2009-10-09

平安時代の暦、続き

前回の続き。

前回挙げた寛弘七年の図では、冬至は十一月のかなり終わりのほうに入っていたので、立春は一月の中頃に位置している。冬至が十一月のはじめのほうに位置する場合は、立春は十二月の中頃になる。二十四節気の区切りを示す上のモノサシと、月の区切りを示す下のモノサシとをずらしていくのを想像すればいい。中気から次の中気までの期間(気策、約30.4日)と月の長さの平均(朔望月、約29.5日)とはちょっと違うので厳密には合わないが、だいたいの傾向として立春は十二月と一月の変わり目ごろに位置するだろうということがわかる。要するに、「冬至のある月を十一月とする」という定義は、立春がおおむね一月一日ごろにくるようにするための工夫なのであった。

そういうわけで、「年の内に春は来にけり」というのは、立春が十二月に位置した場合で、これはとくにめずらしいわけでもなく、よく起こることであり、そういうよくあることについて歌っている、と。まあそれがわかったところで、この歌はどこまで真面目なのかよくわからんのだけど。

一年は354日の場合が多く、384日の時がたまにある(これらより一日ほど長さが変わる年もあるが)。この閏月のある年には、一年は長く感じられたことだろう。

年や日付には干支が割り当てられている。干支がなんだとかはここでは述べないが、ある年が「実際のところ」いつなのか、というのは干支の表記からはわかりづらい。そういう用途のために歴史的な年月日と西暦との対応を収録した本というのが存在する。内田正男『日本暦日原典』(第四版、雄山閣出版、1992年)などである。分厚いこの本はそのほとんどが暦日の対応表だが、末尾に暦についての解説と、宣命暦など旧暦の計算方法についての解説がある。じつをいうと前回と今回の記事はそこが面白かったので書いたようなものなのだ。数ページに要約された解説なので頭でいろいろ補わないといけないのだが、必要な情報は一通り載っている。(ここの趣旨に合わないので詳しくは書かないが、同解説をもとに宣命暦を計算するプログラムを書いてみたりもした。)

ところでウィキペディアの宣明暦の項にはこれを書いている現在「江戸時代初期には、二十四節気が実際よりも2日早く記載されるようになっていた」とあるが、これは「2日遅く」が正しい(岡田芳朗『暦ものがたり』角川選書、1982年、pp. 120-121)。

暦の計算とは直接関係しないが、『御堂関白記』には曜日の記載もある。岡田芳朗『暦ものがたり』によれば、七曜はユダヤ教に由来し、それが中国を経由して日本にやって来たものという (p. 98)。

七曜の繰り方は西洋のそれと全く同じで、東西が同一の曜日を使用していたのは、当然のことながら何か奇妙な感じがするものである。

(同書、p. 99)

『御堂関白記』記載の曜日がちゃんと現在のと連続しているということの確認例が『日本暦日原典』にある (p. 510)。

古文とはずいぶん関係ない話を二回も続けてしまった。暦についての話はこれで終わり。長引かせたくないから月木じゃないけど出しました。引き続き源氏物語を読んでるんだけど、まだまだでね。もう残された回数が少ないので、まだほかに紹介したい本とかについても書いておきたいのだけれど、最近調子があまりよくない。

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