正月はじめにようやく a. 紫上系を読み終えた。飛ばし飛ばしであるのに、語りはたしかに連続していることが確認できた。とくに、「少女」から「梅枝」には、間にいわゆる玉鬘十帖が入るのでそこで大きく間が空くのだが、前者の末尾から後者の冒頭にかけては、明石の姫君の裳着の準備の話が連続している。
「帚木」の冒頭には、源氏が「まだ中将などにものし給ひしとき」とある。第二巻で「ものし給ひし」という(助動詞キを伴う)のは尋常ではない。第一巻の「桐壺」ではまだ源氏の呼称として「中将」は出てきていないのだ。脚注は「書き手の口調があらわな語りではしばしば過去の時制をとる」と苦しいことを書いているが(おそらくこれは『落窪物語』冒頭の「中納言おはしき」が念頭にあるんだろうけど、あれは例外的な用例ではないか)、これはあとから書かれた巻である証拠とも考えられる。このキは、容疑者が犯人しか知り得ないはずのことをうっかり漏らしてしまった、そんな言葉のように見える。
こうした助動詞の使い方まで小説構成上のテクニックに帰するのは無理な説明だと思う。このくだりを書くとき、源氏の物語をこれから書こうというそのときに、作者は「その時点での源氏の語られかたの状態」によって、当時の日本語の常識の影響を強く受けたはずだ。源氏が中将から太政大臣へと登りつめていったヒーローであることが語り手と聞き手にすでに了解されていれば、地の文でつい「まだ中将などにものし給ひしとき」とキを伴って書いてしまったとしても自然なことである。
「帚木」では、もうひとつ面白いところとして、雨夜の品定めの議論の終盤で左馬頭が総括のような形で女性について論じたくだりの一部を挙げたい。
「すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとほしけれ。三史五経、道みちしき方を、明らかに悟り明かさんこそ愛敬なからめ、などかは女と言はんからに、世にある事の公私《おほやけわたくし》につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまる事自然《じねん》に多かるべし。さるままには真名を走り書きて、さるまじきどちの女文になかば過ぎて書きすくめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかば、と見えたり。心ちにはさしも思はざらめど、をのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上らふのなかにも多かる事ぞかし。
(「帚木」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 59)
ここで左馬頭は「そりゃ女だからってなんにも知らないってわけじゃあなかろう。とくに学んだわけではなくても、学のある人のお側にいれば教養が自然に耳から入ってくることだってあるだろう。しかしそれで覚えた知識をひけらかして真名(漢字)だらけの消息をよこしてきたりするようでは可愛げがない」と言っている。つまり、女にも教養の身に付いた人がいるということは認めるが、それをひけらかすのはアウトだと。小説において、登場人物は作者の道具である。僕はここを読んで『紫式部日記』を思い出した。
『紫式部日記』には、兄が漢籍を学んでいるのを作者が側で聞いていたところ、兄よりも覚えがよくて、父から「お前が男であったら」と言われたと書いているところがある(岩波文庫、p. 79)。それから清少納言を批判するくだりでは、清少納言は教養を振りかざして「真名書き散らし」てるからいけないと書いている(p. 73)。つまり左馬頭の台詞はそのまま『紫式部日記』の作者を擁護するものとなっている。こんなこと書くのは本人しかいない。そういうわけで、ここは「帚木」以下の b 系も紫式部の手によるものだという証拠になっている。
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