また平安時代から外れてしまうのだけど番外編ということで。徒然草の話。
(第百三十六段)
医師《くすし》篤成《あつしげ》、故法皇の御前に候て、供御《ぐご》のまゐりけるに、「今日まゐり侍る供御の色々を、学問も、功能《くのう》も、尋ね下されて、空に申侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。ひとへに申誤り侍らじ」と申ける時しも、六条の故内府まゐりたまひて、「有房《ありふさ》、ついでに物習《なら》ひ侍らん」とて、「まづ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏《へん》にか侍らむ」と問はれたりけるに、「土偏に候」と申たりければ、「才のほど、すでに顕れにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、どよみにて、まかり出でにけり。
(新日本古典文学大系39『方丈記・徒然草』岩波書店、1989年、一部表記を改める)
もう二年近く前の話だけど、区の図書館が主催する日本の古典の講演があって、それを聴きに行った時に『徒然草』のこの段が紹介されていた。僕は徒然草はまだ読んでないけど、それでこのエピソードを知ったのだ。
医師の和気篤成が、法皇(ここでは後宇多法皇かという)のお膳が来たのを見て、そのひとつひとつ、どれでもその名前と効能を書物にあるとおりにそらんじてみせようと自慢した。そこへ源有房がやって来て、それではついでに教えていただこう、「『しほ』といふ文字は、いづれの偏にか侍らむ」と尋ねた。篤成が「土偏に候」と答えると、有房に、学問の程度が早くも露呈してしまったな、その辺にしておきなさいと言われ、篤成は一座の哄笑を買ったという話。
さて、このやりとり、「いづれの偏にか侍らむ」「土偏に候」について、新体系の脚注は、「土偏でございます。篤成は『塩』の字を考えて答えた」「有房は正字の『鹽』でなければ正解としない立場である」と解説している。講演の先生もそれに従って講義されていた。また、それを承けて「聞いただけではどちらの『しほ』かわからないのだから、意地悪な質問だ」ともコメントしていた。
これを聴いていた時はふーんと聞き流していただけだったのだけど、聞きながらなんか変な感じはしていた。それが後世に伝えるほどの機知のある会話かな、というようなことを思ったのだ。
ところが後日、『いろはうた』という本を読んでいたら、この「へん」というのはまったく別の意味だったということがわかってしまった。
アクセントそのものは変化してしまっていても、語頭音節における高低一致の法則が保存されていたなら、「山のおく」と「おく山」との「お」の高さが違うということにはならなかったはずであるから、その法則も十四世紀末には失われていたことが、これによって知られる。もとより、長慶天皇としては、それが、アクセント史のいたずらであるとは気づいていない。「緒の音・を」「尾の音・お」とあるから、音が基準になっているのかと思うとそうでもない、といっているところを見ると、この「緒の音・を」「尾の音・お」という趣旨も正しくは理解されていないようである。まして、ここでは「を・お」以外の同音の仮名までも、やはり高低に基づいて書き分けられているはずだという前提で検討されているので、結局、
音にもあらず儀(=義)にもあらず、いづれの篇につきて定めたるにか、おぼつかなし
という評価をくだすほかはなかった。
医師篤成が「しほといふ文字は、いづれの篇にか侍らん」と尋ねられ、見当違いの答えをして恥をかいたという話が『徒然草』一三六段に見えている。ここに「いづれの篇に」といっているのも、やはりその場合と同じように、どういう典籍に、という意味であるから、要するに、定家による規定は根拠不明だというのである。あるいは「旧き草子」というのを、そういう事柄を記した特定の典籍として理解したものであろうか。
(小松英雄『いろはうた――日本語史へのいざない』講談社学術文庫、pp. 310-311)
徒然草の同段は、「どの典籍に出ているのか」と問うた有房に対して、篤成が「土偏である」と見当違いの答えをしたという話だったのだ。それで有房は「程度が知れる」と呆れたのである。それなら笑い話としてちゃんと納得のいく筋になっている。
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