える。

自分の経験を叙述するだけなら、過去の出来事であることは文脈から判断可能なので、特定の助動詞で表明する必要はない。

『落窪物語』冒頭の場合、「おはしき」という表現をとることによって、地位の高いその人物を自分は知っていたと明言していることになるから、読み手は、現実社会で実際に起こった出来事への好奇心をそそられ、話の展開に強く引き込まれることになる。

(同書、pp. 276-278)

助動詞「き」に関しての同書における既存古語辞典に対する批判は微妙なもので、要はそれが未来表現で「義務的に」現れる「む」などと違って「選択的な」助動詞であるということが明記されていないということへの不満に由来している。

総索引が整備され、電算機検索も容易になった現在では、読んだことがないどころか、表紙さえ見たこともないテクストから、文脈も確かめずに用例を剥ぎ取ることに後ろめたさを感じない風潮が蔓延し、すべての助動詞が義務的であるかのような説明がなされている。

(同書、p. 278)

まあ、実際にすべての助動詞が義務的なものとして書かれている、と「(読者から)読まれている」かというと、そんなことはないんじゃないかという気もするけど、辞書の編纂者としては厳密な態度でないといけないのかもしれない。

「アフリカに象がたくさんいたよ」という現代文での「た」との比較はおもしろいし、重要だと思った。

さて、同書のこの章では冒頭だけでなく、議論の多い『落窪物語』の結尾についても少しだが触れられている。

この物語の最後には、姫君の侍女であった「あこぎ」が現在は内侍典侍《ないしのすけ》になっているはずだとあり、「典侍は二百まで生けるとかや」と結ばれている。「あこぎ」は超人的長寿に恵まれたが、そのほかの登場人物は世を去って久しいから、現存する人物と結びつけて憶測したりしないようにと釘を刺したものであろう。冒頭のキと整合させれば、物語の書き手もまた「あこぎ」と同じだけ長寿だったという理屈になるが、そこまでは責任を持っていない。

(同書、p. 279)

2009-07-06

ここを始めて半年が経った。一年の予定なので折り返し地点だ。書いておきたいものの書けてないことがまだいくつかある。

日曜日に紀伊國屋書店をぶらぶらしてきたけど、なにも買わず。『自閉症の謎を解き明かす』の新版と、ピンカーの新刊(もう出て結構経ってたと思うけど)が気になったくらい。古文については、学習参考書のコーナーに新しい本がたくさん並んでた、が、どのみち自分は読むものがたまっているので手は出さず。

これは古文に限ったことじゃないけど、○○はこんなにおもしろい、みたいなタイトルの本ばっかり。僕は「わたしおもしろいのよ」などと自分から媚を売ってくるような本は好きじゃない。つい「だまされるものか」と身構えてしまうし、その手の本は自分のためにならないような気がする。というのは、それらは「なにがおもしろいか」を解説する本であるわけで、これがジョークの話だったら無粋もいいところの役回りじゃないか。なにがおもしろいかを発見することも含めての読書のおもしろさ、だと思うんだけど。

それに、たとえば「徒然草はおもしろい」みたいな名を冠する一群の本どもの読者層と、当の「徒然草」の読者層というのはまったく別のような気がする。僕はここを「古文はこんなにおもしろい」みたいな内容にすることもできたわけだけど、そういうのは避けた。この例でいうところの前者のような人々の興味を引いてもしょうがないと思ったからで、たとえば、いま「枕草子」を読んでいるもののなにが書いてあるかさっぱりわからん、みたいな人がいたら、そういう人がたぶん対象読者だね。僕は向き合ってくれる人よりも、同じ向きに歩いていく人を友とするのだ。

だいたい登山する人になにか書かせたら登山の記録になるのが普通じゃん。そういうこと。『玉勝間』みたいな書も、そういう態度がわかれば読めるようになる。

2009-07-02

「花ぞ昔の香に匂ひける」の「花ぞ」を、多くの注釈書が、「花は」と現代語訳しています。「花(ガ)匂ふ」にゾを挿入すると「花ぞ匂ふ」になりますが、「花は匂ふ」にゾを挿入することはありません。「匂ひける」のケルは、それが疑いのない事実であると認識したことを表わしています

ハとガの違いは日本語文法のメイントピックスのひとつなのに、それを混同してしまうのは、疎読、勘読で作り上げた筋書きに合わせて考えているからです。その筋書きとは、人間は裏切るがペットは裏切らない、などという〈~は、~は〉という形式の対比です。こんなことでは、文法的解釈という錦の御旗がボロボロです。間違いのもとは、「人はいさ、心も知らず」をひとまとめに把握してしまったことにあります。上の句と下の句とを安易に対比してしまったことも一因かもしれません。

三上章『象は鼻が長い』〔くろしお出版・1960〕は、日本語文法論のユニークな著作で、古典文法を重んじる立場をとる古語辞典の編者が知らないはずはありません。この本のタイトルの構文は、「ふるさとは花ぞ昔のかに匂ひける」とそっくりです。〈象は鼻長い〉に変えたら意味が違ってしまいます。

(小松英雄『丁寧に読む古典』笠間書院、2008年、pp. 28-29)

2009-06-22

たそたそ

男の云く、「去来《いざ》給へ。伯父父《をぢちち》の許に将《ゐて》奉らん」と。児、何心も無《なく》打□て、「母堂に告奉らん」と云へば、男、「人に不令聞《きかしめ》で、密に御《おはし》ませ」と云云。児、嬉気に思て走り行《ゆく》後ろ手の、髪のたそたそとして可笑気《をかしげ》なるを見《みる》に、かはゆく難為《しがたく》思へ共、人に憑《たのも》し気をし見えんと思へば、木石の心を発《おこ》して、馬に鞍置きて曳将《ひきゐて》来ぬ。

(巻第二十六「陸奥の国の府官大夫の介の子の語 第五」池上洵一編『今昔物語集 本朝部(下)』岩波文庫、p. 36)

古文を読んでいると、いまでは使われなくなってしまった擬音語・擬態語に出くわすこともある。走っていく子供の髪の揺れる様子をして「たそたそ」と言っているのだけど、これなんていかにもで、ああ、たしかにたそたそしてるよなあ、と思う。

2009-06-18

物語の末尾切断形式

最近、のんびりとだけど『大和物語』も読んでいる(小学館「新編日本古典文学全集」12)。いくつ並行して読んでるんだという感じだが……。

ひとつひとつの段が短くて、文の流れも自然で読みやすい。これは古文の入門にいいんじゃないのかな。どこか取り付く島のない感じの『伊勢物語』なんかよりも、ずっと教科書向きなんじゃなかろうか。教養としての重み付けからすると伊勢物語なんだろうけど。しかしいくつか古文読んできた者としての実感からすると、あれ、読みにくいよね。少なくとも、感情移入できる文ではないと思う。

さて、その大和物語を所収する小学館「新編日本古典文学全集」の解説で面白かったのは、「物語の末尾切断形式」というくだり (p. 432)。

『大和物語』の原型の最後は百六十九段と見られ、歌も含まれず、その末尾本文は「水くむ女どもあるがいふやう」と切断形式になっている。切断形式とは末尾本文が、内容的にも形式的にも完結していないものをいうのであって、余韻を持たせるための形式である。「あはれ」の内容を持った説話の集積の末尾としてはまさに生きた形式になっている。この形式は後に亜流を生んで、内容的には完結していても、形式的には完結していないかのように見せかけたもの、文章の上では内容的にも形式的にも完結していないが、その先の内容を読者が知っており、切断形式の実質的効果が上がっていないものなども出てくる。

(「大和物語」、新編日本古典文学全集12、p. 432、小学館)

作品としての物語をどう終わらせるのか、それについての当時の定石のひとつが切断形式だったのだろう。『源氏物語』の末尾はけっこう有名だと思うけど、あれがどうしてあんなふうな終わらせかたなのかと感じた人も多いと思う。結末を描く段落としては、一回転してかえって斬新さを感じさせる、すぱっとした終わりかたなんだよね。写本の系統によってその末尾が安定してないことには、この切断形式がひとつの型としては忘れられてしまったということにも一因があるのかもしれない。最近読み終えた「花宴」の末尾も切断形式をとっていたということか。

 「梓弓いるさの山にまどふ哉ほのみし月のかげや見ゆると
なにゆゑか」とおしあてにのたまふを、え忍ばぬなるべし、
  心いる方ならませば弓張りの月なき空にまよはましやは
と言ふ声、たゞそれなり。いとうれしきものから。

(「花宴」、新日本古典文学大系『源氏物語 一』、p. 284、岩波書店、一部表記を改める)

これで終わり。ここは、一度だけ会った朧月夜を探して源氏が右大臣邸をうろうろしていたところ、それとなく鎌をかけたりしてようやくその人を捜し当てた、という場面なんだけど、「いとうれしきものから」で終わっている。「いとうれしきものから」というのは「とても嬉しいけれど」というような意味だけど、思わせぶりな逆接を付けておいて、その先はない(次の巻もこれとは関係なく始まる)。

『落窪物語』の末尾についても、いろいろ詮索する一方で、そもそもこういう形式があるということを頭にとどめておく必要はあるね。

2009-06-15

岩波文庫版『今昔物語集』

岩波文庫版『今昔物語集』(池上洵一編)は注も丁度よくて、コンパクトでいいと思うんだけど、「振り仮名は現代仮名遣いに改めた(本文の仮名遣いは原文通りとした)」(凡例)というのが理解しがたい。なんだそのちぐはぐな方針は。学習者が古語辞典を引けなくなるじゃないか! それを抜きにしてもこの不自然な方針をよく一貫できたものだとも思う。

あとやっぱり本編ぜんぶ文庫で読めたらよかったのにな。岩波文庫の『今昔』は全体の四割程度しかない抄出版なのだ。岩波にはもういっそのこと、新日本古典文学大系の文庫版を出してほしい。

2009-06-08

雑纂

『枕草子』中の「……(なる)もの」で始まる章段群は、雑纂的章段と呼ばれている。この形式の原点として唐の李商隠による『雑纂』という本がある。僕はこれを漢文の入門書、『詳解漢文』(昇龍堂出版)から知った (p.435)。

それがどこか読めるところはないかと探してみたら、早大の図書館が「古典籍総合データベース」と称して古典籍の写真を公開していて、そこに江戸末期に出版された『雑纂』があった。やるじゃんワセダ。『雑纂. 上,下』墨江岸田桜(岸田吟香)校訂、文久二 (1862) 年。李商隠のオリジナルは上巻のほうである。あとは後人によるもの。(現在読める出版物で『雑纂』を所収しているものがあったら教えてください。)

さてその内容は、

必不

酔客逃席、客作偸物去 逐王侯家人、把棒呼狗、窮措大喚妓女

また、

殺風景

花間喝道、看花涙下、苔上鋪席、斫却垂柳、云々

この『雑纂』というのは『詳解漢文』によれば、「だいたい酒令(勝負に負けたり、しくじったりした者に酒を飲ませること)のために、問題のうまい答えを書いたものといわれています」とのこと(同頁)。ネタ帳のようなものか。題があって、それにふさわしいものを機知を交えて挙げるという形態は、たしかに枕草子と共通している。

分量は枕草子のそれと比べるとずいぶん少ない。また内容的に共通しているものは見られないようだ(ざっと見た限りでは)。古今の序文に見られるような、漢籍からの直接的な影響の一例としては同列には語れない雰囲気である。清少納言の頭に『雑纂』はあったろうが、内容的にはあくまで自分の思うままに書いたといったところかね。

2009-06-04

和歌のことについて

和歌について。中古の古典を読んでいるというからには、和歌について触れないわけにはいかない。いかないんだけど、これがなかなか難しい。

歌がどういう意味かは辞書や註と格闘すればなんとかなる。だけど、その場面でその人に、いったいどういう頭の中の働きによりその歌が出てきたものなのかというのは依然として謎だ。自分で歌を作ったことがないから、人がそういうときにどんな歌を詠んだというのが非現実的なのだろう。しゃべってていきなり朗詠モードに入ったわけ? わからん。

それと、和歌そのもののよさがまだ自分にはよくわかっていない気がする。私家集でも物語でも、歌はたいていその前に詞書きというものがあって、かくかくしかじか、どういう経緯で、ああなってこうなって、それで詠んだ、歌、というふうに書いてある。時にはそれにひどく感心させられることもあるのだが、さて自分が歌に感心したのかそれとも詞書きに感心したのかというと、どうも後者のような気がする。結局読んでる頭は散文の頭なんだよなあ。

僕は自分で読解力はあるほうだと思っていて、空気を読むのは苦手だが行間を読むのは得意のつもりでいる。ところが和歌は一行しかないので、そこに行間はない。歌には歌のアタマがあって、それを悟らない限り、歌はずっと自分にとって「外」の言語芸術のままなんだろうな、と思う。

それでも歌にはちょっといいなと思うところもある。それは形式を担保にして言いにくい本音も伝えられることだ。言いたくても言えないことというのはなかなか結構あるもので、それを直接でなく形式的に解消できる風習があったというのはちょっとうらやましいな。

2009-06-01

下衆のことばには必ず文字あまりたり

小松英雄『日本語はなぜ変化するか』(笠間書院、1999年)では、『枕草子』の「下衆《げす》のことばには必ず文字あまりたり」というくだりについて、これが庶民層においてすでに表出していた終止形の連体形化現象のことではないかと推測している (p. 167)。ここはおもしろかった。

中古の動詞の連体形は、四段および上一段(あと「蹴る」一語の下一段)活用動詞では終止形と(文字の上では)変わらないが、その他の動詞ではすべて見かけ上終止形に「る」が付いた形になっている。音節としてはひとつ「あまる」ことになる。

以前同書から引用した、やはり枕草子中の、「いはんとす」と言うべきところを「いはんずる」と言う者がいる、という箇所を思い出すと、なるほど後者は連体形終止の形をとっている。このことは枕草子を読んだ時から気になってたんだけど、清少納言の癪に障ったのは、音便縮約のほうもあるのかもしれないが、ここではむしろ連体形終止のことを言っていたかもしれないわけか。そしてそれを考えると、「下衆のことばには云々」が連体形終止の言葉遣いを批難するものだったというのには説得力がある。

2009-05-25

源氏物語の話を全然書いてないけど、ちゃんと読んでるよ。まだ挫折してない。まだ数巻分しか読んでいないので(じつは頭から順には読んでない)、なにか書こうということもまだないだけで。もとより今年中に読み終わる分量ではないから、このブログには書けずじまいになるかもしれない。

2009-05-21

(3) 何事を言ひても、そのことさせむどす、言はむどす、何とせむどす、といふと文字を失ひて、ただ、言はむずる、里へ出でむずる、など言へば、やがていとわろし、まいて、文に書いては言ふべきにもあらず

仮名は清音/濁音を書き分けない文字体系であるために、「いはむとす/せむとす/いてむとす」などと表記されているが、当時の日本語では鼻音音節ムのあとのは濁音化していたので、それぞれ、イハムドス/セムドス/イデムドスと発音されていた。

(小松英雄『日本語はなぜ変化するか』笠間書院、1999年、pp. 162-163)

ここの「鼻音音節ムのあとのは濁音化していたので、それぞれ、イハムドス/セムドス/イデムドスと発音されていた」というところがよくわからない。「濁音化していたので」のあと、「いはむする/いてむする」は「イハムズル/イデムズル」と発音されていた、という流れならわかるんだけど……。

2009-05-18

CSS の "Music Is My Hot Hot Sex" を聴いてたら、ふと「たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり」を思い出してしまった。まあこの曲と仮名序は似てるといえなくもない。

2009-05-14

老女と十二月の月夜

第一本妻者、齡既過六十而、紅顏漸衰。夫年者、僅及五八而、好色甚盛矣。蓋弱冠奉公之昔、偏耽舅姑之勢徳、長成顧私之今、只悔年齡懸隔。見首髮、皤々如朝霜。向面皺、疊々如暮波。上下齒缺落、若飼猿頬。左右乳下垂、似夏牛〓(※モンガマエに「由」)。雖到氣装、敢無愛人。宛如極寒之月夜。……

(藤原明衡著、川口久雄訳注『新猿楽記』平凡社、東洋文庫、1983年、p. 36)

上の文の読み下し。

第一ノ本《モト》ノ妻《メ》ハ、齢既ニ六十ニ過ギテ、紅顔漸ク衰ヘタリ。夫ノ年ハ、僅ニ五八ニ及ビテ、好色甚ダ盛ナリ。蓋シ弱冠ニシテ公ニ奉《ツカヘマツ》リシ昔ハ、偏《ヒトヘ》ニ舅姑《シウトシウトメ》ノ勢徳ニ耽《フケ》リ、長成シテ私ヲ顧《カヘリミ》ル今ハ、只年齢ノ懸隔ナルコトヲ悔ユ。首《カウベ》ノ髪ヲ見レバ、皤々《ハハ》トシラゲタルコト朝《アシタ》ノ霜ノ如シ。面《オモテ》ノ皺ニ向ヘバ、畳畳《デウデウ》トタタメルコト暮《ユウベ》ノ波ノ如シ。上下ノ歯ハ欠ケ落チテ、飼猿《カヒザル》ノ頬《ツラ》ノ若《ゴト》シ。左右ノ乳《チ》ハ下ガリ垂レテ、夏ノ牛ノ〓(※モンガマエに「由」)《フグリ》ニ似タリ。気装《ケシャウ》ヲ致ストイヘドモ、敢ヘテ愛スル人無シ。宛《アタカ》モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ。……

(同書、p. 37)

そして同書の証注から。

▽極寒ノ月夜ノ如シ―師走(十二月)の寒夜にいくら月が明らかに照っても、賞玩する人がないようなものだ、の意。当時の諺。『二中歴』十列に「冷ジキ物 十二月ノ月夜 十二月ノ扇 十二月ノ〓(※クサカンムリに「ヨヨ」「尒」)水 老女ノ仮借《ケシヤウ》」。
『河海抄』に「清少納言枕草子 すさまじき物 おうなのけさう しはすの月夜と云々」とある。

(同書、p. 41)

これは藤原明衡《あきひら》という人の『新猿楽記《しんさるがくき》』という本からの引用。この作品自体の紹介もまたあとで書くつもり(仮名文学じゃないんだけど)。成立は1052年前後(同書、p. 320)というから、枕草子や源氏物語から半世紀ほど下ったあたりである。

引用したところは、右衛門尉という人物の第一の妻を描写したところである。源氏の源典侍をさらにグロテスクにしたような怪女だが、ここに「宛モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ」とある。

証注の引用を見ると、『二中歴』と『河海抄《かかいしょう》』からの用例が引かれている。『二中歴』という本は僕は知らなかったのだけど、ウィキペディアによれば鎌倉時代の事典とのこと。『河海抄』はいわずと知れた源氏物語の注釈書である。

さて、この「しはすの月夜」が『枕草子』で「すさまじきもの」として挙げられているというのは古文の世界では有名なんだけど、にもかかわらず、現存する枕草子の「すさまじきもの」の段にはこの「しはすの月夜」は入っていない。ではなんでそれが有名になってるのかというと、『源氏物語』で紫式部が清少納言へのあてこすりとして、「十二月の月を『すさまじきもの』とか言った、わかってないヒトもいたそうですが云々」みたいなことを書いたからである(大野晋、丸谷才一著『光る源氏の物語』上、中公文庫、p. 354)。『河海抄』や『紫明抄』が書かれた当時の枕草子にはまだこの記述が残っていた。だからこれらの本の注釈に(当時の)枕草子からの引用が残っていて、それでこんにち知られているというわけ。

雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつゝ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮れに、人の御かたちも光まさりて見ゆ。「時々につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、この夜のほかの事まで思ひ流され、おもしろさもあはれさものこらぬをりなれ。すさまじきためしに言ひおきけむ人の心あささよ」とて、御簾巻き上げさせ給ふ。

(新日本古典文学大系『源氏物語』二「朝顔」、p. 268、一部表記を改める)

「御簾巻き上げ」のダメ押し付き。

この「しはすの月夜」「おうなのけさう(老女の化粧)」が「すさまじ」というのは、清少納言の(漢籍などによらない)オリジナルだったのだろうか(『新猿楽記』の注には「当時の諺」って書いてあるけど……)。もしそうだとしたら、明衡がこの箇所を書いた時には、明らかに(当時の)枕草子が念頭にあったということだよね。そして鎌倉時代の事典にもすっかり定着していたと。そう考えると、平安時代の女流文学のメインストリームっぷりにあらためて驚かされる。

また「しはすの月夜」云々のくだりはどうして現存していないのか、素人ながらそれをいろいろ想像するのも楽しい。

あともう漢文は引用したくないと思った。超めんどくさい。

2009-05-11

寛和元年(九八五)二月十三日、円融院が子の日の遊び(正月のはじめの子の日に、野に出て小松を引き若菜を摘んで長寿を祝う宴遊)をされた時のこと、紫野《むらさきの》にお出かけになった院は、大中臣能宣・源兼盛・清原元輔・源玆之《しげゆき》・紀時文《ときふん》というような、当時の主な歌人を、かねてお召しになっていましたので、それらの歌人たちはみな衣冠を正し、正装して参会していました。

院の近くには公卿の座が設けられ、その次に、殿上人の座が設けられ、その末の方に、幕にそって横の方に、歌人たちの座が設けられています。院が座におつきになり、公卿、殿上人、歌人たちも座につきましたが、そこへ、烏帽子をつけ、狩衣袴姿という、当時の公卿の服装としては普段着のみすぼらしい格好で現れ、歌人の座の末に着いたものがいます。人びとが、何者が来たのかと思って見ると、曽禰好忠です。殿上人たちが、「おまえは曽丹《そたん》ではないか、どうして来たのか」と、そっと尋ねます。

「曽丹」というのは、曽禰好忠は丹後掾《たんごのじょう》という官についていましたところから、「曽禰」の「曽」と「丹後掾」の「丹」とをとって呼ばれていたものです。初めは「曽丹後掾」と号されていたのですが、その後、「曽丹後」と呼ばれるようになり、さらに略されて「曽丹」といわれるようになったので、好忠自身、いつ「そた」と呼ばれるようになるであろうかといって嘆いたと伝えられています。

(安田章生《あやお》『王朝の歌人たち』NHKブックス、1975年、pp. 94-95)

2009-05-04

へん

また平安時代から外れてしまうのだけど番外編ということで。徒然草の話。

(第百三十六段)

医師《くすし》篤成《あつしげ》、故法皇の御前に候て、供御《ぐご》のまゐりけるに、「今日まゐり侍る供御の色々を、学問も、功能《くのう》も、尋ね下されて、空に申侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。ひとへに申誤り侍らじ」と申ける時しも、六条の故内府まゐりたまひて、「有房《ありふさ》、ついでに物習《なら》ひ侍らん」とて、「まづ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏《へん》にか侍らむ」と問はれたりけるに、「土偏に候」と申たりければ、「才のほど、すでに顕れにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、どよみにて、まかり出でにけり。

(新日本古典文学大系39『方丈記・徒然草』岩波書店、1989年、一部表記を改める)

もう二年近く前の話だけど、区の図書館が主催する日本の古典の講演があって、それを聴きに行った時に『徒然草』のこの段が紹介されていた。僕は徒然草はまだ読んでないけど、それでこのエピソードを知ったのだ。

医師の和気篤成が、法皇(ここでは後宇多法皇かという)のお膳が来たのを見て、そのひとつひとつ、どれでもその名前と効能を書物にあるとおりにそらんじてみせようと自慢した。そこへ源有房がやって来て、それではついでに教えていただこう、「『しほ』といふ文字は、いづれの偏にか侍らむ」と尋ねた。篤成が「土偏に候」と答えると、有房に、学問の程度が早くも露呈してしまったな、その辺にしておきなさいと言われ、篤成は一座の哄笑を買ったという話。

さて、このやりとり、「いづれの偏にか侍らむ」「土偏に候」について、新体系の脚注は、「土偏でございます。篤成は『塩』の字を考えて答えた」「有房は正字の『鹽』でなければ正解としない立場である」と解説している。講演の先生もそれに従って講義されていた。また、それを承けて「聞いただけではどちらの『しほ』かわからないのだから、意地悪な質問だ」ともコメントしていた。

これを聴いていた時はふーんと聞き流していただけだったのだけど、聞きながらなんか変な感じはしていた。それが後世に伝えるほどの機知のある会話かな、というようなことを思ったのだ。

ところが後日、『いろはうた』という本を読んでいたら、この「へん」というのはまったく別の意味だったということがわかってしまった。

アクセントそのものは変化してしまっていても、語頭音節における高低一致の法則が保存されていたなら、「山のく」と「く山」との「お」の高さが違うということにはならなかったはずであるから、その法則も十四世紀末には失われていたことが、これによって知られる。もとより、長慶天皇としては、それが、アクセント史のいたずらであるとは気づいていない。「緒の音・を」「尾の音・お」とあるから、音が基準になっているのかと思うとそうでもない、といっているところを見ると、この「緒の音・を」「尾の音・お」という趣旨も正しくは理解されていないようである。まして、ここでは「を・お」以外の同音の仮名までも、やはり高低に基づいて書き分けられているはずだという前提で検討されているので、結局、

音にもあらず儀(=義)にもあらず、いづれの篇につきて定めたるにか、おぼつかなし

という評価をくだすほかはなかった。

医師篤成が「しほといふ文字は、いづれの篇にか侍らん」と尋ねられ、見当違いの答えをして恥をかいたという話が『徒然草』一三六段に見えている。ここに「いづれの篇に」といっているのも、やはりその場合と同じように、どういう典籍に、という意味であるから、要するに、定家による規定は根拠不明だというのである。あるいは「旧き草子」というのを、そういう事柄を記した特定の典籍として理解したものであろうか。

(小松英雄『いろはうた――日本語史へのいざない』講談社学術文庫、pp. 310-311)

徒然草の同段は、「どの典籍に出ているのか」と問うた有房に対して、篤成が「土偏である」と見当違いの答えをしたという話だったのだ。それで有房は「程度が知れる」と呆れたのである。それなら笑い話としてちゃんと納得のいく筋になっている。

2009-04-27

なお、すでに知られているように、当時の京都語のアクセント体系では、同一の語源をもつ単語のアクセントは少なくとも第一アクセントだけは同一であったとされている(金田一春彦氏の研究)。従って、一つの語のアクセントを知れば、他の語のアクセントを推定できる場合が少くない。例えば、小舟(ヲブネ)のアクセントが名義抄によって、上上○と知られれば、小(ヲ)のアクセントは上であるから、それによって、小笹(ヲザサ)、小塩山(ヲシホヤマ)、小倉山(ヲグラヤマ)、小忌(ヲミ)などの第一音節「ヲ」は、すべて上のアクセントであることが知られる。

また、今日の東京アクセントでは「起きない」のオは、オナイとなって低いが、「起きた」の場合はキタとなって高い。このように一つの動詞でも、活用形によって動詞の第一アクセントが変ることがある。しかし、当時の京都アクセントでは、同じ語ならば、第一音節のアクセントは活用形によって変わることがない。例えば「起く」という動詞ならば、「起きず」の場合でも、「起きたり」の場合でも、いずれもオは平声である。このように、動詞・形容詞などの終止形の第一アクセントが上ならば、活用形の如何を問わずその語の第一アクセントは上であり、終止形の第一アクセントが平ならば、活用形の如何に関わらずその第一アクセントは平であったから、終止形のアクセントを知れば、他の活用形の第一アクセントは知ることができる。

(大野晋『仮名遣と上代語』岩波書店、1982年、p. 22)

2009-04-23

琵琶法師

金田一春彦『四座講式の研究』(三省堂、1964年)という本(玉川大学出版部「金田一春彦著作集」第五巻所収)によれば、真言宗や天台宗に伝わる仏教音楽である声明《しょうみょう》のなかでも、日本語の歌詞を持つ「講式」という種類の声明は、古いもので鎌倉時代末期の日本語のアクセントをかなり正確に伝える資料となるという。

講式の譜は、歌詞の各仮名の横に「|」「\」「―」のような形をした節博士《ふしはかせ》という記号を付けた体裁をしている。これがその仮名を詠む際の音程を表しており(この記号の意味は講式の流派によってそれぞれ違っている)、それにより講式が作られた当時のその語のアクセントがわかるわけである。この話はすごく面白いのでそのうちまたあらためて書いておきたい。

琵琶法師の弾き語りにはまさか譜に相当するものはないだろうが、こういう中古中世の音韻の痕跡のようなものは残っていたりするのかな。

2009-04-20

「~ずなりぬ」「~てやみぬ」

今までどうも「~ずなる」には複数の使われ方があるなあ、とは薄々思っていて、出くわすとよく考えてみたりしてたんだけど、よく見たら『古代日本語文法』にちゃんと書いてあった。

「~ずなりぬ」には、「今までしていたことをしなくなった」の意と、「最初から最後までしないままになってしまった」の意とがあります。(31) は前者、(32) は後者です。

  • (31) 船の人も見えずなりぬ。(土佐)
  • (32) 楫取、「今日、風、雲の景色はなはだ悪し」と言ひて、船出さずなりぬ。(土佐)

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007年、pp. 67-68)

前者は現代語の「~なくなる」と同じなんだけど、後者に該当する簡潔な表現は現代語にはない(と思う)。

簡潔な現代語にしにくい似たような表現として、「~てやみぬ」というのもある。これもなんか無理矢理落ちを付けたような文みたいで、不思議な感じがする。

  • くらうなりて、物くはせたれどくはねば、あらぬものにいひなしてやみぬる、つとめて(p. 31)
  • つれなきもいとねたきを、今宵あしともよしともさだめきりてやみなむかし。(p. 103)
  • 夜ふくるまでつけわづらひてやみにしことは、(p. 104)
  • 「則光なりや」と笑ひてやみにしことを、(松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』笠間書院、2008年、p. 198)
  • 「さては、一人をうらみ給ふべきことにもあらざなるに、あやし」といへば、その後はたえてやみ給ひにけり。(p. 222)
  • つねにおぼえたる事も、また人の問ふに、きよう忘れてやみぬるをりぞ多かる。(p. 291)

(特に明記しているもの以外、池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年。)

あれ、意外にも「~てやみぬ」で終止する文はないな……。本居宣長も使ってるんだけど、それの印象が強かったせいか?

こたつといふ物のうた

しはすばかり、これかれあつまりて、埋火を題にて、哥よみける日、今の世のこたつといふ物をよめと、人のいひければ、

むしぶすまなごやが下のうずみ火にあしさしのべてぬらくしよしも、とよめりければ、みな人わらひてやみぬ

(本居宣長著、村岡典嗣校訂『玉勝間』上、岩波文庫、p. 101)

ああ枕草子がやりたかったんだなあ、という感じの乙女ノリ。おふざけのくせに歌は「むしぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寝ねば肌し寒しも」という万葉集の歌を下敷きにしているというマニアックさはさすがだ。

2009-04-16

三巻本と能因本との違いの例

先日紹介した枕草子の落窪物語に言及している箇所について、訳を作る参考にしようと能因本底本のほうもちょっと見てみたのだけど、するとここは三巻本とは文がちょっと違っているところであった。

三巻本底本の岩波文庫版からの引用をもう一度載せる。

雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)

これに対して、能因本底本の笠間文庫版はこうなっている。

雨は、心もとなき物と思ひ知りたればにや、時降るもいとにくくぞある。やんごとなき事、おもしろかるべき、たふとくめでたかるべき事をも、雨だに降れば、言ふかひなくくちをしきに、何かとて濡れてかこちたらむが、めでたからむ。げに、交野の少将もどきたる落窪の少将などは、足洗ひたるは、にくし。きたなかりけり。交野は馬のむくるにもをかし。それも、昨夜、一昨日の夜ありしかばこそ、をかしかりけれ。さらでは、何かは。

(松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』笠間書院、2008年、p. 329)

なかなか興味深い違いだと思うんだけど、どうだろう。僕はまだ笠間文庫版を最初から通しては読んでいないので、この部分だけの印象で語ってしまっては危ないけれど……。

能因本の「心もとなき」とか「かこちたらむ」のあたりはちょっとあやしいよね。「こころもとなし」の「待ち遠しくて心がいらだつ。じれったい。/気がかりだ。不安だ。/ぼんやりしている。はっきりしない。/不十分でもの足りない。」という意味は(旺文社『全訳古語辞典』第三版)、文意からするとそぐわないし、「かこちたらむ」は「文句を言うのが云々」じゃなくて、やっぱり三巻本の「かこちきたらむ」すなわち「文句を言いながら来るのが云々」となってないと言い足りてない。「交野は馬の云々」は脚注にも「不審」となっていて、意味がわからなくなっているのが残念だ。

しかし、どちらも全体で言っていることまで違っているわけじゃないよね。かといって、書写の段階で生まれるようなバリアントではあり得ない。ここにいろいろと想像を巡らす余地があるわけで……。定説によれば、能因本系統のほうは清少納言が後になって書き改めたバージョンではないかということになっているそうで。他人がこういう書き換えを実践する動機もないだろうというわけだろう。このあたりの研究もなかなか面白そうなところ。

2009-04-12

古文の話ができれば文章の論理的展開などどうでもいいのか

昨日木曜日の記事を読み返したら、わけわからんこと書いててびっくりした。

原文は「雨は心もなきもの」になってるのに、それを自分で「不実を知るもの」と訳しおいて、さらにその訳文のほうを引っ張ってきて「身を知る雨」の解説をぶちあげている。我ながらちょっと狂気を感じるな、これは。

「心なし(心無し)」は、ここでは「人情を解さない。思いやりがない。つれない」でなくて、「情趣を解さない。風流心がない」の意(旺文社『全訳古語辞典』第三版)。

木曜の記事は修正。「なにか、そのぬれてかこち来たらんが云々」のところで「身を知る雨」の話に結局つながるので、全体として言ってる情報はほとんど変わらず、助かった。

2009-04-09

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし

落窪物語は、枕草子にもその名が見えている。

雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)

拙訳。

雨は風情のないものとの思い込みがあるからだろうか、少し降るだけでも嫌なものである。高貴なこと、明媚なこと、尊くめでたいことも、雨が降ってしまえばそれだけで台無しになってしまう。男が文句を言いながら濡れてやって来るところがいいなどと、どうしていうのであろうか。

交野の少将を非難していた落窪の少将などはまあ例外である。とはいえ、それも前夜、前々夜があってのことで、足を洗ったりなどしてひどいものである。不潔だ。

雨の日に濡れながら男がやってくるのがいいというのは、「身を知る雨」といって、雨が降ると男がめんどくさくなって女のもとに来なくなる。それで「ああ、その程度の愛情だったのか」と女が「身の程を知る」という、そういう当時の通念みたいなものがあった。そこから来ている。雨にも負けず男が来るのというのが、当時の(一部の)女性たちにとっての憧れのワンシーンみたいになっていたのだろう。そういう阿呆な幻想に対して異を唱えているわけである。落窪の少将(男君)は雨の夜に女君のもとに通ってきたが、それは三夜続けて通って結婚が成立する、その大事な三夜目だったからいいのだと。

参考歌。

かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(古今和歌集、恋 4)

『蜻蛉日記』に、作者道綱母とその夫兼家との切れそうで切れない関係を表す鍵として、この身を知る雨というのがたびたび出てきたように思う。あとで見つけたらここに載せよう。道綱母は兼家に見捨てられたと思って悲しんだり怒ったりするのだが、兼家が嵐の日とかに突然やってくると、(それが兼家のご機嫌取りの作戦だとわかっていながら、)なんだかんだいって内心嬉しくて浮かれたりするのである。人間ってバカだよね。

「足洗ひたる云々」の話はまた後日。

2009年4月12日追記。なんかむちゃくちゃな展開の文章になっていたので修正。

2009-04-06

落窪物語エンディング

物語の一番最後のくだり。だらだらと続けてきたけど、落窪物語の話は今回でひとまず終わりということにする。

三の君を中宮の御匣殿《みくしげどの》になんなしたてまつり給へりける。

師《そち》は任果てて、いとたひらかに四の君の来たるを、北の方うれしとおぼしたり。ことわりぞかし。かく栄え給をよく見よとや神仏もおぼしけん、とみにも死なで七十余《よ》までなんいましける。大い殿の北の方、

「いといたく老いたまふめり。功徳を思ほせ。」

との給《たまひ》て、尼にいとめでたくてなし給へりけるを、よろこびのたびいますがりける。

「世にあらん人、まゝ子にくむな。まゝ子なんうれしき物はありける。」

との給て、又うち腹立ち給時は、

「魚《いを》の欲しきに、われを尼になしたまへる。産《む》まぬ子はかく腹ぎたなかりけり。」

となんの給ける。死に給て後もただ大い殿のいかめしうしたまひける。衛門は宮の内侍になりにけり。のちのちの事はつぎつぎいで来べし。

この少将の君たち、一よろひになんなりあがり給ける。祖父《おほぢ》おとゞ亡せ給にけれども、

「われ思はば、ななし落としそ。」

と返ゝ《かへすがへす》のたまひければ、わづらはしくやんごとなきものになんおとうとの君をば思ひ給ける。左大将、右大将にてぞ続きてなりあがり給ける。母北の方、御さいはひ言はずともげにと見えたり。師はこの殿の御とくに、大納言になり給へり。面白は病まひおもくてほふしになりにければ、おとにも聞こえぬなるべし。かの典薬助《てんやくのすけ》は蹴られたりしを病まひにて死にけり。

「これ、かくておはするも見ずなりぬるぞくちをしき。などてあまり蹴させけん。しばし生けて置いたべかりける。」

とぞをとこ君の給ける。女御の君の御家司《けいし》に和泉守《いづみのかみ》なりて、御とくいみじう見ければ、むかしのあこき、いまは内侍のすけになるべし。典薬助は二百まで生けるとかや。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 290-292、一部表記を改める。)

拙訳。

(男君は)三の君を御匣殿の女房としてさしあげた。

筑紫の師《そち》がその任を終えて四の君も無事京に戻り、北の方は胸をなで下ろす。無理もないことである。こうして一族が栄えていくありさまをとくと見よとの神仏のはからいであろうか、七十をこえてなお達者であった。

「ずいぶんとお年を召されましたね。功徳をお考えにならなければ」

女君はそうおっしゃって北の方を立派に出家させて差し上げた。北の方はそれにいたく感激して

「世の中の人、まま子憎むな。まま子はありがたいものであるぞ」

とむせび喜んだ。かと思えば、腹の立つことがあると

「魚が食べたいのに、私を尼にしてくれて。腹を痛めて産んでない子はなんと意地の悪いこと」

などとおっしゃるのであった。亡くなられた後も、男君が立派な葬儀をお出しになった。衛門は宮の内侍になるが、その後のことはまた追々語ることとしよう。

少将の君たち(男君の子供たち)はお二人そろって位を極めていった。祖父の大臣《おとど》は亡くなられたが、

「わたしに孝行したいなら、くれぐれも次郎君をおろそかにはしてくれるなよ」

と常日ごろ繰り返しおっしゃっていたので、弟君には男君も格別の気を遣われ、兄弟は左大将、右大将とたてつづけに昇進したのであった。女君のお幸せといったら言わずもがなである。筑紫の師は男君のおかげで大納言へとなられた。面白の駒は病をこじらせて法師になったきり、あとの行方はようとして知れない。典薬助といえば、蹴られどころを悪くして、それがもとで死んだという。

「こうして立派になった女君の姿を見ずに死んだとは。あんなにひどくいじめることもなかった、もう少し生かしておくべきであったな」

と、男君は残念がった。和泉守は女君の家司となり、熱心にお勤めして差し上げたという。そのおかげで、むかしのあこきは、いまや典侍《ないしのすけ》となる。ところでかの典薬助だが、あるいは二百まで生きたともいうそうである。

二月には読み終えていたのだが、ここで紹介していくのに手放せなくて、地元の図書館でずいぶん長く借り占めてしまった。そういうわけで早く返さなきゃいけないと思い、上に引用した新体系本は、もう手元にはない。脚注をメモしておくのを忘れたせいで、和泉守云々の部分の訳が心許ないのだけど、ご容赦を。

とはいえ、それはそれとしても、このエンディングにはいろいろと気になる点がある。

一番の問題点はもちろん、典薬助についての後日譚がたがいに矛盾する内容で二回語られていることだ。これは古来議論の的になってきたらしく、写本のなかには末尾の「てんやくのすけ」を「たちはき」や「ないしのすけ」と書き改めているものもあるという。たしかにそう書き換えれば内容が矛盾するという問題は回避できる。新体系の解説によれば、定説になっていたのは「たちはき」とする解釈だそうだ。登場人物の後日譚が語られるこのエンディングで、準主役級の扱いだった帯刀について言及がないのもおかしいということだろう。その一方で、「たちはき」を「てんやくのすけ」と誤写するというのは考えにくい。その点では「ないしのすけ」、つまりあこきのこととする解釈のほうに分がある。

新体系はこれら旧来の説に挑戦するというような書きぶりで、ここに別の解釈をあてている。つまりここは字のまま典薬助のこととするのである。典薬助は死んだという噂がある一方で、実は生きていてしぶとく二百歳まで生きたとかいう噂もあったとさ、と意図的にぼかした後日譚としているというわけだ。

新体系出版からだいぶ時を経ている現在では、主流の解釈はどうなっているのかな。

ともかく、この説も説得力がある。原文をいくら読んでも決定的な証拠が見えないのがもどかしい。最後の文に、たったひとつ、たとえば「さらで」とか「げには」とかの副詞のひとつも入っていれば、こんな解釈の混乱を招かなかったろうにと思ってしまう。早々に解釈が混乱したということは、それはそれで元があんまりいい文じゃなかったということだ。

作者の身になって考えてみても、帯刀やあこきが二百歳生きたというよりは、怪人物めいた好色漢の典薬助が二百歳まで生きたという話を書いたと見るほうが自然かと思うけど……。

訳ではサボって曖昧に処理してしまったけど、原文に使われたり使われなかったりしている助動詞ケリの使われ方は、よく考えないといけない。どうしてここで使っていて、次の文で使っていなくて、その次でまた使っているのか。とくに末尾から二番目の「女御の君の御家司云々」のところとか。神は細部に宿るのだ。でもそれを考えてるとブログが書けなくなると思って今日は素通りした次第。

古典文学の作品の結び方には、いろいろと謎の含みがあって、その意図をこれと決定しがたいものが多い。枕草子にせよ、土佐日記にせよ、それぞれの作者にそれぞれの美学があって、結びとなればそれをもっとも凝縮した形でスタイリッシュに表して終えようという意志が働いているのだとは思うんだけど、それがかえって徒となり「外国人」である現代人にはどうもぴんとこないのだ。残念なことであるよ。

2009-04-02

書店について

ここ数年あんまり本屋に行かなくなってたんだけど、新宿に新しくできたブックファーストがなかなかおもしろいので最近ちょくちょく覗いている。前回の能因本枕草子なんかはその収穫。

昔は本屋は好きだったのに、今はなんか「売らんかな」という煽り文句ばかりが目について、どうもげんなりしてしまう。

源氏物語千年紀はあくまで去年の話だとばかり思ってたら、書店ではいまでも相変わらず盛り上がってるね。あちこちにそういうコーナーができていて、さまざまな新刊書が平積みで並べられている。こんなにたくさん新刊が出ていたら、源氏物語を読む暇がなくなっちゃうじゃないか。

昔の偉大なる天才的著作家を論じた書物が、次々とあらわれている。主題として選ばれる著作家は時によってさまざまである。ところで一般読者は、このような雑書を読むが、肝心の著作家その人が書いたものは読まない。それというのも新刊書だけを読もうとするからである。「類は友を呼ぶ」という諺のように、現代の浅薄人種がたたく悲壮陳腐な無駄口が、偉大なる天才の生んだ思想よりも読者に近いからである。

ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳『読書について 他二編』岩波文庫、pp. 134-135

2009-03-30

枕草子[能因本]

例の大工の食事の話は、枕草子の能因本に含まれているもので、三巻本には存在しない段だということを以前コメントで教えていただいた。運良く、能因本を底本とする小学館の「日本古典文学全集」版『枕草子』は地元の図書館に架蔵されてました。(小学館はその後刊行された「新日本古典文学全集」では三巻本底本に切り替えられている。)

さて、最近、笠間書院から能因本を底本とした新しい枕草子が出てるのを見つけた。笠間文庫「原文&現代語訳シリーズ」松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』(2008年)である。校訂者は日本古典文学全集と同じ方々で、日本古典文学全集版の「後継版」といえる。

「『三巻本』が一般化され『能因本』のテキストの入手がやや困難となっている現状を鑑み、ここに同じく能因本を底本とする『完訳 日本の古典「枕草子」一・二』を一冊とし、本書を刊行した次第である」と、日本古典文学全集での能因本収録にあたっての解説とほぼ同じ主旨のことが書かれているのがおもしろい。

日本古典文学全集にあった解説、年表、関係系図も収録されている。日本古典文学全集には絵がやたらモダンな『枕草子絵巻』も所収されていたが、これはない。「能因本には見えない、三巻本系統の章段」も入っている。

バージニア大の電子テキスト版『枕草紙』には、クレジットに Publisher として "Tokyo: Yuhodo, 1929" と書かれている。ウィキペディアの記述を信用するなら、これは「昭和四年(1929年)有朋堂刊の能因本系本文を底本とする」ものらしい。「工匠の物くふこそ」云々も入っているね。

2009-03-26

四の君の再婚

ストックが切れてしまって、一週間空いてしまった。

男君は中納言家の三の君と四の君にあてがう新しい婿を見つくろう。ちょうど筑紫(つくし)の師(そち)として太宰府に下る男性が妻に先立たれたというのを聞き、これに四の君を、ということになる。このあたりは四の君本人を蚊帳の外にして決められていく。

あれよという間に四の君との結婚が実現するが、筑紫の師はそのうち太宰府に行かなければならない。これに四の君は同行することになる。ところで四の君には十一になる娘がいる。面白の駒との子とはいえ、四の君は娘をかわいく思っている。師には先妻との間に子が幾人もいるが、そのなかに四の君が実子を連れて妻としてやってくるのはよろしくなかろうということで(四の君は継母になるわけである)、四の君は娘と別れなければならないのかと悩む。

そこで女君が出した入れ知恵が、娘を旅の心細さを慰めるために母北の方が四の君に付けたお供として同伴させるという案だった。あったまいい! とみんな感心するのだが……、そうか? 自分の娘をそれと周りに告げることもできないまま連れて行くことになる四の君は、気の毒というほかないように思う。

長々とあらすじを書いてきたけど、僕が気になったのは、それでこの三の君と四の君の離別再婚は、どういう意図で書かれてるんだろうかということだ。お話が「男君の一族が繁栄してめでたしめでたし」で終わらないことで、物語に厚みを与えるという効果は結果として出ているけど、じゃあこの後半部分はなにを描こうとして続いているのかと考えてみても、どうもぴんとこない。このあと、面白の駒と四の君は離別をほのめかす歌のやりとりをするんだけど、そこはなんだか義務的にとってつけたような感じである。源氏物語のような、男女の仲の「あはれ」を描こうとしているのかな、と一瞬思わせもするんだけど、そういうことの核心にせまるような描写には入っていかない。それで北の方がどんな憎まれ口をたたいたとかはすごくうまく書いている。なんか徹底してないんだよなあ。

第四巻にもなると、語り口は直線的牧歌的だった物語前半と比べるとずいぶん変貌していて、小説的な、各登場人物の性格がからみあって筋が進んでゆく、俗にいう「キャラが立っている」状態になってきている。それだけにこの不徹底さが気になる。「新体系」の解説にはいみじくも、「安易に男性作家であるように考えられているとしたら、確実なその証拠はどこにもないことに十分に醒めておきたいように思う (p. 409)」などと書かれているが、肝心な三の君・四の君の心理描写のところだけがすっぽり抜けているようなこの書きぶりは、やっぱり男の文章なんじゃないのかな。

2009-03-12

三の君の離縁

まず三の君について。

三の君にはもともと蔵人少将という夫がいた。蔵人少将は豪胆な性格の男で、中納言家でも彼を誇りにしていたようなのだが、やがて三の君と疎遠になっていく。といっても、そこはそんなにしんみりした話じゃなくて、ひとつには四の君が面白の駒を夫に迎えたのを知って嫌になったこと(普段馬鹿にしていた男と親戚になってしまった)、それから左大臣家の娘(男君の妹)とのいい話が出てきて、家運の傾いた中納言家よりはとそっちに鞍替えしてしまったことが原因である。だから三の君は男君の差し金で蔵人少将を奪われたようなものである。

そういうわけで蔵人少将が三の君から離れていくことは中納言家の権勢が衰えていくその一環として語られているわけだが、法華八講が終わった場面で、このふたりの離縁が決定的になるというくだりが語られる。

蔵人少将はこの場面では中納言になっている(こういうときほんとややこしい)。

三の君、中納言を、けふやけふやと思ひいで給ふに、さもあらでやみぬ。いみじう心うしと思ひいづるたましひや行きてそそのかしけん、こと果てて出で給ふに、しばし立ち止まりて、左衛門佐《さゑもんのすけ》のあるを呼び給ひて、

「などか疎くは見る。」

とのたまへば、佐、

「などてかむつましからん。」

といらふれば、

「むかしは忘れたるか。いかにぞ。おはすや。」

とのたまへば、

「たれ。」

と聞こゆれば、

「たれをかわれは聞こえん。三の君と聞こえしよ。」

とのたまへば、

「知らず。侍りやすらん。」

といらふれば、

「かく聞こえよ。
  いにしへにたがはぬ君が宿見れば恋しき事も変らざりけり
とぞ。世の中は。」

と言ひていで給へば、佐、返りことをだに聞かんとおぼせかしと、なごりなくもある御心かな、と見る。入りて、

「かうかうの給ひていで給ひぬ。」

と語れば、三の君、しばし立ち止まり給へかし、中々何しにおとづれ給ひつらんと、いと心うしと思ひて、返事言ふべきにしあらねばさてやみぬ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 227-229、一部表記を改める。)

拙訳。

三の君は中納言のことを「あるいは今日はいらっしゃるかも」とたびたび思い出すのだったが、それが現実になることはなかった。つらく思う魂がさまよい出でて中納言をそそのかしでもしたのだろうか、八講が終わり退出するところに左衛門佐がいるのを見つけた中納言は、声をかけてみる気を起こした。

「おい、そんな赤の他人のような目で見なくてもいいだろう」

そう言うと左衛門佐は、

「ほかにどんな目で見ろというんです」

とつっぱねる。

「昔を忘れたのか。どうだ、達者でいらっしゃるか?」

「誰がです」

「誰って決まっているだろう、三の君と申したお方よ」

「どうでしょうね、あるいはそうかもしれませんね」

「こう申し上げよ。
  いにしへにたがはぬ君が宿見れば恋しき事も変らざりけり」

そう言って、中納言は「世の中は」とうそぶきながら去っていった。左衛門佐は中納言の未練のなさに、返事を聞く気くらい見せたらどうかと思うのだった。帰ってそのことを伝えると、三の君は、いらしてくれたらよかったのに、そうしないのなら、どうしてなまじ声などおかけになったのかと、ふさがる思いがして返事をすることもできなかった。

左衛門佐というのは女君の父中納言家の三男つまり三の君の弟である(物語の始めの頃はまだ子供だった)。だから姉を見捨てたこの中納言(蔵人少将)を快く思っていない。それでこういう緊張したやりとりになっている。三の君との歌のやりとりとかにしないところが小説的でうまいと思う。

中納言の去り際のせりふ、「世の中は」というのは注によれば古今集・雑下「世の中はいづれかさしてわがならむ行きとまるをぞ宿と定むる」(詠み人知らず)による。三の君の宿も恋しいことは恋しいが、俺は俺が行くところを宿にしていくんだからね、というわけで、なんの未練もないことがわかる。新大系ではこの場面に「以上の場面は中納言と三の君との関係が離婚状態から離婚の確認へ進み、完全に切れたことを示す」とわざわざ注を付けている。

いい場面なんだけど、全般的にあっけらかんとした落窪物語全体からすると、なんだかここだけしんみりしていてちょっと異質である。

2009-03-09

持ち運びやすさ

源氏物語を読むために新大系のを買ったんだけど、わかってはいたもののこれけっこうかさばる。

今まで古文を読むのにはほとんど岩波文庫を使ってて(訳文がなくて薄いところがいい)、それと小学館の『ポケットプログレッシブ全訳古語例解辞典』を持ち歩いて、出先でちょくちょく開いては覚え書きをその都度文庫本に書き込むというやり方でやってきた。このやり方に馴染んでしまったので、大きい版の本だとちょっと勝手が違って困ってしまう。

落窪物語は新大系で読んだけど、これは家だけで読み進めた珍しい部類に入る(その間も「お出かけ用」に『土佐日記』の文庫本を読んだりしてた)。図書館で借りた本だというのもあるけど。源氏はどうしよう。家だけだとなかなか進まないからなあ。

やっぱり岩波文庫にするかとも思ったんだけど、岩波文庫のは底本が(今となっては)あんまりよくなさそうだったし、なにより注がない。さすがにそれは無理なので却下。角川文庫のが青表紙本系で、文庫ならこれかなと思い、一冊買ってしばらく持ち歩いてみた。そんなわけで「桐壺」は角川文庫と新大系とをちゃんぽんで読み進んでいた。

結果、そんなに悪くないんだけど、角川文庫のは字が小さくて詰め込み気味なので、書き込みの余白があんまりないのがやりにくい。それと句読点の打ち方が、新大系の方が適切に打ってあるような「気がする」。スペースの都合や発行年から、注も新大系のほうが詳しい。かたや角川文庫のメリットは、持ち運ぶのに便利だというくらいだ。

新大系を物語の巻ごとにコピーして持ち歩くのも考えた(し、実際にふたつほどやってみた)が、全巻やったらいくらかかるんだと思うとちょっとおそろしい。あ、前にページ数数えたことあったんだった。あとでここにも載せよう。合計 2,134 ページある。見開きでコピーして、一枚 10 円なら 10,670 円か……意外とたいしたことないな。手間さえ惜しまなければこれでもいいかな。もう新大系そのまま持ち歩いてもいいかとも思い始めてるけど。

2009-03-05

三条殿での父娘対面

中納言家は、もとは女君の母親の家の所有であった三条殿を改築してそこへ引越すことにする。女君がいなくなってしまった今その領有権は父中納言にあると考えての行動だったが、じつは女君はその土地の領有権を示す「券」をちゃんと大事に持っていた。男君はこれを利用して中納言家の引越の直前に三条殿を乗っ取ってしまうという仕返しを思いつく。これが中納言家への復讐のクライマックスである。

中納言家から侍女たちを引き抜いたり、新しい三条殿で中納言家方が引越の準備をしているところに男君の家司(けいし。「権門家の家務を取り仕切る職員」p.188)たちが現れて「ここは雑色の控えの間とする」とか勝手に決め出し、中納言家方の男たちがあっけにとられたりする場面などが見どころなんだけど、もういちいち引用はしないよ。なりゆきでそうしちゃったけど、ここは古典のあらすじをダイジェストで紹介みたいな便利ブログじゃないんだ。引用するのは僕がおもしろいと思ったとこだけ! あとは自分で読め!

いろいろあった末、その三条殿に中納言らを呼び寄せ、男君は事情をすべて明らかにする。自分の妻はかつての「おちくぼの君」であること、北の方をこらしめるために今までそれを伏せていたことなどを語る。父中納言は女君とその子供たちに対面もする (p. 210)。その後、北の方も女君と対面することになるが、力関係が逆転してしまったその再会の場面は滑稽である (p. 222)。男君のほうはいまや大納言なのだ。

さて父娘が再会してめでたしめでたしで終わるかというと、そうではない。あれだけ中納言家にひどい目を見せてきて、「じつはあなたの娘だったんです」と明かしただけで終わっちゃったらただのドッキリだ。男君がかねて言っていた通り、仕返しのあとはそれを上回る孝行で父中納言に報いるのである。年老いた中納言への最大の孝行として男君・女君のふたりが考えたのは、法華八講であった (p. 220)。

もちろん、法華八講を開催できるということ自体が、現在の男君の権勢の大きさを示してもいる。

これでようやくめでたしというところなのだが、じつはまだいくつかのエピソードが残されている。それは中納言家三の君・四の君の後日譚である。

ああもう、そういうんじゃないと言っておきながら今日は結局あらすじで終わってしまった。

2009-03-02

このように出来上った物語世界の固定したイメージを与えることにより情景描写をしていて、現実と自分の世界とを対話させ、そこから表現を作ることをしていない。つまり自然に対する描写というよりは、物語の情景描写は、「かくあるべきだ」という物語自身の表現様式の上に立って情景を描写しているわけである。要するに物語が物語自身を対象とするようになったわけで、この物語至上主義とでもいうべき考え方によって、狭衣物語の作者は、「あはれ」の世界の中で、その最高の美を「心探し」という言葉によって物語の中で追求して行ったのである。こうして「女房による女房の文学」は自己確認の表現として、自分の中からその心の深さを見出したわけである。しかし、そうした物語至上主義は自然と自己との対話によって生まれた源氏物語とは異り、その基盤は弱く、多くは類型化し、崩壊して行く。つまり狭衣物語は源氏物語の生んだ世界を確認すると同時に、物語と作者の主体とを自己目的化することによって、物語の滅亡の端緒を開いているのである。物語の崩壊については、主としてその類型化という地点において、『物語文学史論』に述べておいたので、出来たら参照して欲しい。

(三谷栄一『物語文学の世界 増補版』有精堂出版、1978年)

2009-02-26

典薬助を蹴る

賀茂の祭り見物での車争い。中納言家北の方一行の車が場所取りの杭を打っていたところ、その向かいに男君一行の車が陣取る。男君は「向かいの車は邪魔なのでちょっとどけさせろ」と命じる。理不尽な要求に憤って出てきたのは、あの典薬助であった。

「けふのことはもはらなさけなくはせらるまじ。打ちくひ打ちたる方に立てたらばこそさもしたまはめ、向かひに立てたる車をかくするはなぞ。のちの事思ひてせよ。またせん。」
としれものは言へば、衛門の尉《じょう》(=帯刀)、典薬と見て、としごろくやつにあはんと思ふにうれし、と思ふに、君(=男君)も典薬と見給ひて、
「これなり、それはいかに言はするぞ。」
とのたまへば、心得て、はやる雑色《ざふしき》どもに目をくはすれば、走り寄るに、
「『のちのことを思ひてせよ』と翁《おきな》の言ふに、殿をばいかにしたてまつらんぞ。」
とて、長扇《ながあふぎ》をさし遣りて、かうぶりをはくと打ち落としつ。もとゞりは塵《ちり》ばかりにて、ひたひははげ入りてつやつやと見ゆれば、物見る人にゆすりてはらはる。翁袖をかづきてまどひ入るに、さと寄りて一足《ひとあし》づつ蹴る。
「のちの事いかでぞある、いかでぞある。」

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、p. 178、一部表記を改める。)

「しれものは~」という表現は、枕草子にもあった。「うへにさぶらふ御猫は」の段。「『翁丸、いづら。命婦のおとどくへ』といふに、まことかとて、しれものははしりかかりたれば」云々(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 30)。「愚かにも」といったような意味合いの慣用表現だったのだろうか。

「それはいかに言はするぞ」は、「お前(=これなり)はどうしてそんなことを言わせておくのだ(=どうにかしろ)」ということ?

さて後日、あんまりなこの騒ぎには男君の父である右大臣も眉をひそめ、女君(=おちくぼの君)も快く思わない。ただ衛門(=あこき)だけがかつての怨恨を晴らしたとばかりに嬉々としている。ここは女君と衛門との温度差がちょっと問題になっている雰囲気なんだけど(p. 182、女君が衛門に「そんなふうならあなたはもうわたしじゃなくて男君の侍女になっておしまいなさい」と言い、衛門も売り言葉に買い言葉めいたことを言う)、それがその後べつにどうという話に展開していくわけでもない。このやりとりは、二人の性格を対照的に示すことを意図した、幼なじみの主従の間柄だからできるきわどい冗談ということなのか。

2009-02-23

端原氏系図及城下絵図

本居宣長には、「端原氏系図及城下絵図(はしはらしけいずおよびじょうかえず)」という著作がある。19歳の彼の手による、架空の系図および絵図で、端原家なる一族についての分家や幼名、所領、叙任、さらに年号などまでを創作している(本居宣長記念館編『本居宣長事典』東京堂出版、2001年、p. 64)。

「全集」別巻三の解説は宣長の物語構想説に否定的であるという。しかし若き日に源氏のような物語を書こうとこころざしていたとすると、いろいろ想像を巡らせたくなる話じゃないか。同じ頃の著作として「源氏物語覚書」がある。僕は物語をやろうとしてたと思うね。

宣長には「乙女ノリ」とでも呼べるようなものがあると最近思うのだ。変な言い方だけど、彼は紫式部・清少納言になりたかったのではないのかな。

2009-02-19

サンデー的ラブコメ

女君と一緒になって毎日が楽しい男君。

「いといみじき事かな。げにいかにいみじうおぼえ給ふらん。」
など語らひ給ふほどに、中将の君、うちよりいといたう酔ひまかでたまへり。
いと赤らかにきよげにておはして、
「御遊びに召されてこれかれにしいられつる、いとこそ苦しかりつれ。笛仕うまつりて、御ぞかづけ事侍り。」
とて持ておはしたり。ゆるし色のいみじくかうばしきを、
「君にかづけたてまつらん。」
とて、女君にうちかづけ給へば、
「何の禄ならん。」
とてわらひ給ふ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 158-159)

さて帯刀の母は男君の乳母である。乳母としては男君にはおちくぼの君などという素性の知れない女よりはもっと由緒正しい妻を持ってほしいと考え、時の右大臣の娘との縁談を勝手に進めてしまう。衛門(=あこき)は人の噂から初めてその話を知る。

「君は右大臣殿の婿になり給ふべかなり。この殿に知り給へりや。」
といへば、衛門、あさましと思ひて、
「まださるけしきも聞こえず。たしかなる事か。」
と言へば、
「まことに、四月にとていそぎ給ふ物を。」

(同書、p. 160)

衛門から男君の縁談を聞いた女君(=おちくぼの君)の心はふさがる。しかし当人から直接聞いた話でもないので、面と向かってこちらから切り出すこともできない。ラブコメ的誤解の王道。男君は女君の様子が変わってしまったことに戸惑う。

中将、殿にまゐりて、いとおもしろき梅のありけるををりて、 「これ見たまへ。世のつねになん似ぬ。御けしきもこれになぐさみ給へ。」 と言ふ。女君、たゞかく聞こえ給ふ。

 うきふしにあひ見ることはなけれども人の心の花は猶うし

(同書、p. 163)

しかしやがて乳母の仕業が明らかになり、男君は女君の誤解を知る。

中将の君は、女君の例のやうならず思ひたるはこの事聞きたるなめり、とおぼしぬ。二条におはして、
「御心のゆかぬ罪を聞き明きらめつるこそうれしけれ。」
女、
「何ごとぞ。」
「右の大殿(おほいどの)の事なりけりな。」
とのたまへば、女、
「そらごと。」
とてほゝ笑みてゐ給へれば、

(同書、p. 168)

よかったですね。

ここはとくに言うことはなし。

2009-02-16

大野 薫と匂という名前は、「薫中将」「匂兵部卿」としては、はじめて「匂宮」の巻に見え、「竹河」にも「薫中将」がありますが、「匂う」も「かおる」も夜の世界、闇の中で感じられるもの、ということが作者のイメージの中にあったんではないか。  もう一つは、この話が「宇治(ウヂ)」で展開しているということです。これは、いろんな人が「憂し(ウシ)」の「憂」と関係があると言っています。「ウヂ」と「ウシ」だけを比較することもできますが、「ウヂ」の「ヂ」は「路(ミチ)」という意味があります。だからこれは「憂路(つまり憂き路)」と考えることができる。作者はそれを連想しながらこの話のバックとしたんじゃないか。宇治は「憂路」なんだというわけですね。  そういうことで、ここからの物語の世界は、光が死んでしまったあとの、光のない暗い世界です。女にとって男との間に幸せはないのだということ。それが正面の主題に据えられてくる。作者はまったく新しくここで想を練って展開を考えたと思うんです。

丸谷 人名、地名などが小説においてどういう機能をなすかという問題がありましてね。ロシア文学の江川卓さんがドストエフスキー論のなかで『カラマーゾフの兄弟』の「カラマーゾフ」という苗字はどういう意味をもつか、いろいろ探っています。私は、これは非常に面白いと思うんです。作中人物の顔立ちはいくら詳しく描写されてもよくわからない場合がある。ところが、姓名というのは実にはっきりと迫るんですよ。

大野 意味をもっていますからね。

丸谷 そうです。まずその連想によって、われわれは作中人物と付き合うということがありますね。  ところが、現実のわれわれの日常生活において、姓名によってその人間を意識するということはめったにない。小説ないし文学作品と日常生活とは非常に違うんです。ですからわれわれの日常体験をそのまま文学作品の中に当てはめるわけにはいかないんです。大岡昇平さんの『武蔵野夫人』で二人の恋人が歩いている。すると、そこの地名が「恋が窪」だと気づいて愕然とし、それが恋愛心理に作用するという場面がある。それを読者は納得するんです。

(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語』下巻、中央公論社、p. 231)

2009-02-12

枕草子、大工の食事

この話は別の所でしたことがあるんだけど、ここに書くのは初めてなので最初から書こう。

『日本料理の歴史』という本に、枕草子にある話としてこんなことが書いてある。

清少納言の『枕草子』に大工たちの食事を描写したところがある。彼らは食べ物が運ばれてくるのを今や遅しと待ちうけていて、汁物がくると、みな飲んでしまい、空になった土器を置いてしまう。次におかずがくると、これもみな食べてしまってもうご飯はいらないのかと思っていると、ご飯もあとからくるとまたすぐなくなってしまった、といって「いとあやしけれ」というわけである。汁と飯、お菜と飯とを交互に食べていくのが今も続く和食の食べ方だが、お腹のすいた大工には、そんな作法は関係なかったようである。

『枕草子』の記事では、大工の食事がどの時間のものであったかわからない。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 40-41

ふーん、おもしろい、と思うでしょ。自分もそう思った。だけどこの本を読んでいたときは、まだ枕草子は途中だったから、あとでこういう話が出てくるんだな、と思うくらいで読み流した。

ところが読み終わってみると、こんな話、枕草子のどこにもなかったのだ。これはいったいどうしたことか。活字になっている本に出てるならその出典か、あるいはせめて原文の引用でもあればよかったんだけど、それもない。しかたなくこれは僕の中でずっと謎のままになっていて、あるいは『徒然草』か何か、別の文献からの引き間違いかとも思うようになっていた。

これが去年までの話。

しかし最近になって、『玉勝間』にこんなことが書かれているのを見つけた。

又、いはゆる菜をば、昔はあはせといへり、清少納言枕册子などに見ゆ、

本居宣長『玉勝間』岩波文庫、p. 221

この「あはせ」というのは、古語辞典には「飯にそえるもの。おかず。副食物」として載っている(旺文社『全訳古語辞典』第三版)。しかし岩波文庫版の枕草子におかずのこととして「あはせ」という語が出ていたという記憶がない。というか、おかずがどうこうとか、そういうことを書いた段があったという記憶がない。

ひょっとするとこれが『日本料理の歴史』に出ていた大工の食事の段なんだろうか。底本によって段の異同があるから、そのひとつなのかもしれない。引き続き要調査。

2009-02-09

面白の駒 (2)

話が前後してしまい申し訳ないんだけど、面白の駒の話のところがけっこう読み応えあっておもしろいのでもうちょっと紹介。面白の駒も気の毒なんだけど、後々の展開を見るに、はるかに可哀想なのはむしろそれを押し当てられた四の君だ。

中納言家四の君のもとに三夜続けて男が通い(当時それが結婚の成立を意味した)、いよいよ親戚一同に新婿のお披露目というところ。

三夜目、中納言や、三の君の夫である蔵人の少将がお祝いのもてなしをしようと男を呼んでみると、その男は面白の駒(兵部の少)であった。ショックを受ける中納言。蔵人の少将などは普段から内裏で面白の駒をからかっていたような男だったから、遠慮もなくげらげらと笑い出す始末である。せっかく用意した宴の席もしらけてしまうが、空気の読めない面白の駒はさっさと四の君の寝所へと乗り込んでいく。

朝、邸の侍女たちも相手が面白の駒とわかると、だれがあんな男にとばかりにまるで世話をしない。それで兵部の少と四の君はいつまでたっても寝所で放置されている。そうして日は高くなり、四の君は寝所に伏したまま、そこで初めて自分が一緒になった異形の男をまざまざと目にするわけである。

恐れをなして寝所を這うように抜け出す四の君に母北の方が駆け寄る。北の方は(男君が兵部の少にした入れ知恵のせいで)娘が本人の意志で面白の駒と付き合ったと思いこんでいるから、どうしてなにも言わないで自分たちに派手なお披露目なんてさせたのかと四の君を責める。男の顔さえいま知ったばかりの四の君はわけもわからず泣くことしかできない。かわいそうだよなあ。

とはいえここは、気弱な中納言、癇癪持ちの北の方、豪胆な蔵人の少将、泣き虫の四の君(そしておめでたい面白の駒)と、各人物の性格が際だっていてうまいところだと思う。長いので引用はしないけど、生き生きとした描写。

さてその後。

夕さり来たるに、四の君泣きてさらにいで給はねば、おとど腹立ち給ひて、

「かくおぼえたまひけん物をば、何しかはしのびては呼び寄せ給ひし。人の知りぬるからにかく言ふは、親、はらからに二方に恥を見せたまはんとや」

と添ひゐて責め給へば、いみじうわびしながら泣く泣く出で給ひぬ。少、泣き給ふをあやしと思ひけれど、物も言はで臥しぬ。

かくをんなもわびしと思ひわび、北の方も取り放ちてんとまどひ給へど、おとどのかくの給ふにつつみて、出で給ふ夜、出で給はぬ夜ありけるに、宿世《すくせ》心憂かりけることは、いつしかとつはり給へば、

「いかでと産《む》ませんと思ふ少将の君の子は出で来で、このしれものの広ごること」

とのたまふを、四の君ことわりにて、いかで死なんと思ふ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、p. 140、一部表記を改める。)

拙訳。

(兵部の少が)夕方またやって来たものの、四の君は泣いて姿をお見せにならない。父中納言殿がご立腹のあまり四の君の側まで来て

「それほど嫌うような男をどうしてひそかに通わせなどしていたのだ。世間に知られた途端にそんなだだをこねるとは、親兄弟に恥をかかせるおつもりか」

と強く説得なさってようやく、肩を落としたまま泣く泣くお相手に向かわれた。兵部の少は四の君が泣いているのを不思議に思いはしたものの、これといって声をかけることもなく黙って寝所に臥し入った。

こうして四の君は思い沈み、北の方もなんとか別れさせようとあれこれ思い悩み、父中納言殿の言いつけに従ってお相手をする夜もあったが、あれこれ言い繕って姿を見せなかったりもした。しかしなんの宿世であろうか、四の君ははやくも身重の体となっていた。

「どうにかと願った少将の君の子を賜るどころか、この痴れ者の子を持とうとは」

と中納言殿が嘆くのを聞き、四の君は早く死んでしまいたいと思うのであった。

男君は「あとで俺がちゃんと面倒を見るから」とか言っているが、じつはそのフォローは超やっつけである。物語の最後になっても四の君は不憫な目にしか遭わない。脇役だけにそれが顧みられることもなく、ある意味この物語でいちばん可哀想な人かもしれない。それについては後述したい。

2009-02-05

『古代日本語文法』

すでに引用したことがあるけど、『古代日本語文法』という本について紹介しておきたい。

この本は古文の文法書で、冒頭の「はしがき」によれば「現代語の記述文法の枠組みで、古代語文法を記述している」のが特色だという。そもそも他の文法書をあまり読んでないので、それによって同書がどの程度際だっているのかは、僕は知らない。それはそれとして、古文の「語」ではなくて「用法」について広く解説してあるので、古語辞典の補助として使えます。

単語がわからないのは辞書引けばいいからあんまり大したことじゃなくて、用法がわからないほうがじつはいかんともしがたい。先日の「遅く~する」がいい例。それに古文の難解な個所というのはたいてい単語はそんなに難しくなくて、どうして、どういう意味で、そういう言葉遣いになっているのかというところが難しい。なかんずく助詞と助動詞。僕はそういうときはまず岩波古語辞典の「基本助動詞・助詞解説」をひたすら読み返す、それでもぴんとこなかったらこの本で該当する解説がないか探す、というのがパターンになっている。

僕がこの本でいいと思ったところは、古典の文法について、現在までにわかっていることだけでなく、わかっていないことまで書かれているという点。

たとえば、古文の基本である係り結びについて。僕が高校で係り結びについて教わったのは、まず、コソが表れたら已然形で終わるとかの形式上のルール、それからそれらが意味としては「強調」だということくらいだった。まあこれはこれで「教えてる」ことにはなるのかもしれない。さて、同書の係り結びの節はこうだ。

係り結びは、その頻度からみて、古代語の構文上、かなり本質的な役割を担っていたであろうと思われますが、その役割については今のところ不明です。また、(1a) ~ (1c) の間に、どのような表現価値の差があるのかについても、まだよくわかっていません。

(1)a 木の間より花とみるまで降りける(古今331)
b なむいみじう降る」と言ふなり。(蜻蛉)
c 妻戸押し開けて、「こそ降りたりけれ」と言ふほどに(蜻蛉)

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007年、p. 187)

「今のところ不明です」「まだよくわかっていません」だよ。このあけすけな誠実さを見よ。でも、こういうふうにはっきり言ってもらったほうが、自分はそのことについてよく考えてみようという気になる。

もともと古文を読み始めた頃から、僕は「コソ+已然形も強調、ゾ+連体形も強調、シも強調、シモも強調って、じゃあそれぞれの強調の表現は互いに交換可能なのか?」と言っていた(英語学習でやる強調構文の書き換え演習が念頭にあって)。この本を読んでそういう疑問の持ち方が支持された気持ちもした。やっぱり自分の頭で考えないと。

「よくわからない」と感じた部分こそ大事だということと、それについて考えるための方法論について、世の中の教科書はもっと重視したほうがいいね。高校の頃に見た教科書は、いってみればなんでもわかっているふりをしていたわけで。

話がそれた。あと、この本では今世紀に入ってからの新しい研究成果を取り入れているのも特徴。大野晋とか、おもしろいんだけど、やっぱり新しくても90年代なので、その後の進展も知りたい。現在の研究状況を概観するのにもいいかと。いや、僕は研究しないから他の方々にとってということでね。

文法事項ごとの解説の集積なので、頭から順番に読んでいく読みものにはならないけど、リファレンスとして脇に置いておくのにはいいです。今後も何度か引用すると思う。

さて、じつは以前この本からの引用を載せたとき、著者である小田氏からホームページ経由でコメントをいただいてしまった。ここがインターネットだということを忘れていたぜ。もとは大学用のテキストとして書かれた本だったそうです。また内容を増強した一般向けの「詳説版」も来年秋(「今年」の間違いじゃなければ、ずいぶん先の話だ)に出されるとのこと(こんなところに書いても宣伝にはならないけれど)。

2009-02-02

第二には、つねに実証的に、実例に即して考察することを重んじる。実例に即すとは、つねに上代、平安から鎌倉に及ぶそれぞれの時代の具体的な例、場合によっては現代に及ぶ実例を検討し、それによって考察を進めることである。こうした実例を重んじる研究の方法は、言語の史的研究においては何も係助詞の研究に限ることではないが、ことに係り結びの研究ではそれが必要である。なぜなら、係り結びという事象は、奈良時代においては極めて顕著であるが、平安時代になると少しずつではあるが変化が進行し、室町時代になるとハなど一部を除いては古典語が持っていた体系としては全体として消滅した。したがってそのような時代的変化の顕著な現象を対象として行う研究は、最も古い時代の状態、次の時代の状態、さらに次の時代の状態という具合に、変化の跡を忠実に追っていかなくてはならない。係り結びということの本質的部分を明確にするためには、ことに最古の時代の状態を明確に把握することが是非必要である。それには、万葉集や続日本紀宣命などの用例を精しく見て、それに対して綿密な考察を加えなければならない。私は本書においてそれに最も力を注いだ。

奈良時代の例を精査せずに平安時代の用例だけを材料としてコソやナムやヤの本質に関して推論し、判断を下すならば、コソの用法が奈良時代と平安時代との間で大きな差異を生じたことが分からないだろう。奈良時代の例を見ずに、平安時代の例を見ただけでは到底コソの本質的な用法を把握することはできない。またもっぱら源氏物語の用例を中心にして係助詞ナムやヤを研究して、続日本紀宣命や万葉集の用法との比較対象を加えないならば、係り結びの本質を把握することは困難だろう。なぜなら係助詞は、平安時代にすでに用法上も曖昧なものが増加していて、口語の世界では鎌倉時代以後になると性質が希薄になり、その用例も減る。その頃の例についてはさまざまな解釈が可能になることが少なくない。だから、平安時代以後の限られた実例だけに目を向けて係助詞全体の本質を論じるならば、誤った結論に至ることを、本書は示すだろう。

極端な例ではあるが、係助詞ハの役割を考えるにあたっても、古典の文例を分析せず現代語ばかりを対象として考察していたのでは、その本質を把握するのは難しい。なぜなら現代語ではハとガとが構文上対立的な役割を演じているが、古典語にはハと並ぶ助詞モと助詞ゼロの形式とがあった。

  梅は 咲きにけり(千載四六八)
  花も 咲きにけり(詞花四〇二)
  花  咲きにけり(古今二一八)

このようなハとモと助詞ゼロとの三つがそれぞれ文構成上どんな役割を果たしているかを深く考えてはじめて、係助詞の中にハとモとがある意味が理解される。これら三つについて深い考慮を加えずに、日本語の文の構成法あるいは係り結びの本質をとらえようとしてもそれは難しいことである。

(大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年、pp. 14-17)

2009-01-29

従者の投石

男君の仕返しの続き。

男君一行が清水(きよみづ)詣でに出かけたところ、偶然中納言家北の方一行の乗る車(牛車のことね)に遭遇する。いやがらせの機会を逃さない男みちより。

「中納言殿の北の方しのびてまうで給へるに。」
と言ふに、中将(男君)、うれしくまうであひにけり、と下(した)にをかしくおぼえて、
「をのこども、「さきなる車とく遣れ」と言へ。さるまじうはかたはらに引き遣らせよ。」
とのたまへば、御前(ごぜん)の人々、
「牛よわげに侍らば、えさきにのぼり侍らじ。かたはらに引き遣りてこの御車を過ぐせ。」
と言へば、中将、
「牛よわくは面白の駒にかけ給へ。」
とのたまふ声、いとあいぎやうづきてよしあり。車にほの聞きて、
「あなわびし。たれならん。」
とわびまどふ。なほさきに立ちて遣れば、中将殿の人々、
「え引き遣らぬ、なぞ。」
とてたぶてを投ぐれば、中納言殿の人々腹立ちて、
「ことと言へば、大将殿ばらのやうに。中納言殿の御車ぞ。はやう打てかし。」
と言ふに、この御供(とも)のざふしきどもは、
「中納言殿にもおづる人ぞあらん。」
とて、たぶてを雨の降るやうに車に投げかけて、かたやぶに集まりておし遣りつ。御車どもさき立てつ。御前よりはじめて人いと多くて打ちあふべくもあらねば、かたを堀に押しつめられて、ものも言はである、
「なかなかむとくなるわざかな。」
と、いらへしたるをのこどもを言ふ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 146-147、一部表記を改める。)

拙訳。

「中納言殿の北の方が、お忍びでお参りにいらしているのです」
と言うので、中将殿はこれはいいところで出会ったとほくそ笑み、
「おまえたち、前の車をもっと急がせろ。言うことを聞かなかったら横にどかせてこの車を通させるんだ」
と命令する。そこで従者たちが、
「牛が疲れていては前にいられまい。傍らによせて我らの車を先に通せ」
と言うと、中将殿は続けて
「牛が疲れたのなら面白の駒に引かせなされ」
と声をおかけになった。いい声である。北の方は車の中でその声を聞き、
「なんとひどい、誰であるぞ」
とうろたえている。それでもそのまま車を進めていると、中将方の者たちは
「どけないというのか」
と言って石を投げつけてきた。中納言方の男たちはこれに憤り、
「なにかにつけて大将様のようにしやがって、中納言殿のお車ぞ。やれるものならやってみろ」
と言うが、中将のお供の雑色たちは、
「中納言殿にも怖い人はあろう」
といって石を雨の降るように車に投げかけ、中納言方の車を脇に押しやり、とうとう中将殿の車を通させてしまった。多勢に無勢で太刀打ちできず、車の片側は堀に押し込まれ、中納言方の男たちはものも言わずに固まっている。中将殿の従者たちはそれを見て
「だまって通せばよかったものを」
と言いながら通り過ぎていく。

しかしひどい罵倒だ。自分が仕掛けたくせに。いい声である、じゃないよな。

車争いといえば源氏物語のが有名だけど、ここでは石が飛んでいる。こうした光景はただお話の中だけではなかったらしい。『殴り合う貴族たち』(2005年)という本に、平安時代の貴族の従者たちが他の貴族の車に石を投げたことについての記述がある。

そして、その行列見物の場で事件が起きた。藤原実資の『小右記』によれば、永延元年(九八七)の四月十七日、その月の二度目の酉日のことであった。

三十三歳の右近中将藤原道綱は、いつものように賀茂祭使の行列を見物しようと、この日も牛車に乗って出かけた。その車には二十二祭の左少将藤原道長が同乗していたが、二人の向かった先は、やはり、祭使の行列が賀茂川に向かって東進する一条大路あたりであったろうか。

もちろん、この日に行列見物に出ていたのは、道綱・道長の二人だけではなかった。二人が向かった先にはすでに右大臣藤原為光が大勢の従者たちを引き連れて到着しており、その一行によって見物に都合のよい場所は占拠されてしまっていた。

そのため、道綱・道長の乗る牛車は、他によさそうな場所を探そうと、為光の乗る牛車の前を横切った。そこが一条大路であったとすれば、為光一行の占めていた場所よりもさらに東へ行って見物しようとしたのかもしれない。

が、これがまずかった。

道綱・道長の牛車が為光の牛車の前を横切るや、為光の連れていた大勢の従者たちが、そこいらに落ちている石を拾って道綱・道長の牛車に投げつけてきたのである。右大臣ともなれば、その外出時に率いる従者の数は二十や三十には及んでいただろう。その従者たちがいっせいに石を投げつけてきたのである。これは甚だしい狼藉であり、道綱・道長の二人は、かなり肝を冷やしたに違いない。おそらく、そのあとはもう行列見物を楽しむどころではなかっただろう。

(繁田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年、pp. 59-61)

この、従者たちが石を投げるというのは平安朝ではひじょうに一般的なことだったらしい。同書には、当時平安京では大臣の家の前を通るときには車を降りて通らねばならなかったこととか、それを怠ると邸から激しい投石を浴びせられたといった話も紹介されている(pp. 120-122)。なんかそういうゲームが作れそうだな。

この投石は、当の大臣たちというよりもむしろその従者たちの習慣だったようだ。

王朝貴族たちに仕えた従者にしてみれば、自分の主人の権威は、高ければ高いほどよかったに違いない。主人の権威が高ければ、それだけ自分の格も上がるというものだ。それゆえ、彼らは、主人に無礼を働いてその権威を貶めるような者があれば、自らの手でその無礼者に制裁を加え、主人の権威を知らしめようとしたのではないだろうか。

(同書、p. 123)

おもしろい。僕はこの従者の投石の話がけっこう気に入ってるのよ。

同書は平安時代の血なまぐさくも人間的な側面を知ることができて楽しい本だ。古文を読み始めてからも、僕はあんまり「雅な王朝文化!」みたいなのには惹かれてなかったんだけど、そういう先入観は一面的なものだということがこれを読めばわかる。まあはじめから平安時代の雅やかなほうに憧れてきたという人はこれで平安時代が好きじゃなくなるかもしれないけどね。

2009-01-26

東野炎立所見而

ここでは基本的に平安時代の古文を扱うことにしてるので、万葉集は対象外なんだけど、まあ番外ということで。

年末年始に実家に帰って、テレビを久しぶりに見た。NHKでは年始に檀ふみが万葉集の歌を紹介する番組をやっていた。いいね、とばかりにそれをだらだら見ていたら、有名なあの歌がやっぱり出てきた。

東《ひむがし》の野にかぎろひの立つ見えて返《かへ》り見すれば月傾《かたぶ》きぬ

ここは「雄大ですなあ」とか、まあそんなことを言うところか。けど、この歌はどうやら本当はこういう歌ではなかったことがほぼ確実だという。

どういうことかというと、『万葉歌を解読する』(2004年)という本にこんなことが書いてある。

しかし、専門的な立場から見れば、人麻呂が詠んだのは本当に「東の野にかぎろひの立つ見えて…」というような表現を持つ歌なのかどうか、大いに疑問である。したがって、この歌に対する右のような解釈が妥当なものなのかどうかも疑わしい、ということになる。右にあげたのは一般に採用されている訓にすぎず、また口語訳もそれに基づいたものにすぎない。こう言えば驚く向きも少なくないと思うが、それは事実であり、あえて事を大げさに言っているのではない。

この歌は、十四の漢字で次のように表記されている。

1 東野炎立所見而反見為者月西渡

古い写本を見ると、この原文には「アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ」という訓が付されている。つまり、第一句から第三句までの <東野炎立所見而> は、もともと「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」と解釈されていたのである。それを「みだり訓(いい加減な訓/まずい訓)」だと断定し、現在一般化している「東の野にかぎろひの立つ見えて…」という訓を考案したのが、江戸時代の賀茂真淵《かものまぶち》である。馬淵がこの新訓を提示してからは、研究者も歌人も「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」という伝統的な訓と解釈を捨ててしまった。本節のこの項に、あえて「江戸時代に作られた『万葉集』の歌」という小見出しを付けたのは、現在の一般的な訓が馬淵の考案したものだからである。

写本の訓と馬淵の訓を比較すると、歌の格調は確かに馬淵の訓のほうが高いように感じられる。しかし、馬淵の訓に対して、文法学者たちが異議を唱えている。上代語の表現としては不自然な文法的要素がその訓に含まれている、というのである。それだけでなく、原文の第三字の <炎> や歌の末尾の <西渡> などの訓に対しても、多くの異論が出ている。

(佐佐木隆『万葉歌を解読する』NHKブックス、2004年、pp. 255-256)

この本ではこれに続けて、この歌の「より本当らしい」訓について文法的見地から考察が進められている。

たとえば「かぎろひの立つ見えて」という部分について。上代では助詞「の」は連体詞だから、そこからは「立つ」は連体形である必要がある。一方で、活用語+「見えて」という表現は活用語の終止形を受けるのが普通であった。つまりここでは「立つ」は終止形である必要がある。だから馬淵の訓は文法的には矛盾をはらんでいるというわけだ。なるほどー。(注意:ものすごく端折って言ってます。詳しくは本を。)

くだくだしく引用するのもはばかられるので、人麻呂のこの歌が本当はどのように訓ぜられるべきなのかの正解については同書を読んでくださいな。厳密な読解に触れることで、巷に跋扈する万葉集を好き勝手に読み替えるアレな企てがいかに恣意的でいい加減なものかというのがわかるという意味でもおすすめ。

2009-01-22

面白の駒

女君を中納言邸から盗み出すのに成功した男君は、彼女を二条殿という邸に据える。他の女を娶る話が来ても見向きもしない。そんな男君が次に取りかかるのが中納言家への仕返しである。もっとも自分がひどい目に遭わされたわけじゃないから、これは妻となった女君に代わっての、代理の復讐だ。頼まれてもいないのにそういうことをやる男みちより。

手はじめには、中納言家の四の君にろくでもない婿を押しつける。いきなりひどすぎる所業。

四の君には、実は当の男君自身との縁談が進んでいた。それを利用して、男君は「面白(おもしろ)の駒(こま)」とあだ名される彼の親戚、兵部の少を焚きつけて自分の替え玉として通わせる。

「面白の駒」というのは、兵部の少の馬みたいな顔をからかってそう呼んでいるのである。人前に出ると笑われるからといって自分の家に引きこもっていた、かわいそうなやつなのだ。そういう意味でここのくだりは二重にひどいよな。直接悪いわけじゃない四の君に望まない男を押しつけることといい、変な顔だからというだけの理由で人を体のいい復讐の道具として使うことといい。男君にしてみれば、北の方が典薬助を使っておちくぼの君にしかけた仕業を、そっくり北の方の愛娘にしかけることで北の方への復讐としているのだろうけどさ。

ここを読むと、源氏物語の末摘花の話も思い出されるが(男女の役割が逆だけど)、あれも器量に恵まれなかった末摘花のほうに同情的なトーンはまったくない(とのことだ、まだちゃんと読んでないけど)。

まあこのへんはけらけらとおおらかに笑って聞ける度量が必要だ。そういう牧歌的な時代でしたということで。翻って考えてみればここに偽善はない。

しかし「わらはずなりにしかばうれしくなん(最後まで笑わないでくれたのがうれしくて)」 (p. 134) などと何も知らずに喜んでいる面白の駒の文などを見ると、やっぱりこの人にはちょっとだけ同情的にもなる。

2009-01-19

昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて、前のたび、稲荷より賜ふしるしの杉とて、投げいでられしを、出でしままに稲荷にまうでたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ天照御神を念じ奉れと見ゆる夢は、人の乳母して内わたりにあり、御門きさきの御かげに隠るべきさまをのみ夢ときも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ、心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳もつくらずなどしてただよふ。

(西下経一校注『更級日記』岩波文庫、p. 68)

2009-01-15

典薬のぬし、くすしなり

ここもうまい。

おちくぼの君が男君を通わせていることは、北の方に知られてしまう。憤った北の方は、おちくぼの君を離れの部屋からさらに狭くて薄汚い小部屋へと移して閉じ込めてしまう。さらに、典薬助(てんやくのすけ)という色好みの老人を焚きつけ、おちくぼの君を手籠めにさせてしまうよう計画する。

閉じ込められたおちくぼの君は、あこきを通じて北の方の陰謀を知る。いよいよ典薬助が忍び寄ろうというその夜、目を覚ました北の方はおちくぼの君の部屋を覗きに行く。身の上を嘆いてしくしくと泣くおちくぼの君に北の方が言葉をかける。

北の方、かの典薬助の事により起きまして、部屋の戸引きあけて見たまふに、うつぶし臥していみじく泣く。いといたく病む。
「などかくはのたまふぞ」
と言へば、
「胸のいたく侍れば。」
と息の下に言ふ。
「あないとほし。ものの罪かとも。典薬のぬし、くすしなり。かい探らせたまへ。」
と言ふに、たぐいなくにくし。
「何か。風にこそ侍らめ。くすし要るべき心ちし侍らず。」
と言へば、
「さりとも胸はいとおそろしきものを。」

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』pp. 101-102、一部表記を改める。)

拙訳。

「どうしてそんなに泣いておる」
「胸が痛いのでございます」
おちくぼの君が答えると、
「それはお気の毒。あるいはこれはなにかの罰かも……。典薬助は薬師であるぞ。その体、触ってみてもらいなされ」
北の方の意地悪なことはこの上ない。おちくぼの君が、
「大丈夫でございます。風邪でございましょう。薬師の要るほどではございません」
と言うと、北の方、
「とはいえ、胸の病はなんともおそろしいもの」

北の方はもちろんおちくぼの君がこのあとどうなる運命かを知っている。そしておちくぼの君も、あこきを通じて事情を聞いていて、それが他ならぬ北の方によって仕組まれているということを知っている。そのうえでこの会話が交わされている。この緊張感。北の方の言葉は原文のほうがアヤしくていいね。

2009-01-12

賀茂保憲女集

賀茂保憲女集序文について紹介しておきたい。これまじやばいから。

この人は、定家があまり評価しなかったことが災いして、その後もあまり重要視されなかった歌人。賀茂氏というのは、天文道・陰陽道の家で、父の保憲は有名な人との関係でいうと、あの安倍晴明の師にあたる。その娘。彼女は和泉式部や赤染衛門などとはちがって、女房として内裏に出仕するような経験は持たなかった。華やかな宮廷文化に直接触れることはなく、賀茂氏の家の中で地味に暮らしていたのかもしれない。もっとも当時の女性は、そういう生き方をした人のほうが圧倒的多数だったと思う。

さてこの家集のおもしろい(と僕が思う)ところは、長くてどこか異様な序文である。恵まれなかった境遇を恨み、また自分は何者にも劣る存在だと卑下する。その一方で時折垣間見える自信。この両極端を一文ごとに揺れ動く、激しい文章なのだ。紫式部日記の神経症的な文章と比べると、紫式部が内側へ内側へと折りたたまっていく鬱ぶりなのに対して、賀茂保憲女にはどこか危険な方向に開けてしまった感じがある。

「自分は鳥・虫に劣り、木にも草にも並ばず、いわんや人並には及ぶべくもない存在だ」と書いた直後に、「人類は古来より自然を支配してきた」みたいなことを言い出す。世界観がなんだか壮大で、どこか SF チックというか、やっぱりこれは天文道・陰陽道というお家の影響なんだろうか。壮大なんだけど自閉的。

そして家集をものしたきっかけは、重い病を患ったこと。天然痘とも麻疹ともわからないが、かなり重病だったらしい。そこから回復するなりものすごい勢いでこの長い序文を書いた、と。文章に勢いがあって、たたみ込むような繰り返し表現も多い。家集のほぼ全体が一気に書かれたものらしい。この切羽詰まった勢いにもどこかヤバさを感じさせる。

世になき玉を磨けりといふとも、誰か手のうちに入れて、光を哀れびむと思へど、泥(でい)の中に生ふるを、遙(はるか)にその蓮(はちす)卑しからず。谷の底に匂ふからにその蓮卑しからず。

(和歌文学大系20『賀茂保憲女集/赤染衛門集/清少納言集/紫式部集/藤三位集』明治書院)

拙訳。

わたしの心に玉の光が宿ったとしても、その玉を手に取り慈しんでくれる者はいない。だが泥の中に咲こうとも、蓮(はちす)は圧倒的に尊いものではないか。たとえ谷の底深く人知れず香る花であっても、蓮は尊いものではないか。

この鬼気迫る「その蓮卑しからず」の繰り返しとかね。

2009-01-08

「遅く~する」

男君(みちより)がおちくぼの君の元へ会いに来た夜が明けて次の日。おちくぼの君の部屋である離れにはまだ男君が臥している。継母である北の方がおちくぼの君の部屋にやってくる。襖を開けようとするが開かない。あこきが開けさせないのである。

かうて、昼まで二所(ふたところ)臥い給へる程に、例はさしも覗きたまはぬ北の方、中隔ての障子をあけ給ふに、固ければ、
「これあけよ。」
とのたまふに、あこきも君もいかにせんとわび給へば、
「さはれ、あけ給へ。木丁(きちゃう)あげて臥せ給へらば、もの引きかづきて臥いたらん。」
とのたまへば、さしもこそ覗き給へとわりなけれど、遣るべき方もなければ、木丁つらにおし寄せて女君ゐ給へり。北の方、
「などおそくはあけつるぞ。」
と問ひ給へば、

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 54-55、一部表記を改めた)

ここでの北の方の「などおそくはあけつるぞ」という台詞について、「新大系」の脚注では次のように記している。

何でぐずぐずとは開けたところか。開けるのに時間がかかったのかと問う北の方らしい変な言い方。まだあこきは開けない。

(同上)

なんだかよくわからない説明だ。北の方らしい云々というのは、継母である北の方の台詞回しには聞き慣れない言葉が多くあるという。「新大系」はこれを北の方という人物におかしな言葉を使う滑稽な性格を与えようとしたとも考えられるということで、そう書いているのだ。まあそうと断言まではしてないけど。

しかし、この「遅く~する」という表現については、『古代日本語文法』(2007年)という本に次のような説明がある。

連用修飾語「遅く~」は現代語の感覚で解釈すると誤るので、注意が必要です(岡崎正継 1973)。

  • (21) 灌仏率て参りて、御導師遅く参りければ、日暮れて御方々より童べ出だし、布施などおほやけざまに変らず心々にし給へり。(源氏・藤裏葉)

(21)は、「御導師がおくれて参上したので」の意ではなく、「時間になっても参上しない」の意です。

  • (22) 大納言の遅く参り給ひければ使を以て遅き由を関白殿より度々遣はしけるに(今昔 24-33)
  • (23) 夜明けぬれば、介、朝(つとめて)遅く起きたれば、郎等粥を食はせむとてその由を告げに寄りて見れば、[介ハ]血肉(ちじし)にて死にて伏したり。(今昔 25-4)

(23)では、介は死んでいたわけで、「遅く起く」が「遅く起きた」のではなく、「起きる時間になっても起きない」の意であることがわかります。

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007年、p. 137)

だから、「などおそくはあけつるぞ」というのは「どうして(いつまでたっても)開けないのだ」ということで、変な言い方でもなんでもない。

古い本だとその後の研究でわかった新しいことが反映されていないことがある。全集なんて何度も改訂するもんじゃないし。注釈も、一読してぴんとこないものは鵜呑みにしないで自分の頭で考えてみたほうがいいと思う。本居宣長も『玉勝間』でそんなようなこと言ってたぜ。

北の方が変な言い方をするキャラクターだというのも、ちょっとあやしいような気がしている。見慣れない単語が多いとしても、おそらく言葉遣いが汚いとか、そういうことなんじゃないのかな。おかしな文法でしゃべるキャラクターって、それどこのアニメだよ。

2009-01-05

落窪物語導入部

どういう物語か書かずに話を先に進めるところだった。

いまはむかし、中納言なる人の、むすめあまた持(も)給へるおはしき。大君(おほいぎみ)、中の君には婿取りして、西の対(たい)、ひんがしの対にはなばなとして住ませたてまつり給ふに、三、四の君、裳着せたてまつり給はんとて、かしづきそしたまふ。

又、ときどき通ひ給ひけるわかうどほり腹の君とて、母もなき御むすめおはす。北の方、心やいかがおはしけん、仕うまつる御(ご)たちのかずにだにおぼさす、寝殿の放出(はなちいで)の、また一間(ひとま)なる、おちくぼなる所の二間なるになん住ませ給ひける。

きんだちとも言はず、御方とはまして言はせ給ふべくもあらず。名をつけんとすれば、さすがにおとどのおぼす心あるべしとつつみ給ひて、
「おちくぼの君と言へ。」
との給へば、人々もさ言ふ。おとゞもちごよりらうたくやおぼしつかずなりにけむ、まして北の方の御ままにて、わりなきこと多かりけり。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』p. 3、一部表記を改める。)

拙訳。

今は昔、姫君をたくさんお抱えの中納言殿がいらっしゃった。大君と中の君にはすでに婿を取らせ、西と東の対にはなばなと住まわせていた。三の君、四の君にもはやく裳着をさせようと、後ろ見に余念がなかった。

中納言殿にはまた、かつてときどき通っていた皇統の女が忘れ形見に残した娘君もいらっしゃった。北の方(正妻)はなにを思ってかこの娘君を屋敷の侍女たちよりもぞんざいに扱い、寝殿から延びる離れの部屋のそのまた端の、落ち窪んだところ二間ばかりを与えてそこに住まわせていた。

北の方はこの娘君を姫と呼びもせず、また娘君に自分のことをお方様と呼ばせることも許さなかった。娘君のことを呼ぶ時には、北の方も中納言殿に気を遣ってのことであろうか、
「おちくぼの君とお言いなさい」
とおっしゃるので、家の者はみなそう呼んでいた。中納言殿もこの娘君が大きくなるにつれて愛情が薄れたのか、北の方のするがままにさせておくので、娘君はいつも理不尽な目に遭わされることばかりであったという。

北の方というのはつまりは継母だ。日本版シンデレラなどといわれたりもするけど、そんな話。継母にいじめられる話というのは王朝物語のひとつの類型だったらしい、というのをどこかで読んだ気がする。まあそれは思い出したときにまた書こう。

しかし手際いい。これは冒頭なんだけど、十行程度でどういう物語がこれから始まるのか、シチュエーションを説明しきっている。始まって20分くらいでヒーローの誕生とその背景を描ききってしまう映画「スパイダーマン」みたいだ。

裳着といのうは、「女子が成人のしるしに初めて裳を着る儀式。十二、三、四歳のころ、結婚前に髪上げの儀式と同時に行った。男子の「元服」にあたる [旺文社 全訳古語辞典第三版]」ものらしい。

2009-01-03

ページのデザイン

レディメイドのウェブログのなにがいやって、幅固定・極小フォントのデフォルトデザインだ。幅固定がダサいのは言うまでもないが、字を小さくしたがるのはどういうわけなんだ。まさか字が小さいとオシャレとか思っているわけではあるまいな。

僕はカフカのように、大きな活字で読んでほしいんだ!

というわけで、テンプレートをちょっといじってみた。おかしなところがあったらご報告ください。

2009-01-02

エンターテインメントな落窪物語

いまは「落窪物語」を読んでいる(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』)。

我ながら源氏買ったんならそれ読めよ、とも思うけど、目下古文はそれだけというのではつまんないし、源氏以前の物語を知っておくのも必要だということで。

そして面白い。

「落窪物語」では、本にして数ページごとに必ずサスペンスというか、読者(あるいは聞き手)が先を知りたくなるようなイベントが起こる。これは明らかにエンターテインメントというものを意識してそう書かれている。当時物語は読んで聞かされて消費されてたわけだけど、これなら聞いてて飽きないし、「今日はここまで」なんてやられたらみんな続きを聞きたくてうずうずしたに違いない。作者はなかなか考えてる。また、書き手のそういう「飽きさせない工夫」からは、当時物語が娯楽としていかに成熟していたかということもうかがい知ることができる。最初のページから、さっそく「もっと読みたい」と思わせられたからね。つかみがうまい。

これ現代語訳したいな。

「落窪」のひとつの特徴は、物語のヒロインおよびヒーローは中納言の娘である「女君(おちくぼの君)」と左大将の長男である「男君(みちより)」なのだけど、それぞれの世話係兼幼馴染みである「あこき」「帯刀(たちはき)」のほうがかれら以上に大活躍するというところ。帯刀はあこきのもとに通う男でもある。

みちよりが将来太政大臣にまでなるのに対して、帯刀は三河の守に出世する。主従二組のカップルにそれぞれ「身の程にふさわしい」ハッピーエンドを用意しているわけだ。このへんは、源氏と惟光の造形なんかにも影響を与えてるのかもしれない。あこきや帯刀のように、それほど身分の高くない女房や貴族たちも、物語の主要な消費者というか、「お客さん」だったんだろうと思われる。お姫様の話ばっかりでは、女房たちは感情移入できなかったろう。あこきのいじらしくもかいがいしくおちくぼの君のために奮闘する姿になら、女房たちは自身を重ねることができる。

そういうわけで、「落窪」には深い文学性は(読んでるいまのところは)ないのだが、筋は面白い。テレビドラマみたいだよ。書き手の「こうすると面白いだろ」といわんばかりの工夫が垣間見えるのも楽しい。

前口上

新年あけましておめでとう。

古文を読むようになって、古文の話ばっかりしてたらいいかげんめんどくさがられるようになったので、そういう話はここでやることにする。

期間は一年間。今年古文を読んで知ったことや疑問に思ったことなどを書いていくつもり。