2009-01-29

従者の投石

男君の仕返しの続き。

男君一行が清水(きよみづ)詣でに出かけたところ、偶然中納言家北の方一行の乗る車(牛車のことね)に遭遇する。いやがらせの機会を逃さない男みちより。

「中納言殿の北の方しのびてまうで給へるに。」
と言ふに、中将(男君)、うれしくまうであひにけり、と下(した)にをかしくおぼえて、
「をのこども、「さきなる車とく遣れ」と言へ。さるまじうはかたはらに引き遣らせよ。」
とのたまへば、御前(ごぜん)の人々、
「牛よわげに侍らば、えさきにのぼり侍らじ。かたはらに引き遣りてこの御車を過ぐせ。」
と言へば、中将、
「牛よわくは面白の駒にかけ給へ。」
とのたまふ声、いとあいぎやうづきてよしあり。車にほの聞きて、
「あなわびし。たれならん。」
とわびまどふ。なほさきに立ちて遣れば、中将殿の人々、
「え引き遣らぬ、なぞ。」
とてたぶてを投ぐれば、中納言殿の人々腹立ちて、
「ことと言へば、大将殿ばらのやうに。中納言殿の御車ぞ。はやう打てかし。」
と言ふに、この御供(とも)のざふしきどもは、
「中納言殿にもおづる人ぞあらん。」
とて、たぶてを雨の降るやうに車に投げかけて、かたやぶに集まりておし遣りつ。御車どもさき立てつ。御前よりはじめて人いと多くて打ちあふべくもあらねば、かたを堀に押しつめられて、ものも言はである、
「なかなかむとくなるわざかな。」
と、いらへしたるをのこどもを言ふ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 146-147、一部表記を改める。)

拙訳。

「中納言殿の北の方が、お忍びでお参りにいらしているのです」
と言うので、中将殿はこれはいいところで出会ったとほくそ笑み、
「おまえたち、前の車をもっと急がせろ。言うことを聞かなかったら横にどかせてこの車を通させるんだ」
と命令する。そこで従者たちが、
「牛が疲れていては前にいられまい。傍らによせて我らの車を先に通せ」
と言うと、中将殿は続けて
「牛が疲れたのなら面白の駒に引かせなされ」
と声をおかけになった。いい声である。北の方は車の中でその声を聞き、
「なんとひどい、誰であるぞ」
とうろたえている。それでもそのまま車を進めていると、中将方の者たちは
「どけないというのか」
と言って石を投げつけてきた。中納言方の男たちはこれに憤り、
「なにかにつけて大将様のようにしやがって、中納言殿のお車ぞ。やれるものならやってみろ」
と言うが、中将のお供の雑色たちは、
「中納言殿にも怖い人はあろう」
といって石を雨の降るように車に投げかけ、中納言方の車を脇に押しやり、とうとう中将殿の車を通させてしまった。多勢に無勢で太刀打ちできず、車の片側は堀に押し込まれ、中納言方の男たちはものも言わずに固まっている。中将殿の従者たちはそれを見て
「だまって通せばよかったものを」
と言いながら通り過ぎていく。

しかしひどい罵倒だ。自分が仕掛けたくせに。いい声である、じゃないよな。

車争いといえば源氏物語のが有名だけど、ここでは石が飛んでいる。こうした光景はただお話の中だけではなかったらしい。『殴り合う貴族たち』(2005年)という本に、平安時代の貴族の従者たちが他の貴族の車に石を投げたことについての記述がある。

そして、その行列見物の場で事件が起きた。藤原実資の『小右記』によれば、永延元年(九八七)の四月十七日、その月の二度目の酉日のことであった。

三十三歳の右近中将藤原道綱は、いつものように賀茂祭使の行列を見物しようと、この日も牛車に乗って出かけた。その車には二十二祭の左少将藤原道長が同乗していたが、二人の向かった先は、やはり、祭使の行列が賀茂川に向かって東進する一条大路あたりであったろうか。

もちろん、この日に行列見物に出ていたのは、道綱・道長の二人だけではなかった。二人が向かった先にはすでに右大臣藤原為光が大勢の従者たちを引き連れて到着しており、その一行によって見物に都合のよい場所は占拠されてしまっていた。

そのため、道綱・道長の乗る牛車は、他によさそうな場所を探そうと、為光の乗る牛車の前を横切った。そこが一条大路であったとすれば、為光一行の占めていた場所よりもさらに東へ行って見物しようとしたのかもしれない。

が、これがまずかった。

道綱・道長の牛車が為光の牛車の前を横切るや、為光の連れていた大勢の従者たちが、そこいらに落ちている石を拾って道綱・道長の牛車に投げつけてきたのである。右大臣ともなれば、その外出時に率いる従者の数は二十や三十には及んでいただろう。その従者たちがいっせいに石を投げつけてきたのである。これは甚だしい狼藉であり、道綱・道長の二人は、かなり肝を冷やしたに違いない。おそらく、そのあとはもう行列見物を楽しむどころではなかっただろう。

(繁田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年、pp. 59-61)

この、従者たちが石を投げるというのは平安朝ではひじょうに一般的なことだったらしい。同書には、当時平安京では大臣の家の前を通るときには車を降りて通らねばならなかったこととか、それを怠ると邸から激しい投石を浴びせられたといった話も紹介されている(pp. 120-122)。なんかそういうゲームが作れそうだな。

この投石は、当の大臣たちというよりもむしろその従者たちの習慣だったようだ。

王朝貴族たちに仕えた従者にしてみれば、自分の主人の権威は、高ければ高いほどよかったに違いない。主人の権威が高ければ、それだけ自分の格も上がるというものだ。それゆえ、彼らは、主人に無礼を働いてその権威を貶めるような者があれば、自らの手でその無礼者に制裁を加え、主人の権威を知らしめようとしたのではないだろうか。

(同書、p. 123)

おもしろい。僕はこの従者の投石の話がけっこう気に入ってるのよ。

同書は平安時代の血なまぐさくも人間的な側面を知ることができて楽しい本だ。古文を読み始めてからも、僕はあんまり「雅な王朝文化!」みたいなのには惹かれてなかったんだけど、そういう先入観は一面的なものだということがこれを読めばわかる。まあはじめから平安時代の雅やかなほうに憧れてきたという人はこれで平安時代が好きじゃなくなるかもしれないけどね。

2009-01-26

東野炎立所見而

ここでは基本的に平安時代の古文を扱うことにしてるので、万葉集は対象外なんだけど、まあ番外ということで。

年末年始に実家に帰って、テレビを久しぶりに見た。NHKでは年始に檀ふみが万葉集の歌を紹介する番組をやっていた。いいね、とばかりにそれをだらだら見ていたら、有名なあの歌がやっぱり出てきた。

東《ひむがし》の野にかぎろひの立つ見えて返《かへ》り見すれば月傾《かたぶ》きぬ

ここは「雄大ですなあ」とか、まあそんなことを言うところか。けど、この歌はどうやら本当はこういう歌ではなかったことがほぼ確実だという。

どういうことかというと、『万葉歌を解読する』(2004年)という本にこんなことが書いてある。

しかし、専門的な立場から見れば、人麻呂が詠んだのは本当に「東の野にかぎろひの立つ見えて…」というような表現を持つ歌なのかどうか、大いに疑問である。したがって、この歌に対する右のような解釈が妥当なものなのかどうかも疑わしい、ということになる。右にあげたのは一般に採用されている訓にすぎず、また口語訳もそれに基づいたものにすぎない。こう言えば驚く向きも少なくないと思うが、それは事実であり、あえて事を大げさに言っているのではない。

この歌は、十四の漢字で次のように表記されている。

1 東野炎立所見而反見為者月西渡

古い写本を見ると、この原文には「アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ」という訓が付されている。つまり、第一句から第三句までの <東野炎立所見而> は、もともと「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」と解釈されていたのである。それを「みだり訓(いい加減な訓/まずい訓)」だと断定し、現在一般化している「東の野にかぎろひの立つ見えて…」という訓を考案したのが、江戸時代の賀茂真淵《かものまぶち》である。馬淵がこの新訓を提示してからは、研究者も歌人も「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」という伝統的な訓と解釈を捨ててしまった。本節のこの項に、あえて「江戸時代に作られた『万葉集』の歌」という小見出しを付けたのは、現在の一般的な訓が馬淵の考案したものだからである。

写本の訓と馬淵の訓を比較すると、歌の格調は確かに馬淵の訓のほうが高いように感じられる。しかし、馬淵の訓に対して、文法学者たちが異議を唱えている。上代語の表現としては不自然な文法的要素がその訓に含まれている、というのである。それだけでなく、原文の第三字の <炎> や歌の末尾の <西渡> などの訓に対しても、多くの異論が出ている。

(佐佐木隆『万葉歌を解読する』NHKブックス、2004年、pp. 255-256)

この本ではこれに続けて、この歌の「より本当らしい」訓について文法的見地から考察が進められている。

たとえば「かぎろひの立つ見えて」という部分について。上代では助詞「の」は連体詞だから、そこからは「立つ」は連体形である必要がある。一方で、活用語+「見えて」という表現は活用語の終止形を受けるのが普通であった。つまりここでは「立つ」は終止形である必要がある。だから馬淵の訓は文法的には矛盾をはらんでいるというわけだ。なるほどー。(注意:ものすごく端折って言ってます。詳しくは本を。)

くだくだしく引用するのもはばかられるので、人麻呂のこの歌が本当はどのように訓ぜられるべきなのかの正解については同書を読んでくださいな。厳密な読解に触れることで、巷に跋扈する万葉集を好き勝手に読み替えるアレな企てがいかに恣意的でいい加減なものかというのがわかるという意味でもおすすめ。

2009-01-22

面白の駒

女君を中納言邸から盗み出すのに成功した男君は、彼女を二条殿という邸に据える。他の女を娶る話が来ても見向きもしない。そんな男君が次に取りかかるのが中納言家への仕返しである。もっとも自分がひどい目に遭わされたわけじゃないから、これは妻となった女君に代わっての、代理の復讐だ。頼まれてもいないのにそういうことをやる男みちより。

手はじめには、中納言家の四の君にろくでもない婿を押しつける。いきなりひどすぎる所業。

四の君には、実は当の男君自身との縁談が進んでいた。それを利用して、男君は「面白(おもしろ)の駒(こま)」とあだ名される彼の親戚、兵部の少を焚きつけて自分の替え玉として通わせる。

「面白の駒」というのは、兵部の少の馬みたいな顔をからかってそう呼んでいるのである。人前に出ると笑われるからといって自分の家に引きこもっていた、かわいそうなやつなのだ。そういう意味でここのくだりは二重にひどいよな。直接悪いわけじゃない四の君に望まない男を押しつけることといい、変な顔だからというだけの理由で人を体のいい復讐の道具として使うことといい。男君にしてみれば、北の方が典薬助を使っておちくぼの君にしかけた仕業を、そっくり北の方の愛娘にしかけることで北の方への復讐としているのだろうけどさ。

ここを読むと、源氏物語の末摘花の話も思い出されるが(男女の役割が逆だけど)、あれも器量に恵まれなかった末摘花のほうに同情的なトーンはまったくない(とのことだ、まだちゃんと読んでないけど)。

まあこのへんはけらけらとおおらかに笑って聞ける度量が必要だ。そういう牧歌的な時代でしたということで。翻って考えてみればここに偽善はない。

しかし「わらはずなりにしかばうれしくなん(最後まで笑わないでくれたのがうれしくて)」 (p. 134) などと何も知らずに喜んでいる面白の駒の文などを見ると、やっぱりこの人にはちょっとだけ同情的にもなる。

2009-01-19

昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて、前のたび、稲荷より賜ふしるしの杉とて、投げいでられしを、出でしままに稲荷にまうでたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ天照御神を念じ奉れと見ゆる夢は、人の乳母して内わたりにあり、御門きさきの御かげに隠るべきさまをのみ夢ときも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ、心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳もつくらずなどしてただよふ。

(西下経一校注『更級日記』岩波文庫、p. 68)

2009-01-15

典薬のぬし、くすしなり

ここもうまい。

おちくぼの君が男君を通わせていることは、北の方に知られてしまう。憤った北の方は、おちくぼの君を離れの部屋からさらに狭くて薄汚い小部屋へと移して閉じ込めてしまう。さらに、典薬助(てんやくのすけ)という色好みの老人を焚きつけ、おちくぼの君を手籠めにさせてしまうよう計画する。

閉じ込められたおちくぼの君は、あこきを通じて北の方の陰謀を知る。いよいよ典薬助が忍び寄ろうというその夜、目を覚ました北の方はおちくぼの君の部屋を覗きに行く。身の上を嘆いてしくしくと泣くおちくぼの君に北の方が言葉をかける。

北の方、かの典薬助の事により起きまして、部屋の戸引きあけて見たまふに、うつぶし臥していみじく泣く。いといたく病む。
「などかくはのたまふぞ」
と言へば、
「胸のいたく侍れば。」
と息の下に言ふ。
「あないとほし。ものの罪かとも。典薬のぬし、くすしなり。かい探らせたまへ。」
と言ふに、たぐいなくにくし。
「何か。風にこそ侍らめ。くすし要るべき心ちし侍らず。」
と言へば、
「さりとも胸はいとおそろしきものを。」

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』pp. 101-102、一部表記を改める。)

拙訳。

「どうしてそんなに泣いておる」
「胸が痛いのでございます」
おちくぼの君が答えると、
「それはお気の毒。あるいはこれはなにかの罰かも……。典薬助は薬師であるぞ。その体、触ってみてもらいなされ」
北の方の意地悪なことはこの上ない。おちくぼの君が、
「大丈夫でございます。風邪でございましょう。薬師の要るほどではございません」
と言うと、北の方、
「とはいえ、胸の病はなんともおそろしいもの」

北の方はもちろんおちくぼの君がこのあとどうなる運命かを知っている。そしておちくぼの君も、あこきを通じて事情を聞いていて、それが他ならぬ北の方によって仕組まれているということを知っている。そのうえでこの会話が交わされている。この緊張感。北の方の言葉は原文のほうがアヤしくていいね。

2009-01-12

賀茂保憲女集

賀茂保憲女集序文について紹介しておきたい。これまじやばいから。

この人は、定家があまり評価しなかったことが災いして、その後もあまり重要視されなかった歌人。賀茂氏というのは、天文道・陰陽道の家で、父の保憲は有名な人との関係でいうと、あの安倍晴明の師にあたる。その娘。彼女は和泉式部や赤染衛門などとはちがって、女房として内裏に出仕するような経験は持たなかった。華やかな宮廷文化に直接触れることはなく、賀茂氏の家の中で地味に暮らしていたのかもしれない。もっとも当時の女性は、そういう生き方をした人のほうが圧倒的多数だったと思う。

さてこの家集のおもしろい(と僕が思う)ところは、長くてどこか異様な序文である。恵まれなかった境遇を恨み、また自分は何者にも劣る存在だと卑下する。その一方で時折垣間見える自信。この両極端を一文ごとに揺れ動く、激しい文章なのだ。紫式部日記の神経症的な文章と比べると、紫式部が内側へ内側へと折りたたまっていく鬱ぶりなのに対して、賀茂保憲女にはどこか危険な方向に開けてしまった感じがある。

「自分は鳥・虫に劣り、木にも草にも並ばず、いわんや人並には及ぶべくもない存在だ」と書いた直後に、「人類は古来より自然を支配してきた」みたいなことを言い出す。世界観がなんだか壮大で、どこか SF チックというか、やっぱりこれは天文道・陰陽道というお家の影響なんだろうか。壮大なんだけど自閉的。

そして家集をものしたきっかけは、重い病を患ったこと。天然痘とも麻疹ともわからないが、かなり重病だったらしい。そこから回復するなりものすごい勢いでこの長い序文を書いた、と。文章に勢いがあって、たたみ込むような繰り返し表現も多い。家集のほぼ全体が一気に書かれたものらしい。この切羽詰まった勢いにもどこかヤバさを感じさせる。

世になき玉を磨けりといふとも、誰か手のうちに入れて、光を哀れびむと思へど、泥(でい)の中に生ふるを、遙(はるか)にその蓮(はちす)卑しからず。谷の底に匂ふからにその蓮卑しからず。

(和歌文学大系20『賀茂保憲女集/赤染衛門集/清少納言集/紫式部集/藤三位集』明治書院)

拙訳。

わたしの心に玉の光が宿ったとしても、その玉を手に取り慈しんでくれる者はいない。だが泥の中に咲こうとも、蓮(はちす)は圧倒的に尊いものではないか。たとえ谷の底深く人知れず香る花であっても、蓮は尊いものではないか。

この鬼気迫る「その蓮卑しからず」の繰り返しとかね。

2009-01-08

「遅く~する」

男君(みちより)がおちくぼの君の元へ会いに来た夜が明けて次の日。おちくぼの君の部屋である離れにはまだ男君が臥している。継母である北の方がおちくぼの君の部屋にやってくる。襖を開けようとするが開かない。あこきが開けさせないのである。

かうて、昼まで二所(ふたところ)臥い給へる程に、例はさしも覗きたまはぬ北の方、中隔ての障子をあけ給ふに、固ければ、
「これあけよ。」
とのたまふに、あこきも君もいかにせんとわび給へば、
「さはれ、あけ給へ。木丁(きちゃう)あげて臥せ給へらば、もの引きかづきて臥いたらん。」
とのたまへば、さしもこそ覗き給へとわりなけれど、遣るべき方もなければ、木丁つらにおし寄せて女君ゐ給へり。北の方、
「などおそくはあけつるぞ。」
と問ひ給へば、

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 54-55、一部表記を改めた)

ここでの北の方の「などおそくはあけつるぞ」という台詞について、「新大系」の脚注では次のように記している。

何でぐずぐずとは開けたところか。開けるのに時間がかかったのかと問う北の方らしい変な言い方。まだあこきは開けない。

(同上)

なんだかよくわからない説明だ。北の方らしい云々というのは、継母である北の方の台詞回しには聞き慣れない言葉が多くあるという。「新大系」はこれを北の方という人物におかしな言葉を使う滑稽な性格を与えようとしたとも考えられるということで、そう書いているのだ。まあそうと断言まではしてないけど。

しかし、この「遅く~する」という表現については、『古代日本語文法』(2007年)という本に次のような説明がある。

連用修飾語「遅く~」は現代語の感覚で解釈すると誤るので、注意が必要です(岡崎正継 1973)。

  • (21) 灌仏率て参りて、御導師遅く参りければ、日暮れて御方々より童べ出だし、布施などおほやけざまに変らず心々にし給へり。(源氏・藤裏葉)

(21)は、「御導師がおくれて参上したので」の意ではなく、「時間になっても参上しない」の意です。

  • (22) 大納言の遅く参り給ひければ使を以て遅き由を関白殿より度々遣はしけるに(今昔 24-33)
  • (23) 夜明けぬれば、介、朝(つとめて)遅く起きたれば、郎等粥を食はせむとてその由を告げに寄りて見れば、[介ハ]血肉(ちじし)にて死にて伏したり。(今昔 25-4)

(23)では、介は死んでいたわけで、「遅く起く」が「遅く起きた」のではなく、「起きる時間になっても起きない」の意であることがわかります。

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007年、p. 137)

だから、「などおそくはあけつるぞ」というのは「どうして(いつまでたっても)開けないのだ」ということで、変な言い方でもなんでもない。

古い本だとその後の研究でわかった新しいことが反映されていないことがある。全集なんて何度も改訂するもんじゃないし。注釈も、一読してぴんとこないものは鵜呑みにしないで自分の頭で考えてみたほうがいいと思う。本居宣長も『玉勝間』でそんなようなこと言ってたぜ。

北の方が変な言い方をするキャラクターだというのも、ちょっとあやしいような気がしている。見慣れない単語が多いとしても、おそらく言葉遣いが汚いとか、そういうことなんじゃないのかな。おかしな文法でしゃべるキャラクターって、それどこのアニメだよ。

2009-01-05

落窪物語導入部

どういう物語か書かずに話を先に進めるところだった。

いまはむかし、中納言なる人の、むすめあまた持(も)給へるおはしき。大君(おほいぎみ)、中の君には婿取りして、西の対(たい)、ひんがしの対にはなばなとして住ませたてまつり給ふに、三、四の君、裳着せたてまつり給はんとて、かしづきそしたまふ。

又、ときどき通ひ給ひけるわかうどほり腹の君とて、母もなき御むすめおはす。北の方、心やいかがおはしけん、仕うまつる御(ご)たちのかずにだにおぼさす、寝殿の放出(はなちいで)の、また一間(ひとま)なる、おちくぼなる所の二間なるになん住ませ給ひける。

きんだちとも言はず、御方とはまして言はせ給ふべくもあらず。名をつけんとすれば、さすがにおとどのおぼす心あるべしとつつみ給ひて、
「おちくぼの君と言へ。」
との給へば、人々もさ言ふ。おとゞもちごよりらうたくやおぼしつかずなりにけむ、まして北の方の御ままにて、わりなきこと多かりけり。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』p. 3、一部表記を改める。)

拙訳。

今は昔、姫君をたくさんお抱えの中納言殿がいらっしゃった。大君と中の君にはすでに婿を取らせ、西と東の対にはなばなと住まわせていた。三の君、四の君にもはやく裳着をさせようと、後ろ見に余念がなかった。

中納言殿にはまた、かつてときどき通っていた皇統の女が忘れ形見に残した娘君もいらっしゃった。北の方(正妻)はなにを思ってかこの娘君を屋敷の侍女たちよりもぞんざいに扱い、寝殿から延びる離れの部屋のそのまた端の、落ち窪んだところ二間ばかりを与えてそこに住まわせていた。

北の方はこの娘君を姫と呼びもせず、また娘君に自分のことをお方様と呼ばせることも許さなかった。娘君のことを呼ぶ時には、北の方も中納言殿に気を遣ってのことであろうか、
「おちくぼの君とお言いなさい」
とおっしゃるので、家の者はみなそう呼んでいた。中納言殿もこの娘君が大きくなるにつれて愛情が薄れたのか、北の方のするがままにさせておくので、娘君はいつも理不尽な目に遭わされることばかりであったという。

北の方というのはつまりは継母だ。日本版シンデレラなどといわれたりもするけど、そんな話。継母にいじめられる話というのは王朝物語のひとつの類型だったらしい、というのをどこかで読んだ気がする。まあそれは思い出したときにまた書こう。

しかし手際いい。これは冒頭なんだけど、十行程度でどういう物語がこれから始まるのか、シチュエーションを説明しきっている。始まって20分くらいでヒーローの誕生とその背景を描ききってしまう映画「スパイダーマン」みたいだ。

裳着といのうは、「女子が成人のしるしに初めて裳を着る儀式。十二、三、四歳のころ、結婚前に髪上げの儀式と同時に行った。男子の「元服」にあたる [旺文社 全訳古語辞典第三版]」ものらしい。

2009-01-03

ページのデザイン

レディメイドのウェブログのなにがいやって、幅固定・極小フォントのデフォルトデザインだ。幅固定がダサいのは言うまでもないが、字を小さくしたがるのはどういうわけなんだ。まさか字が小さいとオシャレとか思っているわけではあるまいな。

僕はカフカのように、大きな活字で読んでほしいんだ!

というわけで、テンプレートをちょっといじってみた。おかしなところがあったらご報告ください。

2009-01-02

エンターテインメントな落窪物語

いまは「落窪物語」を読んでいる(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』)。

我ながら源氏買ったんならそれ読めよ、とも思うけど、目下古文はそれだけというのではつまんないし、源氏以前の物語を知っておくのも必要だということで。

そして面白い。

「落窪物語」では、本にして数ページごとに必ずサスペンスというか、読者(あるいは聞き手)が先を知りたくなるようなイベントが起こる。これは明らかにエンターテインメントというものを意識してそう書かれている。当時物語は読んで聞かされて消費されてたわけだけど、これなら聞いてて飽きないし、「今日はここまで」なんてやられたらみんな続きを聞きたくてうずうずしたに違いない。作者はなかなか考えてる。また、書き手のそういう「飽きさせない工夫」からは、当時物語が娯楽としていかに成熟していたかということもうかがい知ることができる。最初のページから、さっそく「もっと読みたい」と思わせられたからね。つかみがうまい。

これ現代語訳したいな。

「落窪」のひとつの特徴は、物語のヒロインおよびヒーローは中納言の娘である「女君(おちくぼの君)」と左大将の長男である「男君(みちより)」なのだけど、それぞれの世話係兼幼馴染みである「あこき」「帯刀(たちはき)」のほうがかれら以上に大活躍するというところ。帯刀はあこきのもとに通う男でもある。

みちよりが将来太政大臣にまでなるのに対して、帯刀は三河の守に出世する。主従二組のカップルにそれぞれ「身の程にふさわしい」ハッピーエンドを用意しているわけだ。このへんは、源氏と惟光の造形なんかにも影響を与えてるのかもしれない。あこきや帯刀のように、それほど身分の高くない女房や貴族たちも、物語の主要な消費者というか、「お客さん」だったんだろうと思われる。お姫様の話ばっかりでは、女房たちは感情移入できなかったろう。あこきのいじらしくもかいがいしくおちくぼの君のために奮闘する姿になら、女房たちは自身を重ねることができる。

そういうわけで、「落窪」には深い文学性は(読んでるいまのところは)ないのだが、筋は面白い。テレビドラマみたいだよ。書き手の「こうすると面白いだろ」といわんばかりの工夫が垣間見えるのも楽しい。

前口上

新年あけましておめでとう。

古文を読むようになって、古文の話ばっかりしてたらいいかげんめんどくさがられるようになったので、そういう話はここでやることにする。

期間は一年間。今年古文を読んで知ったことや疑問に思ったことなどを書いていくつもり。