和歌は、限られた世界で共有され、その中で研ぎ澄まされた文化です。たとえ自然を詠んでいても、人間の心情を詠んでいても、和歌に詠まれる限りは、自然そのものでも、ありのままの心情でもありません。荒ぶる自然は箱庭化し、人間にとって理解できる文化へと変質させたうえで、初めて和歌の素材となりうるのです。和歌に詠まれた自然が、実は人工的な箱庭であったり、絵画であったりすることは、よくあることです。また、歌枕という名所を歌に詠む行為も同様です。富士山は煙が立っているものとして詠むものであり、逢坂は恋人が会うイメージでとらえるもの、というように、土地の「本意」(もっとも価値ある姿)が最優先して詠まれるのです。自然の実際の姿は、さほど問題ではありません。これは、写実主義とは相反する姿勢と言えるでしょう。人は自然をありのままに理解するのではなく、和歌によって文化へと変質させてから、初めて理解していたのです。つまり、和歌は、日本人が自然や人間の心情を理解し、解釈するための装置でもあったのです。
谷知子『和歌文学の基礎知識』角川選書、2006年、pp. 11-12
2009-10-31
2009-10-15
おうなのけさう
『新猿楽記』のことを書いた時にちょっと触れた、「老女の化粧」について。
新体系の註によれば、現存しない枕草子の「すさまじきもの」の段のくだりは、河海抄などに「すさまじきもの。十二月(しはす)の月、嫗(おうな)の懸想(けしやう)」とあったとされ、二中歴・十列には「冷物(すさまじきもの)十二月月夜…老女化借(けさう)…」とある、という(「朝顔」p.264)。
そうか、「けさう」「けしやう」では「懸想」か「化粧」かは区別つかないのか。意味としてはどっちも通るしね。あとは「二中歴・十列」というのがどういうものなのかよくわかってないが……。
2009-10-09
平安時代の暦、続き
前回の続き。
前回挙げた寛弘七年の図では、冬至は十一月のかなり終わりのほうに入っていたので、立春は一月の中頃に位置している。冬至が十一月のはじめのほうに位置する場合は、立春は十二月の中頃になる。二十四節気の区切りを示す上のモノサシと、月の区切りを示す下のモノサシとをずらしていくのを想像すればいい。中気から次の中気までの期間(気策、約30.4日)と月の長さの平均(朔望月、約29.5日)とはちょっと違うので厳密には合わないが、だいたいの傾向として立春は十二月と一月の変わり目ごろに位置するだろうということがわかる。要するに、「冬至のある月を十一月とする」という定義は、立春がおおむね一月一日ごろにくるようにするための工夫なのであった。
そういうわけで、「年の内に春は来にけり」というのは、立春が十二月に位置した場合で、これはとくにめずらしいわけでもなく、よく起こることであり、そういうよくあることについて歌っている、と。まあそれがわかったところで、この歌はどこまで真面目なのかよくわからんのだけど。
一年は354日の場合が多く、384日の時がたまにある(これらより一日ほど長さが変わる年もあるが)。この閏月のある年には、一年は長く感じられたことだろう。
年や日付には干支が割り当てられている。干支がなんだとかはここでは述べないが、ある年が「実際のところ」いつなのか、というのは干支の表記からはわかりづらい。そういう用途のために歴史的な年月日と西暦との対応を収録した本というのが存在する。内田正男『日本暦日原典』(第四版、雄山閣出版、1992年)などである。分厚いこの本はそのほとんどが暦日の対応表だが、末尾に暦についての解説と、宣命暦など旧暦の計算方法についての解説がある。じつをいうと前回と今回の記事はそこが面白かったので書いたようなものなのだ。数ページに要約された解説なので頭でいろいろ補わないといけないのだが、必要な情報は一通り載っている。(ここの趣旨に合わないので詳しくは書かないが、同解説をもとに宣命暦を計算するプログラムを書いてみたりもした。)
ところでウィキペディアの宣明暦の項にはこれを書いている現在「江戸時代初期には、二十四節気が実際よりも2日早く記載されるようになっていた」とあるが、これは「2日遅く」が正しい(岡田芳朗『暦ものがたり』角川選書、1982年、pp. 120-121)。
暦の計算とは直接関係しないが、『御堂関白記』には曜日の記載もある。岡田芳朗『暦ものがたり』によれば、七曜はユダヤ教に由来し、それが中国を経由して日本にやって来たものという (p. 98)。
七曜の繰り方は西洋のそれと全く同じで、東西が同一の曜日を使用していたのは、当然のことながら何か奇妙な感じがするものである。
(同書、p. 99)
『御堂関白記』記載の曜日がちゃんと現在のと連続しているということの確認例が『日本暦日原典』にある (p. 510)。
古文とはずいぶん関係ない話を二回も続けてしまった。暦についての話はこれで終わり。長引かせたくないから月木じゃないけど出しました。引き続き源氏物語を読んでるんだけど、まだまだでね。もう残された回数が少ないので、まだほかに紹介したい本とかについても書いておきたいのだけれど、最近調子があまりよくない。
2009-10-05
平安時代の暦
古文とは直接関係しないのだが、気分転換もかねて平安時代の暦についてちょっと調べていた。閏月とか、「年の内に春は来にけり」とはどういうことなのか。古文に出てくるこうした日時や節気の表現がどういうものなのかいまいちはっきりしなかったのだけど、だいたいわかったように思う。
平安時代に使われていたのは、宣明暦という暦である。暦マニアではないので、その制定の経緯とか精度については省略。で、この宣明暦というのは太陰太陽暦である。太陰太陽暦というのを、僕はいままで「旧暦」という言葉であいまいに把握していたが、これはかいつまんでいうと、こういうことになる。
- 季節のひとめぐりが一年になるようにする。これは当たり前のことのように思うけど、たとえば乱暴な話 1年 = 365日と日数を固定したような暦だと、季節と年はだんだんずれてくる。そういうことが起こらないように工夫されている暦であるということ。
- 月(天体のことね)の満ち欠けが月(こっちは日時の区切りかたのほう)の区切りを決定する。つまりその月の1日(ついたち)はかならず新月でありその月の中頃はいつも満月である。ひと月の長さは29日間か30日間のどちらかになる。前者は小の月、後者は大の月と呼ばれる。
- 一年の区切り目は月の区切り目に合わせられる。1. でいう季節のめぐりというのは太陽の運行による現象で、2. のほうは月の運行の結果によるものだから、両者はたがいに関係がない。したがって 1年 = nか月と定量的に決めてしまうことはできない。しかし、その日からが年の変わり目ですよ、という「その日」は月の初めの日に合わせられる。一月一日がいつもその年の第1日である。
- 結果として、一年は12か月か13か月のどちらかで運用されることになる。一年が13か月になる年は、ある理論(後述)によってそのうちのひと月が「閏月」とされる。閏月は前の月と同じ番号をつけて、「閏五月」などと呼ばれる。
太陽は天球上の黄道(黄道の説明は省略。ごめん。)を一年かかって一周する(この言いかたは同語反復的だけど)。北半球で太陽の位置がいちばん低くなる時が冬至で、宣明暦では冬至から次の冬至までを基準として一年を定義している。つまり、一年は12か月だったり13か月だったりするが、その一年間に冬至が二回入るということは絶対にない。一方、たとえば立春などは、ある年の年頭と年末の二回に含まれているということが起こりうる(例、寛弘四 (1007) 年)。
冬至から次の冬至までの期間を24等分して、それぞれの時点に名前を付けたのが二十四節気である。二十四節気は古語辞典の付録なんかだとたいてい春の立春から記載されているが、上の説明からすると、暦学的には冬至から始まっているということになる。二十四節気には中気と節気というのがあって、これは冬至が中気でそこから順に節気、中気と繰り返す。
いま、ある年の月の区切りが計算で得られたとして、それを記したタイムライン上に二十四節気の日時の各点を記していく。その結果、中気を含んでいる月が正式の月である。年によっては中気を含まない月ができるが、その月は閏月と呼ぶことになる。そして、冬至を含んでいる月が十一月であると定義されている。以降順に十二月、一月、二月……と、閏月を除いて割り振っていく。
(この図は死ぬほどがんばって作ったのでよく味わって見ていただきたい。)
以上が太陰太陽暦の暦の作られかたの概要だが、これを見ると、西暦の数字だけ見てその年の月の割り振りを簡単に決定できる太陽暦(グレゴリオ暦)はなんて簡単ですばらしいんだろうと思える。太陰太陽暦には宣明暦の他にも儀鳳暦とか大衍暦とかいくつかの種類があるが、やってることはどれも基本的には同じことで、違いは各種計算に用いる定数(観測精度の向上によって変化していく)や月齢計算に微妙な補正を入れるかどうかといったようなことである。
(続く)