日本漢字能力検定協会が、今年一年の世相を漢字一文字で表す「今年の漢字」を「絆」だと発表したそうで、これは「きずな(きづな)」と読むのだろうけど、この字にはもうひとつ訓がある。それは「ほだし」という読みで、古文だとむしろこちらの語のほうがよく目にするものだ。ほだしというのはもとは馬などをつなぎ止めるために脚にはかせる綱のことで、転じて自由を束縛するものという意味を持っている。もとは「きづな」も動物をつなぎ止めるための綱のことを言っていたそうだから(梁塵秘抄などに見えるようだ)、ほだしもきずなも同じような言葉で、それでともに「絆」の字で表わすのだろう。
つなぎ止めるものという象徴的な意味でのほだしというのは、中古中世では、仏教思想の文脈から悟りを開くことの妨げという意味合いが強い。今流通している言葉でいうと、「しがらみ」といったニュアンスである。現代語の「きずな」も、岩波国語辞典には「断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし。」と定義しているから、この「断とうにも断ち切れない」という表現にその残滓を見ることができるといっていいと思う。
こんにち人と人との結びつきはその肯定的側面ばかりが強調されているが、本来人間同士の結びつきというのは、必要不可欠であると同時に、人に楽ばかりでなく苦をももたらす性質のものである。人はひとりでいさかうことはできない。そうした両義性を表わした比喩がきずな・ほだしであったわけだし、現代になったからといって人同士におけるその性質が変わったというわけではない。ただその一方の側面を見なかったことにしているだけである。
ところで、古文には「心の闇」という言いかたがある。これはたんに暗い胸中のありさまを一般的に表わしたものではなく、使われたときはほとんどの場合「子を思うあまりに理性を失って迷う親の心。子ゆえの迷い。」(旺文社全訳古語辞典)をとくに指して言っている表現である。わざわざ子を思う親の云々などという前置きはなくて、いきなり心の闇に、とその意味で書くのである。子を思う親の心というのも、こんにちではただ一途にその尊さのみ強調されているように思われるが、親バカなどという言葉もあるように、じっさいにはそれで人はずいぶん愚かなことをしてしまうものである。
ほだしや心の闇といった言葉に共通しているのは、どちらも人間の執着について着目した概念であるという点で、まあ、ここがいかにも仏教ということになるのだと思う。それを美化して今は愛と呼ぶが、なんのことはなくて、この「愛」というのももとは仏教語で「ものに対する激しい欲望。執着。」(旺文社全訳古語辞典)のことである。
大地震、大津波、原発事故により、多くの人びとがその生活に多大な影響を被ったが、また一方で多くの人同士が協力して、困難な状況にあった人びとを助けたり、不安に飲まれつつあった人びとを支えたりしたことも事実である。けれどもそうした救いの手というのは、多くそれまでまったく他人であった人同士のあいだで生まれた活動で、それだからすばらしいということになるのだけれども、それを絆という言葉でもって表わすのには正直どうもしっくりこないものを感じる。
それはさておき、大災害が起こったとき、親兄弟といった近親者のことが気にかかるのは人の情というものでこれはしかたない。ところがいざそのとき人に求められるのは、その場にたまたま居合わせた赤の他人と協力して現状を乗り切る(避難する)ことである。だからそこでは絆(きずな)ではなく、むしろそうした執着の範囲の外にいる人びとへと心を開かなければならない。いっぽうで、不安げにたたずむ隣の人をよそに親兄弟や近しい友人に電話やメールをしまくって通信回線をパンクさせるのはまさしく絆(ほだし)のなせる業である。
だからそういう意味で震災が絆の一字で表せるというのは間違ってはいないのだけど、まさかそういう意味で選んでいるわけではないだろうから、それはいくらなんでもひねりすぎの見方で、もちろん選んだ人びとにはそのような皮肉の気持ちは微塵もないはずだ。そうしてよかれと思って罪のない気持ちでみんなで選んだ言葉が執着の概念を含んだ一字であるというところに、欲望を肯定する世紀に生きる人びとが過去からつながる言葉をどのように読み替えていくのかというダイナミズムの片鱗が垣間見えるのはおもしろい。
余談だけど、古代の人びとが人同士のつながりに鋭くも執着という批判的な視点を持っていたのにその両義的側面がいまの言葉からは完全に剥ぎ取られてしまっているのはなんだか惜しい気もしなくはない。しかし、言葉というのは多くの人に流通すればするほど大味で直線的な意味に変質していくものだから、これはしかたないのだと僕は思っている。綾のある言い回しというのは、ある程度絞られた人数のコミュニティでないと、育っていかないもんだよね。