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2011-12-02

松阪に行ってきた(続き)


6:00 に起きて朝食。

8:28 松阪 (近鉄特急京都行) 10:20 京都。

京都は都会だ。京都から地下鉄に乗って京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)へ。同じ敷地内に京都市立図書館がある。風俗博物館が「平成22年12月1日より約1年半休館」なので、その一部の展示がここに来ている。

期待して行ったけど、一フロアの特別展示室という感じで、ちょっと小さかった。平安京のジオラマと、「紅葉賀」の青海波のシーンがミニチュアで再現されたもの。参考にはなったけど。それにしても、青海波の場面は説明してくれたけど、ずいぶん忘れてるのかなあ。細かいところは「そんなのあったっけ」という感じだった。情けない。読みなおそう。

館内にはボランティアの説明員たちがうろうろして、来館者に話しかけては講釈をする。一人旅だからこちらも話し相手として慰めになるけど、ボランティアと聞くとなんだかうら悲しくも思う。京都の歴史や古典には(僕を含め)アマチュアがわんさかいるのだ。かれらは自分たちの話をしたくてしょうがない。それで定年後、ここで話し相手を漁るわけだ。なんだか自分が惨めに思えてきたよ……。ともあれ、東京の人間には京都市や平安京の大きさがわかりにくいという話などをした。

さて、枕草子に、碁盤の上に乗ってひとりでうんうんと苦労して格子を上げる場面がある。いままで僕はあれを、たまたまひとりだったからの臨時的な作業だと思っていた。つまり、ふだんは格子を上げる女房たちが、道具かなんか使ってひょいと上げるのだと思っていたのだ。ところが、ここのボランティアの方いわく、毎日毎朝ふつうに碁盤に乗って上げていたのだと説明する。僕は聞き返してしまった。ほんとうかなあ。なんだか行儀悪く感じるんだよなあ。正直なところ、この話はまだあまり信用できていない。毎日やる仕事なんだよ? 清少納言は碁盤運ぶのに、ひとりだからというのはあるけど、あんなに苦労してたじゃん。だいたい、碁盤に乗って上げるというのは(たぶんだけど)枕草子のあの箇所にしか出てきてないんじゃないかな。上げるのに道具のひとつもないというのも疑問を感じる。

牛車と引く牛について。牛は真っ黒なものを想像していたが、じつは黒地に白まだらの牛があって(もちろんホルスタインではない)これが珍重されたという。小笠原だかどこだかでいまでもいるらしい。見に行きたいな。これは知らなかった。乗るときは、脇に立つ従者が車の御簾を上げる。降りるときは、牛を離し、踏み台のようなものを出して前から降りる。源平盛衰記に、木曾義仲が車は後ろから乗って前から降りるのを知らなかったという話があるという(平家物語にもあったかな?)。

帰りはそのへんで蕎麦食って二条駅から地下鉄で京都へ帰る。観光はじゅうぶんにした。宣長だろうと式部だろうと、けっきょくは、古人はもう書き残された言葉の中にしかいない。観光地になっている旧跡を訪ねてみたり、当時を再現したセットを作ってみたりするのは、なにか、ほんとうにスパイス程度には想像に彩りを添えるが、そこには脈打って流れる古人の思考の現れはない。ときどき訪れて気晴らしをするにはいいけれども、最後にはまた言葉の中に潜って、書物の中に帰っていかなくてはならない、と思った。

2009-10-15

おうなのけさう

『新猿楽記』のことを書いた時にちょっと触れた、「老女の化粧」について。

新体系の註によれば、現存しない枕草子の「すさまじきもの」の段のくだりは、河海抄などに「すさまじきもの。十二月(しはす)の月、嫗(おうな)の懸想(けしやう)」とあったとされ、二中歴・十列には「冷物(すさまじきもの)十二月月夜…老女化借(けさう)…」とある、という(「朝顔」p.264)。

そうか、「けさう」「けしやう」では「懸想」か「化粧」かは区別つかないのか。意味としてはどっちも通るしね。あとは「二中歴・十列」というのがどういうものなのかよくわかってないが……。

2009-09-07

平安貴族の自然観、続き

前回からの続き。

〔二二六〕 賀茂へまゐる道に、田植うとて、女のあたらしき折敷のやうなるものを笠に着て、いとおほう立ちて歌をうたふ、折れ伏すやうに、また、なにごとするとも見えでうしろざまにゆく、いかなるにかあらむ。をかしと見ゆるほどに、ほととぎすをいとなめううたふ、聞くにぞ心憂き。「ほととぎす、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」とうたふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とはいひけん。仲忠が童生ひいひおとす人と、ほととぎす鶯におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。

〔二二七〕 八月つごもり、太秦に詣づとて見れば、穂に出でたる田を人おほく見さわぐは、稲刈るなりけり。早苗取りしかいつのまに、まことにさいつころ賀茂へ詣づとて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは男どもの、いとあかき稲の本ぞ青きを持たりて刈る。なににかあらんして本を切るさまぞ、やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかでさすらむ。穂をうち敷きて並みをるもをかし。庵のさまなど。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 263-264)

やっぱり新日本古典文学大系版が欲しいなあ……。一応、拙訳。

〔二二六〕 賀茂に参詣する道すがら、田植えをするということで、新しいお盆のようなものを笠にかぶっては立ち並んで歌をうたっている女たち、折れ伏すように、なにをするふうでもなく後ろ向きに進んでゆく。どういうわけかと不思議に思って見ていると、ほととぎすを愚弄する歌をうたっているのが聞こえてきていやな気分になる。「ほととぎす、あんた、あいつさ、あんたが鳴くので、おれは田植えだ」とうたっているが、いったい「いたくな鳴きそ(あんまり鳴くな)」と言ったのはどういう人だったのだろうか。仲忠の出生を言い落とす人と、ほととぎすは鶯に劣るという人は、まったくもって許し難いのである。

〔二二七〕 八月晦日、太秦へお参りに出かけてふと目をやると、穂のなった田を見てみなが騒いでいる。稲刈りであった。「早苗取りしかいつのまに」、先日賀茂参りのときにに見た稲が、まったく立派になったものである。これを、男たちが赤い稲の本の青いところを持って刈り取る。なにやら道具を使って根元を切っていくさまが、たやすげで、いつまでも続けていたくなりそうだ。なんのためだか、穂を敷いて並べているのもおもしろい。庵のさまなど。

二二六段が笑えるのは、話がそれているというところだ。めずらしい光景を目にした素朴な驚きが、些細なきっかけで理不尽な憤慨に変わり、それがそのまま「むかつくあいつら」への八つ当たりになってしまう。こういう人いるよね。

仲忠というのは『うつほ物語』の登場人物で、出生云々とは、作品中の二大主人公である涼、仲忠のどちらを贔屓にするかという定番の話題があって、そういうときに涼方の連中はきまって「仲忠は生い立ちが卑しい」と因縁をつけたのである。ほととぎすと鶯も、春の鳥として歌の世界では一種のライバル関係にある。まあ罪のない農民からすればいい言いがかりだ。

「早苗取りしかいつのまに」は「古今集」秋上の「昨日こそ早苗取りしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く」から。歌われている感慨そのものをまさに実感したというわけだ。ちなみに賀茂参りは五月のこと。

ここを読んで、おもしろいとは思ったものの、貴族階級の人間の思考の限界を見たような気もした。かれらは農作業の光景を前にしても、そこに物語や歌のトピックを彩る記号しか見ていない。和歌の世界にどっぷりすぎて、あまりにたやすく目の前の現実から目がそれてしまう。うらやましくもあり、気の毒でもある(いや、本音を言うとうらやましくはない)。

でもこうして清少納言が書いてるってことは、観察眼がないわけでもないんだよね。ただ、稲の根元をどうやって刈るか、なんてことは(「をかし」にはなっても)「あはれ」には結びつかない。だから「あはれ」の文学である『源氏物語』の描写には出てこないんだろう。それを考えると、『枕草子』は、ほかの仮名文学が書くに値しないとして見落としてきたことを書いたという意味で、やはりすごいのだといえる。ただ自己顕示欲が強いだけでは、こうした記述を残すことはできないと思う。

2009-06-08

雑纂

『枕草子』中の「……(なる)もの」で始まる章段群は、雑纂的章段と呼ばれている。この形式の原点として唐の李商隠による『雑纂』という本がある。僕はこれを漢文の入門書、『詳解漢文』(昇龍堂出版)から知った (p.435)。

それがどこか読めるところはないかと探してみたら、早大の図書館が「古典籍総合データベース」と称して古典籍の写真を公開していて、そこに江戸末期に出版された『雑纂』があった。やるじゃんワセダ。『雑纂. 上,下』墨江岸田桜(岸田吟香)校訂、文久二 (1862) 年。李商隠のオリジナルは上巻のほうである。あとは後人によるもの。(現在読める出版物で『雑纂』を所収しているものがあったら教えてください。)

さてその内容は、

必不レ来

酔客逃レ席、客作偸レ物去 逐二王侯一家人、把レ棒呼レ狗、窮措大喚二妓女一、

また、

殺風景

花間喝道、看レ花涙下、苔上鋪レ席、斫二却垂柳一、云々

この『雑纂』というのは『詳解漢文』によれば、「だいたい酒令(勝負に負けたり、しくじったりした者に酒を飲ませること)のために、問題のうまい答えを書いたものといわれています」とのこと(同頁)。ネタ帳のようなものか。題があって、それにふさわしいものを機知を交えて挙げるという形態は、たしかに枕草子と共通している。

分量は枕草子のそれと比べるとずいぶん少ない。また内容的に共通しているものは見られないようだ(ざっと見た限りでは)。古今の序文に見られるような、漢籍からの直接的な影響の一例としては同列には語れない雰囲気である。清少納言の頭に『雑纂』はあったろうが、内容的にはあくまで自分の思うままに書いたといったところかね。

2009-06-01

下衆のことばには必ず文字あまりたり

小松英雄『日本語はなぜ変化するか』(笠間書院、1999年)では、『枕草子』の「下衆《げす》のことばには必ず文字あまりたり」というくだりについて、これが庶民層においてすでに表出していた終止形の連体形化現象のことではないかと推測している (p. 167)。ここはおもしろかった。

中古の動詞の連体形は、四段および上一段(あと「蹴る」一語の下一段)活用動詞では終止形と(文字の上では)変わらないが、その他の動詞ではすべて見かけ上終止形に「る」が付いた形になっている。音節としてはひとつ「あまる」ことになる。

以前同書から引用した、やはり枕草子中の、「いはんとす」と言うべきところを「いはんずる」と言う者がいる、という箇所を思い出すと、なるほど後者は連体形終止の形をとっている。このことは枕草子を読んだ時から気になってたんだけど、清少納言の癪に障ったのは、音便縮約のほうもあるのかもしれないが、ここではむしろ連体形終止のことを言っていたかもしれないわけか。そしてそれを考えると、「下衆のことばには云々」が連体形終止の言葉遣いを批難するものだったというのには説得力がある。

2009-05-14

老女と十二月の月夜

第一本妻者、齡既過六十而、紅顏漸衰。夫年者、僅及五八而、好色甚盛矣。蓋弱冠奉公之昔、偏耽舅姑之勢徳、長成顧私之今、只悔年齡懸隔。見首髮、皤々如朝霜。向面皺、疊々如暮波。上下齒缺落、若飼猿頬。左右乳下垂、似夏牛〓(※モンガマエに「由」)。雖到氣装、敢無愛人。宛如極寒之月夜。……

(藤原明衡著、川口久雄訳注『新猿楽記』平凡社、東洋文庫、1983年、p. 36)

上の文の読み下し。

第一ノ本《モト》ノ妻《メ》ハ、齢既ニ六十ニ過ギテ、紅顔漸ク衰ヘタリ。夫ノ年ハ、僅ニ五八ニ及ビテ、好色甚ダ盛ナリ。蓋シ弱冠ニシテ公ニ奉《ツカヘマツ》リシ昔ハ、偏《ヒトヘ》ニ舅姑《シウトシウトメ》ノ勢徳ニ耽《フケ》リ、長成シテ私ヲ顧《カヘリミ》ル今ハ、只年齢ノ懸隔ナルコトヲ悔ユ。首《カウベ》ノ髪ヲ見レバ、皤々《ハハ》トシラゲタルコト朝《アシタ》ノ霜ノ如シ。面《オモテ》ノ皺ニ向ヘバ、畳畳《デウデウ》トタタメルコト暮《ユウベ》ノ波ノ如シ。上下ノ歯ハ欠ケ落チテ、飼猿《カヒザル》ノ頬《ツラ》ノ若《ゴト》シ。左右ノ乳《チ》ハ下ガリ垂レテ、夏ノ牛ノ〓(※モンガマエに「由」)《フグリ》ニ似タリ。気装《ケシャウ》ヲ致ストイヘドモ、敢ヘテ愛スル人無シ。宛《アタカ》モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ。……

(同書、p. 37)

そして同書の証注から。

▽極寒ノ月夜ノ如シ―師走(十二月)の寒夜にいくら月が明らかに照っても、賞玩する人がないようなものだ、の意。当時の諺。『二中歴』十列に「冷ジキ物 十二月ノ月夜 十二月ノ扇 十二月ノ〓(※クサカンムリに「ヨヨ」「尒」)水 老女ノ仮借《ケシヤウ》」。
『河海抄』に「清少納言枕草子 すさまじき物 おうなのけさう しはすの月夜と云々」とある。

(同書、p. 41)

これは藤原明衡《あきひら》という人の『新猿楽記《しんさるがくき》』という本からの引用。この作品自体の紹介もまたあとで書くつもり(仮名文学じゃないんだけど)。成立は1052年前後(同書、p. 320)というから、枕草子や源氏物語から半世紀ほど下ったあたりである。

引用したところは、右衛門尉という人物の第一の妻を描写したところである。源氏の源典侍をさらにグロテスクにしたような怪女だが、ここに「宛モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ」とある。

証注の引用を見ると、『二中歴』と『河海抄《かかいしょう》』からの用例が引かれている。『二中歴』という本は僕は知らなかったのだけど、ウィキペディアによれば鎌倉時代の事典とのこと。『河海抄』はいわずと知れた源氏物語の注釈書である。

さて、この「しはすの月夜」が『枕草子』で「すさまじきもの」として挙げられているというのは古文の世界では有名なんだけど、にもかかわらず、現存する枕草子の「すさまじきもの」の段にはこの「しはすの月夜」は入っていない。ではなんでそれが有名になってるのかというと、『源氏物語』で紫式部が清少納言へのあてこすりとして、「十二月の月を『すさまじきもの』とか言った、わかってないヒトもいたそうですが云々」みたいなことを書いたからである(大野晋、丸谷才一著『光る源氏の物語』上、中公文庫、p. 354)。『河海抄』や『紫明抄』が書かれた当時の枕草子にはまだこの記述が残っていた。だからこれらの本の注釈に(当時の)枕草子からの引用が残っていて、それでこんにち知られているというわけ。

雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつゝ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮れに、人の御かたちも光まさりて見ゆ。「時々につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、この夜のほかの事まで思ひ流され、おもしろさもあはれさものこらぬをりなれ。すさまじきためしに言ひおきけむ人の心あささよ」とて、御簾巻き上げさせ給ふ。

(新日本古典文学大系『源氏物語』二「朝顔」、p. 268、一部表記を改める)

「御簾巻き上げ」のダメ押し付き。

この「しはすの月夜」「おうなのけさう(老女の化粧)」が「すさまじ」というのは、清少納言の(漢籍などによらない)オリジナルだったのだろうか(『新猿楽記』の注には「当時の諺」って書いてあるけど……)。もしそうだとしたら、明衡がこの箇所を書いた時には、明らかに(当時の)枕草子が念頭にあったということだよね。そして鎌倉時代の事典にもすっかり定着していたと。そう考えると、平安時代の女流文学のメインストリームっぷりにあらためて驚かされる。

また「しはすの月夜」云々のくだりはどうして現存していないのか、素人ながらそれをいろいろ想像するのも楽しい。

あともう漢文は引用したくないと思った。超めんどくさい。

2009-04-16

三巻本と能因本との違いの例

先日紹介した枕草子の落窪物語に言及している箇所について、訳を作る参考にしようと能因本底本のほうもちょっと見てみたのだけど、するとここは三巻本とは文がちょっと違っているところであった。

三巻本底本の岩波文庫版からの引用をもう一度載せる。

雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)

これに対して、能因本底本の笠間文庫版はこうなっている。

雨は、心もとなき物と思ひ知りたればにや、時降るもいとにくくぞある。やんごとなき事、おもしろかるべき、たふとくめでたかるべき事をも、雨だに降れば、言ふかひなくくちをしきに、何かとて濡れてかこちたらむが、めでたからむ。げに、交野の少将もどきたる落窪の少将などは、足洗ひたるは、にくし。きたなかりけり。交野は馬のむくるにもをかし。それも、昨夜、一昨日の夜ありしかばこそ、をかしかりけれ。さらでは、何かは。

(松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』笠間書院、2008年、p. 329)

なかなか興味深い違いだと思うんだけど、どうだろう。僕はまだ笠間文庫版を最初から通しては読んでいないので、この部分だけの印象で語ってしまっては危ないけれど……。

能因本の「心もとなき」とか「かこちたらむ」のあたりはちょっとあやしいよね。「こころもとなし」の「待ち遠しくて心がいらだつ。じれったい。/気がかりだ。不安だ。/ぼんやりしている。はっきりしない。/不十分でもの足りない。」という意味は(旺文社『全訳古語辞典』第三版)、文意からするとそぐわないし、「かこちたらむ」は「文句を言うのが云々」じゃなくて、やっぱり三巻本の「かこちきたらむ」すなわち「文句を言いながら来るのが云々」となってないと言い足りてない。「交野は馬の云々」は脚注にも「不審」となっていて、意味がわからなくなっているのが残念だ。

しかし、どちらも全体で言っていることまで違っているわけじゃないよね。かといって、書写の段階で生まれるようなバリアントではあり得ない。ここにいろいろと想像を巡らす余地があるわけで……。定説によれば、能因本系統のほうは清少納言が後になって書き改めたバージョンではないかということになっているそうで。他人がこういう書き換えを実践する動機もないだろうというわけだろう。このあたりの研究もなかなか面白そうなところ。

2009-04-09

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし

落窪物語は、枕草子にもその名が見えている。

雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)

拙訳。

雨は風情のないものとの思い込みがあるからだろうか、少し降るだけでも嫌なものである。高貴なこと、明媚なこと、尊くめでたいことも、雨が降ってしまえばそれだけで台無しになってしまう。男が文句を言いながら濡れてやって来るところがいいなどと、どうしていうのであろうか。

交野の少将を非難していた落窪の少将などはまあ例外である。とはいえ、それも前夜、前々夜があってのことで、足を洗ったりなどしてひどいものである。不潔だ。

雨の日に濡れながら男がやってくるのがいいというのは、「身を知る雨」といって、雨が降ると男がめんどくさくなって女のもとに来なくなる。それで「ああ、その程度の愛情だったのか」と女が「身の程を知る」という、そういう当時の通念みたいなものがあった。そこから来ている。雨にも負けず男が来るのというのが、当時の(一部の)女性たちにとっての憧れのワンシーンみたいになっていたのだろう。そういう阿呆な幻想に対して異を唱えているわけである。落窪の少将(男君)は雨の夜に女君のもとに通ってきたが、それは三夜続けて通って結婚が成立する、その大事な三夜目だったからいいのだと。

参考歌。

かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(古今和歌集、恋 4)

『蜻蛉日記』に、作者道綱母とその夫兼家との切れそうで切れない関係を表す鍵として、この身を知る雨というのがたびたび出てきたように思う。あとで見つけたらここに載せよう。道綱母は兼家に見捨てられたと思って悲しんだり怒ったりするのだが、兼家が嵐の日とかに突然やってくると、(それが兼家のご機嫌取りの作戦だとわかっていながら、)なんだかんだいって内心嬉しくて浮かれたりするのである。人間ってバカだよね。

「足洗ひたる云々」の話はまた後日。

2009年4月12日追記。なんかむちゃくちゃな展開の文章になっていたので修正。

2009-03-30

枕草子[能因本]

例の大工の食事の話は、枕草子の能因本に含まれているもので、三巻本には存在しない段だということを以前コメントで教えていただいた。運良く、能因本を底本とする小学館の「日本古典文学全集」版『枕草子』は地元の図書館に架蔵されてました。(小学館はその後刊行された「新日本古典文学全集」では三巻本底本に切り替えられている。)

さて、最近、笠間書院から能因本を底本とした新しい枕草子が出てるのを見つけた。笠間文庫「原文&現代語訳シリーズ」松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』(2008年)である。校訂者は日本古典文学全集と同じ方々で、日本古典文学全集版の「後継版」といえる。

「『三巻本』が一般化され『能因本』のテキストの入手がやや困難となっている現状を鑑み、ここに同じく能因本を底本とする『完訳 日本の古典「枕草子」一・二』を一冊とし、本書を刊行した次第である」と、日本古典文学全集での能因本収録にあたっての解説とほぼ同じ主旨のことが書かれているのがおもしろい。

日本古典文学全集にあった解説、年表、関係系図も収録されている。日本古典文学全集には絵がやたらモダンな『枕草子絵巻』も所収されていたが、これはない。「能因本には見えない、三巻本系統の章段」も入っている。

バージニア大の電子テキスト版『枕草紙』には、クレジットに Publisher として "Tokyo: Yuhodo, 1929" と書かれている。ウィキペディアの記述を信用するなら、これは「昭和四年(1929年)有朋堂刊の能因本系本文を底本とする」ものらしい。「工匠の物くふこそ」云々も入っているね。

2009-02-12

枕草子、大工の食事

この話は別の所でしたことがあるんだけど、ここに書くのは初めてなので最初から書こう。

『日本料理の歴史』という本に、枕草子にある話としてこんなことが書いてある。

清少納言の『枕草子』に大工たちの食事を描写したところがある。彼らは食べ物が運ばれてくるのを今や遅しと待ちうけていて、汁物がくると、みな飲んでしまい、空になった土器を置いてしまう。次におかずがくると、これもみな食べてしまってもうご飯はいらないのかと思っていると、ご飯もあとからくるとまたすぐなくなってしまった、といって「いとあやしけれ」というわけである。汁と飯、お菜と飯とを交互に食べていくのが今も続く和食の食べ方だが、お腹のすいた大工には、そんな作法は関係なかったようである。

『枕草子』の記事では、大工の食事がどの時間のものであったかわからない。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 40-41

ふーん、おもしろい、と思うでしょ。自分もそう思った。だけどこの本を読んでいたときは、まだ枕草子は途中だったから、あとでこういう話が出てくるんだな、と思うくらいで読み流した。

ところが読み終わってみると、こんな話、枕草子のどこにもなかったのだ。これはいったいどうしたことか。活字になっている本に出てるならその出典か、あるいはせめて原文の引用でもあればよかったんだけど、それもない。しかたなくこれは僕の中でずっと謎のままになっていて、あるいは『徒然草』か何か、別の文献からの引き間違いかとも思うようになっていた。

これが去年までの話。

しかし最近になって、『玉勝間』にこんなことが書かれているのを見つけた。

又、いはゆる菜をば、昔はあはせといへり、清少納言枕册子などに見ゆ、

本居宣長『玉勝間』岩波文庫、p. 221

この「あはせ」というのは、古語辞典には「飯にそえるもの。おかず。副食物」として載っている(旺文社『全訳古語辞典』第三版)。しかし岩波文庫版の枕草子におかずのこととして「あはせ」という語が出ていたという記憶がない。というか、おかずがどうこうとか、そういうことを書いた段があったという記憶がない。

ひょっとするとこれが『日本料理の歴史』に出ていた大工の食事の段なんだろうか。底本によって段の異同があるから、そのひとつなのかもしれない。引き続き要調査。