私は『源氏』が、最初は「帯木」の巻から書かれ、よほど後に至って「桐壺」が首巻として加えられたものと感じている。それにはいくつかの理由を挙げうるが、一つは「桐壺」の文章の整然として一点の疵もなく、かつ堂々とした重味を持って完璧の美を示しているのに比べて、第二巻の「帚木」には渋滞した筆の跡のあることが目につく。また一つは雨夜の徒然に若い貴公子が集まって女の批評を交換する「帚木」の結構は、若い読者の心を引きつけるに十分であり、作者がこの巻を総序として、その夜の批評に上った種々の女を具体的に書き分けようと考えつきそうなことである。なお「桐壺」が後に加えられたために、他の巻と矛盾を生じた点さえ私には発見される。またおそらく初めの意図は、あんなに長い小説を書くつもりでもなく書き出したのが次第に感興を加えて、そのうちに長編とする心にもなったのであろう。
(与謝野晶子「紫式部新考」、『与謝野晶子選集 4』、春秋社、1967年、p. 14)
しかし私は、現在の『源氏』五十四帖がことごとく彼女の筆に成ったとは決して思わない。昔から「宇治十帖」は大弐三位の補作だという説もある。私は『源氏』を前後二編に分けて、「若菜」以下の諸巻を後編とし、それを他人の補作であると推定している。紫式部が書いたのは「桐壺」より「藤裏葉」に至る三十三巻である。詳しいことは別に『源氏物語考』を書く機会に譲っておくが、『源氏』は結構より見てこの「藤裏葉」に至り、前編の主人公源光《みなもとのひかる》の境遇がすべて円満にめでたく栄華の頂点を見せて筆が結ばれている。しかるに後編の作者は、新主人公源の薫を点出して、前編に類例のない新味ある恋愛小説を構想し、薫を出すための準備として、なお前編の主人公の後の生活を「若菜」から新たに書き始めた。「若菜」上下の文章が前編に比べてにわかに冗漫の跡のいちじるしいのは、後編の作者の筆がその書き始めだけに、しばらく未熟なのを示しているのである。しかも後編の作者は、次ぎ次ぎの諸巻を逐うて文章の円熟を重ねたのみならず、著想取材において前編の作者以外に新しい境地を開拓し、ことに「宇治十帖」といわれる最後の十巻において、恋の哀史の妙をきわめた。文章においても著想においても、前編の作者に拮抗して遜色のないこの後の作者は誰であろうか。一読して婦人の筆であることから、当時の女歌人のなかに物色すると、古人の言ったように、大弐三位が母の文勲を継いだのであろうと想像するほかに、その人を考え得ない。とにかく後編は、種々の点から作者を異にしていることを私は説明しうるが、ここには略して、ただ後編の「竹河」の巻の初めに、「紫のゆかりにも似ざめれど」(紫式部の書いた『源氏物語』の妙筆には及ばないけれど)と言って、後編の作者が謙遜の語をもって、前後両編の作者の異なることを暗示している一句を引証しておく。この句を本居宣長翁その他の注釈家が「紫の上のゆかり」の事に解釈したのは、大いなる誤りである。
(同書、pp. 22-23)
なにぶん古い時代の説だから、結論そのものはおいとくとして、ここで述べられている源氏各帖の本文に対する与謝野の印象が面白い。与謝野は「桐壺」を「一点の疵も」ない「完璧」と言い、「帚木」を「渋滞」、「若菜」を「冗漫」と言っているからである。それから、「『源氏』の須磨・明石の描写、ことに海岸の暴風雨の光景は空想のみで書かれそうにない」(p. 30)とも言っている。この意見は現在の読み方とはずいぶん乖離しているように見えるのだけど、どうだろう。
ずいぶんオッサンくさい読み方だったんだなあ、と僕は思った。「桐壺」「須磨」「明石」あたりの筆を名文とするのは、なんか江戸時代の儒家とか武家とかで源氏好きのオヤジのしそうな見方っぽいじゃないか。まあ偏見ですが。しかし「帚木」はともかく、「若菜」を重視しないという(「薫を出すための準備」だと見る)感覚はもはや不思議に近いし、あの筆致を充実でなく冗漫ととる向きにはなかなか与しがたい。若書きで明石の入道の最期や猫と柏木のエピソードをあんなふうに思いつき、かつ書けるものだろうか。また、小説として見たとき「須磨」「明石」がなんだか枕詞を並べた常套句の羅列のような描写であるという印象は前に書いた。しかしまあ、あれがいいという人がいるんだろうなあ、というのはわかりますがね……。様々なレベルで読者を満足させることができたというのが、源氏の本文が今日まで残るだけの「強度」を持ったテキストであることの証しなのだから。
与謝野晶子がここまで想像と違う読み方をしていたとは意外であった。樋口一葉などは、どのように読んでいたのか、これもちゃんとしかるべき著作を見てみないとわからないね。
ところで与謝野はこの論の冒頭で紫式部のことを「女詩人」と呼んでいる。『源氏物語』の作者のことを「詩人」と呼ぶ人ははじめて見たのでびっくりした。自分に引きつけて見てるのね。
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