ようやく宇治十帖を読み終え、これで源氏物語はすべて読み果てたことになる。さて、その宇治十帖だが、源氏の他の巻々との雰囲気の違いから、これを紫式部の作でないのではないかとする説が古来より唱えられてきた。よく推定されるのは、式部の娘の大弐三位である。
本居宣長は宇治十帖も式部作であると考え、『紫文要領』でその証拠のひとつとして「浮舟」の巻にある「里の名をわが身にしれば」の歌が紫式部の歌として新拾遺集に入れられているということを指摘している(岩波文庫版 p. 10)。
「竹河」を式部作でないと指摘した武田宗俊は、それ以外の巻はすべて式部作であるとした。ちょっとどこを引用したらいいのかメモしておくのを怠ったせいで適切な個所を得ないのだけど、別件について論じているところで、「椎本」の巻の「奥山の松葉に積る雪とだに消えにし人を思はましかば」の歌が『伊勢大輔集』に式部の歌として載っている「奥山の松葉に凍る雪よりも我身世にふる程ぞはかなみ」を作り替えたものであるという指摘をしている(『源氏物語の研究』、p. 33)。
これら歌からの指摘はあながちに無視できないのではないかな。式部の文体は「若紫」から「帚木」「若菜」と見渡してみてもずいぶんの変遷をしてきている。文体だけからは安易にこれらをひっくり返して他者の作と認めることはできない。
また、大野晋は、自分は宇治十帖他作者説の可能性を捨てていなかったが『紫式部日記』の精読から宇治十帖も式部作と考えるようになったと言っている(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語(上)』中公文庫、p. 12 および大野晋『源氏物語』岩波現代文庫)。たしかに『紫式部日記』に垣間見える男性嫌悪的な態度は、「総角」や「浮舟」「蜻蛉」の巻などと通底する。
『紫式部日記』に、道長の側室腹の若君たちが女房の局への出入りを許されて乗り込んでくる場面がある。若い盛り(みな十五歳前後)の男たちに若い女房らも色めき立つが、年配である式部は奥のほうに隠れている。
高松の小君達さへ、こたみ入らせ給ひし夜よりは、女房ゆるされて、まもなくとほりありき給へば、いとはしたなげなりや。さだすぎぬるを效にてぞかくろふる。五節こひしなどもことに思ひたらず、やすらひ、小兵衛などや、その裳の裾、汗袗にまつはれてぞ、小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる。
(『紫式部日記』岩波文庫、p. 56)
若君にからまれて上げた女房の黄色い声を「小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる」と書く。僕はここを読んだ時ぞっとした記憶がある。この表現に式部の男女間の語らいへの強烈な嫌悪と不信が見えたような気がしたのだ。「蜻蛉」を読んだ時、浮舟がいなくなったあと、その慰めを求めて宮中の女房を漁る匂宮や薫の描写に、僕は日記のこのくだりを思い出した。
さて、そうした印象とは別に、もうひとつ小説としての技術的な視点からも思うところがある。「匂宮」で登場人物を紹介したあと、「橋姫」「椎本」ではひじょうに周到に伏線が張られている。この状況設定は「総角」での膨大な心理描写を導くためのものである。また、ストーリーが実質的に大きく動くのはさらにそのあと「早蕨」からである。僕は、別人が引き継いで書いたとするなら、こんな地味で周到な展開にはしない(できない)と思う。
デビューしたての物語作者は、ストーリーの早い段階で読者を引きつけなければならないので、目を引くエピソードを定期的に発信しようとする。『落窪物語』を思い出してみればいい。『源氏物語』でさえ序盤の紫上系ではそうだった。だが、ここでは「匂宮」の薫の体香という設定がやや好奇の目を引くものの、その後はじつに地味な展開が続く。読者の目を引くことに関心がないのではないかと思えるふしすらある。大野晋は宇治十帖を実験小説と言ったが、こう言ってよければ、作者は宇治十帖において、小説を自分の思考の道具として使っているような印象がある。これは散文を膨大に書き続けてきた人間の書きっぷりで、だれかがぽっと出てきて引き継いだ時に生まれるような文章ではない。
上記の印象から、よほど決定的な外部の証拠がない限り、宇治十帖が式部作でないというのは、なかなか受け容れがたいように思う。まあ問題は、自分の読解がどこまで信用できるかというところなのだが……。宇治十帖は「若菜」上下と同様、もう一度読む必要があるな。
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