鶯よなどさは鳴くぞちやほしきこなべやほしきははやこひしき
これは、まま母のもとに在りけるに、ちひさきつちなべの有りけるを、わがはらの子にはとらせて、このまま子にはとらせざりければ、鶯の鳴くを聞きてよめる歌なり。
(新日本古典文学大系29『袋草紙』、pp. 164-165)
これは泣ける……。
『古今和歌六帖』という歌集がある。これは万葉以来の秀歌数千首を「春」「夏」「山」「恋」といったテーマ別に分類して収録している本で、歌集というか、歌学の参考書みたいなアンソロジーだ。いま四つほど題材の例を挙げたけど、じつはその分類はかなり細かく、ほかにはたとえば「衣がへ」「星」「炭竈」「鮎」「ないがしろ」「一夜隔てたる」「二夜隔てたる」「来れど逢はず」等々と数百に渡ってある。「こういうシチュエーションを詠むときは、ええっと……」というときに引ける、かなり実用志向の本だったのだろう。
だからこれは平安時代の和歌を知るのにたいへん重要な本だと思うんだけど、活字でそれを読もうとするとこれがなかなか難しい。いま売られている古典文学の全集にはどれにも入ってないと思う。歌自体はほかの勅撰集や私家集にあるものばかりだからかな。しかし、平安貴族のネタ帳という意味でそのありさまには興味がわくところ。過去には久松潜一、山岸徳平監修『校註新訂 日本文學大系第十三巻』(風間書房、1955年)や、宮内庁書陵部編の上下二冊からなる『古今和歌六帖』(養徳社、1967, 1969年)などが出ていたようだ。
さて、風間書房の日本文學大系版が幸い図書館にあったので、さっそく手にしてその解題を読んでいたら、こんなふうに書いてあった。
撰者の漠然たるが如く撰時も明らかでない。集中の作者を以て契沖は寛和の頃(一六四五—四六)と推定したけれども、蜻蛉日記に引用したと見られる古今六帖の和歌などから推すに、或は天徳、應和の頃(一六一七—一六二三)の頃のものでは無からうかと思ふ。蓋し源順集によれば、天暦五年に次の如く梨壺に和歌所を置かせられた。
(久松潜一、山岸徳平監修『校註新訂 日本文學大系第十三巻』、p. 10、風間書房、1955年)
流して読んでたが、ふと年代の記述で目を疑った。一六四五? 『古今和歌六帖』は平安時代の書物のつもりでいたけど、もしや自分はとんでもない思い違いをしていたのか? ……と、焦ったが、その後すぐに気づいた。これ、皇紀だ。うおー。古い本とはいえ戦後だよ。国文学の本はすげえな。
と、内容と関係ないところで驚きましたとさ。
帥大納言云はく、「女房の歌読み懸けたる時は、これを聞かざる由を一両度不審すべし。女房また云ふ。かくのごとく云々する間、風情を廻らし、なほ成らずんばまた問ふ。女房はゆがみて云はず。その間なほ成らずんば、『別の事に侍ひけり』とて逃ぐべし。これ究竟《くつきやう》の秘説なり」と云々。
ある説には、「返歌を髣髴《ほのか》にその事となく云ふを、女房聞かざるの由を云ひて、またみさみさと云ふ。なほ聞かざるの由を云ふ時、『別の事に侍ひけり』とて逃ぐべし」と云々。また同じく、「女房のそへ事云ふには、知らざる事ならば、『さしもさぶらはじ』と答ふべし。いかにも相違なき答」と云々。
先年ある女房の許に小貝卅一に歌を一文字づつ書きて、ある人これを送る。女房予に歌を読み解くべきの由を示す。およそ力及ばず。仍りて萩の枝を折りてその葉にその事となき字を卅一、葉ごとに書きてこれを遣はす。件の所にまた読むことを得ず。両三日を経るの間、萩の葉枯れて字見えず。遺恨となすと云々。一説なり。
(新日本古典文学大系29『袋草紙』、pp. 26-27)
拙訳。
帥大納言(源経信)いわく、「女房が歌を詠んできた時は、聞こえなかったからと一、二度聞き直すとよい。女房がまた言ってくる。そうしている間に(返歌を)あれこれ推敲して、まだできなければもう一度聞き直す。そのうち女房のほうはふてくされて言ってくれなくなるが、それでもまだできあがらなければ『別の用事を思い出しました』といって逃げればよい。これ究竟の秘説である」と。
またある説には、「返歌を小さな声で、なにを言っているのかわからないくらいで言うと、女房は聞こえませんでしたと言ってくるから、またごにょごにょと言う。しつこく聞き返してきたら『別の用事を思い出しました』と言って逃げるべし」と。また同様に、「女房がなにか利発なことを言ってきたものの、意味がよくわからないという時には、『ははは、そんなことはありますまい』と言っておけばよい。たいていの場合はうまくはまってくれる」という。
先年、ある人がある女房のもとに小貝三十一枚に歌を一文字ずつ書いて送ってきた。女房は書かれた歌を読み解いてくれと、私のところにそれを持ってきた。さっぱりわからない。そこで萩の枝を折って、その葉の一枚一枚に、三十一文字、でたらめに書き付けてその女房に送ってやることにした。先方もさっぱり読み取ることができない。二、三日もすれば、萩の葉のほうは枯れてしまって、なんの字が書いてあったかもわからなくなる。してやられたと悔しがっていたが、これも一つの手である。
こいつらなにやってんだ。
※ ものものしい題を付けていますが、中身はただの与太話です。
駅のホームで高校生らしき集団がバカ話に花を咲かせては爆笑していて、僕は停車中の電車の中からそれをぼーっと見ていた。すると、その中の女の子がひとしきり笑ったあと、
「まじうけるんだけど(笑)!」
と言った。これを聞いたとき、この「逆説の条件節が強調表現になるとき」という言葉が頭に電撃のごとくひらめいた。「うけるんだけど」どうだというのか? どうでもないのだ! これだ、と思ったね。
「けど(けれど)」はもちろん接続助詞で、辞書の言葉を借りると「(ア)実際に起こった、または確かな事柄をあげ、それにもかかわらず(普通にはこれと矛盾するような)他の事柄が成り立つ意を表す(「けれど」『岩波国語辞典』)」。それともうひとつ、「《(ア)の用法で「けれど」のあとを表現せず言いさしのままで》相手の反応を待つ気持を表す。「行きとう存じます—」。転じて、ものやわらかな表現として使う(同項)」というのがある。しかし上記の例は「ものやわらかな表現」とはほど遠い。
これは強調だよね。この「けど」は、もはや逆説とかなにかの言いさしじゃない。「あんたうざいんだけど」と言われたら、それは「あんたうざいんだけど(、ほんとはお慕いしています)」の省略とかではなく、ただただうざいと思われているだけだ。勘違いしちゃいけない。
さて、条件節が強調表現になるといえば、コソ+已然形の係り結びだ。「昨日こそ早苗取りしかいつのまに」の「こそ」と「しか(キ)」。これは大野晋『係り結びの研究』に詳しい話なんだけど、コソ+已然形はもとは条件節を表す表現だった。それが古今集の頃には単純な強調表現になっていく。
たとえば先ほどの歌は「つい昨日早苗をつまんだばかりだというのに、いつのまにか」秋になってしまったなあ、という意味だから、まだ逆接の気持ちが残っている。ところが、
あふ坂の関に流るる岩清水いはで心に思ひこそすれ(古今五三七)
あたりの逆説か単純強調か微妙な表現を経由して、
雪ふりて年のくれぬる時にこそ遂にもみぢぬ松も見えけれ(古今三四〇)
のような単純強調表現が完成する(同書、p. 128)。するんだけど、逆説表現が強調になるって言われても、よく考えるとすんなりとは思い描きにくいところがないでもない。だけど現代語のこういう例を考えると似たようなもんなのかもね。
雪のいと高うはあらで、うすらかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ。(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 229)
雪があまり積もらずにうっすらと降っているのとか、まじをかしいんだけど!
ああ、わりといけるな。
(一応お断りしておきますが、これは与太話だからね。コソ+已然形が現代語の「けど」と同じニュアンスだとか本気で思わないように。)
前回からの続き。
〔二二六〕 賀茂へまゐる道に、田植うとて、女のあたらしき折敷のやうなるものを笠に着て、いとおほう立ちて歌をうたふ、折れ伏すやうに、また、なにごとするとも見えでうしろざまにゆく、いかなるにかあらむ。をかしと見ゆるほどに、ほととぎすをいとなめううたふ、聞くにぞ心憂き。「ほととぎす、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」とうたふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とはいひけん。仲忠が童生ひいひおとす人と、ほととぎす鶯におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。
〔二二七〕 八月つごもり、太秦に詣づとて見れば、穂に出でたる田を人おほく見さわぐは、稲刈るなりけり。早苗取りしかいつのまに、まことにさいつころ賀茂へ詣づとて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは男どもの、いとあかき稲の本ぞ青きを持たりて刈る。なににかあらんして本を切るさまぞ、やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかでさすらむ。穂をうち敷きて並みをるもをかし。庵のさまなど。
(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 263-264)
やっぱり新日本古典文学大系版が欲しいなあ……。一応、拙訳。
〔二二六〕 賀茂に参詣する道すがら、田植えをするということで、新しいお盆のようなものを笠にかぶっては立ち並んで歌をうたっている女たち、折れ伏すように、なにをするふうでもなく後ろ向きに進んでゆく。どういうわけかと不思議に思って見ていると、ほととぎすを愚弄する歌をうたっているのが聞こえてきていやな気分になる。「ほととぎす、あんた、あいつさ、あんたが鳴くので、おれは田植えだ」とうたっているが、いったい「いたくな鳴きそ(あんまり鳴くな)」と言ったのはどういう人だったのだろうか。仲忠の出生を言い落とす人と、ほととぎすは鶯に劣るという人は、まったくもって許し難いのである。
〔二二七〕 八月晦日、太秦へお参りに出かけてふと目をやると、穂のなった田を見てみなが騒いでいる。稲刈りであった。「早苗取りしかいつのまに」、先日賀茂参りのときにに見た稲が、まったく立派になったものである。これを、男たちが赤い稲の本の青いところを持って刈り取る。なにやら道具を使って根元を切っていくさまが、たやすげで、いつまでも続けていたくなりそうだ。なんのためだか、穂を敷いて並べているのもおもしろい。庵のさまなど。
二二六段が笑えるのは、話がそれているというところだ。めずらしい光景を目にした素朴な驚きが、些細なきっかけで理不尽な憤慨に変わり、それがそのまま「むかつくあいつら」への八つ当たりになってしまう。こういう人いるよね。
仲忠というのは『うつほ物語』の登場人物で、出生云々とは、作品中の二大主人公である涼、仲忠のどちらを贔屓にするかという定番の話題があって、そういうときに涼方の連中はきまって「仲忠は生い立ちが卑しい」と因縁をつけたのである。ほととぎすと鶯も、春の鳥として歌の世界では一種のライバル関係にある。まあ罪のない農民からすればいい言いがかりだ。
「早苗取りしかいつのまに」は「古今集」秋上の「昨日こそ早苗取りしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く」から。歌われている感慨そのものをまさに実感したというわけだ。ちなみに賀茂参りは五月のこと。
ここを読んで、おもしろいとは思ったものの、貴族階級の人間の思考の限界を見たような気もした。かれらは農作業の光景を前にしても、そこに物語や歌のトピックを彩る記号しか見ていない。和歌の世界にどっぷりすぎて、あまりにたやすく目の前の現実から目がそれてしまう。うらやましくもあり、気の毒でもある(いや、本音を言うとうらやましくはない)。
でもこうして清少納言が書いてるってことは、観察眼がないわけでもないんだよね。ただ、稲の根元をどうやって刈るか、なんてことは(「をかし」にはなっても)「あはれ」には結びつかない。だから「あはれ」の文学である『源氏物語』の描写には出てこないんだろう。それを考えると、『枕草子』は、ほかの仮名文学が書くに値しないとして見落としてきたことを書いたという意味で、やはりすごいのだといえる。ただ自己顕示欲が強いだけでは、こうした記述を残すことはできないと思う。
以前、「須磨」の巻の話で、情景描写が記号化しているという感想を書いたけど、馬淵和夫『奈良・平安ことば百話』(東京美術選書、1988年)という本に、同じような印象が述べられている。
「若紫」の巻で、源氏が北山へ出かけるところ、北山の描写がある。
やや深う入る所なりけり。やよひのつごもりなれば、京の花ざかりはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひも、をかしう見ゆれば、かかるありさまもならひ給はず、ところせき御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峯高く深きいはの中にぞ聖入り居たりける。
そこはやや山深くはいる所なのであった。三月晦日なので、京の花盛りはみな過ぎてしまったが、山の桜はまだ盛りであって、段々山の奥へ入っていらっしゃるにつれて、霞の様子もおもしろく見えるので、こんな様子もまだご経験にならない窮屈な御身であるので、珍しくお思いになられた。寺の様子もまことにしみじみとした味わいがある。高い峯の深い岩崛の中に聖は入って座っていた。
さてこの文で、おかしなことは、具体的な情景はさっぱりわからないことで、よく読んでみてもどういう景色なのかまったくイメージがわかない。筆者紫式部の感想も、「霞のたたずまひ」も「をかしう」見えた(勿論文脈から言えば源氏の感想ということになるが)というのと、「珍しう」と感じたのと、お寺の様子が「あはれ」というだけである。どんなところが「あはれ」なのか、読者にはさっぱりわからない。
同じく若紫の巻に、お供の者が、地方の景勝の地を源氏に語るところは、
これはいと浅く侍り。人の国などに侍る海山の有様などをご覧ぜさせて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしの嶽。
とあり、これも「御絵がお上手になられましょう」というだけだ。ついで別の者の言った言葉には、「面白き浦々磯のうへ」というだけで、景勝の地を「面白き」というだけである。
(中略)
古来名文だと言われてきた「須磨」の巻の須磨の描写は、
須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞えて、またなくあはれなるものは、かかるところの秋なりけり。
から始まるけれども、これも住居が海に近いというだけで、景色がどうだというわけでもない。
前栽の花いろいろ咲きみだれ面白き夕暮に、
とあるのも、前栽の花が色美しく咲き乱れた景色が夕方になって暮れて行く情景を「面白し」ととらえたというだけである。
要するに、『源氏物語』をひもといてみても、『枕草子』をくってみても、自然描写のこまかなものはない。これは女房たちの生活の中に大自然と対決するというような場面がなかっただろうから、要求するほうが無理なのだろう。
(同書、pp. 20-22)
同書ではその印象の原因について、女房たちがそもそも自然と対峙する機会がなかったからであろうと考えている。それはもちろんそうだろうけど、それに加えて、平安時代の貴族の自然観そのものが記号化された自然観だったせいもあると思う。記号化された自然観というのは、ようするに歌枕を通じて把握された世界ということ。
こうした世界観については、谷知子『和歌文学の基礎知識』(角川選書、2006年)という本に述べられてたと思うんだけど、残念ながらいま手もとにその本がない。またあとで紹介します。
それはそれとして、当時の貴族たちは自然の中に歌枕の語彙しか見なかった、そう言ってもいいと思う。これは現代でいうと、景勝地に行っても写真を撮るのにばかり夢中になって、実際にその地がどうであるかにまったく関心を払わない観光客のようなものだ。また、あまりに広漠とした大自然を前にして「ドラクエのようだ」などと興ざめするような感想をうっかり漏らしてしまいがちな我々(ある世代以降)と似ているともいえる。
さて、そういうことで思い出す『枕草子』のくだりがあるんだけど、長くなったので次回書くことにする。