ここでは基本的に平安時代の古文を扱うことにしてるので、万葉集は対象外なんだけど、まあ番外ということで。
年末年始に実家に帰って、テレビを久しぶりに見た。NHKでは年始に檀ふみが万葉集の歌を紹介する番組をやっていた。いいね、とばかりにそれをだらだら見ていたら、有名なあの歌がやっぱり出てきた。
東《ひむがし》の野にかぎろひの立つ見えて返《かへ》り見すれば月傾《かたぶ》きぬ
ここは「雄大ですなあ」とか、まあそんなことを言うところか。けど、この歌はどうやら本当はこういう歌ではなかったことがほぼ確実だという。
どういうことかというと、『万葉歌を解読する』(2004年)という本にこんなことが書いてある。
しかし、専門的な立場から見れば、人麻呂が詠んだのは本当に「東の野にかぎろひの立つ見えて…」というような表現を持つ歌なのかどうか、大いに疑問である。したがって、この歌に対する右のような解釈が妥当なものなのかどうかも疑わしい、ということになる。右にあげたのは一般に採用されている訓にすぎず、また口語訳もそれに基づいたものにすぎない。こう言えば驚く向きも少なくないと思うが、それは事実であり、あえて事を大げさに言っているのではない。
この歌は、十四の漢字で次のように表記されている。
1 東野炎立所見而反見為者月西渡
古い写本を見ると、この原文には「アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ」という訓が付されている。つまり、第一句から第三句までの <東野炎立所見而> は、もともと「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」と解釈されていたのである。それを「みだり訓(いい加減な訓/まずい訓)」だと断定し、現在一般化している「東の野にかぎろひの立つ見えて…」という訓を考案したのが、江戸時代の賀茂真淵《かものまぶち》である。馬淵がこの新訓を提示してからは、研究者も歌人も「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」という伝統的な訓と解釈を捨ててしまった。本節のこの項に、あえて「江戸時代に作られた『万葉集』の歌」という小見出しを付けたのは、現在の一般的な訓が馬淵の考案したものだからである。
写本の訓と馬淵の訓を比較すると、歌の格調は確かに馬淵の訓のほうが高いように感じられる。しかし、馬淵の訓に対して、文法学者たちが異議を唱えている。上代語の表現としては不自然な文法的要素がその訓に含まれている、というのである。それだけでなく、原文の第三字の <炎> や歌の末尾の <西渡> などの訓に対しても、多くの異論が出ている。
(佐佐木隆『万葉歌を解読する』NHKブックス、2004年、pp. 255-256)
この本ではこれに続けて、この歌の「より本当らしい」訓について文法的見地から考察が進められている。
たとえば「かぎろひの立つ見えて」という部分について。上代では助詞「の」は連体詞だから、そこからは「立つ」は連体形である必要がある。一方で、活用語+「見えて」という表現は活用語の終止形を受けるのが普通であった。つまりここでは「立つ」は終止形である必要がある。だから馬淵の訓は文法的には矛盾をはらんでいるというわけだ。なるほどー。(注意:ものすごく端折って言ってます。詳しくは本を。)
くだくだしく引用するのもはばかられるので、人麻呂のこの歌が本当はどのように訓ぜられるべきなのかの正解については同書を読んでくださいな。厳密な読解に触れることで、巷に跋扈する万葉集を好き勝手に読み替えるアレな企てがいかに恣意的でいい加減なものかというのがわかるという意味でもおすすめ。
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