先日紹介した枕草子の落窪物語に言及している箇所について、訳を作る参考にしようと能因本底本のほうもちょっと見てみたのだけど、するとここは三巻本とは文がちょっと違っているところであった。
三巻本底本の岩波文庫版からの引用をもう一度載せる。
雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。
交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。
(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)
これに対して、能因本底本の笠間文庫版はこうなっている。
雨は、心もとなき物と思ひ知りたればにや、時降るもいとにくくぞある。やんごとなき事、おもしろかるべき、たふとくめでたかるべき事をも、雨だに降れば、言ふかひなくくちをしきに、何かとて濡れてかこちたらむが、めでたからむ。げに、交野の少将もどきたる落窪の少将などは、足洗ひたるは、にくし。きたなかりけり。交野は馬のむくるにもをかし。それも、昨夜、一昨日の夜ありしかばこそ、をかしかりけれ。さらでは、何かは。
(松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』笠間書院、2008年、p. 329)
なかなか興味深い違いだと思うんだけど、どうだろう。僕はまだ笠間文庫版を最初から通しては読んでいないので、この部分だけの印象で語ってしまっては危ないけれど……。
能因本の「心もとなき」とか「かこちたらむ」のあたりはちょっとあやしいよね。「こころもとなし」の「待ち遠しくて心がいらだつ。じれったい。/気がかりだ。不安だ。/ぼんやりしている。はっきりしない。/不十分でもの足りない。」という意味は(旺文社『全訳古語辞典』第三版)、文意からするとそぐわないし、「かこちたらむ」は「文句を言うのが云々」じゃなくて、やっぱり三巻本の「かこちきたらむ」すなわち「文句を言いながら来るのが云々」となってないと言い足りてない。「交野は馬の云々」は脚注にも「不審」となっていて、意味がわからなくなっているのが残念だ。
しかし、どちらも全体で言っていることまで違っているわけじゃないよね。かといって、書写の段階で生まれるようなバリアントではあり得ない。ここにいろいろと想像を巡らす余地があるわけで……。定説によれば、能因本系統のほうは清少納言が後になって書き改めたバージョンではないかということになっているそうで。他人がこういう書き換えを実践する動機もないだろうというわけだろう。このあたりの研究もなかなか面白そうなところ。
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