2010-02-11

源氏物語の成立順序

いずれこのことについて書かないといけないと思ってたのだけど、面倒でずいぶん遅れてしまった。『源氏物語』の執筆された順序について。込み入った話じゃないんだけど、ちゃんと書こうとすると長くなってしまう。

『源氏物語』の成立順序については議論があって、大野晋『源氏物語』(岩波現代文庫)や、『光る源氏の物語』(中公文庫)などにわかりやすく経緯が載っている。これについて聞いたことがなかったという人は、まず上掲の本や Wikipedia の「源氏物語」の項の「巻々の執筆・成立順序」のところを読んでみていただきたい。

とくに決定的なのは武田宗俊の説で、これは『源氏物語の研究』(岩波書店、1954)という本で読めるようなのだけど、この本は入手が困難でまだ直接読むことはできていない。しかし次のような主旨であるという。

『源氏物語』の「藤裏葉」までの各巻について、

  • (1)「桐壺」、(5)「若紫」、(7)「紅葉賀」、(8)「花宴」、(9)「葵」、(10)「賢木」、(11)「花散里」、(12)「須磨」、(13)「明石」、(14)「澪標」、(17)「絵合」、(18)「松風」、(19)「薄雲」、(20)「朝顔」、(21)「少女」、(32)「梅枝」、(33)「藤裏葉」を紫上系
  • (2)「帚木」、(3)「空蝉」、(4)「夕顔」、(6)「末摘花」、(15)「蓬生」、(16)「関屋」、(22)「玉鬘」、(23)「初音」、(24)「胡蝶」、(25)「螢」、(26)「常夏」、(27)「篝火」、(28)「野分」、(29)「行幸」、(30)「藤袴」、(31)「真木柱」を玉鬘系

としたときに、紫上系の巻だけをつなげて読んでも矛盾のない物語になる。そして紫上系の登場人物は玉鬘系にも登場するが、玉鬘系で登場する人物は紫上系では一切登場していない。

とくに後者はひじょうに重要な事実だと思う。

#a 系b 系
(1)桐壺
(2)帚木
(3)空蝉
(4)夕顔
(5)若紫
(6)末摘花
(7)紅葉賀
(8)花宴
(9)
(10)賢木
(11)花散里
(12)須磨
(13)明石
(14)澪標
(15)蓬生
(16)関屋
(17)絵合
(18)松風
(19)薄雲
(20)朝顔
(21)少女
(22)玉鬘
(23)初音
(24)胡蝶
(25)
(26)常夏
(27)篝火
(28)野分
(29)行幸
(30)藤袴
(31)真木柱
(32)梅枝
(33)藤裏葉

また、紫上系の物語は素朴なハッピーエンドの筋書きで、文章もわかりやすいのに対して、玉鬘系では反対に源氏の失敗や暗い側面が描かれ、文章も屈折して難しくなっているという特徴がある。

ところで、源氏物語には複数作者説というのが昔からとなえられてきた。与謝野晶子は「若菜」以降が紫式部の娘の作だと考えていたという(未読)。和辻哲郎も「源氏物語について」(『日本精神史研究』)によれば複数の制作集団による作業としか考えられないという認識だったようだ。しかし、これらは武田説以前のもの、執筆順序の背景について明らかになっていない時点でのものだったことに注意しなければならない(和辻の論は執筆順序についても言及しているが、それは「桐壺」があとから書かれたという見解についてである)。

和辻が違和感を抱いたのは、つまるところ「桐壺」から「帚木」への不連続性、そして巻ごとにまちまちになる作者の語り口調といった点である。それらの印象をもとに、これは統一的な人格の仕業とは思われぬと考えたわけである。そのまま頭から読み進めたとき、その印象はたいへんに正しいと思う。そして、これが多くの人々の源氏読破への挑戦を挫折に導いただろうことも想像に難くない。

しかし、紫上系だけを選んで続けて読むと、その語り口はまったく連続していることがわかる。以前僕は源氏を巻の順で読んでないと書いたけど、それはこの分類に従って読み進めていたのだ(まだ進行中ですが)。これはたいへんファンタスティックな体験だ(った)。女性たちと巡り会い、政敵に追われ、復活し、立派な邸宅を築いて女たちを住まわせ、「自身は天皇にはならないが、三人の子供がそれぞれ帝、后、太政大臣になる」という初巻「桐壺」の謎めいた予言の成就が近づき、源氏は栄華の絶頂の中で四十の賀を迎えるというのが紫上系の「藤裏葉」までのあらすじである。おそらくこのままいけば「めでたし、めでたし」で終わる予定だったのだろう。そしてその「藤裏葉」まで読んだあとで、あとから書かれたという「帚木」に戻る(「藤裏葉」が紫上系の登場人物しか出てこない最後の巻だから折り返すならここである)。するとはたして「帚木」の冒頭はこうだ。

光源氏名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかるすきごとどもを末の世にも聞き伝へて、かろびたる名をや流さむとしのび給ける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ、人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚りまめだち給けるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野の少将には笑はれ給けむかし。

まだ中将などにものし給しときは、内にのみさぶらひようし給て、大殿には絶えだえまかで給ふ。忍の乱れやと疑ひきこゆる事もありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけのすきずきしさなどはこのましからぬ御本上にて、まれには、あながちに引きたがへ、心づくしなることを御心におぼしとどむるくせなむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。

(「帚木」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 32、一部表記を改める。)

「藤裏葉」までを読んできた読者にとって、この導入は、あとから語られる内容と照らしあわせて考えれば、順当に受け入れられうるものとなる。おや、と思うとすれば、作者がこれから源氏のいままでとは違う側面について語ろうとしているのだな、というその不穏な雰囲気だけで、なにか前提を無視されているとか、これまでとは全く違う人格が語り手となって話し出したというような唐突さはない。そして、「帚木」から「空蝉」「夕顔」「末摘花」と読み進めれば、そこでも語りは連続していることに気づく。さらに、「帚木」「夕顔」には「玉鬘」への伏線が張られている(頭中将と夕顔との間に子があったこと)。つまり、「帚木」からいわゆる玉鬘十帖までが、やはり一人の作者によるものと認められるわけだ。

だから『源氏物語』の複数作者説をとなえるにしても、だれもかれもがそれぞれに書き足しをして、その雑多な集合体が現在の五十四帖であるという主張はさすがに乱暴すぎることになる(しかし和辻哲郎はそれに近い考え方だったのではなかろうか)。複数作者があったとすれば、その区切りはおおむね武田説の区分に沿って分かれたものになるだろう。つまり a. 紫上系、b. 玉鬘系、c.「若菜」以降、d. 宇治十帖という分類だ。

続く。

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