男君の仕返しの続き。
男君一行が清水(きよみづ)詣でに出かけたところ、偶然中納言家北の方一行の乗る車(牛車のことね)に遭遇する。いやがらせの機会を逃さない男みちより。
「中納言殿の北の方しのびてまうで給へるに。」
と言ふに、中将(男君)、うれしくまうであひにけり、と下(した)にをかしくおぼえて、
「をのこども、「さきなる車とく遣れ」と言へ。さるまじうはかたはらに引き遣らせよ。」
とのたまへば、御前(ごぜん)の人々、
「牛よわげに侍らば、えさきにのぼり侍らじ。かたはらに引き遣りてこの御車を過ぐせ。」
と言へば、中将、
「牛よわくは面白の駒にかけ給へ。」
とのたまふ声、いとあいぎやうづきてよしあり。車にほの聞きて、
「あなわびし。たれならん。」
とわびまどふ。なほさきに立ちて遣れば、中将殿の人々、
「え引き遣らぬ、なぞ。」
とてたぶてを投ぐれば、中納言殿の人々腹立ちて、
「ことと言へば、大将殿ばらのやうに。中納言殿の御車ぞ。はやう打てかし。」
と言ふに、この御供(とも)のざふしきどもは、
「中納言殿にもおづる人ぞあらん。」
とて、たぶてを雨の降るやうに車に投げかけて、かたやぶに集まりておし遣りつ。御車どもさき立てつ。御前よりはじめて人いと多くて打ちあふべくもあらねば、かたを堀に押しつめられて、ものも言はである、
「なかなかむとくなるわざかな。」
と、いらへしたるをのこどもを言ふ。(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 146-147、一部表記を改める。)
拙訳。
「中納言殿の北の方が、お忍びでお参りにいらしているのです」
と言うので、中将殿はこれはいいところで出会ったとほくそ笑み、
「おまえたち、前の車をもっと急がせろ。言うことを聞かなかったら横にどかせてこの車を通させるんだ」
と命令する。そこで従者たちが、
「牛が疲れていては前にいられまい。傍らによせて我らの車を先に通せ」
と言うと、中将殿は続けて
「牛が疲れたのなら面白の駒に引かせなされ」
と声をおかけになった。いい声である。北の方は車の中でその声を聞き、
「なんとひどい、誰であるぞ」
とうろたえている。それでもそのまま車を進めていると、中将方の者たちは
「どけないというのか」
と言って石を投げつけてきた。中納言方の男たちはこれに憤り、
「なにかにつけて大将様のようにしやがって、中納言殿のお車ぞ。やれるものならやってみろ」
と言うが、中将のお供の雑色たちは、
「中納言殿にも怖い人はあろう」
といって石を雨の降るように車に投げかけ、中納言方の車を脇に押しやり、とうとう中将殿の車を通させてしまった。多勢に無勢で太刀打ちできず、車の片側は堀に押し込まれ、中納言方の男たちはものも言わずに固まっている。中将殿の従者たちはそれを見て
「だまって通せばよかったものを」
と言いながら通り過ぎていく。
しかしひどい罵倒だ。自分が仕掛けたくせに。いい声である、じゃないよな。
車争いといえば源氏物語のが有名だけど、ここでは石が飛んでいる。こうした光景はただお話の中だけではなかったらしい。『殴り合う貴族たち』(2005年)という本に、平安時代の貴族の従者たちが他の貴族の車に石を投げたことについての記述がある。
そして、その行列見物の場で事件が起きた。藤原実資の『小右記』によれば、永延元年(九八七)の四月十七日、その月の二度目の酉日のことであった。
三十三歳の右近中将藤原道綱は、いつものように賀茂祭使の行列を見物しようと、この日も牛車に乗って出かけた。その車には二十二祭の左少将藤原道長が同乗していたが、二人の向かった先は、やはり、祭使の行列が賀茂川に向かって東進する一条大路あたりであったろうか。
もちろん、この日に行列見物に出ていたのは、道綱・道長の二人だけではなかった。二人が向かった先にはすでに右大臣藤原為光が大勢の従者たちを引き連れて到着しており、その一行によって見物に都合のよい場所は占拠されてしまっていた。
そのため、道綱・道長の乗る牛車は、他によさそうな場所を探そうと、為光の乗る牛車の前を横切った。そこが一条大路であったとすれば、為光一行の占めていた場所よりもさらに東へ行って見物しようとしたのかもしれない。
が、これがまずかった。
道綱・道長の牛車が為光の牛車の前を横切るや、為光の連れていた大勢の従者たちが、そこいらに落ちている石を拾って道綱・道長の牛車に投げつけてきたのである。右大臣ともなれば、その外出時に率いる従者の数は二十や三十には及んでいただろう。その従者たちがいっせいに石を投げつけてきたのである。これは甚だしい狼藉であり、道綱・道長の二人は、かなり肝を冷やしたに違いない。おそらく、そのあとはもう行列見物を楽しむどころではなかっただろう。
(繁田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年、pp. 59-61)
この、従者たちが石を投げるというのは平安朝ではひじょうに一般的なことだったらしい。同書には、当時平安京では大臣の家の前を通るときには車を降りて通らねばならなかったこととか、それを怠ると邸から激しい投石を浴びせられたといった話も紹介されている(pp. 120-122)。なんかそういうゲームが作れそうだな。
この投石は、当の大臣たちというよりもむしろその従者たちの習慣だったようだ。
王朝貴族たちに仕えた従者にしてみれば、自分の主人の権威は、高ければ高いほどよかったに違いない。主人の権威が高ければ、それだけ自分の格も上がるというものだ。それゆえ、彼らは、主人に無礼を働いてその権威を貶めるような者があれば、自らの手でその無礼者に制裁を加え、主人の権威を知らしめようとしたのではないだろうか。
(同書、p. 123)
おもしろい。僕はこの従者の投石の話がけっこう気に入ってるのよ。
同書は平安時代の血なまぐさくも人間的な側面を知ることができて楽しい本だ。古文を読み始めてからも、僕はあんまり「雅な王朝文化!」みたいなのには惹かれてなかったんだけど、そういう先入観は一面的なものだということがこれを読めばわかる。まあはじめから平安時代の雅やかなほうに憧れてきたという人はこれで平安時代が好きじゃなくなるかもしれないけどね。
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