2009年2月16日月曜日

大野 薫と匂という名前は、「薫中将」「匂兵部卿」としては、はじめて「匂宮」の巻に見え、「竹河」にも「薫中将」がありますが、「匂う」も「かおる」も夜の世界、闇の中で感じられるもの、ということが作者のイメージの中にあったんではないか。  もう一つは、この話が「宇治(ウヂ)」で展開しているということです。これは、いろんな人が「憂し(ウシ)」の「憂」と関係があると言っています。「ウヂ」と「ウシ」だけを比較することもできますが、「ウヂ」の「ヂ」は「路(ミチ)」という意味があります。だからこれは「憂路(つまり憂き路)」と考えることができる。作者はそれを連想しながらこの話のバックとしたんじゃないか。宇治は「憂路」なんだというわけですね。  そういうことで、ここからの物語の世界は、光が死んでしまったあとの、光のない暗い世界です。女にとって男との間に幸せはないのだということ。それが正面の主題に据えられてくる。作者はまったく新しくここで想を練って展開を考えたと思うんです。

丸谷 人名、地名などが小説においてどういう機能をなすかという問題がありましてね。ロシア文学の江川卓さんがドストエフスキー論のなかで『カラマーゾフの兄弟』の「カラマーゾフ」という苗字はどういう意味をもつか、いろいろ探っています。私は、これは非常に面白いと思うんです。作中人物の顔立ちはいくら詳しく描写されてもよくわからない場合がある。ところが、姓名というのは実にはっきりと迫るんですよ。

大野 意味をもっていますからね。

丸谷 そうです。まずその連想によって、われわれは作中人物と付き合うということがありますね。  ところが、現実のわれわれの日常生活において、姓名によってその人間を意識するということはめったにない。小説ないし文学作品と日常生活とは非常に違うんです。ですからわれわれの日常体験をそのまま文学作品の中に当てはめるわけにはいかないんです。大岡昇平さんの『武蔵野夫人』で二人の恋人が歩いている。すると、そこの地名が「恋が窪」だと気づいて愕然とし、それが恋愛心理に作用するという場面がある。それを読者は納得するんです。

(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語』下巻、中央公論社、p. 231)

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