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2013-08-16

和歌の字余りについて

前回の続き。

五七五七七と言われるけれども、和歌・短歌には字余りという現象があって、5字ということになっている初句や第三句がときとして6字になったり、7字といわれる第二・第四・第五句が8字になったりすることがあるということはよく知られている。

ちなみに5字、7字といっているけど、これは正確には字数ではなく前回言ったモーラ数である。念のため。5モーラのところが6モーラになったり7モーラのところが8モーラになったりすのが字余りである。現代の短歌は破格に対して寛容なので、五七五七七も「入れたい言葉が入らなければ仕方ないので余ってもよい」程度のガイドラインにしかすぎないと思われているのかもしれないけれど、もしかすると「チョコレート」がオーケーなら6字でいいってことじゃない、といった字数とモーラ数の混同がそういう傾向を後押ししているという面もあるかもしれない。……が、「チョコレート」は5モーラなので初句に使っても字余りではないよ。

余談だがモーラという語はあまり膾炙した言葉じゃないのでちょっと使いにくいね。「拍」とかのほうがいいのかな。まあいいや。世間の多くの説明ではモーラと言うべきところを音節と書いている、というのは前回書いた通り。

さて、この字余りというのは現代人からするとただの規則から逸脱した例外にしか見えないのだが、かつてはそうでなかったことがわかっている。

まず「字余りしている句は句中に必ず母音の字が含まれている」というのが国学の時代から知られていた。宣長『字音仮字用格』(1176 1776 追記: 刊行年間違っていたので訂正しました)はじめ、富士谷成章も同種の指摘をしていたらしい(未読だけど)。古今集の「としのうちに」などの例である。この原則は古今集の頃にはほぼ完全に当てはまっていて、新古今の頃だとそうでない、単に余ってるとしか言いようのない字余り句がちょくちょく見られるようになっている。とはいえ、和歌の字余りを説明するいちばんの原則がこれである。百人一首の歌はぜんぶ当てはまってるんじゃないかな。

句中の母音字が字余りの条件だというのなら、それはなにか古代の発音の流儀に関係しているのではないか?ということで、字余りと古代の音節との関係にまつわる研究が昭和になっていろいろ発表された。

それらの研究の鍵になる発想は、要は「語中の母音音節が直前の音節と一体化して発音された」という仮説だ。それで、「直前の音節と接触」して「不安定な状態に」なるとか(橋本進吉)、「先行音と一緒になってシラビーム的な一音節を構成する」(桜井茂治)などということが主張された(ただ名前を挙げたどちらもまだ直接読んでないので悪しからず)。

この「古代語はシラビームだった」というのはちょっと前の日本語関連の本にはよく出てきて、なんだよそれとか思うのだけどちゃんと説明してあるいい本はまだ見つけていない。が、直前の音節と一緒になって融合してしまうという話で、まあ字余りの問題を片付けるのに便利だったので人気だったのだろう。

しかし、これらの「母音融合説」は「字余りしてるけどこの説なら字余りじゃないことになるよ」というだけで、和歌の字余りにまつわる現象をすべて解決してくれるわけではない。たとえば、字余りは起こる場合と起こらない場合とがある。「こぞとやいはん」「ことしとやいはん」は文の構造としてはまったく同じだが、後者でのみ字余りが起きている。じゃあ字余りは任意だったのか、となるとそうでもなくて、じつは万葉集の結句はほとんど義務的に母音字を含む句が字余りになっている、といった現象がある。

古文の文法の説明で以前から僕が(勝手に)重視しているのが、「その説明で古文が書けるか」だ。母音が融合するとかシラビームだとかは結果の説明には使えるが、それにしたがって作歌すると万葉集や古今集と同じような調子になるかというと、どうもそれだけでは足りない。

それで、字余りの原則は和歌の詠唱法にもとづく必然だったとするのが、前回も紹介した坂野信彦の『七五調の謎をとく』(1996、大修館書店)と『古代和歌にみる字余りの原理』(2009、星雲社)である。上記に書いた字余り研究の概要は後者の「字余り研究小史」によっている。

うう、また長くなったので続く。

2013-07-17

音節とモーラ

僕がいつも読んでいるブログのひとつに、イジハピ!があって、中の人の深沢さんは技術系だけどよく日本語についての記事も書かれています。こないだの記事「リニューアルかリニューワルか」にコメントをしたのだけれど、そのやりとりでちょっと面白い話になってきたと思ったのでそこから思いついたお話をひとつ。もはや古文の話ですらないけど、日本語史に関わることではあるので一年ぶりにここで。もとの記事の本題だった表記の話とはぜんぜん関係ないのでコメント欄では気が引けるしね。いずれ書いておきたいことではあったんだ。といっても目新しいことではなくて、僕が読んできたなかでわかったことのまとめでしかないけれど。

深沢さんは「コピー」「シュガー」は2音、「タイマー」は3音とお書きになるのだけど、これは日本人ではちょっと珍しいタイプじゃないかな。単語を何音と数えるときには、「コピー」「シュガー」は3音、「タイマー」は4音だと言う人のほうがまだ一般的じゃないかと思う(調査したわけではないので推測だけど。なぜそう推測するかは以下に)。

じゃあこの「何音」というのはいったい何を数えているのか。

僕の挙げた後者の数えかたは、短歌や俳句で文字を消費していくときの数えかたで、交通安全標語などを書かせれば、日本語話者は小学生でもこの数えかたで五七五の標語を作る。この区切り単位は国語学ではよく「音節」といわれるのだけれど、言語学では「モーラ(拍)」という。音節とモーラはとても近いので、日本語に関する本にはこれを区別せずに音節と書いているものも多いけれど、たいていの場合はそういうときに言及しているのはモーラのほうである。「山田(ヤ・マ・ダ)」「コピー(コ・ピ・ー)」「神戸(コ・ー・ベ)」「会社(カ・イ・シャ)」は3モーラ、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」「タイマー(タ・イ・マ・ー)」「東京(ト・ー・キョ・ー)」「関東(カ・ン・ト・ー)」は4モーラである。

モーラというのは、「詩や発話における長さの単位」をいう(窪園、1999)。つまり、それぞれのモーラに対してだいたい同じような時間を割り振って単語が発音されるということだ。日本語では、長音(伸ばす音)や撥音(はねる音)にもモーラが割り当てられているから、「広島(ヒロシマ)」と「東京(トウキョウ)」を手拍子を打ちながら同じリズム、同じ長さで発声することができる(これは英語話者には難しいらしい)。ふだんの発話だけでなく短歌や俳句も音をモーラで数えている。もっとも、モーラなんて言葉をを知らなくても(日本語話者は)日本語を話せるし短歌や俳句も作れるわけだから、これはもちろんそういう現象を観察した結果に学者さんがあとから名前を付けたものである。

これに対して、深沢さんの数えかた(?)が言語学でいうところの「音節」、英語でいうシラブルだ。音節というのは「母音を中心とする音のまとまり」(窪園、1999)である。音節では日本語の音声でいう長音や撥音は独立した単位とは数えない。「コ・ピー」「神戸(コー・ベ)」「東京(トー・キョー)」「関東(カン・トー)」は2音節、「山田(ヤ・マ・ダ)」は3音節、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」は4音節になる。それから二重母音もひとつに数える。「タイマー(タイ・マー)」「会社(カイ・シャ)」は2音節だ。

英語では、語の発音の区切りも、語の「長さ」も音節単位であるのに対して、日本語で単語の「長さ」と言えばモーラで計るのがふつうだ。

さて、そうなると「タイマー」を3音とする深沢さんの数えかたはじつは両者折衷なのだけど、二重母音は2つに独立してカウントする音節式、あるいは長音を数えないモーラ式といったところだろうか。深沢さんは翻訳をされているそうだから、日本語の音の区切り意識もちょっと音節ふうになってるのかもしれない(笑)。けれど長音を数えなければきちんと日本語で短歌を詠むことはできない。

そういえば、歌手の一青窈が俵万智に教わりながら短歌に挑戦する、『短歌の作り方、教えてください』(角川学芸出版、2010)という本があるのだけれど、ここで一青窈が小さい「ょ」や「ー」「っ」を一文字として数えるのか数えないのかよくわからないんです、といったようなことをしょっちゅう言うのでびっくりした。現代語はそこが怪しい段階にまで変わっちゃったのかあ……、と思ったのだけど、あとで聞いた話では彼女は幼少期は台湾で育ったのだそうで、それでモーラによる数えかたがぴんとこなかったのだね。

閑話休題。音節は、英語では発音を区切る単位であり、またアクセント位置を決める単位でもある(英語だけの話をしているかぎり、モーラという概念は不要だ)。じゃあ日本語は発音をモーラ単位で区切るから、アクセントの位置もモーラ単位かというと、じつはこれがそうとは断言できないのがややこしい。モーラ単位で考えて多くの場合は説明が付くのだけれど、日本語標準語ではそれだけでは上手く説明できない現象が残るという。煩を避けてくだくだしい説明は省くけれど、アクセントの高低の位置が決まる法則は、モーラだけでなく音節区切りにもとづいた位置が大事な役目を担っている。ここで挙げている説明や例はすべて『現代言語学入門2 日本語の音声』(窪園晴夫、1999)という本にもとづいているので、このへんについて詳しく知りたければ同書をご参照くださいな。

というわけで、現代の日本語標準語は、モーラを基準としつつも音節に従う部分もあるというダブスタな(笑)音声構造をしている。奈良時代よりもっと以前の原始的な日本語では、単語に二重母音や撥音などが存在しなかったと推測されることから、おそらくひじょうに古い日本語は、「母音(V)」または「子音+母音(CV)」の組み合わせのみからなる単語を用いる、モーラすなわち音節であるような言語だったのだろうということがいえる。それが、ある理由によって音節とモーラとの間にずれが生じた。その理由というのは、外来語(漢語)の流入と音便である。

ここから和歌の話へと続けようと思ってるのだけど長くなってしまった。続きはまた。

2010-04-29

武田宗俊『源氏物語の研究』

四月は忙しくてここにぜんぜん記事を書けなかった。百回までという決めた回数の残りもあるから、いいかげんなのでお茶を濁す気にもならず、間が空いてしまった。

ずいぶん前から読みたかった武田宗俊『源氏物語の研究』(岩波書店)を最近ようやく手に入れた。思ったよりも薄い本だったんだな。これは、以前に紹介した源氏物語の執筆順序について、玉鬘系が紫上系にあとから追加挿入されたということを明らかにしたその論文が収録されている本だ。

それにしても、実物を読む前から薄々は感じてたけど、この人はほんとに頭いい人なんだなと思った。源氏関係の本でこんな明晰な文章初めて見た。そのうえ観察眼が鋭い。とくに玉鬘系の登場人物が紫上系に出ていないこととか、「竹河」の男踏歌の描写が「初音」の剽窃であることとか。これを指摘された当時の研究者たちはさぞくやしかったろうね。

この本は昭和二十九 (1954) 年に初版発行だが、昭和五十八 (1983) 年に復刊し、その際に吉岡曠氏の解説が付けられたようだ。僕が入手したのは平成六年 (1994) 年の第三刷。

1983 年に書かれたこの解説を見るに、武田氏の玉鬘系後記説がその時点でなおほぼ完全に孤立していたということがわかる。いまこうして源氏読んでるひとりの人間の感想として、これはなんとも驚くべきことだ。古文でいうなら「あさまし」。武田説に賛同している論のひとつ、大野晋『源氏物語』の刊行は 1984 年で、手元にはその岩波現代文庫版 (2008) があるが、それによれば、秋山虔「源氏物語――その主題性はいかに発展しているか――」(『日本文学講座Ⅱ 古代の文学 後期』河出書房、1950)、『源氏物語』(岩波新書、1968)、また山中裕「源氏物語の成立順序についての一考察」(「国語と国文学」1955年1月号)、吉岡曠『源氏物語論』(笠間書院、1972)を挙げて「武田氏の見解を積極的に発展深化させようとする意見の公式に発表されたものは右の他にほとんどない」としている(pp. 390-391)。

さすがにいまはもっと認められていると思うけど、定説とまでは至っていないのかな。今の国文の院生たちあたりの意識だとどんなもんなんだろうね。しかしこの本が出て半世紀以上たっている。

ウィキペディアなどではまるでこれがいまだ議論の最中にあるかのような書きぶりで両論併記がなされているが、これまで読んできたこと(源氏の本文含めて)から言わせてもらえば、これは議論の対象というよりは見つかった新たな事実というべきもので、なんだかわからないあやふやな事態についてそれらしいことを述べたもののひとつみたいな扱いをいつまでもしてるようなものではない。これが発見された時代に生まれたことを素直に喜んでおいたほうがいい。この情報があるとないとで、源氏物語の見通しと内容理解には圧倒的な差がつくだろうから。

しかし 20 世紀までこのことに誰も気づかなかったというのもまた驚くような話ではある。なんでこんなに発見が遅かったのか。これは、注釈書にその原因があったのかもしれない。といってもそれが不正確だとかいう話ではなくて、逆に充実しすぎていたせいではないかと思う。

新体系でもなんでもいいけど、古典文学の全集の本文にはびっしりと脚注が付けられている。「中将」とか「中納言」とかの官職名にはほぼ確実に注が振ってあって、それが「源氏」とか「薫」とか登場人物の通称でいうところの誰なのかがかっちりと書いてある。だから読者は「中将云々」とある文を「源氏云々」と頭の中で置き換えて読み進めていく。それはそれでいい。が、「中将」「中納言」とあったもとの言葉の存在を忘れてしまうと、そこに本来あった情報を見落としてしまうことになる。

たとえばある巻で「左少将がどうした」と書いてあったとする。注がついていて、この左少将は柏木だと書いてある。それで読者は、ああ、柏木がどうこうしたんだな、と思う。後の巻で「中将がどうした」と書いてあって、ここにも注がついていてこれが柏木だと書いてある。それで、ああ、ここでも柏木がどうこうしたんだな、と思う。こういう読みかたをしていると、巻が変わったところで人物の呼称が急に変わったことに気づかない。ふつう呼び名となっている官職名が断りなしに変わったりしたら読者は混乱するはずで、こんなのは当たり前のことなのだが、注釈と併走して進む読みかたにどっぷりだとそれを疑問に思わなくなってしまう。ひどいと古文ではそれが常識でみんなそれでわかるものなんだと思っている人もいる(なにを隠そう数年前までの古文知らない僕がそうでした)。そんなわけないのだ。「左少将が中将になった」という記述がなければ、中将の呼称の指すところが誰なのかは当然見失われてしまう。

注釈における人物名の引き当ては、前後の文脈や巻を先回りして当てはめた、一種のネタバレ情報だ。生まれた赤ん坊がずっと先で薫の中将と呼ばれているから「若菜」の巻でその赤ん坊を薫とわれわれは呼んではいるけれども、「若菜」を読解するにあたってはその知識は押しやって、書かれていることだけを知りうるものとして扱わなければならない。そういう意味では、たとえば赤ん坊の記述に注を付けて「薫」と書くようなのはよけいなお世話とも言える。同じことが古来の注釈にも言えたように思う。

あくまでも本文の意味が通らない時の補助としての注釈であって、古文を読むのが本文と注釈の対応関係を追っていくだけの作業になってしまわないよう気をつけないといけない。

それはさておき、こんな重要かつ明晰な本が学術書とはいえなかなか入手しづらいというのはよくないぞ。岩波書店はそろそろこの本を重版すべき。

2009-12-16

『ちんちん千鳥の鳴く声は』

忙しかった。源氏物語もなかなか進まない。いまは「少女」を読んでるんだけど、読み始めてから二か月近くたつのにまだ半分くらいだ。まあまたちょっとずつ進み出したので、そのうち読み終わることであろう。途中『戦争と平和』並行して読んでたりしたし。

山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は』(講談社学術文庫)という本について。最初に単行本が出たときにも話題になった本だそうだけど。鳥の鳴き声を昔の日本人はどう聞いてきたか、ひとつには擬音語として、もうひとつにはいわゆる「聞きなし」として、どう文字に写してきたかということについての研究。

僕は鳥が好きなので、そういう自然科学的なおもしろさと、言葉の研究としてのおもしろさとが相まって、なおさら楽しめた。

平安時代にすでに、ホトトギスは「死出《しで》の田長《たをさ》」という異名を持っていた。冥途の農夫のかしらで、死出の山を越えてやってきて農事を励ます鳥と信じられていたらしい。「死出の田長」という異名は、時にはホトトギスの鳴き声とも考えられたようで、『古今和歌集』にこんな歌がある。

いくばくの 田を作ればか ほととぎす 死出の田長を あさなあさな呼ぶ
(=ホトトギスは、いったいどのくらいの田を作っているからというのだろうか、「シデノタオサ」と毎朝叫んでいるよ)

「死出の田長」が、ホトトギスの鳴き声とも考えられている。  ホトトギスは、冥途からの使者だから、あの世にいる人のことも尋ねればわかるはずだ。平安時代の人は、こうも詠む。

死出の山 越えて来つらん ほととぎす 恋しき人の 上語らなん
(『拾遺和歌集』哀傷)

「死出の山を越えてきたに違いないホトトギスよ、あの恋しい人のことを語ってほしい」。毎年、夏になるとどこからともなくやって来て、激しく鳴くホトトギスは、冥途からの使者と感じられたのであろう。

(山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は 日本語の歴史鳥声編』講談社学術文庫、p. 84)

田植えの歌とホトトギスというのは、前に枕草子の話で書いたことがあるが、それにはこういう背景がある、と。平安時代の例としてもうひとつ。フクロウについて。

『源氏物語』でも、フクロウの声は、不気味な「から声」をあげる鳥として登場している。

夜半《よなか》も過ぎにけんかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、梟はこれにやとおぼゆ。(「夕顔」)

光源氏が、青春の情熱をかたむけて愛した女性は、夕顔。その夕顔が、物怪にとりつかれて、はかなく死んでしまった。光源氏は、今、その女の屍体を前に呆然としている。時刻は、夜半すぎ。あたりには、風が荒々しく吹き、鬱蒼と茂る木々がさけび、異様な鳥がしゃがれ声で鳴く。どうやら、それは、フクロウの声らしい。

フクロウは、「気色ある鳥(=ひとくせある怪しげな鳥)」であり、「から声」で鳴いている。

「から声」とは? 「老人のような低く濁ったしゃがれ声」のこと。「枯声《からごゑ》」「嗄声《からごゑ》」と書く。「うつろな声」とする説もあるが、うつろなことを意味する「空《から》」ということばは、この時代にはまだ存在していない。

(同書、p. 165)

個人的にとくに面白かったのは、平安時代ではないんだけど、ヌエ(鵺、トラツグミ)がなぜ怪物の名前になったのかというくだりと、ウトウヤスカタというへんてこな名前の鳥についてのところ。鳥や鳥が出てくる古い本の写真がたくさんあるのもよい。

ところで、僕は前までスズメというのは鳴き声が鈴みたいだからそういうのかなあ、となんとなく勝手に思い込んでいたんだけど、そうではなかった。この本にも控えめに触れられているが、大野晋と丸谷才一の対談に「雀はチュンチュンだからスズメでね」とあって(『日本語で一番大事なもの』中公文庫、p. 16)、これも鳴き声からきていたのであった。上代にはサ行の音は /ch/ に近い音だったから(森博達『日本書紀の謎を解く』中公新書など)そうなるのだろう。

2009-11-06

『近世宮廷の和歌訓練』

さて、またここの対象とは時代が違うのだが、上野洋三『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』(1999年、臨川書店)という本について。

この本は、江戸時代初期の『万治御点(まんじおてん)』という書物についての著者による講義をまとめたもの。

『万治御点』というのは、江戸時代初期に後水尾院という人が後西天皇や飛鳥井雅章らに古今伝授のため歌学の勉強会を開いた、その添削の記録で、参加者の歌作とそれについての院による批評が記された文書である。

江戸時代初期ということで平安時代とは随分隔たっているわけだけど、当時の歌学の学習者、つまり歌の上級者ではなく中級者くらいの人々の歌作とその添削を見るのはなかなかおもしろい。

和歌というのは、平安時代の貴族階級の間ではおそらく教養であると同時に実生活でもあったように思われるが、やがて宮廷文化の衰退とともに特定の「家」に伝えられるような秘儀へと変化していったように見える。この変化の前後に横たわる断絶はあまりに大きく、生活とともにあった和歌というそのありさまは、いまの人間の想像からするとどこか童話的・神話的で、現実感の希薄な印象がつねにともなう(まあそれがみんなの言う「みやび」ってことなのかもしれないけど)。

後水尾院も後西天皇もその他の廷臣も、貴族皇族でありながらすでにこの断絶の「こちら側」の人間だ。このなかで、講義を行う院だけが、その言動から、こちら側から「あちら側」へと渡ることのできた、その境地へ達した存在であるかのように見える(後西天皇たちの目にも、院の姿はそう映ったに違いない)。和歌がわかった人間とまだわかってない人間との対比が、この文書に現れているわけだ。なかにはいかにも作り慣れてない感じの(それが僕みたいな人間にも感じられる)歌があったりして微笑ましい。

いっぽうで、『袋草紙』に見られた、しょうもないその場しのぎの実用テクニックやら、やたら細分化された歌の「病」に関するドライな形式的考察を髣髴させるものは、院の批評の言には見られない。歌が具体的・実際的なものではなく、「感じる」「体で覚える」秘儀へと変容しているからだ。

2009-08-03

古文を書く

前回引用した出雲路修著『古文表現法講義』という本は、これまで取り上げた種々の本とはすこし趣向が違っている。これは古文を読むことについての本ではなくて、書くことについての本なのだ。同書の冒頭から一部引用する。

物語を作ってみましょう。

物語というのは、《竹取物語》や《伊勢物語》や《大和物語》や《落窪物語》や《源氏物語》や《堤中納言物語》、といった、あのものがたりのことなんです。

「物語を作る」ということを、この講義は目指します。「平安時代の物語を作ってみよう」ということです。

(中略)

この講義で私たちがめざしているのは、平安時代の物語文化のなかに生きていた人々に「物語」として享受されうる言語表現を、実践することなんです。それをかんたんに「平安時代の物語を作ってみよう」と言っているわけです。平安時代日本語実習といったところです。

じっさい、始めてみればわかることなんですが、平安時代の物語めいたものを作るのは、そんなにむずかしいことじゃありません。古語辞典と簡単な文法書とがあれば、だれにでもすぐにできます。

いままでにこの講義と同じような内容の講義を何度かおこなってきました。そのときの試験の答案があります。力作ぞろいで、私はわくわくしながらよんだのですが、そのうちのいくつかを、今回の講義ではとりあげて、鑑賞し、添削めいたこともしてみたいと思っています。引用した答案は、ほぼ原文のままなんですが、かなづかいの誤り・活用の誤り・現代語の混用など、ケアレスミスと思われるものは、すでに訂正してあります。私自身もこういったミスがひじょうに多いので、ここを非難されたくない気持ちは十分に理解できます。ケアレスミスはまず除外して考えてゆきます。

(出雲路修『古文表現法講義』岩波書店、2003年、p. 1-2)

同書は著者が2001年から2002年にかけて大学でおこなった講義の記録をもとにしている。

古文といえば自然「古きを知る」という受動的な面に重きが置かれがちで、それを「書く」というと、すでに通用しない言語を使ってなんの意味があるのかという疑問も湧くかもしれない。けれども、たとえ実際に自分で擬古文を書くことはないとしても、書き手が「どうしてこういう文を書いたのか」ということを了解するためには、古文を書くときの思考の手続きというものを考えないでは済まされないものではないかと思う。自分ならこう言いたいときにはこう書く、という認識なしに、他人がこう書いたのはこう言いたいからだ、ということが正しく把握できるはずがない。それに、「知る」だけなら現代語訳でもいいわけだしね。

この講義のなかでは平安時代の物語の持つ特質について述べることもしてゆきます。私たちのめざす物語(けっきょくは空想の世界のものなんですが)をもう少しはっきりさせようということです。言ってみれば、どこにゴールすればいいのかといったことや、ゲームのルールの確認なんです。こういったルールの確認が必要なところが、現代文ではない古文の表現法の特徴なんです。

(同書、p. 2)

書いてみることで、あるいは少なくとも同書に載っている人たちが実際に書いた擬古文を読んでみることで、あらためて明らかになるような現代語と古典語の違いというのもある。たとえば、古文には出てくるが現代人が書いた擬古文には出てこない語句や言いまわしに気付いたり。係助詞「なむ」あたりはなかなか現代人には出てきにくいらしい(そりゃそうか)。推量や疑問を述べる場面で選択される表現も傾向が違う。おもしろい。

違うというのを言い出すと、現代の学生どころか、本居宣長の擬古文だって本物の古文とはどこか違っているわけだけど。

「物語」を作るにあたって、既存の歌を導く形で創作をするというアプローチもおもしろい。もちろん理想をいえば歌も自分で作れれば言うことないのだが、その前にこういう形で散文から入っていくのは、現代人にとって歌を理解するのにかえっていいのかもしれない。

まあ、そんな堅苦しいことを言わなくても、古文で遊ぶというのはおもしろそうだし、みんなもやってみるといいよ。

2009-03-30

枕草子[能因本]

例の大工の食事の話は、枕草子の能因本に含まれているもので、三巻本には存在しない段だということを以前コメントで教えていただいた。運良く、能因本を底本とする小学館の「日本古典文学全集」版『枕草子』は地元の図書館に架蔵されてました。(小学館はその後刊行された「新日本古典文学全集」では三巻本底本に切り替えられている。)

さて、最近、笠間書院から能因本を底本とした新しい枕草子が出てるのを見つけた。笠間文庫「原文&現代語訳シリーズ」松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』(2008年)である。校訂者は日本古典文学全集と同じ方々で、日本古典文学全集版の「後継版」といえる。

「『三巻本』が一般化され『能因本』のテキストの入手がやや困難となっている現状を鑑み、ここに同じく能因本を底本とする『完訳 日本の古典「枕草子」一・二』を一冊とし、本書を刊行した次第である」と、日本古典文学全集での能因本収録にあたっての解説とほぼ同じ主旨のことが書かれているのがおもしろい。

日本古典文学全集にあった解説、年表、関係系図も収録されている。日本古典文学全集には絵がやたらモダンな『枕草子絵巻』も所収されていたが、これはない。「能因本には見えない、三巻本系統の章段」も入っている。

バージニア大の電子テキスト版『枕草紙』には、クレジットに Publisher として "Tokyo: Yuhodo, 1929" と書かれている。ウィキペディアの記述を信用するなら、これは「昭和四年(1929年)有朋堂刊の能因本系本文を底本とする」ものらしい。「工匠の物くふこそ」云々も入っているね。

2009-02-05

『古代日本語文法』

すでに引用したことがあるけど、『古代日本語文法』という本について紹介しておきたい。

この本は古文の文法書で、冒頭の「はしがき」によれば「現代語の記述文法の枠組みで、古代語文法を記述している」のが特色だという。そもそも他の文法書をあまり読んでないので、それによって同書がどの程度際だっているのかは、僕は知らない。それはそれとして、古文の「語」ではなくて「用法」について広く解説してあるので、古語辞典の補助として使えます。

単語がわからないのは辞書引けばいいからあんまり大したことじゃなくて、用法がわからないほうがじつはいかんともしがたい。先日の「遅く~する」がいい例。それに古文の難解な個所というのはたいてい単語はそんなに難しくなくて、どうして、どういう意味で、そういう言葉遣いになっているのかというところが難しい。なかんずく助詞と助動詞。僕はそういうときはまず岩波古語辞典の「基本助動詞・助詞解説」をひたすら読み返す、それでもぴんとこなかったらこの本で該当する解説がないか探す、というのがパターンになっている。

僕がこの本でいいと思ったところは、古典の文法について、現在までにわかっていることだけでなく、わかっていないことまで書かれているという点。

たとえば、古文の基本である係り結びについて。僕が高校で係り結びについて教わったのは、まず、コソが表れたら已然形で終わるとかの形式上のルール、それからそれらが意味としては「強調」だということくらいだった。まあこれはこれで「教えてる」ことにはなるのかもしれない。さて、同書の係り結びの節はこうだ。

係り結びは、その頻度からみて、古代語の構文上、かなり本質的な役割を担っていたであろうと思われますが、その役割については今のところ不明です。また、(1a) ~ (1c) の間に、どのような表現価値の差があるのかについても、まだよくわかっていません。

(1)a 木の間より花とみるまで雪ぞ降りける(古今331)
b 「雪なむいみじう降る」と言ふなり。(蜻蛉)
c 妻戸押し開けて、「雪こそ降りたりけれ」と言ふほどに(蜻蛉)

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007年、p. 187)

「今のところ不明です」「まだよくわかっていません」だよ。このあけすけな誠実さを見よ。でも、こういうふうにはっきり言ってもらったほうが、自分はそのことについてよく考えてみようという気になる。

もともと古文を読み始めた頃から、僕は「コソ+已然形も強調、ゾ+連体形も強調、シも強調、シモも強調って、じゃあそれぞれの強調の表現は互いに交換可能なのか?」と言っていた(英語学習でやる強調構文の書き換え演習が念頭にあって)。この本を読んでそういう疑問の持ち方が支持された気持ちもした。やっぱり自分の頭で考えないと。

「よくわからない」と感じた部分こそ大事だということと、それについて考えるための方法論について、世の中の教科書はもっと重視したほうがいいね。高校の頃に見た教科書は、いってみればなんでもわかっているふりをしていたわけで。

話がそれた。あと、この本では今世紀に入ってからの新しい研究成果を取り入れているのも特徴。大野晋とか、おもしろいんだけど、やっぱり新しくても90年代なので、その後の進展も知りたい。現在の研究状況を概観するのにもいいかと。いや、僕は研究しないから他の方々にとってということでね。

文法事項ごとの解説の集積なので、頭から順番に読んでいく読みものにはならないけど、リファレンスとして脇に置いておくのにはいいです。今後も何度か引用すると思う。

さて、じつは以前この本からの引用を載せたとき、著者である小田氏からホームページ経由でコメントをいただいてしまった。ここがインターネットだということを忘れていたぜ。もとは大学用のテキストとして書かれた本だったそうです。また内容を増強した一般向けの「詳説版」も来年秋(「今年」の間違いじゃなければ、ずいぶん先の話だ)に出されるとのこと(こんなところに書いても宣伝にはならないけれど)。

2009-01-29

従者の投石

男君の仕返しの続き。

男君一行が清水(きよみづ)詣でに出かけたところ、偶然中納言家北の方一行の乗る車(牛車のことね)に遭遇する。いやがらせの機会を逃さない男みちより。

「中納言殿の北の方しのびてまうで給へるに。」
と言ふに、中将(男君)、うれしくまうであひにけり、と下(した)にをかしくおぼえて、
「をのこども、「さきなる車とく遣れ」と言へ。さるまじうはかたはらに引き遣らせよ。」
とのたまへば、御前(ごぜん)の人々、
「牛よわげに侍らば、えさきにのぼり侍らじ。かたはらに引き遣りてこの御車を過ぐせ。」
と言へば、中将、
「牛よわくは面白の駒にかけ給へ。」
とのたまふ声、いとあいぎやうづきてよしあり。車にほの聞きて、
「あなわびし。たれならん。」
とわびまどふ。なほさきに立ちて遣れば、中将殿の人々、
「え引き遣らぬ、なぞ。」
とてたぶてを投ぐれば、中納言殿の人々腹立ちて、
「ことと言へば、大将殿ばらのやうに。中納言殿の御車ぞ。はやう打てかし。」
と言ふに、この御供(とも)のざふしきどもは、
「中納言殿にもおづる人ぞあらん。」
とて、たぶてを雨の降るやうに車に投げかけて、かたやぶに集まりておし遣りつ。御車どもさき立てつ。御前よりはじめて人いと多くて打ちあふべくもあらねば、かたを堀に押しつめられて、ものも言はである、
「なかなかむとくなるわざかな。」
と、いらへしたるをのこどもを言ふ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 146-147、一部表記を改める。)

拙訳。

「中納言殿の北の方が、お忍びでお参りにいらしているのです」
と言うので、中将殿はこれはいいところで出会ったとほくそ笑み、
「おまえたち、前の車をもっと急がせろ。言うことを聞かなかったら横にどかせてこの車を通させるんだ」
と命令する。そこで従者たちが、
「牛が疲れていては前にいられまい。傍らによせて我らの車を先に通せ」
と言うと、中将殿は続けて
「牛が疲れたのなら面白の駒に引かせなされ」
と声をおかけになった。いい声である。北の方は車の中でその声を聞き、
「なんとひどい、誰であるぞ」
とうろたえている。それでもそのまま車を進めていると、中将方の者たちは
「どけないというのか」
と言って石を投げつけてきた。中納言方の男たちはこれに憤り、
「なにかにつけて大将様のようにしやがって、中納言殿のお車ぞ。やれるものならやってみろ」
と言うが、中将のお供の雑色たちは、
「中納言殿にも怖い人はあろう」
といって石を雨の降るように車に投げかけ、中納言方の車を脇に押しやり、とうとう中将殿の車を通させてしまった。多勢に無勢で太刀打ちできず、車の片側は堀に押し込まれ、中納言方の男たちはものも言わずに固まっている。中将殿の従者たちはそれを見て
「だまって通せばよかったものを」
と言いながら通り過ぎていく。

しかしひどい罵倒だ。自分が仕掛けたくせに。いい声である、じゃないよな。

車争いといえば源氏物語のが有名だけど、ここでは石が飛んでいる。こうした光景はただお話の中だけではなかったらしい。『殴り合う貴族たち』(2005年)という本に、平安時代の貴族の従者たちが他の貴族の車に石を投げたことについての記述がある。

そして、その行列見物の場で事件が起きた。藤原実資の『小右記』によれば、永延元年(九八七)の四月十七日、その月の二度目の酉日のことであった。

三十三歳の右近中将藤原道綱は、いつものように賀茂祭使の行列を見物しようと、この日も牛車に乗って出かけた。その車には二十二祭の左少将藤原道長が同乗していたが、二人の向かった先は、やはり、祭使の行列が賀茂川に向かって東進する一条大路あたりであったろうか。

もちろん、この日に行列見物に出ていたのは、道綱・道長の二人だけではなかった。二人が向かった先にはすでに右大臣藤原為光が大勢の従者たちを引き連れて到着しており、その一行によって見物に都合のよい場所は占拠されてしまっていた。

そのため、道綱・道長の乗る牛車は、他によさそうな場所を探そうと、為光の乗る牛車の前を横切った。そこが一条大路であったとすれば、為光一行の占めていた場所よりもさらに東へ行って見物しようとしたのかもしれない。

が、これがまずかった。

道綱・道長の牛車が為光の牛車の前を横切るや、為光の連れていた大勢の従者たちが、そこいらに落ちている石を拾って道綱・道長の牛車に投げつけてきたのである。右大臣ともなれば、その外出時に率いる従者の数は二十や三十には及んでいただろう。その従者たちがいっせいに石を投げつけてきたのである。これは甚だしい狼藉であり、道綱・道長の二人は、かなり肝を冷やしたに違いない。おそらく、そのあとはもう行列見物を楽しむどころではなかっただろう。

(繁田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年、pp. 59-61)

この、従者たちが石を投げるというのは平安朝ではひじょうに一般的なことだったらしい。同書には、当時平安京では大臣の家の前を通るときには車を降りて通らねばならなかったこととか、それを怠ると邸から激しい投石を浴びせられたといった話も紹介されている(pp. 120-122)。なんかそういうゲームが作れそうだな。

この投石は、当の大臣たちというよりもむしろその従者たちの習慣だったようだ。

王朝貴族たちに仕えた従者にしてみれば、自分の主人の権威は、高ければ高いほどよかったに違いない。主人の権威が高ければ、それだけ自分の格も上がるというものだ。それゆえ、彼らは、主人に無礼を働いてその権威を貶めるような者があれば、自らの手でその無礼者に制裁を加え、主人の権威を知らしめようとしたのではないだろうか。

(同書、p. 123)

おもしろい。僕はこの従者の投石の話がけっこう気に入ってるのよ。

同書は平安時代の血なまぐさくも人間的な側面を知ることができて楽しい本だ。古文を読み始めてからも、僕はあんまり「雅な王朝文化!」みたいなのには惹かれてなかったんだけど、そういう先入観は一面的なものだということがこれを読めばわかる。まあはじめから平安時代の雅やかなほうに憧れてきたという人はこれで平安時代が好きじゃなくなるかもしれないけどね。

2009-01-26

東野炎立所見而

ここでは基本的に平安時代の古文を扱うことにしてるので、万葉集は対象外なんだけど、まあ番外ということで。

年末年始に実家に帰って、テレビを久しぶりに見た。NHKでは年始に檀ふみが万葉集の歌を紹介する番組をやっていた。いいね、とばかりにそれをだらだら見ていたら、有名なあの歌がやっぱり出てきた。

東《ひむがし》の野にかぎろひの立つ見えて返《かへ》り見すれば月傾《かたぶ》きぬ

ここは「雄大ですなあ」とか、まあそんなことを言うところか。けど、この歌はどうやら本当はこういう歌ではなかったことがほぼ確実だという。

どういうことかというと、『万葉歌を解読する』(2004年)という本にこんなことが書いてある。

しかし、専門的な立場から見れば、人麻呂が詠んだのは本当に「東の野にかぎろひの立つ見えて…」というような表現を持つ歌なのかどうか、大いに疑問である。したがって、この歌に対する右のような解釈が妥当なものなのかどうかも疑わしい、ということになる。右にあげたのは一般に採用されている訓にすぎず、また口語訳もそれに基づいたものにすぎない。こう言えば驚く向きも少なくないと思うが、それは事実であり、あえて事を大げさに言っているのではない。

この歌は、十四の漢字で次のように表記されている。

1 東野炎立所見而反見為者月西渡

古い写本を見ると、この原文には「アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ」という訓が付されている。つまり、第一句から第三句までの <東野炎立所見而> は、もともと「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」と解釈されていたのである。それを「みだり訓(いい加減な訓/まずい訓)」だと断定し、現在一般化している「東の野にかぎろひの立つ見えて…」という訓を考案したのが、江戸時代の賀茂真淵《かものまぶち》である。馬淵がこの新訓を提示してからは、研究者も歌人も「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」という伝統的な訓と解釈を捨ててしまった。本節のこの項に、あえて「江戸時代に作られた『万葉集』の歌」という小見出しを付けたのは、現在の一般的な訓が馬淵の考案したものだからである。

写本の訓と馬淵の訓を比較すると、歌の格調は確かに馬淵の訓のほうが高いように感じられる。しかし、馬淵の訓に対して、文法学者たちが異議を唱えている。上代語の表現としては不自然な文法的要素がその訓に含まれている、というのである。それだけでなく、原文の第三字の <炎> や歌の末尾の <西渡> などの訓に対しても、多くの異論が出ている。

(佐佐木隆『万葉歌を解読する』NHKブックス、2004年、pp. 255-256)

この本ではこれに続けて、この歌の「より本当らしい」訓について文法的見地から考察が進められている。

たとえば「かぎろひの立つ見えて」という部分について。上代では助詞「の」は連体詞だから、そこからは「立つ」は連体形である必要がある。一方で、活用語+「見えて」という表現は活用語の終止形を受けるのが普通であった。つまりここでは「立つ」は終止形である必要がある。だから馬淵の訓は文法的には矛盾をはらんでいるというわけだ。なるほどー。(注意:ものすごく端折って言ってます。詳しくは本を。)

くだくだしく引用するのもはばかられるので、人麻呂のこの歌が本当はどのように訓ぜられるべきなのかの正解については同書を読んでくださいな。厳密な読解に触れることで、巷に跋扈する万葉集を好き勝手に読み替えるアレな企てがいかに恣意的でいい加減なものかというのがわかるという意味でもおすすめ。