忙しかった。源氏物語もなかなか進まない。いまは「少女」を読んでるんだけど、読み始めてから二か月近くたつのにまだ半分くらいだ。まあまたちょっとずつ進み出したので、そのうち読み終わることであろう。途中『戦争と平和』並行して読んでたりしたし。
山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は』(講談社学術文庫)という本について。最初に単行本が出たときにも話題になった本だそうだけど。鳥の鳴き声を昔の日本人はどう聞いてきたか、ひとつには擬音語として、もうひとつにはいわゆる「聞きなし」として、どう文字に写してきたかということについての研究。
僕は鳥が好きなので、そういう自然科学的なおもしろさと、言葉の研究としてのおもしろさとが相まって、なおさら楽しめた。
平安時代にすでに、ホトトギスは「死出《しで》の田長《たをさ》」という異名を持っていた。冥途の農夫のかしらで、死出の山を越えてやってきて農事を励ます鳥と信じられていたらしい。「死出の田長」という異名は、時にはホトトギスの鳴き声とも考えられたようで、『古今和歌集』にこんな歌がある。
いくばくの 田を作ればか ほととぎす 死出の田長を あさなあさな呼ぶ
(=ホトトギスは、いったいどのくらいの田を作っているからというのだろうか、「シデノタオサ」と毎朝叫んでいるよ)「死出の田長」が、ホトトギスの鳴き声とも考えられている。 ホトトギスは、冥途からの使者だから、あの世にいる人のことも尋ねればわかるはずだ。平安時代の人は、こうも詠む。
死出の山 越えて来つらん ほととぎす 恋しき人の 上語らなん
(『拾遺和歌集』哀傷)「死出の山を越えてきたに違いないホトトギスよ、あの恋しい人のことを語ってほしい」。毎年、夏になるとどこからともなくやって来て、激しく鳴くホトトギスは、冥途からの使者と感じられたのであろう。
(山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は 日本語の歴史鳥声編』講談社学術文庫、p. 84)
田植えの歌とホトトギスというのは、前に枕草子の話で書いたことがあるが、それにはこういう背景がある、と。平安時代の例としてもうひとつ。フクロウについて。
『源氏物語』でも、フクロウの声は、不気味な「から声」をあげる鳥として登場している。
夜半《よなか》も過ぎにけんかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、梟はこれにやとおぼゆ。(「夕顔」)
光源氏が、青春の情熱をかたむけて愛した女性は、夕顔。その夕顔が、物怪にとりつかれて、はかなく死んでしまった。光源氏は、今、その女の屍体を前に呆然としている。時刻は、夜半すぎ。あたりには、風が荒々しく吹き、鬱蒼と茂る木々がさけび、異様な鳥がしゃがれ声で鳴く。どうやら、それは、フクロウの声らしい。
フクロウは、「気色ある鳥(=ひとくせある怪しげな鳥)」であり、「から声」で鳴いている。
「から声」とは? 「老人のような低く濁ったしゃがれ声」のこと。「枯声《からごゑ》」「嗄声《からごゑ》」と書く。「うつろな声」とする説もあるが、うつろなことを意味する「空《から》」ということばは、この時代にはまだ存在していない。
(同書、p. 165)
個人的にとくに面白かったのは、平安時代ではないんだけど、ヌエ(鵺、トラツグミ)がなぜ怪物の名前になったのかというくだりと、ウトウヤスカタというへんてこな名前の鳥についてのところ。鳥や鳥が出てくる古い本の写真がたくさんあるのもよい。
ところで、僕は前までスズメというのは鳴き声が鈴みたいだからそういうのかなあ、となんとなく勝手に思い込んでいたんだけど、そうではなかった。この本にも控えめに触れられているが、大野晋と丸谷才一の対談に「雀はチュンチュンだからスズメでね」とあって(『日本語で一番大事なもの』中公文庫、p. 16)、これも鳴き声からきていたのであった。上代にはサ行の音は /ch/ に近い音だったから(森博達『日本書紀の謎を解く』中公新書など)そうなるのだろう。
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