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2010-01-21

長月の在明の月はありながら 続き

引き続き貫之の「長月の」の歌について。

新体系の脚注では、この歌について「『有明の月』は翌朝も残っているから、明日十月一日になっても残っているわけだが…の意」とし、「長月の有明の月は明朝もまだあり続けるけれども、秋ははかなく最後の今日を過ぎてしまうようであるよ」という歌意だとしている(しかし「ようであるよ」って、典型的な古文訳語文体だよね……)。小松英雄『丁寧に読む古典』でも「秋の最後の日に出た月が翌朝にも出ている状態だけれど、はかなくも秋は確実に過ぎ去りつつあるようだ、ということです」としている。晦日に月が見えてたっていいじゃない、という立場である。しかし暦のことを考えるとそれは信じがたいんだよな……。

ところで、2010年1月16日は、計算が正しければ宣明暦で12月1日にあたるのだが、これは朔の時刻が(計算値で)18:07分と、ぎりぎりで進朔が行われている(西日本では日食になる)。ということは、進朔がぎりぎりで行われなかったときの月の見え方(それが宣命暦で晦日に見えうる月の最大限である)に近いものが、その前日、15日の日の出・月の出で見られるはずだ。もし見えるのならね。遅い初日の出を拝みに行くかと真剣に考えた。そこで国立天文台のサイトで15日の東京の日の出・月の出を調べたところ、日の出6:50、月の出6:41であった。9分しか違わない。おそらく日の出と近すぎるので見えないだろう。歌詠む余裕なんかあるわけない。見に行くのはやめた。

(……と、思ったけど一応15日は早起きしてみた。けど都内じゃ日の出を見られるところなんかないね……。近所に陸橋があったのでそこで観察したけど、7:05頃になってようやく太陽が見えた。月は見えなかった。まあそういうこと。)

そもそも、有明の月とは夜に昇った月が朝になっても残っているのをいうのではなかったか。太陽がもう昇るというぎりぎりに昇ってきてすぐ見えなくなる月は「残っている」とはとてもいえない。

やはり晦日に月は見えないはずだ。

で、図書館でコピーしてきた新大系の当該ページを見ながら頭を抱える。後撰集の貫之の歌には、次のように躬恒の歌が続き、それをもって秋下の巻は終わっている。

 九月のつごもりに つらゆき

長月の在明の月はありながらはかなく秋は過ぎぬべら也

 同じつごもりに みつね

いづ方に夜はなりぬらんおぼつかな明けぬ限りは秋ぞと思はん

躬恒の歌を見てふと思った。この配置からすれば、そしてこれが「秋の歌」であることを考えれば、貫之の歌の「在明の月」は晦日の夜から朔日の朝にかけての月のことを指しているのではない、と考えられないだろうか。というのは、「明けぬ限りは秋ぞと思はん」という、秋への未練を精一杯歌った歌で締めているのだから、その前の歌で十月朔日の朝になっても残る月(前述のようにそんな月はどうもなさそうなのだが)のことを詠んでいたのでは、ちょっとだらしなくなってしまう気がするのだ。時間的に前後してしまっているじゃないか。

「あり」には、「存在する」という意味のほかに、「ぬきんでている」「すぐれている」という意味もある(岩波古語辞典)。九月の有明の月を愛でることについては、「白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも(万・2229)」という歌がある。ちょっと解釈が過ぎるかもしれないが、「九月の有明の月はすばらしいものだ、だが秋は永遠ではない、そのすばらしさにもかかわらず無情にも過ぎ去っていくものなのだ」――こういうことなのではないか。もしそういう歌意なら、躬恒の歌とあわせて配置的・展開的にもぴったりだし、晦日の有明の月という怪しい存在を仮定しなくてもすむ。

これですっかり腑に落ちたというわけではないんだけど、今のところはそう考えて自分を納得させることにする。いずれにせよ、晦日に有明の月が出てたという解釈に戻ることはないと思う。

2010-01-18

長月の在明の月はありながら

前回の続き。

宣明暦をその通りに運用している限り、晦日の晩や朔日の明け方に月が見えることはないように思われる。

しかしそうなると、『丁寧に読む古典』にも挙げられている、後撰集にある「九月のつごもりに」詠んだという貫之の歌「長月の在明《ありあけ》の月はありながらはかなく秋は過ぎぬべら也」は解釈しづらい。九月晦日の未明(正確には十月朔日の明け方)に月が見えていたのか?

気になったのは、宣明暦計算の基準である長安(東経108度)と京都(東経135度)の時差(約1時間50分)だが、二時間弱の時差が月の見える見えないに影響するだろうか。また、仮に見えたとして、あっという間に見えなくなる細い月を、「有明の月」などと呼べるだろうか。二時間弱の時差は、進朔限がその分切り下げられていることに相当するわけだから、これは長安よりも晦日未明の月は残る可能性が高いことにはなるはずなんだけど、このへんは自信がない。

それとも、その場に月が出ていたのでこの歌を詠んだという前提がやはり間違っているのだろうか。

(続く。)

2010-01-14

月を隠す

眠れないので適当に本を取ってめくっていたら『丁寧に読む古典』にこんなことが書いてあるのを見つけた。

太陰暦(陰暦)は、本来、月球(歴月(ママ)と区別するために中国語から借用しました)の盈《み》ち虧《か》けに基づいています。しかし、盈ち虧けの周期は 29.53 日、十二回で 354.36 日ですから、毎年、十一日ほど足りなくなるので、ほぼ三年に一度、閏月を設けて調整されていました。四月のあとなら閏四月を挿入して、その年は十三ヶ月になります。したがって、歴月の日付と月球の満ち欠け(ママ)との間にかなりのズレが生じるのはふつうのことでしたが、月球が隠るはずのツキゴモリの日に月球が見えるのは不都合なので、歴月の末日を指す語として、*ツキゴモリの[キ]を脱落させて月球のイメージを消したツゴモリが形成されました。

新月が姿を見せるときが*ツキタチ(月立ち)ですが、右と同じように、歴月の初日がその日にあたるとは限りません。というよりも、ズレルのがふつうだったので、このほうはツキの[キ]を[イ]に変えて月球のイメージを消し、ツイタチが形成されました。

小松英雄『丁寧に読む古典』、笠間書院、2008年、pp. 42-43

買って読んだ当時は「ふーん」と読み流していたが、宣明暦について調べた今の自分には、ここはたいへんあやしく思われる。

この説明は、月球(この言葉はたしかに便利なので使わせてもらう)の運行周期と太陽の運行周期とに生じるずれを、暦月(引用には「歴月」とあるが、意味からすれば「暦月」だろう)の日付と月齢とに生じるずれと混同している。そして、暦月の日付と月齢は、太陰太陽暦ではずれないのだ。今年は元日が日本で有史以来はじめて満月になった年だという話がニュースにあったが、じつはこれは明治の太陽暦採用以来ということで、太陰太陽暦が用いられていたそれ以前ではそもそも月の第一日はつねに必ず新月だったからである。

さて、厳密に考えれば、月球の満ち欠けの周期(朔望月という)は一昼夜の長さのきっちり整数倍にはならないので、朔の時刻がその日の夕刻以降になってしまい、晦日となる前日の未明から早朝にかけて月が昇ってきたまま夜が明けるということは起こりうる。ところが、宣明暦では晦日に月が見えるのを避けるために、そういうときには「進朔」といって、わざわざ月の第一日を一日先に延ばしてしまうという処理を施していた(内田正男『日本暦日原典』第四版、雄山閣出版、1992年、p. 497)。そうするとどうなるかというと、その日の夜に朔が起こるわけだから、当然その晩は月は見えない。だからこの晩を「月隠り」としたほうが人間の感覚からすれば自然だというわけである。

つまり、現実には、ツゴモリが「月隠り」ツイタチが「月立ち」であることに当時の人々はきわめて意識的であったし、たとえ形式上のことであっても(進朔の処理は暦の計算上は行なわなくてもなんの問題もなく、むしろ計算の手間がひとつ増えているだけである*1)、その原則が崩れそうなときには暦に修正を加えてまで月が見えなくなる日を晦日にしていたのである。

だからツイタチやツゴモリの音変化が、「ツキ」という語の存在感を意図的に消すためであったという説は受け容れがたい。

そう思ってこれを書き、ますます目がさえてしまった。

*1
しいていえば、進朔は、午前零時を区切りとする暦学上の一日と、日の出を区切りとする生活上の一日との感覚のずれを解消させるための処理といえる。

2009-10-09

平安時代の暦、続き

前回の続き。

前回挙げた寛弘七年の図では、冬至は十一月のかなり終わりのほうに入っていたので、立春は一月の中頃に位置している。冬至が十一月のはじめのほうに位置する場合は、立春は十二月の中頃になる。二十四節気の区切りを示す上のモノサシと、月の区切りを示す下のモノサシとをずらしていくのを想像すればいい。中気から次の中気までの期間(気策、約30.4日)と月の長さの平均(朔望月、約29.5日)とはちょっと違うので厳密には合わないが、だいたいの傾向として立春は十二月と一月の変わり目ごろに位置するだろうということがわかる。要するに、「冬至のある月を十一月とする」という定義は、立春がおおむね一月一日ごろにくるようにするための工夫なのであった。

そういうわけで、「年の内に春は来にけり」というのは、立春が十二月に位置した場合で、これはとくにめずらしいわけでもなく、よく起こることであり、そういうよくあることについて歌っている、と。まあそれがわかったところで、この歌はどこまで真面目なのかよくわからんのだけど。

一年は354日の場合が多く、384日の時がたまにある(これらより一日ほど長さが変わる年もあるが)。この閏月のある年には、一年は長く感じられたことだろう。

年や日付には干支が割り当てられている。干支がなんだとかはここでは述べないが、ある年が「実際のところ」いつなのか、というのは干支の表記からはわかりづらい。そういう用途のために歴史的な年月日と西暦との対応を収録した本というのが存在する。内田正男『日本暦日原典』(第四版、雄山閣出版、1992年)などである。分厚いこの本はそのほとんどが暦日の対応表だが、末尾に暦についての解説と、宣命暦など旧暦の計算方法についての解説がある。じつをいうと前回と今回の記事はそこが面白かったので書いたようなものなのだ。数ページに要約された解説なので頭でいろいろ補わないといけないのだが、必要な情報は一通り載っている。(ここの趣旨に合わないので詳しくは書かないが、同解説をもとに宣命暦を計算するプログラムを書いてみたりもした。)

ところでウィキペディアの宣明暦の項にはこれを書いている現在「江戸時代初期には、二十四節気が実際よりも2日早く記載されるようになっていた」とあるが、これは「2日遅く」が正しい(岡田芳朗『暦ものがたり』角川選書、1982年、pp. 120-121)。

暦の計算とは直接関係しないが、『御堂関白記』には曜日の記載もある。岡田芳朗『暦ものがたり』によれば、七曜はユダヤ教に由来し、それが中国を経由して日本にやって来たものという (p. 98)。

七曜の繰り方は西洋のそれと全く同じで、東西が同一の曜日を使用していたのは、当然のことながら何か奇妙な感じがするものである。

(同書、p. 99)

『御堂関白記』記載の曜日がちゃんと現在のと連続しているということの確認例が『日本暦日原典』にある (p. 510)。

古文とはずいぶん関係ない話を二回も続けてしまった。暦についての話はこれで終わり。長引かせたくないから月木じゃないけど出しました。引き続き源氏物語を読んでるんだけど、まだまだでね。もう残された回数が少ないので、まだほかに紹介したい本とかについても書いておきたいのだけれど、最近調子があまりよくない。

2009-10-05

平安時代の暦

古文とは直接関係しないのだが、気分転換もかねて平安時代の暦についてちょっと調べていた。閏月とか、「年の内に春は来にけり」とはどういうことなのか。古文に出てくるこうした日時や節気の表現がどういうものなのかいまいちはっきりしなかったのだけど、だいたいわかったように思う。

平安時代に使われていたのは、宣明暦という暦である。暦マニアではないので、その制定の経緯とか精度については省略。で、この宣明暦というのは太陰太陽暦である。太陰太陽暦というのを、僕はいままで「旧暦」という言葉であいまいに把握していたが、これはかいつまんでいうと、こういうことになる。

  1. 季節のひとめぐりが一年になるようにする。これは当たり前のことのように思うけど、たとえば乱暴な話 1年 = 365日と日数を固定したような暦だと、季節と年はだんだんずれてくる。そういうことが起こらないように工夫されている暦であるということ。
  2. 月(天体のことね)の満ち欠けが月(こっちは日時の区切りかたのほう)の区切りを決定する。つまりその月の1日(ついたち)はかならず新月でありその月の中頃はいつも満月である。ひと月の長さは29日間か30日間のどちらかになる。前者は小の月、後者は大の月と呼ばれる。
  3. 一年の区切り目は月の区切り目に合わせられる。1. でいう季節のめぐりというのは太陽の運行による現象で、2. のほうは月の運行の結果によるものだから、両者はたがいに関係がない。したがって 1年 = nか月と定量的に決めてしまうことはできない。しかし、その日からが年の変わり目ですよ、という「その日」は月の初めの日に合わせられる。一月一日がいつもその年の第1日である。
  4. 結果として、一年は12か月か13か月のどちらかで運用されることになる。一年が13か月になる年は、ある理論(後述)によってそのうちのひと月が「閏月」とされる。閏月は前の月と同じ番号をつけて、「閏五月」などと呼ばれる。

太陽は天球上の黄道(黄道の説明は省略。ごめん。)を一年かかって一周する(この言いかたは同語反復的だけど)。北半球で太陽の位置がいちばん低くなる時が冬至で、宣明暦では冬至から次の冬至までを基準として一年を定義している。つまり、一年は12か月だったり13か月だったりするが、その一年間に冬至が二回入るということは絶対にない。一方、たとえば立春などは、ある年の年頭と年末の二回に含まれているということが起こりうる(例、寛弘四 (1007) 年)。

冬至から次の冬至までの期間を24等分して、それぞれの時点に名前を付けたのが二十四節気である。二十四節気は古語辞典の付録なんかだとたいてい春の立春から記載されているが、上の説明からすると、暦学的には冬至から始まっているということになる。二十四節気には中気と節気というのがあって、これは冬至が中気でそこから順に節気、中気と繰り返す。

いま、ある年の月の区切りが計算で得られたとして、それを記したタイムライン上に二十四節気の日時の各点を記していく。その結果、中気を含んでいる月が正式の月である。年によっては中気を含まない月ができるが、その月は閏月と呼ぶことになる。そして、冬至を含んでいる月が十一月であると定義されている。以降順に十二月、一月、二月……と、閏月を除いて割り振っていく。

太陰太陽暦の概要図。
(この図は死ぬほどがんばって作ったのでよく味わって見ていただきたい。)

以上が太陰太陽暦の暦の作られかたの概要だが、これを見ると、西暦の数字だけ見てその年の月の割り振りを簡単に決定できる太陽暦(グレゴリオ暦)はなんて簡単ですばらしいんだろうと思える。太陰太陽暦には宣明暦の他にも儀鳳暦とか大衍暦とかいくつかの種類があるが、やってることはどれも基本的には同じことで、違いは各種計算に用いる定数(観測精度の向上によって変化していく)や月齢計算に微妙な補正を入れるかどうかといったようなことである。

(続く)