物語の一番最後のくだり。だらだらと続けてきたけど、落窪物語の話は今回でひとまず終わりということにする。
三の君を中宮の御匣殿《みくしげどの》になんなしたてまつり給へりける。
師《そち》は任果てて、いとたひらかに四の君の来たるを、北の方うれしとおぼしたり。ことわりぞかし。かく栄え給をよく見よとや神仏もおぼしけん、とみにも死なで七十余《よ》までなんいましける。大い殿の北の方、
「いといたく老いたまふめり。功徳を思ほせ。」
との給《たまひ》て、尼にいとめでたくてなし給へりけるを、よろこびのたびいますがりける。
「世にあらん人、まゝ子にくむな。まゝ子なんうれしき物はありける。」
との給て、又うち腹立ち給時は、
「魚《いを》の欲しきに、われを尼になしたまへる。産《む》まぬ子はかく腹ぎたなかりけり。」
となんの給ける。死に給て後もただ大い殿のいかめしうしたまひける。衛門は宮の内侍になりにけり。のちのちの事はつぎつぎいで来べし。
この少将の君たち、一よろひになんなりあがり給ける。祖父《おほぢ》おとゞ亡せ給にけれども、
「われ思はば、ななし落としそ。」
と返ゝ《かへすがへす》のたまひければ、わづらはしくやんごとなきものになんおとうとの君をば思ひ給ける。左大将、右大将にてぞ続きてなりあがり給ける。母北の方、御さいはひ言はずともげにと見えたり。師はこの殿の御とくに、大納言になり給へり。面白は病まひおもくてほふしになりにければ、おとにも聞こえぬなるべし。かの典薬助《てんやくのすけ》は蹴られたりしを病まひにて死にけり。
「これ、かくておはするも見ずなりぬるぞくちをしき。などてあまり蹴させけん。しばし生けて置いたべかりける。」
とぞをとこ君の給ける。女御の君の御家司《けいし》に和泉守《いづみのかみ》なりて、御とくいみじう見ければ、むかしのあこき、いまは内侍のすけになるべし。典薬助は二百まで生けるとかや。
(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 290-292、一部表記を改める。)
拙訳。
(男君は)三の君を御匣殿の女房としてさしあげた。
筑紫の師《そち》がその任を終えて四の君も無事京に戻り、北の方は胸をなで下ろす。無理もないことである。こうして一族が栄えていくありさまをとくと見よとの神仏のはからいであろうか、七十をこえてなお達者であった。
「ずいぶんとお年を召されましたね。功徳をお考えにならなければ」
女君はそうおっしゃって北の方を立派に出家させて差し上げた。北の方はそれにいたく感激して
「世の中の人、まま子憎むな。まま子はありがたいものであるぞ」
とむせび喜んだ。かと思えば、腹の立つことがあると
「魚が食べたいのに、私を尼にしてくれて。腹を痛めて産んでない子はなんと意地の悪いこと」
などとおっしゃるのであった。亡くなられた後も、男君が立派な葬儀をお出しになった。衛門は宮の内侍になるが、その後のことはまた追々語ることとしよう。
少将の君たち(男君の子供たち)はお二人そろって位を極めていった。祖父の大臣《おとど》は亡くなられたが、
「わたしに孝行したいなら、くれぐれも次郎君をおろそかにはしてくれるなよ」
と常日ごろ繰り返しおっしゃっていたので、弟君には男君も格別の気を遣われ、兄弟は左大将、右大将とたてつづけに昇進したのであった。女君のお幸せといったら言わずもがなである。筑紫の師は男君のおかげで大納言へとなられた。面白の駒は病をこじらせて法師になったきり、あとの行方はようとして知れない。典薬助といえば、蹴られどころを悪くして、それがもとで死んだという。
「こうして立派になった女君の姿を見ずに死んだとは。あんなにひどくいじめることもなかった、もう少し生かしておくべきであったな」
と、男君は残念がった。和泉守は女君の家司となり、熱心にお勤めして差し上げたという。そのおかげで、むかしのあこきは、いまや典侍《ないしのすけ》となる。ところでかの典薬助だが、あるいは二百まで生きたともいうそうである。
二月には読み終えていたのだが、ここで紹介していくのに手放せなくて、地元の図書館でずいぶん長く借り占めてしまった。そういうわけで早く返さなきゃいけないと思い、上に引用した新体系本は、もう手元にはない。脚注をメモしておくのを忘れたせいで、和泉守云々の部分の訳が心許ないのだけど、ご容赦を。
とはいえ、それはそれとしても、このエンディングにはいろいろと気になる点がある。
一番の問題点はもちろん、典薬助についての後日譚がたがいに矛盾する内容で二回語られていることだ。これは古来議論の的になってきたらしく、写本のなかには末尾の「てんやくのすけ」を「たちはき」や「ないしのすけ」と書き改めているものもあるという。たしかにそう書き換えれば内容が矛盾するという問題は回避できる。新体系の解説によれば、定説になっていたのは「たちはき」とする解釈だそうだ。登場人物の後日譚が語られるこのエンディングで、準主役級の扱いだった帯刀について言及がないのもおかしいということだろう。その一方で、「たちはき」を「てんやくのすけ」と誤写するというのは考えにくい。その点では「ないしのすけ」、つまりあこきのこととする解釈のほうに分がある。
新体系はこれら旧来の説に挑戦するというような書きぶりで、ここに別の解釈をあてている。つまりここは字のまま典薬助のこととするのである。典薬助は死んだという噂がある一方で、実は生きていてしぶとく二百歳まで生きたとかいう噂もあったとさ、と意図的にぼかした後日譚としているというわけだ。
新体系出版からだいぶ時を経ている現在では、主流の解釈はどうなっているのかな。
ともかく、この説も説得力がある。原文をいくら読んでも決定的な証拠が見えないのがもどかしい。最後の文に、たったひとつ、たとえば「さらで」とか「げには」とかの副詞のひとつも入っていれば、こんな解釈の混乱を招かなかったろうにと思ってしまう。早々に解釈が混乱したということは、それはそれで元があんまりいい文じゃなかったということだ。
作者の身になって考えてみても、帯刀やあこきが二百歳生きたというよりは、怪人物めいた好色漢の典薬助が二百歳まで生きたという話を書いたと見るほうが自然かと思うけど……。
訳ではサボって曖昧に処理してしまったけど、原文に使われたり使われなかったりしている助動詞ケリの使われ方は、よく考えないといけない。どうしてここで使っていて、次の文で使っていなくて、その次でまた使っているのか。とくに末尾から二番目の「女御の君の御家司云々」のところとか。神は細部に宿るのだ。でもそれを考えてるとブログが書けなくなると思って今日は素通りした次第。
古典文学の作品の結び方には、いろいろと謎の含みがあって、その意図をこれと決定しがたいものが多い。枕草子にせよ、土佐日記にせよ、それぞれの作者にそれぞれの美学があって、結びとなればそれをもっとも凝縮した形でスタイリッシュに表して終えようという意志が働いているのだとは思うんだけど、それがかえって徒となり「外国人」である現代人にはどうもぴんとこないのだ。残念なことであるよ。
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