令和七年度「隠岐後鳥羽院和歌大賞」の結果が発表され、投稿歌を「公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫賞」に選定していただきました。撰者の方々にお礼申し上げます。
歌題「漁火」
受賞歌:
ぬばたまの夜の波間をこぎ行きておきにかずそふあまのいさり火
入選からは外れましたが一緒に応募しました投稿歌:
しののめの沖つ波間のあまをぶねかすかにけぶるいさり火のあと
令和七年度「隠岐後鳥羽院和歌大賞」の結果が発表され、投稿歌を「公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫賞」に選定していただきました。撰者の方々にお礼申し上げます。
歌題「漁火」
受賞歌:
ぬばたまの夜の波間をこぎ行きておきにかずそふあまのいさり火
入選からは外れましたが一緒に応募しました投稿歌:
しののめの沖つ波間のあまをぶねかすかにけぶるいさり火のあと
令和五年度「隠岐後鳥羽院和歌大賞」の結果が発表され、投稿歌を「城南宮 鳥羽殿賞」に選定していただきました。撰者の方々にお礼申し上げます。
歌題「秋浦」
受賞歌:
あさぼらけ浦にたなびく秋霧のたえまに見ゆる沖つ島かげ
秋くれば思ひなしにやふくごとにかなしさそふる浦の松風
賞に応募するようになって三度目の正直で入賞の光栄にあずかることができました。一度目に入選していい気になってたら翌年は選外で残念でしたがあきらめずにやってよかった。
隠岐後鳥羽院和歌大賞は今年度も募集をしています。ウェブサイトでの告知はまだのようですが歌題は「島」 とのこと(結果のお知らせに要項が同封されていた)。締切はだいたい10月末です。古文を読むのが好きという方は、古文を書くことの実践としてもぜひ応募してみてください。
守貞漫稿に嘉多比佐志をひきて、だびしかはらおさめみかはやうと云々、だびしは、荼毘師にて、今云隠亡なり。
僕がいつも読んでいるブログのひとつに、イジハピ!があって、中の人の深沢さんは技術系だけどよく日本語についての記事も書かれています。こないだの記事「リニューアルかリニューワルか」にコメントをしたのだけれど、そのやりとりでちょっと面白い話になってきたと思ったのでそこから思いついたお話をひとつ。もはや古文の話ですらないけど、日本語史に関わることではあるので一年ぶりにここで。もとの記事の本題だった表記の話とはぜんぜん関係ないのでコメント欄では気が引けるしね。いずれ書いておきたいことではあったんだ。といっても目新しいことではなくて、僕が読んできたなかでわかったことのまとめでしかないけれど。
深沢さんは「コピー」「シュガー」は2音、「タイマー」は3音とお書きになるのだけど、これは日本人ではちょっと珍しいタイプじゃないかな。単語を何音と数えるときには、「コピー」「シュガー」は3音、「タイマー」は4音だと言う人のほうがまだ一般的じゃないかと思う(調査したわけではないので推測だけど。なぜそう推測するかは以下に)。
じゃあこの「何音」というのはいったい何を数えているのか。
僕の挙げた後者の数えかたは、短歌や俳句で文字を消費していくときの数えかたで、交通安全標語などを書かせれば、日本語話者は小学生でもこの数えかたで五七五の標語を作る。この区切り単位は国語学ではよく「音節」といわれるのだけれど、言語学では「モーラ(拍)」という。音節とモーラはとても近いので、日本語に関する本にはこれを区別せずに音節と書いているものも多いけれど、たいていの場合はそういうときに言及しているのはモーラのほうである。「山田(ヤ・マ・ダ)」「コピー(コ・ピ・ー)」「神戸(コ・ー・ベ)」「会社(カ・イ・シャ)」は3モーラ、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」「タイマー(タ・イ・マ・ー)」「東京(ト・ー・キョ・ー)」「関東(カ・ン・ト・ー)」は4モーラである。
モーラというのは、「詩や発話における長さの単位」をいう(窪園、1999)。つまり、それぞれのモーラに対してだいたい同じような時間を割り振って単語が発音されるということだ。日本語では、長音(伸ばす音)や撥音(はねる音)にもモーラが割り当てられているから、「広島(ヒロシマ)」と「東京(トウキョウ)」を手拍子を打ちながら同じリズム、同じ長さで発声することができる(これは英語話者には難しいらしい)。ふだんの発話だけでなく短歌や俳句も音をモーラで数えている。もっとも、モーラなんて言葉をを知らなくても(日本語話者は)日本語を話せるし短歌や俳句も作れるわけだから、これはもちろんそういう現象を観察した結果に学者さんがあとから名前を付けたものである。
これに対して、深沢さんの数えかた(?)が言語学でいうところの「音節」、英語でいうシラブルだ。音節というのは「母音を中心とする音のまとまり」(窪園、1999)である。音節では日本語の音声でいう長音や撥音は独立した単位とは数えない。「コ・ピー」「神戸(コー・ベ)」「東京(トー・キョー)」「関東(カン・トー)」は2音節、「山田(ヤ・マ・ダ)」は3音節、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」は4音節になる。それから二重母音もひとつに数える。「タイマー(タイ・マー)」「会社(カイ・シャ)」は2音節だ。
英語では、語の発音の区切りも、語の「長さ」も音節単位であるのに対して、日本語で単語の「長さ」と言えばモーラで計るのがふつうだ。
さて、そうなると「タイマー」を3音とする深沢さんの数えかたはじつは両者折衷なのだけど、二重母音は2つに独立してカウントする音節式、あるいは長音を数えないモーラ式といったところだろうか。深沢さんは翻訳をされているそうだから、日本語の音の区切り意識もちょっと音節ふうになってるのかもしれない(笑)。けれど長音を数えなければきちんと日本語で短歌を詠むことはできない。
そういえば、歌手の一青窈が俵万智に教わりながら短歌に挑戦する、『短歌の作り方、教えてください』(角川学芸出版、2010)という本があるのだけれど、ここで一青窈が小さい「ょ」や「ー」「っ」を一文字として数えるのか数えないのかよくわからないんです、といったようなことをしょっちゅう言うのでびっくりした。現代語はそこが怪しい段階にまで変わっちゃったのかあ……、と思ったのだけど、あとで聞いた話では彼女は幼少期は台湾で育ったのだそうで、それでモーラによる数えかたがぴんとこなかったのだね。
閑話休題。音節は、英語では発音を区切る単位であり、またアクセント位置を決める単位でもある(英語だけの話をしているかぎり、モーラという概念は不要だ)。じゃあ日本語は発音をモーラ単位で区切るから、アクセントの位置もモーラ単位かというと、じつはこれがそうとは断言できないのがややこしい。モーラ単位で考えて多くの場合は説明が付くのだけれど、日本語標準語ではそれだけでは上手く説明できない現象が残るという。煩を避けてくだくだしい説明は省くけれど、アクセントの高低の位置が決まる法則は、モーラだけでなく音節区切りにもとづいた位置が大事な役目を担っている。ここで挙げている説明や例はすべて『現代言語学入門2 日本語の音声』(窪園晴夫、1999)という本にもとづいているので、このへんについて詳しく知りたければ同書をご参照くださいな。
というわけで、現代の日本語標準語は、モーラを基準としつつも音節に従う部分もあるというダブスタな(笑)音声構造をしている。奈良時代よりもっと以前の原始的な日本語では、単語に二重母音や撥音などが存在しなかったと推測されることから、おそらくひじょうに古い日本語は、「母音(V)」または「子音+母音(CV)」の組み合わせのみからなる単語を用いる、モーラすなわち音節であるような言語だったのだろうということがいえる。それが、ある理由によって音節とモーラとの間にずれが生じた。その理由というのは、外来語(漢語)の流入と音便である。
ここから和歌の話へと続けようと思ってるのだけど長くなってしまった。続きはまた。
日本漢字能力検定協会が、今年一年の世相を漢字一文字で表す「今年の漢字」を「絆」だと発表したそうで、これは「きずな(きづな)」と読むのだろうけど、この字にはもうひとつ訓がある。それは「ほだし」という読みで、古文だとむしろこちらの語のほうがよく目にするものだ。ほだしというのはもとは馬などをつなぎ止めるために脚にはかせる綱のことで、転じて自由を束縛するものという意味を持っている。もとは「きづな」も動物をつなぎ止めるための綱のことを言っていたそうだから(梁塵秘抄などに見えるようだ)、ほだしもきずなも同じような言葉で、それでともに「絆」の字で表わすのだろう。
つなぎ止めるものという象徴的な意味でのほだしというのは、中古中世では、仏教思想の文脈から悟りを開くことの妨げという意味合いが強い。今流通している言葉でいうと、「しがらみ」といったニュアンスである。現代語の「きずな」も、岩波国語辞典には「断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし。」と定義しているから、この「断とうにも断ち切れない」という表現にその残滓を見ることができるといっていいと思う。
こんにち人と人との結びつきはその肯定的側面ばかりが強調されているが、本来人間同士の結びつきというのは、必要不可欠であると同時に、人に楽ばかりでなく苦をももたらす性質のものである。人はひとりでいさかうことはできない。そうした両義性を表わした比喩がきずな・ほだしであったわけだし、現代になったからといって人同士におけるその性質が変わったというわけではない。ただその一方の側面を見なかったことにしているだけである。
ところで、古文には「心の闇」という言いかたがある。これはたんに暗い胸中のありさまを一般的に表わしたものではなく、使われたときはほとんどの場合「子を思うあまりに理性を失って迷う親の心。子ゆえの迷い。」(旺文社全訳古語辞典)をとくに指して言っている表現である。わざわざ子を思う親の云々などという前置きはなくて、いきなり心の闇に、とその意味で書くのである。子を思う親の心というのも、こんにちではただ一途にその尊さのみ強調されているように思われるが、親バカなどという言葉もあるように、じっさいにはそれで人はずいぶん愚かなことをしてしまうものである。
ほだしや心の闇といった言葉に共通しているのは、どちらも人間の執着について着目した概念であるという点で、まあ、ここがいかにも仏教ということになるのだと思う。それを美化して今は愛と呼ぶが、なんのことはなくて、この「愛」というのももとは仏教語で「ものに対する激しい欲望。執着。」(旺文社全訳古語辞典)のことである。
大地震、大津波、原発事故により、多くの人びとがその生活に多大な影響を被ったが、また一方で多くの人同士が協力して、困難な状況にあった人びとを助けたり、不安に飲まれつつあった人びとを支えたりしたことも事実である。けれどもそうした救いの手というのは、多くそれまでまったく他人であった人同士のあいだで生まれた活動で、それだからすばらしいということになるのだけれども、それを絆という言葉でもって表わすのには正直どうもしっくりこないものを感じる。
それはさておき、大災害が起こったとき、親兄弟といった近親者のことが気にかかるのは人の情というものでこれはしかたない。ところがいざそのとき人に求められるのは、その場にたまたま居合わせた赤の他人と協力して現状を乗り切る(避難する)ことである。だからそこでは絆(きずな)ではなく、むしろそうした執着の範囲の外にいる人びとへと心を開かなければならない。いっぽうで、不安げにたたずむ隣の人をよそに親兄弟や近しい友人に電話やメールをしまくって通信回線をパンクさせるのはまさしく絆(ほだし)のなせる業である。
だからそういう意味で震災が絆の一字で表せるというのは間違ってはいないのだけど、まさかそういう意味で選んでいるわけではないだろうから、それはいくらなんでもひねりすぎの見方で、もちろん選んだ人びとにはそのような皮肉の気持ちは微塵もないはずだ。そうしてよかれと思って罪のない気持ちでみんなで選んだ言葉が執着の概念を含んだ一字であるというところに、欲望を肯定する世紀に生きる人びとが過去からつながる言葉をどのように読み替えていくのかというダイナミズムの片鱗が垣間見えるのはおもしろい。
余談だけど、古代の人びとが人同士のつながりに鋭くも執着という批判的な視点を持っていたのにその両義的側面がいまの言葉からは完全に剥ぎ取られてしまっているのはなんだか惜しい気もしなくはない。しかし、言葉というのは多くの人に流通すればするほど大味で直線的な意味に変質していくものだから、これはしかたないのだと僕は思っている。綾のある言い回しというのは、ある程度絞られた人数のコミュニティでないと、育っていかないもんだよね。
![]() |
| 宣長顔ハメ! |
| カエルかわいい |
| こういう写真が10枚くらいある(笑) |
一条天皇の時代には『土佐日記』や『伊勢物語』が生まれてからすでに数世代が経過している。『蜻蛉日記』が書かれてからも一世代以上経っている(道綱母は生きていたかもしれないが)。中宮定子や清少納言は時の人ではなくなったが、『枕草子』は読み継がれていたようだ。
道綱母は『蜻蛉日記』がいつごろまで読み継がれるかを意識していただろうか。また、紫式部は『源氏物語』がいつごろまで読み継がれるかを考えていただろうか。千年以上とまでは想像しなかったかもしれないけど。
『蜻蛉日記』の作者はおそらく『土佐日記』『伊勢集』などを先行する存在として意識していただろう。紫式部まで下ると、そうして残された『蜻蛉日記』も強く彼女の意識に訴えていたに違いない。李杜をはじめとする、はるか昔の大陸の文人たちのことも考えたと思う。
さて、なんの話かというと、書き残されたものは自身の死を乗り越えてなお残る、というアイデアについてである。
『蜻蛉日記』や『源氏物語』には、さらには『賀茂保憲女集』にも、自身の書いたものが世の中に出回っているほかの読みものと同様に残ってゆくものであることへの自覚と、また残してやろうという意志が感じられる。その原動力は嫉妬だったり自責だったり卑下だったりするのだが、何にせよそうしたものを自分の存在とともに流れて消えてしまうものにはできないと、彼女たちが考えたであろうことが感じられる。僕はこれらの散文作品がそうした私的な動機だけによって生まれたとは考えないが、また一方でそれがまったく関与しなかったというのもあり得ないことだと思う。
(それをあまり感じない仮名文学もある。『落窪物語』には、人を楽しませようというサービス精神は感じるが、ここでいう思念のようなものは感じられない。『堤中納言物語』には趣向を凝らした心意気こそ感じるものの、その意識はひじょうに刹那的なところに留まっているように思える。『和泉式部日記』にも感じない。『枕草子』にもあまり感じない。ただ、その日記的章段群には、書かれた時点ですでに「もはや回顧することしかできない世界」が描かれておりその第一の消費者がおそらくは作者自身であったこと、またその結果として「書き残されたものが滅んだ後も生き残る」というテーゼを図らずも体現してしまっていることによって、同種の魅力を放っているようなところがある。)
だから、平安時代の仮名文学を読むということは、読み手にとってだけでなく、書き手にとってもやはり生死の境界を超えた対話であるということになる。古文を読むというのは、そういうところが多分にある。
……うーん。前回にもましてわけがわからないことを言っていると思われたことでしょう。前回のと合わせて、これらのことはまだ自分の中でもうまく考えが整理できてない。というか、もともと妄想じみているので、合理的に言語化するのは無理のような気もする。が、なんとなくここを終わらせる前に書いておきたかったので、わからないなりになんとか書いてみたという感じ。お目汚し御免。次から源氏の話に戻ります。
古文というのは学ぶ側にとっては一種の語学ということになるわけだけど、ほかの多くの語学とは違い、それでほかの誰かとコミュニケートできるようになるわけではない。また一般的には、その言語で自分が新たになにかを書くということもない。英会話などと比べれば、なんとも孤独な語学だといえる。
また、読書というのもひじょうに孤独なものだ。読書会とか朗読会とかいったりするものの、本質的には、近代的な意味での読書というのはきわめて個人的で孤独な体験である。
ところが、その個人的で孤独な作業の中で、読書する人の頭の中に、生き生きと話す人物の息づかいや、雑踏の喧噪やらが鮮やかに聞こえてくることがある。それも読書の特徴である。古文で書かれた文章にあっても、それは起こりうる。死んだ言語である古文がかつて生きていたという当然の事実を再認識するのは、そういうときである。辞書や文法書をひっくり返した苦労がそれを助長するのかもしれないが、千年前の中流貴族の女性の言葉が「聞こえた」と錯覚するときがある。古文というのは死んだ言語であるから、その話者も当然この世の人ではない。すると、この錯覚がいささか怪談めいた可笑しなアイデアを呼び起こす。死んであの世で古代の人と会話する、というアイデアだ。
死んだ人とかあの世とかを本気で信じるわけではないのだが、生きた古文という矛盾したものをひねり出すには、頭の中でそういう無茶でもしないことにはうまくいかない。だけど、こういう夢想をしたのは自分だけではないんじゃないかな。
なにで読んだか忘れてしまったけど、かつて、大野晋は冗談で「僕は紫式部と当時の言葉で会話ができるんだ」とか、そんなようなことを言ったことがあったらしい。本当だとしたら、大学者の大野晋もあるいは同じようなことを考えていなかったとは言えないわけだ。本居宣長だってそうだ。『紫文要領』は、つまるところは式部が源氏物語を書いたときの意図に従って読めという趣旨だが、それは必然的に平安時代のライブな作者/読者という存在を意識することになる。彼が擬古文で各種の書物をものしたのには、ひとつには「平安時代の人間に提出して通用するものを書く」という愉快な規範意識もあったのではないだろうか、などと空想する。
空想したところで、そうだという証拠もないし、なにか有用な知見が得られるというわけでもないので、これはただ空想してそれだけのことなのだが、そんなことも考えるという話。
記事のストックがなくなって更新が遅れてしまった。
先週の話はエイプリルフールです。でもなにも言ってもらえなかったのでちょっと寂しかった。
今週は嘘じゃないけど、また輪をかけてどうでもいい話。最近ツイッターを始めた(@masaakishibata)。で、源氏物語の単語からでたらめに文章を綴っていくプログラム、「メカ紫」のツイッター版も作りました。@mechmurasaki。だいたい一日に一回くらいのペースで何か書きます。フォローはご自由に。ていうかみんなぜんぜんフォローしてくれないので、してもらうと中の人が喜びます。
古文のサイト持ってる人でツイッターもやっているという人がいたら、メカ紫からフォローします。ハッシュタグ #mechmurasaki をつけて発言してもらえれば拾ってフォローしていきます。
なんだそりゃ、と思うかもしれませんが……。
仮名が現在の一音一字に整理されるより以前は、ひらがなにはひとつの音価に対して異なる漢字に由来する複数の仮名があった。「尓」に由来する「に」とか「者」に由来する「は」(蕎麦屋の暖簾でよく見られるやつ)など。こんにちそれらは変体仮名と呼ばれている。
そういう変体仮名のなかに、「八」に由来する「は」がある。カタカナの「ハ」と同じ形なんだけど、仮名文字の文章中に普通に使われてるんだからひらがなだ。現在の仮名の中にも、「り」と「リ」、「へ」と「ヘ」のように、ひらがなとカタカナとで同じ見かけをしているものがある。「八」に由来する「は」もそういうもののひとつということになる。
ところが、展示会なんかの解説パネルや、ものの本では、この「は」を「ハ」の字形で活字にしているのをよく見かける。これってどうなの?
現代の読者のために翻刻しているのなら、これは「は」で起こすべきだと思うのだ。変体仮名もそのまま起こすのなら、「尓」に由来する「に」や「者」に由来する「は」もそうすべきで、「は」だけ特別扱いする理由はない(あるのか?)。たまたま「ハ」の活字がカタカナにあったから入れただけなのだろうか。しかしそれで誰が得するというのか。展示会などでこれを目にした人たちは普通「ハ」はカタカナだと思うから、「どうしてこの書の『は』はカタカナで書いてあるのかな?」などの余計な疑問を抱かせるだけだと思うんだけど。
女「どうしてこの本の『は』はカタカナで書いてあるの?」
男「それはね、昔の『は』にはカタカナの『ハ』と同じ形のひらがなもあったからなんだ」
女「まあすてき、ユウ君ったら、なんでも知っているのね」
とか、デートで使えるようにそうしてるのだろうか。
つまりその、なんか自己満足っぽくない?
現代のようにコンピュータで扱うようになると、これは検索などの都合からしてもなおよろしくない。文字コード U+30CF(ハ)は「KATAKANA LETTER HA」という「意味」を担っているからだ。同じようなことは、「ミ」の字形の「み」なんかについてもいえる。
コメントで訊かれたからってわけじゃないんだけど、三省堂の『例解古語辞典』第三版を買ってしまった(ポケット版)。三冊目だ……(電子版も数えれば四つ目)。特徴は端的にいうと「小松英雄氏の辞典」ってとこか。もうずっと改訂されてなくて、『丁寧に読む古典』で編著者自らが「改訂作業が中断されたまま」と言っているけど、やっぱり「全訳」じゃないと売れないのかね。しかし全訳なんてにぎやかしのシャミセンである。解説と用例とを充実してくれたほうがありがたい。
ところで、贅沢をいうと用例はふたつ以上挙がってたほうがうれしい。というのは、辞書で意味を調べて、それから用例を知ろうと思うと、そこにはまさに辞書を引くきっかけになった原文そのものが載っていたということが多いんだよね。どの辞典も用例が同じだった、ということも多い。意味を多角的に推測するには、同じ用法で違う例文があるのならそれを見ておきたい(孤例も多いだろうけど)。
さて買ったからにはどんどん引いていかなければ。まだ源氏物語は六割ちょっと残っている。
今年ももう終わる。年の初めに「一年間」と書いたけど、まだいくつか書いておきたいこともあるし、もう少し続けることにします。夏場や師走の今の時期のように、いろいろな理由でぜんぜん書けない期間もあって、なかなか思った通りにはいかないね。仮に週二回のペースでずっと続けられていたら、今ごろは100回を数えていたはず(もちろんそんなペースが守れるとははじめから思ってなかったけど)。なので、とりあえず100回分になるまではなにか書こうと思います。あいかわらず、ここがわからん、あれがわからん、みたいな与太話だと思うけど。
しかし古文を読むようになって二年くらいたつけど、ちょっとは読めるようになってるのかね。正月休みでどこまで読めるか。まあそれはさておき、みなさんよいお年を。
(11/20 追記あり。)
東京都美術館でやっている、「冷泉家 王朝の和歌守展」を観てきた。こりゃやばい、鼻血出そうだったぜ。俊成、定家、為家筆の古写本類がどっさり。正直こんなとこに置いといちゃいけないのではないか、と思わせるようなシロモノばかりが並んでいる。デフォルト重文、たまに国宝みたいな。
いちいち書いてたらうるさくなるので書かないけど(紫式部メソッド)、みんなが素通りしそうな細かいとこを挙げると、以前ここで紹介した「賀茂保憲女集」(賀茂女集)があったよ。表紙に定家のあの独特の文字ででっかく「一首無可取哥」と書いてある。後世この人物の評価を決定してしまった、定家本人からしてみればあくまで実用的なつもりで書いたこの覚え書きに「これかあ……」とつくづく見入ってしまった。
あと、源順のけったいな私家集の「雙六盤の歌」(だと思う)も必見。手元に展示品リストがあるが、どうも前期のほうが内容がおもしろいような気がする。
メジャーどころでは『明月記』の展示部分が定家の父俊成の死の場面(元久元年冬)であったのがよかった。僕は堀田善衞の『定家明月記私抄』でこの記述を知ったのだけど、父の死というのはヨーロッパの小説には時折凄まじいものが出てくるが(『チボー家の人々』とか)、これにはそれらに匹敵する迫力があるなと思っていたのだ。また、この場面は日本語の表記の歴史について考えるときにも大事なところだと思う。
俊成は九十一歳、雪が食べたいと言い、定家の家令の文義がこれを探して来る。臨終の日、十一月卅日の日記は漢文の中に、父の言葉としての和文が入ってくる、珍しいものである。すでに日本での生活の中での漢文の限界というものが明らかに見えて来ているのである。雪を口にして、
「殊令悦喜給、頻召之。其詞、めでたき物かな。猶えもいはぬ物かな。猶召之。おもしろいものかな。人々頗成恐、取隠之。」(傍点筆者)日本の文章が漢字仮名まじりにならなければならなかった必然が、この危急の瞬間にすでにあらわになっているのである。右の文をいままでのように読み下すとすれば、
「殊に悦喜《ヨロコ》バシメ給ヒ、頻リニ之ヲ召ス。其ノ詞……猶之ヲ召ス。……人々頗ル恐レヲ成シ、之ヲ取リ隠ス」となる。「此の天明ノ程ニ仰セラレテ云フ、しぬべくおぼゆト。此の御音ヲ聞キ、忩《イソ》ギ起キテ御傍ニ参ズ。申シテ云フ、常よりも苦シクオハシマスカト。頷カシメ給フ。申シテ云フ、さらば念仏して、極楽へまいらむと思食《オボシメ》せト。……」
齢九十一歳、老衰死ということもあるであろうが、父が、死ぬべくおぼゆ、と言い、子が、さらば念仏して極楽へまいらむとおぼしめせ、と言いきかせ、かくて父が死んで行くのである。
死ぬべくおぼゆ、と言って死んで行った人を私は他に知らない。
(堀田善衞『定家名月記私抄』ちくま学芸文庫、pp. 211-212、引用にあたり傍点は太字に置き換えた。)
そしてここで引用されている部分がまさに展示されている(展示入れ替えがあるから、23日まで)。原典には、
卅日 天晴 …… …… …… 殊令悦喜 給頻召之其詞めでたき物かな猶えもいはぬ物かな 猶召之おもしろいものかな人々頗成恐取隠之 …… …… 此天明 之程被仰云しぬへくおほゆ聞此御音 忩起参御傍申云常よりも苦御座令頷給 申云さらは念仏して極楽へまいらむと思食せ
とある(と思う――自信ないけど)から、これから行く人は確認してみよう。
余談。会場はオバサンばっかりなので注意(何が)。「思ってたのとちがうワ、帰りまショ」とか言ってるオバサンもいたらしい。「お宝」目当てだと、本ばっかりだから当てが外れるだろうな。
追記。きょう (11/20)、もう一度ゆっくり見ようと思って平日の午前中に行ってきた(ちなみにあんまり空いてなかった)。ら、展示されてたのは十一月じゃなくて十二月からだった! これは展示内容が変わったんじゃなくて、前に見たときもそうだった(俊成の葬儀についての話があったのは覚えていたので)。
要は、もともと僕の頭の中に俊成の死についての『明月記』の記述が印象にあって、たまたま展示でその年の十二月の葬儀の段が出てて「ああ、あの場面か」と認識し、図録を買って帰ったらそこにちょうど十一月のくだりが載ってたので、それで十一月の分も展示されてると思い込んだのだった。あてにしてた人がいるとは思わないけど、いたらゴメンネ。(追記ここまで)
技術的な話で申し訳ないのですが……。
Windows Vista/7 上の IE7/8 でここを表示したときにおかしなフォントでレンダリングされる場合があったようだ。一年も気づかなかったとはきついな……。それとも Vista なんてだれも使ってないから大丈夫だったかな? なんと、Vista/7 の IE8 は XP の IE8 とはレンダリング結果が違う。けっきょく複数の OS、ブラウザで確認する泥臭い作業がいまだに必要なんだな……。
「vista ie7 css フォント 異常」あたりでググるといくつかこの件について出てくるが、ちょっと情報が錯綜していて、正確に現象を把握するのがむずかしい。ていうかこれあちこちで起こってると思われるんだけど、ひどくないか。
スタイルシートを修正したので今は大丈夫だと思うけど、Windows 7 の IE8 でしか確認していない。ほかの環境でおかしかったら言ってください。