まず三の君について。
三の君にはもともと蔵人少将という夫がいた。蔵人少将は豪胆な性格の男で、中納言家でも彼を誇りにしていたようなのだが、やがて三の君と疎遠になっていく。といっても、そこはそんなにしんみりした話じゃなくて、ひとつには四の君が面白の駒を夫に迎えたのを知って嫌になったこと(普段馬鹿にしていた男と親戚になってしまった)、それから左大臣家の娘(男君の妹)とのいい話が出てきて、家運の傾いた中納言家よりはとそっちに鞍替えしてしまったことが原因である。だから三の君は男君の差し金で蔵人少将を奪われたようなものである。
そういうわけで蔵人少将が三の君から離れていくことは中納言家の権勢が衰えていくその一環として語られているわけだが、法華八講が終わった場面で、このふたりの離縁が決定的になるというくだりが語られる。
蔵人少将はこの場面では中納言になっている(こういうときほんとややこしい)。
三の君、中納言を、けふやけふやと思ひいで給ふに、さもあらでやみぬ。いみじう心うしと思ひいづるたましひや行きてそそのかしけん、こと果てて出で給ふに、しばし立ち止まりて、左衛門佐《さゑもんのすけ》のあるを呼び給ひて、
「などか疎くは見る。」
とのたまへば、佐、
「などてかむつましからん。」
といらふれば、
「むかしは忘れたるか。いかにぞ。おはすや。」
とのたまへば、
「たれ。」
と聞こゆれば、
「たれをかわれは聞こえん。三の君と聞こえしよ。」
とのたまへば、
「知らず。侍りやすらん。」
といらふれば、
「かく聞こえよ。
いにしへにたがはぬ君が宿見れば恋しき事も変らざりけり
とぞ。世の中は。」
と言ひていで給へば、佐、返りことをだに聞かんとおぼせかしと、なごりなくもある御心かな、と見る。入りて、
「かうかうの給ひていで給ひぬ。」
と語れば、三の君、しばし立ち止まり給へかし、中々何しにおとづれ給ひつらんと、いと心うしと思ひて、返事言ふべきにしあらねばさてやみぬ。
(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 227-229、一部表記を改める。)
拙訳。
三の君は中納言のことを「あるいは今日はいらっしゃるかも」とたびたび思い出すのだったが、それが現実になることはなかった。つらく思う魂がさまよい出でて中納言をそそのかしでもしたのだろうか、八講が終わり退出するところに左衛門佐がいるのを見つけた中納言は、声をかけてみる気を起こした。
「おい、そんな赤の他人のような目で見なくてもいいだろう」
そう言うと左衛門佐は、
「ほかにどんな目で見ろというんです」
とつっぱねる。
「昔を忘れたのか。どうだ、達者でいらっしゃるか?」
「誰がです」
「誰って決まっているだろう、三の君と申したお方よ」
「どうでしょうね、あるいはそうかもしれませんね」
「こう申し上げよ。
いにしへにたがはぬ君が宿見れば恋しき事も変らざりけり」
そう言って、中納言は「世の中は」とうそぶきながら去っていった。左衛門佐は中納言の未練のなさに、返事を聞く気くらい見せたらどうかと思うのだった。帰ってそのことを伝えると、三の君は、いらしてくれたらよかったのに、そうしないのなら、どうしてなまじ声などおかけになったのかと、ふさがる思いがして返事をすることもできなかった。
左衛門佐というのは女君の父中納言家の三男つまり三の君の弟である(物語の始めの頃はまだ子供だった)。だから姉を見捨てたこの中納言(蔵人少将)を快く思っていない。それでこういう緊張したやりとりになっている。三の君との歌のやりとりとかにしないところが小説的でうまいと思う。
中納言の去り際のせりふ、「世の中は」というのは注によれば古今集・雑下「世の中はいづれかさしてわがならむ行きとまるをぞ宿と定むる」(詠み人知らず)による。三の君の宿も恋しいことは恋しいが、俺は俺が行くところを宿にしていくんだからね、というわけで、なんの未練もないことがわかる。新大系ではこの場面に「以上の場面は中納言と三の君との関係が離婚状態から離婚の確認へ進み、完全に切れたことを示す」とわざわざ注を付けている。
いい場面なんだけど、全般的にあっけらかんとした落窪物語全体からすると、なんだかここだけしんみりしていてちょっと異質である。