第一本妻者、齡既過六十而、紅顏漸衰。夫年者、僅及五八而、好色甚盛矣。蓋弱冠奉公之昔、偏耽舅姑之勢徳、長成顧私之今、只悔年齡懸隔。見首髮、皤々如朝霜。向面皺、疊々如暮波。上下齒缺落、若飼猿頬。左右乳下垂、似夏牛〓(※モンガマエに「由」)。雖到氣装、敢無愛人。宛如極寒之月夜。……
(藤原明衡著、川口久雄訳注『新猿楽記』平凡社、東洋文庫、1983年、p. 36)
上の文の読み下し。
第一ノ本《モト》ノ妻《メ》ハ、齢既ニ六十ニ過ギテ、紅顔漸ク衰ヘタリ。夫ノ年ハ、僅ニ五八ニ及ビテ、好色甚ダ盛ナリ。蓋シ弱冠ニシテ公ニ奉《ツカヘマツ》リシ昔ハ、偏《ヒトヘ》ニ舅姑《シウトシウトメ》ノ勢徳ニ耽《フケ》リ、長成シテ私ヲ顧《カヘリミ》ル今ハ、只年齢ノ懸隔ナルコトヲ悔ユ。首《カウベ》ノ髪ヲ見レバ、皤々《ハハ》トシラゲタルコト朝《アシタ》ノ霜ノ如シ。面《オモテ》ノ皺ニ向ヘバ、畳畳《デウデウ》トタタメルコト暮《ユウベ》ノ波ノ如シ。上下ノ歯ハ欠ケ落チテ、飼猿《カヒザル》ノ頬《ツラ》ノ若《ゴト》シ。左右ノ乳《チ》ハ下ガリ垂レテ、夏ノ牛ノ〓(※モンガマエに「由」)《フグリ》ニ似タリ。気装《ケシャウ》ヲ致ストイヘドモ、敢ヘテ愛スル人無シ。宛《アタカ》モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ。……
(同書、p. 37)
そして同書の証注から。
▽極寒ノ月夜ノ如シ―師走(十二月)の寒夜にいくら月が明らかに照っても、賞玩する人がないようなものだ、の意。当時の諺。『二中歴』十列に「冷ジキ物 十二月ノ月夜 十二月ノ扇 十二月ノ〓(※クサカンムリに「ヨヨ」「尒」)水 老女ノ仮借《ケシヤウ》」。
『河海抄』に「清少納言枕草子 すさまじき物 おうなのけさう しはすの月夜と云々」とある。(同書、p. 41)
これは藤原明衡《あきひら》という人の『新猿楽記《しんさるがくき》』という本からの引用。この作品自体の紹介もまたあとで書くつもり(仮名文学じゃないんだけど)。成立は1052年前後(同書、p. 320)というから、枕草子や源氏物語から半世紀ほど下ったあたりである。
引用したところは、右衛門尉という人物の第一の妻を描写したところである。源氏の源典侍をさらにグロテスクにしたような怪女だが、ここに「宛モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ」とある。
証注の引用を見ると、『二中歴』と『河海抄《かかいしょう》』からの用例が引かれている。『二中歴』という本は僕は知らなかったのだけど、ウィキペディアによれば鎌倉時代の事典とのこと。『河海抄』はいわずと知れた源氏物語の注釈書である。
さて、この「しはすの月夜」が『枕草子』で「すさまじきもの」として挙げられているというのは古文の世界では有名なんだけど、にもかかわらず、現存する枕草子の「すさまじきもの」の段にはこの「しはすの月夜」は入っていない。ではなんでそれが有名になってるのかというと、『源氏物語』で紫式部が清少納言へのあてこすりとして、「十二月の月を『すさまじきもの』とか言った、わかってないヒトもいたそうですが云々」みたいなことを書いたからである(大野晋、丸谷才一著『光る源氏の物語』上、中公文庫、p. 354)。『河海抄』や『紫明抄』が書かれた当時の枕草子にはまだこの記述が残っていた。だからこれらの本の注釈に(当時の)枕草子からの引用が残っていて、それでこんにち知られているというわけ。
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつゝ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮れに、人の御かたちも光まさりて見ゆ。「時々につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、この夜のほかの事まで思ひ流され、おもしろさもあはれさものこらぬをりなれ。すさまじきためしに言ひおきけむ人の心あささよ」とて、御簾巻き上げさせ給ふ。
(新日本古典文学大系『源氏物語』二「朝顔」、p. 268、一部表記を改める)
「御簾巻き上げ」のダメ押し付き。
この「しはすの月夜」「おうなのけさう(老女の化粧)」が「すさまじ」というのは、清少納言の(漢籍などによらない)オリジナルだったのだろうか(『新猿楽記』の注には「当時の諺」って書いてあるけど……)。もしそうだとしたら、明衡がこの箇所を書いた時には、明らかに(当時の)枕草子が念頭にあったということだよね。そして鎌倉時代の事典にもすっかり定着していたと。そう考えると、平安時代の女流文学のメインストリームっぷりにあらためて驚かされる。
また「しはすの月夜」云々のくだりはどうして現存していないのか、素人ながらそれをいろいろ想像するのも楽しい。
あともう漢文は引用したくないと思った。超めんどくさい。
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