2010-07-30

後書き

予定していた百回を前回で超えたので、これでひとまずこのブログはおしまいです。一年の予定を半年以上もオーバーしてしまった。それでも読んだこと、考えたことのぜんぶは書ききれなかったな。しかし楽しかった。書きたいことがたまってきたらいつかまたここで再開するかもしれないので、記事は消さない。そのうち検索に引っかかって誰かの役に立つかもしれないしね。

『源氏物語』読了を報告できたのは延びてよかったことのひとつと言えるかもしれない。数年前まで古典の予備知識ほぼなしだった人間でも、こうして源氏を読めるとこまでいけるということを実証できた(笑)。

いろいろ出しゃばって無茶なことを書いてしまったかもしれない。引用はできるだけ出典を辿れるようはっきりと書くよう心がけたつもりだけど、間違った解釈で引いてしまったりしていないかだけが心配だ。記事を読んだ皆さまにおかれては、かならず明記した出典に直接あたってその妥当性を確認していただきたい。

今までよりペースは落ちるかもしれないけど、ここは書かなくなっても個人的には引き続き古文を読んでいきます。平安時代に限ってもまだ読んでいない作品はたくさんある。『大鏡』『宇津保物語』『狭衣物語』『栄花物語』等々。後半はあまり触れることができなかったけど、文法的な興味も尽きていない。また、ついに和歌についてはいまだに大きく理解が遅れていると感じている。それから、活字本ではなく古写本のままで少しでも読めるようにもなりたい。とりあえず次は『大鏡』かな。角川の文庫を買ってある。

タイトルについて。“pearly hailstone” というのは、宣長の著作「玉あられ」の我流英訳です。気づいた人はいただろうか……。

期間中ご指導ご感想のコメントをくださった方々ありがとうございました。更新はしなくなるけどメールやコメントは引き続き受け付けています(コメントのほうはスパムが入ったら状況次第で新規投稿を停止する可能性あり)。古文の話題であればなんでも遠慮せずに教えていただければと思います。

ではみなさん、ごきげんよう。

2010-07-29

宇治十帖について

ようやく宇治十帖を読み終え、これで源氏物語はすべて読み果てたことになる。さて、その宇治十帖だが、源氏の他の巻々との雰囲気の違いから、これを紫式部の作でないのではないかとする説が古来より唱えられてきた。よく推定されるのは、式部の娘の大弐三位である。

本居宣長は宇治十帖も式部作であると考え、『紫文要領』でその証拠のひとつとして「浮舟」の巻にある「里の名をわが身にしれば」の歌が紫式部の歌として新拾遺集に入れられているということを指摘している(岩波文庫版 p. 10)。

「竹河」を式部作でないと指摘した武田宗俊は、それ以外の巻はすべて式部作であるとした。ちょっとどこを引用したらいいのかメモしておくのを怠ったせいで適切な個所を得ないのだけど、別件について論じているところで、「椎本」の巻の「奥山の松葉に積る雪とだに消えにし人を思はましかば」の歌が『伊勢大輔集』に式部の歌として載っている「奥山の松葉に凍る雪よりも我身世にふる程ぞはかなみ」を作り替えたものであるという指摘をしている(『源氏物語の研究』、p. 33)。

これら歌からの指摘はあながちに無視できないのではないかな。式部の文体は「若紫」から「帚木」「若菜」と見渡してみてもずいぶんの変遷をしてきている。文体だけからは安易にこれらをひっくり返して他者の作と認めることはできない。

また、大野晋は、自分は宇治十帖他作者説の可能性を捨てていなかったが『紫式部日記』の精読から宇治十帖も式部作と考えるようになったと言っている(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語(上)』中公文庫、p. 12 および大野晋『源氏物語』岩波現代文庫)。たしかに『紫式部日記』に垣間見える男性嫌悪的な態度は、「総角」や「浮舟」「蜻蛉」の巻などと通底する。

『紫式部日記』に、道長の側室腹の若君たちが女房の局への出入りを許されて乗り込んでくる場面がある。若い盛り(みな十五歳前後)の男たちに若い女房らも色めき立つが、年配である式部は奥のほうに隠れている。

高松の小君達さへ、こたみ入らせ給ひし夜よりは、女房ゆるされて、まもなくとほりありき給へば、いとはしたなげなりや。さだすぎぬるを效にてぞかくろふる。五節こひしなどもことに思ひたらず、やすらひ、小兵衛などや、その裳の裾、汗袗にまつはれてぞ、小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる。

(『紫式部日記』岩波文庫、p. 56)

若君にからまれて上げた女房の黄色い声を「小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる」と書く。僕はここを読んだ時ぞっとした記憶がある。この表現に式部の男女間の語らいへの強烈な嫌悪と不信が見えたような気がしたのだ。「蜻蛉」を読んだ時、浮舟がいなくなったあと、その慰めを求めて宮中の女房を漁る匂宮や薫の描写に、僕は日記のこのくだりを思い出した。

さて、そうした印象とは別に、もうひとつ小説としての技術的な視点からも思うところがある。「匂宮」で登場人物を紹介したあと、「橋姫」「椎本」ではひじょうに周到に伏線が張られている。この状況設定は「総角」での膨大な心理描写を導くためのものである。また、ストーリーが実質的に大きく動くのはさらにそのあと「早蕨」からである。僕は、別人が引き継いで書いたとするなら、こんな地味で周到な展開にはしない(できない)と思う。

デビューしたての物語作者は、ストーリーの早い段階で読者を引きつけなければならないので、目を引くエピソードを定期的に発信しようとする。『落窪物語』を思い出してみればいい。『源氏物語』でさえ序盤の紫上系ではそうだった。だが、ここでは「匂宮」の薫の体香という設定がやや好奇の目を引くものの、その後はじつに地味な展開が続く。読者の目を引くことに関心がないのではないかと思えるふしすらある。大野晋は宇治十帖を実験小説と言ったが、こう言ってよければ、作者は宇治十帖において、小説を自分の思考の道具として使っているような印象がある。これは散文を膨大に書き続けてきた人間の書きっぷりで、だれかがぽっと出てきて引き継いだ時に生まれるような文章ではない。

上記の印象から、よほど決定的な外部の証拠がない限り、宇治十帖が式部作でないというのは、なかなか受け容れがたいように思う。まあ問題は、自分の読解がどこまで信用できるかというところなのだが……。宇治十帖は「若菜」上下と同様、もう一度読む必要があるな。

2010-07-26

『源氏物語』を読み終える

おおよそ一年半かかって、ようやく『源氏物語』を読み終えた。読み終えたというだけでもそれなりに感慨があるけれども、純粋に優れた作品を完読する機会を得られてよかったと思う。今後源氏に関係した言説に触れるたびにいちいち後ろめたい思いをする必要がないのもいいことだね。

以下は差し出がましいが、これから源氏を原文で読もうという人への助言。

現行の巻の順序でなく書かれた順で読む。これがいちばん言いたいところ。新しい研究の成果を取り入れない理由はない。21世紀の人間が源氏読解においてアドバンテージを持てる唯一の要素。これを実践するだけで挫折率はそうとう下がると思う。ここでも紹介してきたけど、現行の巻の順序は書かれた順とは違っている。詳しくは、武田宗俊『源氏物語の研究』などを参照のこと。巻の順に読むというのは『銀河英雄伝説』や『ポーの一族』を時系列順で読むとか、そういうことに近い。つまり、二回目以降の人向けの読み方だといえる。書かれた順で読むほうが、頭に入ってきやすいはずである。とくに前半部は、巻順ではごちゃごちゃしているところが、たいへんすっきりとする。また後半では「紅梅」の位置に注意する。

ここでいう「書かれた順」とは、次のような順である。

  1. 「1. 桐壺」。これはおそらく次の紫上系がある程度書かれた後にあらためて用意された巻とおぼしいのだが、どのみちストーリー的にはここから始まるとしかいえないので、これに限っては書かれた順でなく最初に読んでおけばいいと思う。が、必ずしも最初でなければならないわけでもない。紫上系を読んでいる途中で外伝的に寄り道して読んでもよい。
  2. 紫上系。「5. 若紫」「7. 紅葉賀」「8. 花宴」「9. 葵」「10. 賢木」「11. 花散里」「12. 須磨」「13. 明石」「14. 澪標」「17. 絵合」「18. 松風」「19. 薄雲」「20. 朝顔」「21. 少女」「32. 梅枝」「33. 藤裏葉」。
  3. 玉鬘系。「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」「6. 末摘花」「15. 蓬生」「16. 関屋」「22. 玉鬘」「23. 初音」「24. 胡蝶」「25. 螢」「26. 常夏」「27. 篝火」「28. 野分」「29. 行幸」「30. 藤袴」「31. 真木柱」。「玉鬘」以降は通称「玉鬘十帖」と呼ばれる。
  4. 「若菜」以降。「34. 若菜上」「35. 若菜下」「36. 柏木」「37. 横笛」「38. 鈴虫」「39. 夕霧」「40. 御法」「41. 幻」。
  5. 「匂宮」「紅梅」「竹河」、宇治十帖。ただし順序は「42. 匂宮」「45. 橋姫」「46. 椎本」「47. 総角」「48. 早蕨」「43. 紅梅」「49. 宿木」「50. 東屋」「51. 浮舟」「52. 蜻蛉」「53. 手習」「54. 夢浮橋」。「44. 竹河」は外伝として気が向いた時に適当に読む。

読書進捗の話をした時の表もご参考に。

さらに、上記の読みかたを実践してもなお整合の取りきれない個所がいくつかあることも知っておいて損はない。これらはいずれも(偶然か意図的かは別にして)巻の欠落が原因のように見える。

  • 「1. 桐壺」と「5. 若紫」の間に明らかなストーリー上の欠落がある。この欠落部分については「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」にも書かれていない。ここには藤壺宮と源氏との密会、朝顔斎院や六条御息所と源氏とのなれそめが描かれていたはずである(宣長はこれを補完するために「手枕」を自分で書いた)。つまり、実質源氏物語は「5. 若紫」から、ストーリーの途中のところから始まっている。これはもうそれしか残ってないんだからしょうがない。上演時間に遅れてやってきた客のようなものと、あきらめるしかない。
  • 「1. 桐壺」は「5. 若紫」以前の背景を描いたものだが、必要なぜんぶを説明してくれているわけではない。「14. 澪標」で語られる宿曜の予言などはその例である。
  • 紫上系、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間に欠落があるようで、夕霧や柏木の官位がここで飛んでいる(しかしここは明石の姫君の裳着の話が連続しているので、このふたつはそれほど離れた巻同士でないことは間違いない)。それが玉鬘十帖で説明されているかというとされていない。どうも、玉鬘十帖は、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間にあった巻を抜き取って、そこに差し替える形で挿入されたような感じである。玉鬘十帖に一時的に紫上系によく見られる華やかな描写が復活するのはそのことと関係があるかもしれない。
  • 底本によっては、「47. 総角」で夕霧の官位が混乱している。これは「紅梅」の位置が誤られたことによる混乱からきているのだと思われる。あまり気にしなくてもいいっぽい。詳しくは武田宗俊の論を参照。

訳文はいらない。まず基本的に、全訳と名の付いている本の訳のほとんどは意味がない。意味のある訳を読みたいのなら、与謝野源氏なり谷崎源氏なり、それ自体を鑑賞の目的として耐えうるものを読めばいい。全集で全訳を載せているようなやつの訳文は、日本語とはいえない。あれは古語の助詞・助動詞を機械的に現代の助詞・助動詞に置換した人工言語みたいなものだ。難しければ難しい原文になるほど、訳文はあてにならなくなっていく。あれの無意味さはいくら強調してもしすぎることはない。それに源氏物語は大著だ。それを読もうという時に、それと同じかそれ以上の分量の駄文を並行して読むというのは時間と頭の無駄遣いだと思う。

以前脚注の落とし穴について書いたことがあるけど、そうはいっても注は絶対に必要である。注の付いてない原文で読もうという原理主義にまでいくのはやり過ぎ。目で追ってても内容は理解できずに終わる。そういうのは二周目以降にとっておこう。

巻ごとに解説書で復習する。ということは、なにか源氏物語の解説書を用意したほうがいいということです。巻ごとに、あらすじとか、見どころがまとまっているやつがいいかと。僕の場合はそれは対談『光る源氏の物語』だった。でも他の本でもなんでも、好きなやつでいいと思う(でも対談は読書の孤独を紛らわすのにはよかったかな)。ひと巻読み進んだ後に、そこで何が語られていたのか、ストーリーはどう動いたのかをそうしたガイドブックで復習しておく。前に読むと読む気がなくなるので後がいい。ちゃんと読めてればもちろん不要なことではあるけれど、保険としてあったほうが最期まであきらめずに読めると思う。

2010-07-22

「匂宮」「紅梅」「竹河」について

大野晋と丸谷才一の対談『光る源氏の物語』では、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖についてその文章の拙さと冗長さとを挙げて式部作ではないとし、「読者はこの三巻を飛ばすほうがいい」と言っている(中公文庫版下巻、p. 274)。僕は源氏物語を読むにあたって当初この対談を大まかな羅針盤としていたので、「幻」のあとにはまず「橋姫」へと進み、飛ばした三帖は宇治十帖を読みながら適当なタイミングで読んでいこうと考えていた。

「匂宮」「紅梅」「竹河」を飛ばして、いきなり「橋姫」から読み出してもストーリー上破綻はないというのは、おおむね間違ってはいない。しかし要所要所で言及される薫の体香についての記述は、どうも「匂宮」の記述を前提としていると考えたほうがいいように感じた。

薫は女三の宮と源氏(実は柏木)の子で、自分の出生に疑問を持ち、そのせいか厭世的な性格を持つ人物である。彼には、なぜかその体からえもいわれぬいい匂いがするのだという設定が「匂宮」にある。おとぎ話を卒業して現実的な人間模様を描くことに成功した源氏物語が、ここでなぜまたこんな SF 的な設定を持ってきたのかというのが昔から疑問視されていて、それが「匂宮」他者作者説の唱えられる一因ともなっていた。

しかし、宇治十帖の前半部には、薫の放つ香についての言及が要所要所に出てくる。そういう個所に出くわすと、思い込みを防ぐために、それらが「貴人としての一般的な描写として素晴らしい香を焚きしめているのだと述べているだけではないか」と警戒しつつ注意深く読むようにしていたのだが、やはりそれでは苦しいように思われた。

……宮は、いとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香のいと深くしみ給へるが、世の常の香《かう》の香《か》に入れたきしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしと咎め出で給て、いかなりしことぞとけしきとり給に、……

(「宿木」新日本古典文学大系『源氏物語(五)』、pp. 71-72)

薫の体香について、はっきりとそれが「薫きものの香」であるように記述された個所は見つからない。むしろ上記引用などは、やはり彼自身の体香という設定を前提としていると考えたほうが自然である。「匂宮」が後から書かれたというのであれば、こうした記述に生じうる微妙な齟齬まで書き換えたと考えなければならず、それはちょっとありそうにない。

そんなことを考えながら読んでいたら、武田宗俊の『源氏物語の研究』でははっきりと「匂宮」「紅梅」は式部作と断ぜられていてなんだか拍子抜けしてしまった。式部作でないと思いながら読むからそうという理由がなくてもなんとなく疑わしく思ってしまうのだが、いったん疑ってしまったものをやはり式部作と断言するのは難しい。しかし決定的な証拠がなければ式部作に帰するのが自然である。丸谷才一は思い込みで文が拙いと言ってしまったのだろうか。

「紅梅」についても、諸所にそれを前提とした記述が見られる。この巻が式部作でないと疑われたいちばんの理由は登場人物の官位が合わないという点なのだが、これは武田宗俊の同書の論文で解決してしまった。「紅梅」を「早蕨」の後、「宿木」の前に入れるとその問題は起らない。この説が正しいように思う。「宿木」には「紅梅」の内容を前提にした記述が見られるので、これもよっぽどの理由が出てこない限り式部作だろう。

文章が拙いというのはなかなか証拠として挙げにくい事実である。自分の読解力がないだけかもしれないし。「紅梅」の文章がごちゃごちゃしているというのは、そもそも書こうとしている事実(人物関係)がごちゃごちゃしているせいかもしれない。また、あんまり上手くないと思った巻が他になかったわけではない。僕は「鈴虫」の巻で、これは名文とは言い難いのではと思った記憶がある。

「竹河」については以前書いたとおり、これは直接的な剽窃を指摘されているので、式部作でないこと確実だろう。しかしにもかかわらず文章の出来不出来からこれを式部作でないと判定するのは難しいと思う。結局のところ、文の格調が高いか低いかは、著作者の判定にはあまり信用できないということなのかもしれない。

2010-07-19

書き残された言葉と死について その二

一条天皇の時代には『土佐日記』や『伊勢物語』が生まれてからすでに数世代が経過している。『蜻蛉日記』が書かれてからも一世代以上経っている(道綱母は生きていたかもしれないが)。中宮定子や清少納言は時の人ではなくなったが、『枕草子』は読み継がれていたようだ。

道綱母は『蜻蛉日記』がいつごろまで読み継がれるかを意識していただろうか。また、紫式部は『源氏物語』がいつごろまで読み継がれるかを考えていただろうか。千年以上とまでは想像しなかったかもしれないけど。

『蜻蛉日記』の作者はおそらく『土佐日記』『伊勢集』などを先行する存在として意識していただろう。紫式部まで下ると、そうして残された『蜻蛉日記』も強く彼女の意識に訴えていたに違いない。李杜をはじめとする、はるか昔の大陸の文人たちのことも考えたと思う。

さて、なんの話かというと、書き残されたものは自身の死を乗り越えてなお残る、というアイデアについてである。

『蜻蛉日記』や『源氏物語』には、さらには『賀茂保憲女集』にも、自身の書いたものが世の中に出回っているほかの読みものと同様に残ってゆくものであることへの自覚と、また残してやろうという意志が感じられる。その原動力は嫉妬だったり自責だったり卑下だったりするのだが、何にせよそうしたものを自分の存在とともに流れて消えてしまうものにはできないと、彼女たちが考えたであろうことが感じられる。僕はこれらの散文作品がそうした私的な動機だけによって生まれたとは考えないが、また一方でそれがまったく関与しなかったというのもあり得ないことだと思う。

(それをあまり感じない仮名文学もある。『落窪物語』には、人を楽しませようというサービス精神は感じるが、ここでいう思念のようなものは感じられない。『堤中納言物語』には趣向を凝らした心意気こそ感じるものの、その意識はひじょうに刹那的なところに留まっているように思える。『和泉式部日記』にも感じない。『枕草子』にもあまり感じない。ただ、その日記的章段群には、書かれた時点ですでに「もはや回顧することしかできない世界」が描かれておりその第一の消費者がおそらくは作者自身であったこと、またその結果として「書き残されたものが滅んだ後も生き残る」というテーゼを図らずも体現してしまっていることによって、同種の魅力を放っているようなところがある。)

だから、平安時代の仮名文学を読むということは、読み手にとってだけでなく、書き手にとってもやはり生死の境界を超えた対話であるということになる。古文を読むというのは、そういうところが多分にある。

……うーん。前回にもましてわけがわからないことを言っていると思われたことでしょう。前回のと合わせて、これらのことはまだ自分の中でもうまく考えが整理できてない。というか、もともと妄想じみているので、合理的に言語化するのは無理のような気もする。が、なんとなくここを終わらせる前に書いておきたかったので、わからないなりになんとか書いてみたという感じ。お目汚し御免。次から源氏の話に戻ります。

2010-07-05

書き残された言葉と死について その一

古文というのは学ぶ側にとっては一種の語学ということになるわけだけど、ほかの多くの語学とは違い、それでほかの誰かとコミュニケートできるようになるわけではない。また一般的には、その言語で自分が新たになにかを書くということもない。英会話などと比べれば、なんとも孤独な語学だといえる。

また、読書というのもひじょうに孤独なものだ。読書会とか朗読会とかいったりするものの、本質的には、近代的な意味での読書というのはきわめて個人的で孤独な体験である。

ところが、その個人的で孤独な作業の中で、読書する人の頭の中に、生き生きと話す人物の息づかいや、雑踏の喧噪やらが鮮やかに聞こえてくることがある。それも読書の特徴である。古文で書かれた文章にあっても、それは起こりうる。死んだ言語である古文がかつて生きていたという当然の事実を再認識するのは、そういうときである。辞書や文法書をひっくり返した苦労がそれを助長するのかもしれないが、千年前の中流貴族の女性の言葉が「聞こえた」と錯覚するときがある。古文というのは死んだ言語であるから、その話者も当然この世の人ではない。すると、この錯覚がいささか怪談めいた可笑しなアイデアを呼び起こす。死んであの世で古代の人と会話する、というアイデアだ。

死んだ人とかあの世とかを本気で信じるわけではないのだが、生きた古文という矛盾したものをひねり出すには、頭の中でそういう無茶でもしないことにはうまくいかない。だけど、こういう夢想をしたのは自分だけではないんじゃないかな。

なにで読んだか忘れてしまったけど、かつて、大野晋は冗談で「僕は紫式部と当時の言葉で会話ができるんだ」とか、そんなようなことを言ったことがあったらしい。本当だとしたら、大学者の大野晋もあるいは同じようなことを考えていなかったとは言えないわけだ。本居宣長だってそうだ。『紫文要領』は、つまるところは式部が源氏物語を書いたときの意図に従って読めという趣旨だが、それは必然的に平安時代のライブな作者/読者という存在を意識することになる。彼が擬古文で各種の書物をものしたのには、ひとつには「平安時代の人間に提出して通用するものを書く」という愉快な規範意識もあったのではないだろうか、などと空想する。

空想したところで、そうだという証拠もないし、なにか有用な知見が得られるというわけでもないので、これはただ空想してそれだけのことなのだが、そんなことも考えるという話。

2010-05-20

「夕霧」と「御法」「幻」について

「若菜」上下から「柏木」「横笛」までは、登場人物の行動や心理が物語の筋と緻密に絡み合い一体となっており、どの巻も前後の巻と切り離すことができない。作者の書き手としてのエネルギーがいちばん熱く注がれているのがこの四巻だと思う。一連のできごとが収束に向かうきっかけとなるのが柏木の死である。「横笛」から次第に、物語の熱がゆっくりと冷めてゆく。「夕霧」は「横笛」の続きであるけれども、同時に源氏の一族の「終わり」を語るその「始まり」ともなっている。

「夕霧」は彼の通称の由来にもなったその夕霧を主人公とした、独立性の強い構成の巻である。冒頭を「まめ人云々」で始め、結尾を雲居雁と藤典侍の子どもの話で終えることで、この巻は他ならぬ夕霧の物語であるということを作者ははっきりと示している。ということは、この巻それ単体で作者にはなにか書こうとしたテーマがあったということだと思うんだけど、それはなんなんだろう。

みんないろいろと意見があるとは思うけど、ひとつには源氏の「神話性の終焉」を宣言するものとしての役割があるんじゃないか。柏木の一件で源氏の不可侵性はすでに打ち破られている。それに追い打ちをかけるのが夕霧のどうしようもない通俗性というわけである。

この巻での夕霧はひどい。彼は未亡人となった落葉宮に言い寄るが拒否される。それはいいのだが、そのあとがひどい。関係はなかったのに、「関係したようだ」という世間の誤解を利用して落葉宮を絡め取っていく。それで落葉宮が母親の見舞いで山に籠もっている間に、落葉宮の自邸を勝手に改装して「ほら僕らの新居だよ」みたいに待ち構えている。こわい。でそのまま事実上結婚したみたいになる。でも本人が承諾してないもんだから結婚した後なのに文を送っては返事が来ないか待ったりしている。そのうち乗り込んできて「世間はそうは思わないだろうから、ここで折れておいたほうが身のためですよ」みたいな言い方で口説く。こんなやつに落葉宮がなびくわけがない。

(しかし柏木もそうなのだが、このかっこ悪さにはなんかこう、身をつまされるものがあるけどね。柏木といい夕霧といい、男の読者が源氏物語で感情移入できるのは若菜以降からだと思う。それ以前には、女はともかく男の登場人物にはあまり唸らされるようなキャラクターはいない。)

閑話休題。そういうわけで彼にはもはや父には備わっていた神通力がない。伊勢物語の「むかし男」に匹敵する、冗談みたいな好き人であった光源氏、その息子がこうして圧倒的な「普通」に着地してしまうというおかしさ。柏木と夕霧の二人は、意図したわけではないけど、結託して源氏の栄光を引きずり下ろす役割を担っている。

さてこの巻の終わりかたには、「私はこの夕霧という人物について書くことはすべて書き終えた」という「かたをつけた」雰囲気が漂っている。それに続くのが紫上と源氏の最期を描く「御法」「幻」。

「御法」は紫上の死を扱うための巻。それに焦点が当てられていて他のことには触れられていない。「夕霧」同様「御法」も「幻」も、中心人物が据えられてその人物とそれをとりまく人々の関わりという形で物語が描かれ、初期の、何月何日になった、という暦に従った物語進行から作者はもはや完全に解放されている。僕は紫上というキャラクターについて紫式部がどういう思いを抱いていたのかがまだはっきりとつかめないでいるので、この巻についてあまり言うことはないのだけど、その紫上という人物に対する作者の優しさは感じるよね。

「幻」は光源氏の最晩年の一年を歳時記ふうに綴っていく体裁。一年の節々で紫上を思いながら歌を詠んでゆく。年の暮れになって昔の恋文をまとめて焼かせる。それから年が明けたときの支度をいろいろ指図する。これで終わる。うまい。作者はこの終わらせかたを執筆のかなり前の段階から暖めてたんじゃないのかな。さて、このあと「雲隠」という名前だけの巻があることになっているが、まあ実際の本文はないだろう。恋文を焼いた話の出たあとにもう一巻だらしなく源氏の話が続くとはちょっとね。

2010-04-29

武田宗俊『源氏物語の研究』

四月は忙しくてここにぜんぜん記事を書けなかった。百回までという決めた回数の残りもあるから、いいかげんなのでお茶を濁す気にもならず、間が空いてしまった。

ずいぶん前から読みたかった武田宗俊『源氏物語の研究』(岩波書店)を最近ようやく手に入れた。思ったよりも薄い本だったんだな。これは、以前に紹介した源氏物語の執筆順序について、玉鬘系が紫上系にあとから追加挿入されたということを明らかにしたその論文が収録されている本だ。

それにしても、実物を読む前から薄々は感じてたけど、この人はほんとに頭いい人なんだなと思った。源氏関係の本でこんな明晰な文章初めて見た。そのうえ観察眼が鋭い。とくに玉鬘系の登場人物が紫上系に出ていないこととか、「竹河」の男踏歌の描写が「初音」の剽窃であることとか。これを指摘された当時の研究者たちはさぞくやしかったろうね。

この本は昭和二十九 (1954) 年に初版発行だが、昭和五十八 (1983) 年に復刊し、その際に吉岡曠氏の解説が付けられたようだ。僕が入手したのは平成六年 (1994) 年の第三刷。

1983 年に書かれたこの解説を見るに、武田氏の玉鬘系後記説がその時点でなおほぼ完全に孤立していたということがわかる。いまこうして源氏読んでるひとりの人間の感想として、これはなんとも驚くべきことだ。古文でいうなら「あさまし」。武田説に賛同している論のひとつ、大野晋『源氏物語』の刊行は 1984 年で、手元にはその岩波現代文庫版 (2008) があるが、それによれば、秋山虔「源氏物語――その主題性はいかに発展しているか――」(『日本文学講座Ⅱ 古代の文学 後期』河出書房、1950)、『源氏物語』(岩波新書、1968)、また山中裕「源氏物語の成立順序についての一考察」(「国語と国文学」1955年1月号)、吉岡曠『源氏物語論』(笠間書院、1972)を挙げて「武田氏の見解を積極的に発展深化させようとする意見の公式に発表されたものは右の他にほとんどない」としている(pp. 390-391)。

さすがにいまはもっと認められていると思うけど、定説とまでは至っていないのかな。今の国文の院生たちあたりの意識だとどんなもんなんだろうね。しかしこの本が出て半世紀以上たっている。

ウィキペディアなどではまるでこれがいまだ議論の最中にあるかのような書きぶりで両論併記がなされているが、これまで読んできたこと(源氏の本文含めて)から言わせてもらえば、これは議論の対象というよりは見つかった新たな事実というべきもので、なんだかわからないあやふやな事態についてそれらしいことを述べたもののひとつみたいな扱いをいつまでもしてるようなものではない。これが発見された時代に生まれたことを素直に喜んでおいたほうがいい。この情報があるとないとで、源氏物語の見通しと内容理解には圧倒的な差がつくだろうから。

しかし 20 世紀までこのことに誰も気づかなかったというのもまた驚くような話ではある。なんでこんなに発見が遅かったのか。これは、注釈書にその原因があったのかもしれない。といってもそれが不正確だとかいう話ではなくて、逆に充実しすぎていたせいではないかと思う。

新体系でもなんでもいいけど、古典文学の全集の本文にはびっしりと脚注が付けられている。「中将」とか「中納言」とかの官職名にはほぼ確実に注が振ってあって、それが「源氏」とか「薫」とか登場人物の通称でいうところの誰なのかがかっちりと書いてある。だから読者は「中将云々」とある文を「源氏云々」と頭の中で置き換えて読み進めていく。それはそれでいい。が、「中将」「中納言」とあったもとの言葉の存在を忘れてしまうと、そこに本来あった情報を見落としてしまうことになる。

たとえばある巻で「左少将がどうした」と書いてあったとする。注がついていて、この左少将は柏木だと書いてある。それで読者は、ああ、柏木がどうこうしたんだな、と思う。後の巻で「中将がどうした」と書いてあって、ここにも注がついていてこれが柏木だと書いてある。それで、ああ、ここでも柏木がどうこうしたんだな、と思う。こういう読みかたをしていると、巻が変わったところで人物の呼称が急に変わったことに気づかない。ふつう呼び名となっている官職名が断りなしに変わったりしたら読者は混乱するはずで、こんなのは当たり前のことなのだが、注釈と併走して進む読みかたにどっぷりだとそれを疑問に思わなくなってしまう。ひどいと古文ではそれが常識でみんなそれでわかるものなんだと思っている人もいる(なにを隠そう数年前までの古文知らない僕がそうでした)。そんなわけないのだ。「左少将が中将になった」という記述がなければ、中将の呼称の指すところが誰なのかは当然見失われてしまう。

注釈における人物名の引き当ては、前後の文脈や巻を先回りして当てはめた、一種のネタバレ情報だ。生まれた赤ん坊がずっと先で薫の中将と呼ばれているから「若菜」の巻でその赤ん坊を薫とわれわれは呼んではいるけれども、「若菜」を読解するにあたってはその知識は押しやって、書かれていることだけを知りうるものとして扱わなければならない。そういう意味では、たとえば赤ん坊の記述に注を付けて「薫」と書くようなのはよけいなお世話とも言える。同じことが古来の注釈にも言えたように思う。

あくまでも本文の意味が通らない時の補助としての注釈であって、古文を読むのが本文と注釈の対応関係を追っていくだけの作業になってしまわないよう気をつけないといけない。

それはさておき、こんな重要かつ明晰な本が学術書とはいえなかなか入手しづらいというのはよくないぞ。岩波書店はそろそろこの本を重版すべき。

2010-04-09

記事のストックがなくなって更新が遅れてしまった。

先週の話はエイプリルフールです。でもなにも言ってもらえなかったのでちょっと寂しかった。

今週は嘘じゃないけど、また輪をかけてどうでもいい話。最近ツイッターを始めた(@masaakishibata)。で、源氏物語の単語からでたらめに文章を綴っていくプログラム、「メカ紫」のツイッター版も作りました。@mechmurasaki。だいたい一日に一回くらいのペースで何か書きます。フォローはご自由に。ていうかみんなぜんぜんフォローしてくれないので、してもらうと中の人が喜びます。

古文のサイト持ってる人でツイッターもやっているという人がいたら、メカ紫からフォローします。ハッシュタグ #mechmurasaki をつけて発言してもらえれば拾ってフォローしていきます。

2010-04-01

これはいにしへぶみを読みて二年あまりになむなりし。などかは読むばかりにてそのありさまを知るべき。さやうに考へまた書きてこそはあらめ。

さは、ここにても今よりはよろづのことすべていにしへざまにてこそ書くべけれ。さすがに今やうだち、え読まるまじきすぢなどうち交じらむとも、いかがはせむ。腰折れぶみも程々しくはよろしくもなるまじうやは。

返り事どもなむなほ今やうにてもうけたまはるべき。まいていにしへざまには。

2010-03-25

「文献の計量分析」について

雑誌「日本語学」(明治書院)の2010年1月号の特集「源氏物語のことば」に、「文献の計量分析」(村上征勝)という記事が載っていた。これを例に、以前から感じていたことをちょっと書きたいと思います。なぜですます調かというと、これから(また)たいへん生意気なことを書くからです。

源氏物語に限らず、古文の研究では時折こうした統計的な手法が使われる。また、そうした研究に基づく成果が、さまざまな問題に対する判断材料として参照されたりもする。「読解」にもとづく古典的な研究に対して、こうした研究は数式やグラフなど使ったりしていかにも科学的に見える。しかし統計的分析は注意して扱わないと、ともすれば恣意的な結論を導くことにもなりかねないと僕は思っている。統計は、それが意味のある統計なのかどうかをよく吟味してかかる必要がある。

「文献の計量分析」では、はじめに現代日本語文の計量分析の有効性について説明されている。そのこと自体は導入として自然な話だと思う。さて、ここで有効であるということが紹介されているのは、書き手の読点の打ち方の傾向についてである。

続いて記事は古文の計量分析の話に移り、『源氏物語』の宇治十帖他作家説について検討を試みる。しかしここで分析の対象にされているのは名詞や助動詞の出現率である。それが有効な手法であるかどうかについてはこの記事では説明されてないのにだ。こういうところで、僕はこの記事に対して大きく不満がある。それなら最初の読点の打ち方の話は何だったんだと。人を信じ込ませやすくするブラフか? もちろん古文にはもとから読点がないのは知っている。それでもじゃあなんでその話をしたのかという疑問はなお残る。あとの説明を納得できるようにしたいのであれば、現代日本語文の名詞や助動詞の出現率の評価の有効性について言及するべきではないか?

記事は名詞や助動詞の出現率が評価として有効なのかどうか不安を抱えたまま話は続き、以前ここでも紹介した源氏物語の成立分類についての話になる。ここで、A, B, C, D がそれぞれ特徴的な偏りを示したという説明がなされる。これまでの学説と一致しているというわけである。だがここでも説明に物足りなさが残る。それは、その結果に意味があるのかという点である。偏り具合から個々の巻が A 系、B 系のどこに属するのかを判定できるということを意味しているのか、というもっともな疑問に対する答は書かれていない。

たとえば、無作為に分類した4つのグループでは絶対にこうした偏りは現れないのだろうか。そういうことが書かれていないのでその結果の価値がわからない。もし無作為では現れないというのであればなるほどそれは「これまでの定説は否定できない」という結論にはなるだろう。しかしそれだけではあまり意味がないのも確かだ。

さらに、たとえば B 系は、「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」「6. 末摘花」「15. 蓬生」「16. 関屋」「22. 玉鬘」「23. 初音」「24. 胡蝶」「25. 螢」「26. 常夏」「27. 篝火」「28. 野分」「29. 行幸」「30. 藤袴」「31. 真木柱」からなるが、仮に「2. 帚木」以外の15帖から偏りを算出した時に、その偏りをもとに「帚木」の巻を評価すると、はたして「帚木」はそのグループの巻であるという判定ができるのか、ということについても説明がほしい。こうしたテストは交差検定といって、これを「帚木」に限らず B 系のすべての巻について行なっていくわけである。それが有効に機能したということになれば、はっきり言って源氏物語の成立問題は解決してしまうはずだから、まあそうなっていないのだろうとは思うけど。

こうしたことの説明がないので、結局この記事は「統計的手法をもって源氏成立論の定説の正当性を補強した」ものなのか「源氏成立論の定説をもって統計的手法の正当性を補強した」ものなのかよくわからないという印象を受ける。

まだある。ここで成立論の分類に使われた巻の構成そのものについて。別人の作による可能性が高いという「匂宮」「紅梅」「竹河」の3帖を C 系に入れて集計したのはなぜなのか。さらに慎重を期すなら成立時期に議論のある「桐壺」を A 系に入れて集計したのはどうなのか。

以上のことから、これだけ科学的に書かれているように見えながら、「有効性が説明されてない」「結果の意味するところが説明されてない」「統計を行なった過程に疑問が残る」という理由から、僕にはこの記事の内容を評価することができない。これは僕が馬鹿だからなのか? それは否定しないけど。

統計的手法のそのものを否定するつもりはまったくないですよ。たとえば森博達の『日本書紀の謎を解く』『古代の音韻と日本書紀の成立』で挙げられている諸データはまさに真実を浮かび上がらせるもので、統計以外の方法では明らかにならなかった成果だと思う。僕はこれらのデータが正しいかどうかは確認できないけど、「データが正しければ、それについての考察も正しいであろう」ということは読んでいて追うことができる。そこが大事なところだと思うのだ。もちろんなにからなにまでそんなにはっきりとした成果にはならないというのは理解できる。でもせめて、こういう結果ならこう推論できるとか、その思考過程だけは明確にたどれるようにしてほしいと思う。

生意気言ってすみません。

2010-03-18

「若菜」以降と「鈴虫」について

やっと「若菜」上下を読み終えた。けれどもじっくり読むべき所を先を急いで読んだところもけっこうある。いずれもう一度腰を据えて読みたいところ。「柏木」「横笛」も「若菜」に引き続き、大変近代小説的な巻で、おもしろい。おもしろいの一言で片付けてますが、うならされるような件りがいくつもある。

「鈴虫」の巻は、筋はほとんど進まない。「鈴虫」はあとから挿入されたという意見があるそうだけど(『光る源氏の物語(下)』中公文庫、p. 189)、別人の作という説はないのかな。

2010-03-11

夕霧の空消息について

「藤袴」の巻、夕霧が源氏の伝言を伝えに玉鬘を訪れるところで、夕霧は空消息《そらせうそこ》というものをする。空消息というのは嘘の伝言のこと。『光る源氏の物語』で、丸谷才一はこのくだりを問題視している。

丸谷 (中略)この嘘は、本来ならば非常に小説的な仕掛であるはずなのに、その嘘の結果が別に何もない。嘘だということがばれもしない。ここが小説の書き方として非常に不思議ですね。この問題は今までの『源氏物語』論でやっていないですね。

大野 そうかも知れない

丸谷 物語の中で嘘をついたら、その嘘はたいていばれるもので、それで何か事が起ることを読者は期待する。それが何も起らない。

(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語(上)』、中公文庫、p. 396)

小説の理論はたしかにその通りなのだけど、「藤袴」を読んでみると、この夕霧の空消息の件は、僕はおかしくないと思った。というのは、あの空消息というのは、夕霧が源氏の伝言を伝えただけではすぐに終わってしまうので、玉鬘ともっと話したくて作り事をしてまで話を続けているという意味に思われたからだ。

御返、おほどかなる物から、いとめやすく聞こえなし給けはいの、らうらうじくなつかしきにつけても、かの野分のあしたの御朝顔は心にかかりて恋しきを、うたてある筋に思ひし、聞きあきらめてのちは、なほもあらぬ心ち添ひて、この宮仕ひをおほかたにしもおぼし放たじかし、さばかり見どころある御あはひどもにて、をかしきさまなることのわづらはしき、はたかならず出で来なんかし、と思に、ただならず胸ふたがる心ちすれど、つれなくすくよかにて、「人に聞かすまじと侍つることを聞こえさせんに、いかが侍べき」とけしきだてば、近くさぶらふ人も、少し退きつつ、御き丁のうしろなどにそばみあへり。

そら消息をつきづきしくとりつづけて、こまやかに聞こえ給。上の御けしきのただならぬ筋を、さる御心し給へ、などやうの筋なり。……

(「藤袴」、新日本古典文学大系『源氏物語(三)』、p. 92、一部表記を改める。)

夕霧はそれまで玉鬘を妹だと思っていた。ところが実はそうでないことがわかって、にわかに玉鬘のことが気になり出す。それがここに至るまでの背景としてある。源氏の勅使という機会を得て、彼はこれを利用して玉鬘と近づきになれないかと模索する。「つきづきしくとりつづけて、こまやかに聞こえ給」というのは、それらしい言葉を継いであれこれと丁寧に話すということ、ようするに時間稼ぎである。生真面目な夕霧のやりそうなことじゃないか。だから、この空消息というのはあれこれでっち上げて話を引き延ばしたということで、べつに小説の伏線というわけではないのでは。

大野晋も丸谷才一もなんだか「やり手」っぽいので、ここでの夕霧の心理がうまく思い浮かばなかったのかな。

2010-03-04

「夕顔」「末摘花」について

「夕顔」は、小説的な視点でいうと、それまで読んできた巻のなかで一番おもしろかった。「帚木」「空蝉」と合わせ、このあたりは若かった源氏のユーモラスな失敗談となっている。素性の知れない女にぞっこんになり、危険な所へ連れ出したあげく女を死なせてしまって慌てる源氏の姿は、かわいそうではあるんだけど、どこか滑稽だ。すっかりしょげかえってしまう源氏の描写といい、この巻はなかなかふるっている。

とはいえ、こうしたおかしさというものも華々しい貴公子光源氏という概念が前提となってはじめて成り立ちうるものだ。

「末摘花」については実際に読む前から、才女の作者にしては感心しかねる醜女に対する残酷さという面が語られているのを知っていた(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語』上、中公文庫)。また、『紫式部日記』のほうはすでに読んでたから、そこにある他人への辛辣な批評やら暗く渦巻く内面の吐露やらを思い起こせば、さもありなんという意識も持っていた。

そのうえで、実際に読んでみると、意外にも残酷さというのはそんなにないのではないかという印象がした。不器量で変わり者の末摘花については、作者は容赦がないというよりは、むしろ思い入れがないといったほうが近いように思った。結局、変わり者の擁護をするのは紫式部って人の役じゃないんだよ。(とはいえその後「藤袴」あたりで末摘花は近江の君という人物と並んでひどい歌を詠ませられて作者から徹底的にこき下ろされている。こっちのほうがキツイ。)

「帚木」前半のいわゆる雨夜の品定めの議論から始まって、「空蝉」「夕顔」そしてこの「末摘花」と続く一連の流れでは、源氏の失敗譚が語られる。

空蝉、夕顔、末摘花はそれぞれ「帚木」前半の雨夜の品定めの議論における女の「品」についての上中下に対応していると思われる。

空蝉は品定めの議論では一番とされた「中の品」にあたるが人妻である。源氏ははやって懸想をかけるが、女はかたくなに抵抗し、ついになびくことがなかった。

夕顔は素性も知れない「下の品」の女だったが源氏はこれにぞっこんになる。あげく危険なところに連れ出してそのせいで女を死なせてしまう。

末摘花は、窮しているものの血筋は優れた「上の品」の女である。それが源氏のロマンをかき立てる。しかし対面してみれば器量振る舞いすべてにおいて奇天烈な女であった。

それで、ああやっぱり「品」なんてものじゃ女は語れないんだな、ということを源氏は悟る。大まかに言えばそういう流れになっている。末摘花の一件後、源氏が空蝉のことを思い出すくだりにはこうある。

かの空蝉の、うちとけたりしよひの側目には、いとわろかりしかたちざまなれど、もてなしにかくされてくちをしうはあらざりきかし、劣るべきほどの人なりやは、げに品にもよらぬわざなりけり、心ばせのなだらかにねたげなりしを、負けてやみにしかな、ともののをりごとにはおぼし出づ。

(「末摘花」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 228)

ところで、よく知らないのだけど、夕顔を憑き殺す物の怪についてこれを葵上同様の、六条御息所の生き霊によるものととる解釈があるのかな。しかしそんなことは「夕顔」のどこにも書いてない(後の巻にあるというのであれば別だけど……)。小説の構成的には、夕顔が死ぬのは源氏がはやって彼女を危険なところに連れて行ったことのしっぺ返しということで十分かたがついている。物の怪か、物の怪ならすわ六条御息所に違いないと飛びつくのは、何にでも無理に意図性を求めようとする悪しき解釈癖だと思う。

2010-02-25

与謝野晶子「紫式部新考」

私は『源氏』が、最初は「帯木」の巻から書かれ、よほど後に至って「桐壺」が首巻として加えられたものと感じている。それにはいくつかの理由を挙げうるが、一つは「桐壺」の文章の整然として一点の疵もなく、かつ堂々とした重味を持って完璧の美を示しているのに比べて、第二巻の「帚木」には渋滞した筆の跡のあることが目につく。また一つは雨夜の徒然に若い貴公子が集まって女の批評を交換する「帚木」の結構は、若い読者の心を引きつけるに十分であり、作者がこの巻を総序として、その夜の批評に上った種々の女を具体的に書き分けようと考えつきそうなことである。なお「桐壺」が後に加えられたために、他の巻と矛盾を生じた点さえ私には発見される。またおそらく初めの意図は、あんなに長い小説を書くつもりでもなく書き出したのが次第に感興を加えて、そのうちに長編とする心にもなったのであろう。

(与謝野晶子「紫式部新考」、『与謝野晶子選集 4』、春秋社、1967年、p. 14)

しかし私は、現在の『源氏』五十四帖がことごとく彼女の筆に成ったとは決して思わない。昔から「宇治十帖」は大弐三位の補作だという説もある。私は『源氏』を前後二編に分けて、「若菜」以下の諸巻を後編とし、それを他人の補作であると推定している。紫式部が書いたのは「桐壺」より「藤裏葉」に至る三十三巻である。詳しいことは別に『源氏物語考』を書く機会に譲っておくが、『源氏』は結構より見てこの「藤裏葉」に至り、前編の主人公源光《みなもとのひかる》の境遇がすべて円満にめでたく栄華の頂点を見せて筆が結ばれている。しかるに後編の作者は、新主人公源の薫を点出して、前編に類例のない新味ある恋愛小説を構想し、薫を出すための準備として、なお前編の主人公の後の生活を「若菜」から新たに書き始めた。「若菜」上下の文章が前編に比べてにわかに冗漫の跡のいちじるしいのは、後編の作者の筆がその書き始めだけに、しばらく未熟なのを示しているのである。しかも後編の作者は、次ぎ次ぎの諸巻を逐うて文章の円熟を重ねたのみならず、著想取材において前編の作者以外に新しい境地を開拓し、ことに「宇治十帖」といわれる最後の十巻において、恋の哀史の妙をきわめた。文章においても著想においても、前編の作者に拮抗して遜色のないこの後の作者は誰であろうか。一読して婦人の筆であることから、当時の女歌人のなかに物色すると、古人の言ったように、大弐三位が母の文勲を継いだのであろうと想像するほかに、その人を考え得ない。とにかく後編は、種々の点から作者を異にしていることを私は説明しうるが、ここには略して、ただ後編の「竹河」の巻の初めに、「紫のゆかりにも似ざめれど」(紫式部の書いた『源氏物語』の妙筆には及ばないけれど)と言って、後編の作者が謙遜の語をもって、前後両編の作者の異なることを暗示している一句を引証しておく。この句を本居宣長翁その他の注釈家が「紫の上のゆかり」の事に解釈したのは、大いなる誤りである。

(同書、pp. 22-23)

なにぶん古い時代の説だから、結論そのものはおいとくとして、ここで述べられている源氏各帖の本文に対する与謝野の印象が面白い。与謝野は「桐壺」を「一点の疵も」ない「完璧」と言い、「帚木」を「渋滞」、「若菜」を「冗漫」と言っているからである。それから、「『源氏』の須磨・明石の描写、ことに海岸の暴風雨の光景は空想のみで書かれそうにない」(p. 30)とも言っている。この意見は現在の読み方とはずいぶん乖離しているように見えるのだけど、どうだろう。

ずいぶんオッサンくさい読み方だったんだなあ、と僕は思った。「桐壺」「須磨」「明石」あたりの筆を名文とするのは、なんか江戸時代の儒家とか武家とかで源氏好きのオヤジのしそうな見方っぽいじゃないか。まあ偏見ですが。しかし「帚木」はともかく、「若菜」を重視しないという(「薫を出すための準備」だと見る)感覚はもはや不思議に近いし、あの筆致を充実でなく冗漫ととる向きにはなかなか与しがたい。若書きで明石の入道の最期や猫と柏木のエピソードをあんなふうに思いつき、かつ書けるものだろうか。また、小説として見たとき「須磨」「明石」がなんだか枕詞を並べた常套句の羅列のような描写であるという印象は前に書いた。しかしまあ、あれがいいという人がいるんだろうなあ、というのはわかりますがね……。様々なレベルで読者を満足させることができたというのが、源氏の本文が今日まで残るだけの「強度」を持ったテキストであることの証しなのだから。

与謝野晶子がここまで想像と違う読み方をしていたとは意外であった。樋口一葉などは、どのように読んでいたのか、これもちゃんとしかるべき著作を見てみないとわからないね。

ところで与謝野はこの論の冒頭で紫式部のことを「女詩人」と呼んでいる。『源氏物語』の作者のことを「詩人」と呼ぶ人ははじめて見たのでびっくりした。自分に引きつけて見てるのね。

2010-02-22

宿曜の予言

源氏の幼い頃にその将来を占わせたことは (1)「桐壺」に書かれているが(新体系、pp. 20-21)、「桐壺」の巻で語られるのは「帝にもならず、かといって太政大臣でもない」ということだけである。しかし (14)「澪標」において、宿曜《すくえう》の予言には「御子三人、帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」という内容を含んでいたことが明らかになる(新体系、pp. 100-101)。というか、本来「澪標」で語られているこの内容は「桐壺」の時点で触れられていないとおかしい。でないと伏線として機能しないから。その思い込みがつい働いて、ここはよく勘違いしてしまう。

11日の記事の内容を確認しようとして「桐壺」を見返したら、どこにも「御子三人、云々」が見つからないので焦った。また勘違いしないようにここにメモとして書いておく。

個人的な憶測を言えば、(5)「若紫」以前の巻が、それが何巻あったかは別として、とにかく存在していた。しかし『源氏物語』が本格的に流通する段階で、それらは紛失なり若書きなりの理由で省かれた。しかしそれでは源氏と藤壺、冷泉帝との関係や、将来の予言の謎といった物語の基本設定がわからないから話を追うことができない。そこでその段階で作者が背景説明として「桐壺」を用意した。そういう事情のような気がする。それであとで引用しているのを忘れて伏線をはしょって書いてしまったんじゃないかな。とはいえ朝顔斎院や六条御息所との馴れ初めがないのはちょっと省きすぎの感じがするから、そこは別にやっぱり巻があったかもしれない。

2010-02-18

「帚木」について

正月はじめにようやく a. 紫上系を読み終えた。飛ばし飛ばしであるのに、語りはたしかに連続していることが確認できた。とくに、「少女」から「梅枝」には、間にいわゆる玉鬘十帖が入るのでそこで大きく間が空くのだが、前者の末尾から後者の冒頭にかけては、明石の姫君の裳着の準備の話が連続している。

「帚木」の冒頭には、源氏が「まだ中将などにものし給ひしとき」とある。第二巻で「ものし給ひ」という(助動詞キを伴う)のは尋常ではない。第一巻の「桐壺」ではまだ源氏の呼称として「中将」は出てきていないのだ。脚注は「書き手の口調があらわな語りではしばしば過去の時制をとる」と苦しいことを書いているが(おそらくこれは『落窪物語』冒頭の「中納言おはしき」が念頭にあるんだろうけど、あれは例外的な用例ではないか)、これはあとから書かれた巻である証拠とも考えられる。このキは、容疑者が犯人しか知り得ないはずのことをうっかり漏らしてしまった、そんな言葉のように見える。

こうした助動詞の使い方まで小説構成上のテクニックに帰するのは無理な説明だと思う。このくだりを書くとき、源氏の物語をこれから書こうというそのときに、作者は「その時点での源氏の語られかたの状態」によって、当時の日本語の常識の影響を強く受けたはずだ。源氏が中将から太政大臣へと登りつめていったヒーローであることが語り手と聞き手にすでに了解されていれば、地の文でつい「まだ中将などにものし給ひしとき」とキを伴って書いてしまったとしても自然なことである。

「帚木」では、もうひとつ面白いところとして、雨夜の品定めの議論の終盤で左馬頭が総括のような形で女性について論じたくだりの一部を挙げたい。

「すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとほしけれ。三史五経、道みちしき方を、明らかに悟り明かさんこそ愛敬なからめ、などかは女と言はんからに、世にある事の公私《おほやけわたくし》につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまる事自然《じねん》に多かるべし。さるままには真名を走り書きて、さるまじきどちの女文になかば過ぎて書きすくめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかば、と見えたり。心ちにはさしも思はざらめど、をのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上らふのなかにも多かる事ぞかし。

(「帚木」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 59)

ここで左馬頭は「そりゃ女だからってなんにも知らないってわけじゃあなかろう。とくに学んだわけではなくても、学のある人のお側にいれば教養が自然に耳から入ってくることだってあるだろう。しかしそれで覚えた知識をひけらかして真名(漢字)だらけの消息をよこしてきたりするようでは可愛げがない」と言っている。つまり、女にも教養の身に付いた人がいるということは認めるが、それをひけらかすのはアウトだと。小説において、登場人物は作者の道具である。僕はここを読んで『紫式部日記』を思い出した。

『紫式部日記』には、兄が漢籍を学んでいるのを作者が側で聞いていたところ、兄よりも覚えがよくて、父から「お前が男であったら」と言われたと書いているところがある(岩波文庫、p. 79)。それから清少納言を批判するくだりでは、清少納言は教養を振りかざして「真名書き散らし」てるからいけないと書いている(p. 73)。つまり左馬頭の台詞はそのまま『紫式部日記』の作者を擁護するものとなっている。こんなこと書くのは本人しかいない。そういうわけで、ここは「帚木」以下の b 系も紫式部の手によるものだという証拠になっている。

2010-02-15

源氏進捗

ようやく半分か……。

a 紫上系を読むのには一年近くかかったのに、b 玉鬘系のほうはひと月ちょっとで読んでしまった。言ってしまえば、a 系は、ここは、という要所要所を除けば退屈だったんだよね。b 系のほうは先を読みたくなるんだな。玉鬘十帖の中程で中だるみするというのはたしかにそうかもしれない。しかしそこはそこで読めるようにはなっている。

さていよいよ「若菜」の上下にとりかかるとするか……。

おまけ。源氏物語の成立分類と分量。巻と頁は新日本古典文学大系のもの。

広い画面で見たい方は独立ページ版を。僕の読書状況もわかってしまうが、あえて出してみる。

2010-02-11

源氏物語の成立順序

いずれこのことについて書かないといけないと思ってたのだけど、面倒でずいぶん遅れてしまった。『源氏物語』の執筆された順序について。込み入った話じゃないんだけど、ちゃんと書こうとすると長くなってしまう。

『源氏物語』の成立順序については議論があって、大野晋『源氏物語』(岩波現代文庫)や、『光る源氏の物語』(中公文庫)などにわかりやすく経緯が載っている。これについて聞いたことがなかったという人は、まず上掲の本や Wikipedia の「源氏物語」の項の「巻々の執筆・成立順序」のところを読んでみていただきたい。

とくに決定的なのは武田宗俊の説で、これは『源氏物語の研究』(岩波書店、1954)という本で読めるようなのだけど、この本は入手が困難でまだ直接読むことはできていない。しかし次のような主旨であるという。

『源氏物語』の「藤裏葉」までの各巻について、

  • (1)「桐壺」、(5)「若紫」、(7)「紅葉賀」、(8)「花宴」、(9)「葵」、(10)「賢木」、(11)「花散里」、(12)「須磨」、(13)「明石」、(14)「澪標」、(17)「絵合」、(18)「松風」、(19)「薄雲」、(20)「朝顔」、(21)「少女」、(32)「梅枝」、(33)「藤裏葉」を紫上系
  • (2)「帚木」、(3)「空蝉」、(4)「夕顔」、(6)「末摘花」、(15)「蓬生」、(16)「関屋」、(22)「玉鬘」、(23)「初音」、(24)「胡蝶」、(25)「螢」、(26)「常夏」、(27)「篝火」、(28)「野分」、(29)「行幸」、(30)「藤袴」、(31)「真木柱」を玉鬘系

としたときに、紫上系の巻だけをつなげて読んでも矛盾のない物語になる。そして紫上系の登場人物は玉鬘系にも登場するが、玉鬘系で登場する人物は紫上系では一切登場していない。

とくに後者はひじょうに重要な事実だと思う。

#a 系b 系
(1)桐壺
(2)帚木
(3)空蝉
(4)夕顔
(5)若紫
(6)末摘花
(7)紅葉賀
(8)花宴
(9)
(10)賢木
(11)花散里
(12)須磨
(13)明石
(14)澪標
(15)蓬生
(16)関屋
(17)絵合
(18)松風
(19)薄雲
(20)朝顔
(21)少女
(22)玉鬘
(23)初音
(24)胡蝶
(25)
(26)常夏
(27)篝火
(28)野分
(29)行幸
(30)藤袴
(31)真木柱
(32)梅枝
(33)藤裏葉

また、紫上系の物語は素朴なハッピーエンドの筋書きで、文章もわかりやすいのに対して、玉鬘系では反対に源氏の失敗や暗い側面が描かれ、文章も屈折して難しくなっているという特徴がある。

ところで、源氏物語には複数作者説というのが昔からとなえられてきた。与謝野晶子は「若菜」以降が紫式部の娘の作だと考えていたという(未読)。和辻哲郎も「源氏物語について」(『日本精神史研究』)によれば複数の制作集団による作業としか考えられないという認識だったようだ。しかし、これらは武田説以前のもの、執筆順序の背景について明らかになっていない時点でのものだったことに注意しなければならない(和辻の論は執筆順序についても言及しているが、それは「桐壺」があとから書かれたという見解についてである)。

和辻が違和感を抱いたのは、つまるところ「桐壺」から「帚木」への不連続性、そして巻ごとにまちまちになる作者の語り口調といった点である。それらの印象をもとに、これは統一的な人格の仕業とは思われぬと考えたわけである。そのまま頭から読み進めたとき、その印象はたいへんに正しいと思う。そして、これが多くの人々の源氏読破への挑戦を挫折に導いただろうことも想像に難くない。

しかし、紫上系だけを選んで続けて読むと、その語り口はまったく連続していることがわかる。以前僕は源氏を巻の順で読んでないと書いたけど、それはこの分類に従って読み進めていたのだ(まだ進行中ですが)。これはたいへんファンタスティックな体験だ(った)。女性たちと巡り会い、政敵に追われ、復活し、立派な邸宅を築いて女たちを住まわせ、「自身は天皇にはならないが、三人の子供がそれぞれ帝、后、太政大臣になる」という初巻「桐壺」の謎めいた予言の成就が近づき、源氏は栄華の絶頂の中で四十の賀を迎えるというのが紫上系の「藤裏葉」までのあらすじである。おそらくこのままいけば「めでたし、めでたし」で終わる予定だったのだろう。そしてその「藤裏葉」まで読んだあとで、あとから書かれたという「帚木」に戻る(「藤裏葉」が紫上系の登場人物しか出てこない最後の巻だから折り返すならここである)。するとはたして「帚木」の冒頭はこうだ。

光源氏名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかるすきごとどもを末の世にも聞き伝へて、かろびたる名をや流さむとしのび給ける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ、人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚りまめだち給けるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野の少将には笑はれ給けむかし。

まだ中将などにものし給しときは、内にのみさぶらひようし給て、大殿には絶えだえまかで給ふ。忍の乱れやと疑ひきこゆる事もありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけのすきずきしさなどはこのましからぬ御本上にて、まれには、あながちに引きたがへ、心づくしなることを御心におぼしとどむるくせなむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。

(「帚木」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 32、一部表記を改める。)

「藤裏葉」までを読んできた読者にとって、この導入は、あとから語られる内容と照らしあわせて考えれば、順当に受け入れられうるものとなる。おや、と思うとすれば、作者がこれから源氏のいままでとは違う側面について語ろうとしているのだな、というその不穏な雰囲気だけで、なにか前提を無視されているとか、これまでとは全く違う人格が語り手となって話し出したというような唐突さはない。そして、「帚木」から「空蝉」「夕顔」「末摘花」と読み進めれば、そこでも語りは連続していることに気づく。さらに、「帚木」「夕顔」には「玉鬘」への伏線が張られている(頭中将と夕顔との間に子があったこと)。つまり、「帚木」からいわゆる玉鬘十帖までが、やはり一人の作者によるものと認められるわけだ。

だから『源氏物語』の複数作者説をとなえるにしても、だれもかれもがそれぞれに書き足しをして、その雑多な集合体が現在の五十四帖であるという主張はさすがに乱暴すぎることになる(しかし和辻哲郎はそれに近い考え方だったのではなかろうか)。複数作者があったとすれば、その区切りはおおむね武田説の区分に沿って分かれたものになるだろう。つまり a. 紫上系、b. 玉鬘系、c.「若菜」以降、d. 宇治十帖という分類だ。

続く。

2010-02-04

八の字形の「は」を「ハ」と翻刻することについて。

なんだそりゃ、と思うかもしれませんが……。

仮名が現在の一音一字に整理されるより以前は、ひらがなにはひとつの音価に対して異なる漢字に由来する複数の仮名があった。「尓」に由来する「に」とか「者」に由来する「は」(蕎麦屋の暖簾でよく見られるやつ)など。こんにちそれらは変体仮名と呼ばれている。

そういう変体仮名のなかに、「八」に由来する「は」がある。カタカナの「ハ」と同じ形なんだけど、仮名文字の文章中に普通に使われてるんだからひらがなだ。現在の仮名の中にも、「り」と「リ」、「へ」と「ヘ」のように、ひらがなとカタカナとで同じ見かけをしているものがある。「八」に由来する「は」もそういうもののひとつということになる。

ところが、展示会なんかの解説パネルや、ものの本では、この「は」を「ハ」の字形で活字にしているのをよく見かける。これってどうなの?

現代の読者のために翻刻しているのなら、これは「は」で起こすべきだと思うのだ。変体仮名もそのまま起こすのなら、「尓」に由来する「に」や「者」に由来する「は」もそうすべきで、「は」だけ特別扱いする理由はない(あるのか?)。たまたま「ハ」の活字がカタカナにあったから入れただけなのだろうか。しかしそれで誰が得するというのか。展示会などでこれを目にした人たちは普通「ハ」はカタカナだと思うから、「どうしてこの書の『は』はカタカナで書いてあるのかな?」などの余計な疑問を抱かせるだけだと思うんだけど。

女「どうしてこの本の『は』はカタカナで書いてあるの?」
男「それはね、昔の『は』にはカタカナの『ハ』と同じ形のひらがなもあったからなんだ」
女「まあすてき、ユウ君ったら、なんでも知っているのね」
とか、デートで使えるようにそうしてるのだろうか。

つまりその、なんか自己満足っぽくない?

現代のようにコンピュータで扱うようになると、これは検索などの都合からしてもなおよろしくない。文字コード U+30CF(ハ)は「KATAKANA LETTER HA」という「意味」を担っているからだ。同じようなことは、「ミ」の字形の「み」なんかについてもいえる。

2010-02-01

待ち合わせで数年ぶりに高田馬場の芳林堂書店に入ったところ、「日本語学」という雑誌(明治書院)が「源氏物語のことば」という特集を組んでたのを見つけてつい買ってしまった。源氏読み終わるまでは「源氏についての本」はあんまり読まないことにしてるんだけど、『古代日本語文法』の小田勝センセイの名前もあったので、たまにはと。源氏本文に疲れたときにでも読もう。

えーと、今日は、これだけ。日記だ(笑)。

2010-01-28

源氏物語の初巻桐壺は、主人公光源氏の母桐壺の更衣の寵愛の話より始めて、源氏の出生、周囲の嫉視による桐壺の苦難、桐壺の死、桐壺の母の嘆き、帝の悲嘆、源氏の幼年時代、桐壺に酷似せる藤壺の更衣の入内、藤壺と源氏との関係、源氏十二歳の元服、同時に源氏と葵上との結婚、などを物語っている。しかるにそれを受けた第二巻帚木の初めはこうである。

光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎おほかなるに、いとどかかる好色事《すきごと》どもを、世の末にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍び給ひける隠ろへ事をさへ、語り伝へけむ人の物言ひさがなさよ。さるはいといたく世を憚かり、まめだち給ひけるほどに、なよひかにをかしき事はなくて、交野の少将には笑はれ給ひけむかし。

この個所はどう解すべきであるか。「光る源氏、光る源氏と評判のみはことごとしいが、たださえ欠点が多いのに内緒事までも言い伝えた世間はまことに口が悪い」と解すべきであろうか。もしそうであれば口の悪い世間の言い伝えはその「評判」のうちにははいらず、従って世間の評判のほかに別にことごとしい評判がなくてはならぬ。「評判のみはことごとしいが、世間には口の悪い評判がある」とはまことに解しにくい解釈である。それでは「名のみ」を文字通りに光源氏という名の意味に解して、「光源氏という名は光るなどという言葉のためにいかにもことごとしいが、それは名のみで、実は言い消されるようなことが多いのに、なおその上内緒事まで伝えた世間は口が悪い」と解すべきであるか。そうすれば前の解のような不可解な点はなくなるが、その代わり「さるは」とうけた次の文章との連絡が取れなくなる。なぜなら右のように口の悪い世間の評判を是認したとすれば、次の文章で源氏をたわれた好色人でないとする弁護と矛盾するからである。で、自分は次のごとく解する。「光源氏、光源氏と、(好色の人として)評判のみはことごとしく、世人に非難される罪《とが》が多い。のみならずこのような好色事を世間の噂にされたくないときわめて隠密に行なった情事をさえ人は語り伝えている。世間はまことに口が悪い。しかしそれは名のみである、濡れ衣である。というのは、源氏は世人の非難を恐れて恋をまじめに考えたために、仇めいた遊蕩的なことはなく、交野の少将のような好色の達人には笑われたろうと思われる人だからである。」――自分はかく解する。が、この解釈いかんにかかわらず、この書き出しは、果たして第一巻を受けるものとしてふさわしいであろうか。

我々は第一巻の物語によって、桐壺の更衣より生まれた皇子が親王とせられずして臣下の列に入れられたことを、すなわち「源氏」とせられたことを、知っている。またこの皇子がその「美しさ」のゆえに「光君」と呼ばれたことも知っている。しかし物言いさがなき世間の口に好色の人として名高い「光源氏」については、まだ何事も聞かぬ。幼うして母を失った源氏は、母に酷似せる継母藤壺を慕った。しかしまだ恋の関係にははいらない。我々の知るところでは、光君はいかなる意味でも好色の人ではない。しかも突如として有名な好色人《すきびと》光源氏の名が掲げられるのは何ゆえであろうか。

和辻哲郎「源氏物語について」「和辻哲郎全集第四巻所収『日本精神史研究』」、岩波書店、pp. 130-131(強調部は原文傍点。)

2010-01-25

コメントで訊かれたからってわけじゃないんだけど、三省堂の『例解古語辞典』第三版を買ってしまった(ポケット版)。三冊目だ……(電子版も数えれば四つ目)。特徴は端的にいうと「小松英雄氏の辞典」ってとこか。もうずっと改訂されてなくて、『丁寧に読む古典』で編著者自らが「改訂作業が中断されたまま」と言っているけど、やっぱり「全訳」じゃないと売れないのかね。しかし全訳なんてにぎやかしのシャミセンである。解説と用例とを充実してくれたほうがありがたい。

ところで、贅沢をいうと用例はふたつ以上挙がってたほうがうれしい。というのは、辞書で意味を調べて、それから用例を知ろうと思うと、そこにはまさに辞書を引くきっかけになった原文そのものが載っていたということが多いんだよね。どの辞典も用例が同じだった、ということも多い。意味を多角的に推測するには、同じ用法で違う例文があるのならそれを見ておきたい(孤例も多いだろうけど)。

さて買ったからにはどんどん引いていかなければ。まだ源氏物語は六割ちょっと残っている。

2010-01-21

長月の在明の月はありながら 続き

引き続き貫之の「長月の」の歌について。

新体系の脚注では、この歌について「『有明の月』は翌朝も残っているから、明日十月一日になっても残っているわけだが…の意」とし、「長月の有明の月は明朝もまだあり続けるけれども、秋ははかなく最後の今日を過ぎてしまうようであるよ」という歌意だとしている(しかし「ようであるよ」って、典型的な古文訳語文体だよね……)。小松英雄『丁寧に読む古典』でも「秋の最後の日に出た月が翌朝にも出ている状態だけれど、はかなくも秋は確実に過ぎ去りつつあるようだ、ということです」としている。晦日に月が見えてたっていいじゃない、という立場である。しかし暦のことを考えるとそれは信じがたいんだよな……。

ところで、2010年1月16日は、計算が正しければ宣明暦で12月1日にあたるのだが、これは朔の時刻が(計算値で)18:07分と、ぎりぎりで進朔が行われている(西日本では日食になる)。ということは、進朔がぎりぎりで行われなかったときの月の見え方(それが宣命暦で晦日に見えうる月の最大限である)に近いものが、その前日、15日の日の出・月の出で見られるはずだ。もし見えるのならね。遅い初日の出を拝みに行くかと真剣に考えた。そこで国立天文台のサイトで15日の東京の日の出・月の出を調べたところ、日の出6:50、月の出6:41であった。9分しか違わない。おそらく日の出と近すぎるので見えないだろう。歌詠む余裕なんかあるわけない。見に行くのはやめた。

(……と、思ったけど一応15日は早起きしてみた。けど都内じゃ日の出を見られるところなんかないね……。近所に陸橋があったのでそこで観察したけど、7:05頃になってようやく太陽が見えた。月は見えなかった。まあそういうこと。)

そもそも、有明の月とは夜に昇った月が朝になっても残っているのをいうのではなかったか。太陽がもう昇るというぎりぎりに昇ってきてすぐ見えなくなる月は「残っている」とはとてもいえない。

やはり晦日に月は見えないはずだ。

で、図書館でコピーしてきた新大系の当該ページを見ながら頭を抱える。後撰集の貫之の歌には、次のように躬恒の歌が続き、それをもって秋下の巻は終わっている。

 九月のつごもりに つらゆき

長月の在明の月はありながらはかなく秋は過ぎぬべら也

 同じつごもりに みつね

いづ方に夜はなりぬらんおぼつかな明けぬ限りは秋ぞと思はん

躬恒の歌を見てふと思った。この配置からすれば、そしてこれが「秋の歌」であることを考えれば、貫之の歌の「在明の月」は晦日の夜から朔日の朝にかけての月のことを指しているのではない、と考えられないだろうか。というのは、「明けぬ限りは秋ぞと思はん」という、秋への未練を精一杯歌った歌で締めているのだから、その前の歌で十月朔日の朝になっても残る月(前述のようにそんな月はどうもなさそうなのだが)のことを詠んでいたのでは、ちょっとだらしなくなってしまう気がするのだ。時間的に前後してしまっているじゃないか。

「あり」には、「存在する」という意味のほかに、「ぬきんでている」「すぐれている」という意味もある(岩波古語辞典)。九月の有明の月を愛でることについては、「白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも(万・2229)」という歌がある。ちょっと解釈が過ぎるかもしれないが、「九月の有明の月はすばらしいものだ、だが秋は永遠ではない、そのすばらしさにもかかわらず無情にも過ぎ去っていくものなのだ」――こういうことなのではないか。もしそういう歌意なら、躬恒の歌とあわせて配置的・展開的にもぴったりだし、晦日の有明の月という怪しい存在を仮定しなくてもすむ。

これですっかり腑に落ちたというわけではないんだけど、今のところはそう考えて自分を納得させることにする。いずれにせよ、晦日に有明の月が出てたという解釈に戻ることはないと思う。

2010-01-18

長月の在明の月はありながら

前回の続き。

宣明暦をその通りに運用している限り、晦日の晩や朔日の明け方に月が見えることはないように思われる。

しかしそうなると、『丁寧に読む古典』にも挙げられている、後撰集にある「九月のつごもりに」詠んだという貫之の歌「長月の在明《ありあけ》の月はありながらはかなく秋は過ぎぬべら也」は解釈しづらい。九月晦日の未明(正確には十月朔日の明け方)に月が見えていたのか?

気になったのは、宣明暦計算の基準である長安(東経108度)と京都(東経135度)の時差(約1時間50分)だが、二時間弱の時差が月の見える見えないに影響するだろうか。また、仮に見えたとして、あっという間に見えなくなる細い月を、「有明の月」などと呼べるだろうか。二時間弱の時差は、進朔限がその分切り下げられていることに相当するわけだから、これは長安よりも晦日未明の月は残る可能性が高いことにはなるはずなんだけど、このへんは自信がない。

それとも、その場に月が出ていたのでこの歌を詠んだという前提がやはり間違っているのだろうか。

(続く。)

2010-01-14

月を隠す

眠れないので適当に本を取ってめくっていたら『丁寧に読む古典』にこんなことが書いてあるのを見つけた。

太陰暦(陰暦)は、本来、月球(歴月(ママ)と区別するために中国語から借用しました)の盈《み》ち虧《か》けに基づいています。しかし、盈ち虧けの周期は 29.53 日、十二回で 354.36 日ですから、毎年、十一日ほど足りなくなるので、ほぼ三年に一度、閏月を設けて調整されていました。四月のあとなら閏四月を挿入して、その年は十三ヶ月になります。したがって、歴月の日付と月球の満ち欠け(ママ)との間にかなりのズレが生じるのはふつうのことでしたが、月球が隠るはずのツキゴモリの日に月球が見えるのは不都合なので、歴月の末日を指す語として、*ツキゴモリの[キ]を脱落させて月球のイメージを消したツゴモリが形成されました。

新月が姿を見せるときが*ツキタチ(月立ち)ですが、右と同じように、歴月の初日がその日にあたるとは限りません。というよりも、ズレルのがふつうだったので、このほうはツキの[キ]を[イ]に変えて月球のイメージを消し、ツイタチが形成されました。

小松英雄『丁寧に読む古典』、笠間書院、2008年、pp. 42-43

買って読んだ当時は「ふーん」と読み流していたが、宣明暦について調べた今の自分には、ここはたいへんあやしく思われる。

この説明は、月球(この言葉はたしかに便利なので使わせてもらう)の運行周期と太陽の運行周期とに生じるずれを、暦月(引用には「歴月」とあるが、意味からすれば「暦月」だろう)の日付と月齢とに生じるずれと混同している。そして、暦月の日付と月齢は、太陰太陽暦ではずれないのだ。今年は元日が日本で有史以来はじめて満月になった年だという話がニュースにあったが、じつはこれは明治の太陽暦採用以来ということで、太陰太陽暦が用いられていたそれ以前ではそもそも月の第一日はつねに必ず新月だったからである。

さて、厳密に考えれば、月球の満ち欠けの周期(朔望月という)は一昼夜の長さのきっちり整数倍にはならないので、朔の時刻がその日の夕刻以降になってしまい、晦日となる前日の未明から早朝にかけて月が昇ってきたまま夜が明けるということは起こりうる。ところが、宣明暦では晦日に月が見えるのを避けるために、そういうときには「進朔」といって、わざわざ月の第一日を一日先に延ばしてしまうという処理を施していた(内田正男『日本暦日原典』第四版、雄山閣出版、1992年、p. 497)。そうするとどうなるかというと、その日の夜に朔が起こるわけだから、当然その晩は月は見えない。だからこの晩を「月隠り」としたほうが人間の感覚からすれば自然だというわけである。

つまり、現実には、ツゴモリが「月隠り」ツイタチが「月立ち」であることに当時の人々はきわめて意識的であったし、たとえ形式上のことであっても(進朔の処理は暦の計算上は行なわなくてもなんの問題もなく、むしろ計算の手間がひとつ増えているだけである*1)、その原則が崩れそうなときには暦に修正を加えてまで月が見えなくなる日を晦日にしていたのである。

だからツイタチやツゴモリの音変化が、「ツキ」という語の存在感を意図的に消すためであったという説は受け容れがたい。

そう思ってこれを書き、ますます目がさえてしまった。

*1
しいていえば、進朔は、午前零時を区切りとする暦学上の一日と、日の出を区切りとする生活上の一日との感覚のずれを解消させるための処理といえる。

2010-01-07

係助詞ナムについて

あけましておめでとう。昨年末書いたように、もうしばらく古文の話を続けたくなむ。

『古代日本語文法』によれば、係助詞ゾ・ナム・コソを用いた表現での意味の違いについてはまだはっきりしたことはわかっていないという(「『ぞ・なむ・こそ』の表現価値」、p. 187)。しかし、古文をある程度以上読んでくると、やはりそれぞれがそれぞれなりに「適切な」箇所で使われているという感覚を誰もが抱くようになるのではないだろうか。それは現代日本語で、たとえその人自身が使用基準を理論立てて説明できない場合でも、ハやガの使い分けを間違えることがないのと同様の言語感覚だ。

だから難しいのはその使われ方をどう説明するか、ということなのだが……。

たとえばナムについて(枕草子や源氏物語だと「ナン」のほうが多いような感じなんだけど、辞書では「ナム」の形で載ってるのでそれに倣うことにする)。これも古文を読んでいる人なら「ここで使うのは自然だ」「ここにあったら変な感じがする」という感覚までは身につくと思う。ところが、感覚を身につけるところまではいきながら、古語辞典を開けばその意味についてはおそろしく頼りないことしか書いていない。

たとえば、旺文社の『全訳古語辞典』ではこんなふうである。

**なむ ナン

(係助)〔「なん」とも表記される〕まさにそれであると強調する意を表す。

  1. 主語・目的語・連用修飾語・接続語などに付く。 〔竹取〕竜の頚の玉「竜(たつ)の頚(くび)の玉をえ取らざりしかばなむ殿へもえ参らざりし」[訳]竜の首の玉を手に入れられなかったそのことでお邸(やしき)へも参上できなかったのだ。[文法]「え取らざりしか」「え参らざりし」の「え」は副詞で、下に打消の語(ここでは「ざり」)を伴って不可能の意を表す。 〔伊勢〕2「その人かたちよりは心なむまさりたりける」[訳]その人は顔かたちよりはとりわけ心がすぐれていたのだった。 〔伊勢〕9「橋を八つ渡せるによりてなむ八橋(やつはし)と言ひける」[訳]橋を八つ渡してあることでそれで八橋というのであった。
  2. 文の結びの「ある」「言ふ」「侍る」などを省略した形で余情を表す。 〔源氏〕蜻蛉「わたくしの御志も、なかなか深さまさりてなむ〔侍る〕」[訳]私(=時方)個人としての(浮舟(うきふね)の侍女であるあなた方へ)お寄せする気持ちも、(浮舟の死後)かえって深さがましておりまして。 〔源氏〕桐壺「かかる御使ひの、よもぎふの露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ〔侍る〕」[訳]このような(おそれ多い桐壺帝の)ご使者が、雑草の生い茂った所の露をわけておいでくださるにつけても、たいそう気がひけまして。
  3. 「なむ」を受けて結びになるはずの用言に接続助詞が付いて、さらに次に続く。 〔土佐〕「年ごろよく比べつる人々なむ別れがたく思ひて」[訳] この数年来たいそう親しくつきあってきた人々は特別に別れがたく思って。 〔大和〕3「…となむいへりけるを、その返しもせで年こえにけり」[訳]…とだけ言ったのを、その返歌もしないで年が改まってしまった。

[接続]体言、活用語の連体形、副詞、助詞に付く。連用修飾語と被修飾語との間で用いるときは連用形に付く。

[参考]上代には「なむ」に相当する語として「なも」があった。(1) は「ぞ」「や」「か」と同じように、文中に用いられると、文が活用する語で終わるときには、連体形になる。係り結びの法則である。「なむ」は「…だよ」と相手に念を押す気持ちを含んでいるので、会話文に用いられることが多い。引用句の中には使われるが、和歌にはほとんど使われない。「ぞ」とはこのような点で相違がある。

旺文社 全訳古語辞典第三版

「まさにそれであると強調する意を表す」「余情を表す」「相手に念を押す気持ちを含んでいる」とな。だがこれでは係助詞ゾ・コソや終助詞カシとの違いが不明である。もし同じ意味ならば、交換可能だということになる。交換可能なのか? と聞かれれば、古文をやっている人はふつう可能じゃないと答えるだろう。交換可能だ、と言う人がいたら……えーと、以下に述べることにとくに意味はないと思うので、その、ご縁がなかったということで、以下は読まなくて結構です。

交換可能でないとすると、ナム固有の表現価値とはなんなのか。

大野晋は『係り結びの研究』において、平安時代のナムについて「私は以前、ナムを『侍り』にほぼ相当すると解説したことがあった」と書いている (p. 225)。しかし、「……になむ侍る」という表現が存在する以上、「侍り」そのものと見なすことはできないとも自ら述べている (p. 227)。しかし結局、同書ではナムは丁寧語が持つような「礼儀のわきまえ」を表明するということで落着している (p. 241)。ナムについて論じたこの節は、全編通じて明晰な同書の中で正直唯一歯切れの悪い箇所になっていると思う。

ナムは敬語表現なのだろうか。敬語だとするとうまく説明できない用例がいくつかある。たとえば『枕草子』の最終段、中宮定子が藤原伊周より草紙を贈られて清少納言に「これに何を書いたものだろうか」と相談する、そこで中宮が言った言葉。

宮の御前に、内の大臣のたてまつり給へりけるを、「これになにを書かまし。上の御前には、史記といふ書をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、……

池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 348

中宮は女房の清少納言になんの遠慮もかしこまりも必要ないはずだ。あるいはこれは帝に対する敬意を示すのか。それは帝に対する「せ給へる」という最高敬語表現で果たされている。主従ながら丁々発止のやりとりで才気を見せつけあうような定子と清少納言の間柄で、ここだけ「礼儀のわきまえ」を含む表現を使うというのはそぐわない気がする。

もうひとつ。『係り結びの研究』にも挙げられている例だけど、『源氏物語』から。紫上が明石の姫君の入内について、姫君の母である明石上も同行させてあげてはどうかと源氏に進言する。源氏はなるほどと思いそれを明石上に伝える。

「此折に添へたてまつり給へ。まだいとあえかなるほどもうしろめたきに、さぶらふ人とても、若々しきのみこそ多かれ。御乳母たちなども、見およぶことの、心いたる限りあるを、みづからはえつとしもさぶらはざらむほど、うしろやすかるべく」と聞こえ給へば、いとよくおぼし寄る哉、とおぼして、「さなん」と、あなたにも語らひの給ひければ、いみじくうれしく、思ふことかなひ侍る心ちして、人の装束、何かのことも、やむごとなき御ありさまにおとるまじくいそぎ立つ。

「藤裏葉」新日本古典文学大系『源氏物語 三』、p. 189

これも、源氏は明石上に遠慮する立場にはない。ナムは多く女房や使者が貴人に何らかの申し伝えをする文脈で使われるので、たいていの場合は「礼儀のわきまえ」と解釈して矛盾は生じないが、それでもこのような例があることは無視できない。

  • 「これになにを書かまし。上の御前には、史記といふ書をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、
  • 「さなん」と、あなたにも語らひの給ひければ、
  • 渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、(伊勢・9)
  • 袂より離れて玉をつつまめや これなんそれとうつせ 見むかし(古今・425)
  • そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を「ふじの山」とは名づけける。(竹取)

こうした例をまんべんなく説明できる解釈が必要なのだが、それはどういったものになるのか。平安時代の古文をいくらか読んできて、僕はナムについては今のところ次のように考えるといいんじゃないかと思っている。それは、

  • 話者にとって自明で聞き手にとって自明でない事柄について述べる際に自然と表れる表現。

という説明だ。「自明」というのはちょっと堅苦しいので「話者は知っているが聞き手は知らないことを述べるときに使われる」と言ってもいいのだけど、知っての通り話者の心理について述べる際に使われることも多いので、自分の心理を「知っている」というのはなんか違和感があってこのようにしている。「話者にとって既知(旧情報)で聞き手にとって未知(新情報)」と言ってもいいかな。

この説明を思いついてから、ナムの使われている文に出会ったらそれが当てはまるか何度か試してみてるんだけど、今のところうまく当てはまっていると感じている。

すでに述べたように、ナムは貴人に対する伝言など下→上という流れの情報伝達の際に使われているので、そこに敬語意識に近いものが含まれているようにも一見思われるのだが、これは、貴人は人を介して外部の情報を得るので、外部で得た情報を貴人に伝えるというシチュエーションがしょっちゅう発生しているということから来ているのではないか。そこでは、従者は自分が得た、そして貴人がまだ知らない情報を、貴人の前で述べる。「となむ」という連語が多く出てくるのはそういう事情によると考えられる。

ナムが敬語や丁寧語ではなく、上記定義のような性質の語であるとするなら、先に引いた枕草子や源氏物語の例も問題なく説明できる。

定子はもらった紙の話を清少納言にする。その時に、自分が知っている情報を参考として付け加える。帝がその草紙に『史記』を書いたということは、定子は知っていて、清少納言はまだ聞いていないことである。だからナムが使われた。

紫上の意見を源氏が明石上に伝える。源氏はすでに紫上の意見を聞いている、明石上はまだ聞いてない。だからナムが使われた。

「あの鳥はなんですか」と問われた渡守は、自分の知っている情報を、問うた人々に提供する。「これなむ都鳥」と。当然ナムが使われる。

語り手は、物語の最後に「富士の山の名はこのようなところから来ているのですよ」と聞き手に由来を明らかにする。語り手の持つ情報を、聞き手に提供することから、ナムが使われた。「……なむ……ける」という表現が多いことは『係り結びの研究』にも指摘されているが、その理由も、物語の「語り手が聞き手に述べる」という性質上自然なものと考えられる。

ナムが話者の気持ちを述べるときに表れるのは、自分の気持ちは話者にとってはむろん自明のことで、それを聞き手に知らせることからくるのだと考えられる。

ナムは歌には用いられないことが知られているが、これも上記の説明だと当然のことになる。なぜなら、歌とはその定義からして「心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだ」したものだからである。そういう前提であることがわかりきっているので、わざわざナムを使う必要が無いのだ。上記の古今の例は歌にナムがある珍しい例だが、これは引用だし、じつはひとつ前の歌の返歌である。前の詩で詠われている「浪の玉」を持ってきて見せてくれ、と歌っているのである。だから「浪の玉」を見せるとき、前の歌の詠者は「これなむそれ」と言うだろうというわけである。

ちょっと理論武装して長くなってしまった。

平安時代に使われている用例に限っていえば、だいたいこの説明でいいんじゃないかと思ってるのですが、どうでしょう。上代の使われ方や宣命での用例については検討してないし、あるいは平安時代になってここでいう形に変化した、その原型の意味があるのかもしれないけれど。

なにはともあれ、今年もこんな感じで自由にやっていくのでよろしくね。