おおよそ一年半かかって、ようやく『源氏物語』を読み終えた。読み終えたというだけでもそれなりに感慨があるけれども、純粋に優れた作品を完読する機会を得られてよかったと思う。今後源氏に関係した言説に触れるたびにいちいち後ろめたい思いをする必要がないのもいいことだね。
以下は差し出がましいが、これから源氏を原文で読もうという人への助言。
現行の巻の順序でなく書かれた順で読む。これがいちばん言いたいところ。新しい研究の成果を取り入れない理由はない。21世紀の人間が源氏読解においてアドバンテージを持てる唯一の要素。これを実践するだけで挫折率はそうとう下がると思う。ここでも紹介してきたけど、現行の巻の順序は書かれた順とは違っている。詳しくは、武田宗俊『源氏物語の研究』などを参照のこと。巻の順に読むというのは『銀河英雄伝説』や『ポーの一族』を時系列順で読むとか、そういうことに近い。つまり、二回目以降の人向けの読み方だといえる。書かれた順で読むほうが、頭に入ってきやすいはずである。とくに前半部は、巻順ではごちゃごちゃしているところが、たいへんすっきりとする。また後半では「紅梅」の位置に注意する。
ここでいう「書かれた順」とは、次のような順である。
- 「1. 桐壺」。これはおそらく次の紫上系がある程度書かれた後にあらためて用意された巻とおぼしいのだが、どのみちストーリー的にはここから始まるとしかいえないので、これに限っては書かれた順でなく最初に読んでおけばいいと思う。が、必ずしも最初でなければならないわけでもない。紫上系を読んでいる途中で外伝的に寄り道して読んでもよい。
- 紫上系。「5. 若紫」「7. 紅葉賀」「8. 花宴」「9. 葵」「10. 賢木」「11. 花散里」「12. 須磨」「13. 明石」「14. 澪標」「17. 絵合」「18. 松風」「19. 薄雲」「20. 朝顔」「21. 少女」「32. 梅枝」「33. 藤裏葉」。
- 玉鬘系。「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」「6. 末摘花」「15. 蓬生」「16. 関屋」「22. 玉鬘」「23. 初音」「24. 胡蝶」「25. 螢」「26. 常夏」「27. 篝火」「28. 野分」「29. 行幸」「30. 藤袴」「31. 真木柱」。「玉鬘」以降は通称「玉鬘十帖」と呼ばれる。
- 「若菜」以降。「34. 若菜上」「35. 若菜下」「36. 柏木」「37. 横笛」「38. 鈴虫」「39. 夕霧」「40. 御法」「41. 幻」。
- 「匂宮」「紅梅」「竹河」、宇治十帖。ただし順序は「42. 匂宮」「45. 橋姫」「46. 椎本」「47. 総角」「48. 早蕨」「43. 紅梅」「49. 宿木」「50. 東屋」「51. 浮舟」「52. 蜻蛉」「53. 手習」「54. 夢浮橋」。「44. 竹河」は外伝として気が向いた時に適当に読む。
読書進捗の話をした時の表もご参考に。
さらに、上記の読みかたを実践してもなお整合の取りきれない個所がいくつかあることも知っておいて損はない。これらはいずれも(偶然か意図的かは別にして)巻の欠落が原因のように見える。
- 「1. 桐壺」と「5. 若紫」の間に明らかなストーリー上の欠落がある。この欠落部分については「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」にも書かれていない。ここには藤壺宮と源氏との密会、朝顔斎院や六条御息所と源氏とのなれそめが描かれていたはずである(宣長はこれを補完するために「手枕」を自分で書いた)。つまり、実質源氏物語は「5. 若紫」から、ストーリーの途中のところから始まっている。これはもうそれしか残ってないんだからしょうがない。上演時間に遅れてやってきた客のようなものと、あきらめるしかない。
- 「1. 桐壺」は「5. 若紫」以前の背景を描いたものだが、必要なぜんぶを説明してくれているわけではない。「14. 澪標」で語られる宿曜の予言などはその例である。
- 紫上系、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間に欠落があるようで、夕霧や柏木の官位がここで飛んでいる(しかしここは明石の姫君の裳着の話が連続しているので、このふたつはそれほど離れた巻同士でないことは間違いない)。それが玉鬘十帖で説明されているかというとされていない。どうも、玉鬘十帖は、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間にあった巻を抜き取って、そこに差し替える形で挿入されたような感じである。玉鬘十帖に一時的に紫上系によく見られる華やかな描写が復活するのはそのことと関係があるかもしれない。
- 底本によっては、「47. 総角」で夕霧の官位が混乱している。これは「紅梅」の位置が誤られたことによる混乱からきているのだと思われる。あまり気にしなくてもいいっぽい。詳しくは武田宗俊の論を参照。
訳文はいらない。まず基本的に、全訳と名の付いている本の訳のほとんどは意味がない。意味のある訳を読みたいのなら、与謝野源氏なり谷崎源氏なり、それ自体を鑑賞の目的として耐えうるものを読めばいい。全集で全訳を載せているようなやつの訳文は、日本語とはいえない。あれは古語の助詞・助動詞を機械的に現代の助詞・助動詞に置換した人工言語みたいなものだ。難しければ難しい原文になるほど、訳文はあてにならなくなっていく。あれの無意味さはいくら強調してもしすぎることはない。それに源氏物語は大著だ。それを読もうという時に、それと同じかそれ以上の分量の駄文を並行して読むというのは時間と頭の無駄遣いだと思う。
以前脚注の落とし穴について書いたことがあるけど、そうはいっても注は絶対に必要である。注の付いてない原文で読もうという原理主義にまでいくのはやり過ぎ。目で追ってても内容は理解できずに終わる。そういうのは二周目以降にとっておこう。
巻ごとに解説書で復習する。ということは、なにか源氏物語の解説書を用意したほうがいいということです。巻ごとに、あらすじとか、見どころがまとまっているやつがいいかと。僕の場合はそれは対談『光る源氏の物語』だった。でも他の本でもなんでも、好きなやつでいいと思う(でも対談は読書の孤独を紛らわすのにはよかったかな)。ひと巻読み進んだ後に、そこで何が語られていたのか、ストーリーはどう動いたのかをそうしたガイドブックで復習しておく。前に読むと読む気がなくなるので後がいい。ちゃんと読めてればもちろん不要なことではあるけれど、保険としてあったほうが最期まであきらめずに読めると思う。
ときどき、拝見しています。
返信削除このたびは、浩瀚なる『源氏物語』の原文での読了、まことにおめでとうございます。
おひさしぶりです、ありがとうございます。
返信削除これもよい参考書等に出会えたおかげです。