2009-02-26

典薬助を蹴る

賀茂の祭り見物での車争い。中納言家北の方一行の車が場所取りの杭を打っていたところ、その向かいに男君一行の車が陣取る。男君は「向かいの車は邪魔なのでちょっとどけさせろ」と命じる。理不尽な要求に憤って出てきたのは、あの典薬助であった。

「けふのことはもはらなさけなくはせらるまじ。打ちくひ打ちたる方に立てたらばこそさもしたまはめ、向かひに立てたる車をかくするはなぞ。のちの事思ひてせよ。またせん。」
としれものは言へば、衛門の尉《じょう》(=帯刀)、典薬と見て、としごろくやつにあはんと思ふにうれし、と思ふに、君(=男君)も典薬と見給ひて、
「これなり、それはいかに言はするぞ。」
とのたまへば、心得て、はやる雑色《ざふしき》どもに目をくはすれば、走り寄るに、
「『のちのことを思ひてせよ』と翁《おきな》の言ふに、殿をばいかにしたてまつらんぞ。」
とて、長扇《ながあふぎ》をさし遣りて、かうぶりをはくと打ち落としつ。もとゞりは塵《ちり》ばかりにて、ひたひははげ入りてつやつやと見ゆれば、物見る人にゆすりてはらはる。翁袖をかづきてまどひ入るに、さと寄りて一足《ひとあし》づつ蹴る。
「のちの事いかでぞある、いかでぞある。」

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、p. 178、一部表記を改める。)

「しれものは~」という表現は、枕草子にもあった。「うへにさぶらふ御猫は」の段。「『翁丸、いづら。命婦のおとどくへ』といふに、まことかとて、しれものははしりかかりたれば」云々(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 30)。「愚かにも」といったような意味合いの慣用表現だったのだろうか。

「それはいかに言はするぞ」は、「お前(=これなり)はどうしてそんなことを言わせておくのだ(=どうにかしろ)」ということ?

さて後日、あんまりなこの騒ぎには男君の父である右大臣も眉をひそめ、女君(=おちくぼの君)も快く思わない。ただ衛門(=あこき)だけがかつての怨恨を晴らしたとばかりに嬉々としている。ここは女君と衛門との温度差がちょっと問題になっている雰囲気なんだけど(p. 182、女君が衛門に「そんなふうならあなたはもうわたしじゃなくて男君の侍女になっておしまいなさい」と言い、衛門も売り言葉に買い言葉めいたことを言う)、それがその後べつにどうという話に展開していくわけでもない。このやりとりは、二人の性格を対照的に示すことを意図した、幼なじみの主従の間柄だからできるきわどい冗談ということなのか。

2009-02-23

端原氏系図及城下絵図

本居宣長には、「端原氏系図及城下絵図(はしはらしけいずおよびじょうかえず)」という著作がある。19歳の彼の手による、架空の系図および絵図で、端原家なる一族についての分家や幼名、所領、叙任、さらに年号などまでを創作している(本居宣長記念館編『本居宣長事典』東京堂出版、2001年、p. 64)。

「全集」別巻三の解説は宣長の物語構想説に否定的であるという。しかし若き日に源氏のような物語を書こうとこころざしていたとすると、いろいろ想像を巡らせたくなる話じゃないか。同じ頃の著作として「源氏物語覚書」がある。僕は物語をやろうとしてたと思うね。

宣長には「乙女ノリ」とでも呼べるようなものがあると最近思うのだ。変な言い方だけど、彼は紫式部・清少納言になりたかったのではないのかな。

2009-02-19

サンデー的ラブコメ

女君と一緒になって毎日が楽しい男君。

「いといみじき事かな。げにいかにいみじうおぼえ給ふらん。」
など語らひ給ふほどに、中将の君、うちよりいといたう酔ひまかでたまへり。
いと赤らかにきよげにておはして、
「御遊びに召されてこれかれにしいられつる、いとこそ苦しかりつれ。笛仕うまつりて、御ぞかづけ事侍り。」
とて持ておはしたり。ゆるし色のいみじくかうばしきを、
「君にかづけたてまつらん。」
とて、女君にうちかづけ給へば、
「何の禄ならん。」
とてわらひ給ふ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 158-159)

さて帯刀の母は男君の乳母である。乳母としては男君にはおちくぼの君などという素性の知れない女よりはもっと由緒正しい妻を持ってほしいと考え、時の右大臣の娘との縁談を勝手に進めてしまう。衛門(=あこき)は人の噂から初めてその話を知る。

「君は右大臣殿の婿になり給ふべかなり。この殿に知り給へりや。」
といへば、衛門、あさましと思ひて、
「まださるけしきも聞こえず。たしかなる事か。」
と言へば、
「まことに、四月にとていそぎ給ふ物を。」

(同書、p. 160)

衛門から男君の縁談を聞いた女君(=おちくぼの君)の心はふさがる。しかし当人から直接聞いた話でもないので、面と向かってこちらから切り出すこともできない。ラブコメ的誤解の王道。男君は女君の様子が変わってしまったことに戸惑う。

中将、殿にまゐりて、いとおもしろき梅のありけるををりて、 「これ見たまへ。世のつねになん似ぬ。御けしきもこれになぐさみ給へ。」 と言ふ。女君、たゞかく聞こえ給ふ。

 うきふしにあひ見ることはなけれども人の心の花は猶うし

(同書、p. 163)

しかしやがて乳母の仕業が明らかになり、男君は女君の誤解を知る。

中将の君は、女君の例のやうならず思ひたるはこの事聞きたるなめり、とおぼしぬ。二条におはして、
「御心のゆかぬ罪を聞き明きらめつるこそうれしけれ。」
女、
「何ごとぞ。」
「右の大殿(おほいどの)の事なりけりな。」
とのたまへば、女、
「そらごと。」
とてほゝ笑みてゐ給へれば、

(同書、p. 168)

よかったですね。

ここはとくに言うことはなし。

2009-02-16

大野 薫と匂という名前は、「薫中将」「匂兵部卿」としては、はじめて「匂宮」の巻に見え、「竹河」にも「薫中将」がありますが、「匂う」も「かおる」も夜の世界、闇の中で感じられるもの、ということが作者のイメージの中にあったんではないか。  もう一つは、この話が「宇治(ウヂ)」で展開しているということです。これは、いろんな人が「憂し(ウシ)」の「憂」と関係があると言っています。「ウヂ」と「ウシ」だけを比較することもできますが、「ウヂ」の「ヂ」は「路(ミチ)」という意味があります。だからこれは「憂路(つまり憂き路)」と考えることができる。作者はそれを連想しながらこの話のバックとしたんじゃないか。宇治は「憂路」なんだというわけですね。  そういうことで、ここからの物語の世界は、光が死んでしまったあとの、光のない暗い世界です。女にとって男との間に幸せはないのだということ。それが正面の主題に据えられてくる。作者はまったく新しくここで想を練って展開を考えたと思うんです。

丸谷 人名、地名などが小説においてどういう機能をなすかという問題がありましてね。ロシア文学の江川卓さんがドストエフスキー論のなかで『カラマーゾフの兄弟』の「カラマーゾフ」という苗字はどういう意味をもつか、いろいろ探っています。私は、これは非常に面白いと思うんです。作中人物の顔立ちはいくら詳しく描写されてもよくわからない場合がある。ところが、姓名というのは実にはっきりと迫るんですよ。

大野 意味をもっていますからね。

丸谷 そうです。まずその連想によって、われわれは作中人物と付き合うということがありますね。  ところが、現実のわれわれの日常生活において、姓名によってその人間を意識するということはめったにない。小説ないし文学作品と日常生活とは非常に違うんです。ですからわれわれの日常体験をそのまま文学作品の中に当てはめるわけにはいかないんです。大岡昇平さんの『武蔵野夫人』で二人の恋人が歩いている。すると、そこの地名が「恋が窪」だと気づいて愕然とし、それが恋愛心理に作用するという場面がある。それを読者は納得するんです。

(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語』下巻、中央公論社、p. 231)

2009-02-12

枕草子、大工の食事

この話は別の所でしたことがあるんだけど、ここに書くのは初めてなので最初から書こう。

『日本料理の歴史』という本に、枕草子にある話としてこんなことが書いてある。

清少納言の『枕草子』に大工たちの食事を描写したところがある。彼らは食べ物が運ばれてくるのを今や遅しと待ちうけていて、汁物がくると、みな飲んでしまい、空になった土器を置いてしまう。次におかずがくると、これもみな食べてしまってもうご飯はいらないのかと思っていると、ご飯もあとからくるとまたすぐなくなってしまった、といって「いとあやしけれ」というわけである。汁と飯、お菜と飯とを交互に食べていくのが今も続く和食の食べ方だが、お腹のすいた大工には、そんな作法は関係なかったようである。

『枕草子』の記事では、大工の食事がどの時間のものであったかわからない。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 40-41

ふーん、おもしろい、と思うでしょ。自分もそう思った。だけどこの本を読んでいたときは、まだ枕草子は途中だったから、あとでこういう話が出てくるんだな、と思うくらいで読み流した。

ところが読み終わってみると、こんな話、枕草子のどこにもなかったのだ。これはいったいどうしたことか。活字になっている本に出てるならその出典か、あるいはせめて原文の引用でもあればよかったんだけど、それもない。しかたなくこれは僕の中でずっと謎のままになっていて、あるいは『徒然草』か何か、別の文献からの引き間違いかとも思うようになっていた。

これが去年までの話。

しかし最近になって、『玉勝間』にこんなことが書かれているのを見つけた。

又、いはゆる菜をば、昔はあはせといへり、清少納言枕册子などに見ゆ、

本居宣長『玉勝間』岩波文庫、p. 221

この「あはせ」というのは、古語辞典には「飯にそえるもの。おかず。副食物」として載っている(旺文社『全訳古語辞典』第三版)。しかし岩波文庫版の枕草子におかずのこととして「あはせ」という語が出ていたという記憶がない。というか、おかずがどうこうとか、そういうことを書いた段があったという記憶がない。

ひょっとするとこれが『日本料理の歴史』に出ていた大工の食事の段なんだろうか。底本によって段の異同があるから、そのひとつなのかもしれない。引き続き要調査。

2009-02-09

面白の駒 (2)

話が前後してしまい申し訳ないんだけど、面白の駒の話のところがけっこう読み応えあっておもしろいのでもうちょっと紹介。面白の駒も気の毒なんだけど、後々の展開を見るに、はるかに可哀想なのはむしろそれを押し当てられた四の君だ。

中納言家四の君のもとに三夜続けて男が通い(当時それが結婚の成立を意味した)、いよいよ親戚一同に新婿のお披露目というところ。

三夜目、中納言や、三の君の夫である蔵人の少将がお祝いのもてなしをしようと男を呼んでみると、その男は面白の駒(兵部の少)であった。ショックを受ける中納言。蔵人の少将などは普段から内裏で面白の駒をからかっていたような男だったから、遠慮もなくげらげらと笑い出す始末である。せっかく用意した宴の席もしらけてしまうが、空気の読めない面白の駒はさっさと四の君の寝所へと乗り込んでいく。

朝、邸の侍女たちも相手が面白の駒とわかると、だれがあんな男にとばかりにまるで世話をしない。それで兵部の少と四の君はいつまでたっても寝所で放置されている。そうして日は高くなり、四の君は寝所に伏したまま、そこで初めて自分が一緒になった異形の男をまざまざと目にするわけである。

恐れをなして寝所を這うように抜け出す四の君に母北の方が駆け寄る。北の方は(男君が兵部の少にした入れ知恵のせいで)娘が本人の意志で面白の駒と付き合ったと思いこんでいるから、どうしてなにも言わないで自分たちに派手なお披露目なんてさせたのかと四の君を責める。男の顔さえいま知ったばかりの四の君はわけもわからず泣くことしかできない。かわいそうだよなあ。

とはいえここは、気弱な中納言、癇癪持ちの北の方、豪胆な蔵人の少将、泣き虫の四の君(そしておめでたい面白の駒)と、各人物の性格が際だっていてうまいところだと思う。長いので引用はしないけど、生き生きとした描写。

さてその後。

夕さり来たるに、四の君泣きてさらにいで給はねば、おとど腹立ち給ひて、

「かくおぼえたまひけん物をば、何しかはしのびては呼び寄せ給ひし。人の知りぬるからにかく言ふは、親、はらからに二方に恥を見せたまはんとや」

と添ひゐて責め給へば、いみじうわびしながら泣く泣く出で給ひぬ。少、泣き給ふをあやしと思ひけれど、物も言はで臥しぬ。

かくをんなもわびしと思ひわび、北の方も取り放ちてんとまどひ給へど、おとどのかくの給ふにつつみて、出で給ふ夜、出で給はぬ夜ありけるに、宿世《すくせ》心憂かりけることは、いつしかとつはり給へば、

「いかでと産《む》ませんと思ふ少将の君の子は出で来で、このしれものの広ごること」

とのたまふを、四の君ことわりにて、いかで死なんと思ふ。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、p. 140、一部表記を改める。)

拙訳。

(兵部の少が)夕方またやって来たものの、四の君は泣いて姿をお見せにならない。父中納言殿がご立腹のあまり四の君の側まで来て

「それほど嫌うような男をどうしてひそかに通わせなどしていたのだ。世間に知られた途端にそんなだだをこねるとは、親兄弟に恥をかかせるおつもりか」

と強く説得なさってようやく、肩を落としたまま泣く泣くお相手に向かわれた。兵部の少は四の君が泣いているのを不思議に思いはしたものの、これといって声をかけることもなく黙って寝所に臥し入った。

こうして四の君は思い沈み、北の方もなんとか別れさせようとあれこれ思い悩み、父中納言殿の言いつけに従ってお相手をする夜もあったが、あれこれ言い繕って姿を見せなかったりもした。しかしなんの宿世であろうか、四の君ははやくも身重の体となっていた。

「どうにかと願った少将の君の子を賜るどころか、この痴れ者の子を持とうとは」

と中納言殿が嘆くのを聞き、四の君は早く死んでしまいたいと思うのであった。

男君は「あとで俺がちゃんと面倒を見るから」とか言っているが、じつはそのフォローは超やっつけである。物語の最後になっても四の君は不憫な目にしか遭わない。脇役だけにそれが顧みられることもなく、ある意味この物語でいちばん可哀想な人かもしれない。それについては後述したい。

2009-02-05

『古代日本語文法』

すでに引用したことがあるけど、『古代日本語文法』という本について紹介しておきたい。

この本は古文の文法書で、冒頭の「はしがき」によれば「現代語の記述文法の枠組みで、古代語文法を記述している」のが特色だという。そもそも他の文法書をあまり読んでないので、それによって同書がどの程度際だっているのかは、僕は知らない。それはそれとして、古文の「語」ではなくて「用法」について広く解説してあるので、古語辞典の補助として使えます。

単語がわからないのは辞書引けばいいからあんまり大したことじゃなくて、用法がわからないほうがじつはいかんともしがたい。先日の「遅く~する」がいい例。それに古文の難解な個所というのはたいてい単語はそんなに難しくなくて、どうして、どういう意味で、そういう言葉遣いになっているのかというところが難しい。なかんずく助詞と助動詞。僕はそういうときはまず岩波古語辞典の「基本助動詞・助詞解説」をひたすら読み返す、それでもぴんとこなかったらこの本で該当する解説がないか探す、というのがパターンになっている。

僕がこの本でいいと思ったところは、古典の文法について、現在までにわかっていることだけでなく、わかっていないことまで書かれているという点。

たとえば、古文の基本である係り結びについて。僕が高校で係り結びについて教わったのは、まず、コソが表れたら已然形で終わるとかの形式上のルール、それからそれらが意味としては「強調」だということくらいだった。まあこれはこれで「教えてる」ことにはなるのかもしれない。さて、同書の係り結びの節はこうだ。

係り結びは、その頻度からみて、古代語の構文上、かなり本質的な役割を担っていたであろうと思われますが、その役割については今のところ不明です。また、(1a) ~ (1c) の間に、どのような表現価値の差があるのかについても、まだよくわかっていません。

(1)a 木の間より花とみるまで降りける(古今331)
b なむいみじう降る」と言ふなり。(蜻蛉)
c 妻戸押し開けて、「こそ降りたりけれ」と言ふほどに(蜻蛉)

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007年、p. 187)

「今のところ不明です」「まだよくわかっていません」だよ。このあけすけな誠実さを見よ。でも、こういうふうにはっきり言ってもらったほうが、自分はそのことについてよく考えてみようという気になる。

もともと古文を読み始めた頃から、僕は「コソ+已然形も強調、ゾ+連体形も強調、シも強調、シモも強調って、じゃあそれぞれの強調の表現は互いに交換可能なのか?」と言っていた(英語学習でやる強調構文の書き換え演習が念頭にあって)。この本を読んでそういう疑問の持ち方が支持された気持ちもした。やっぱり自分の頭で考えないと。

「よくわからない」と感じた部分こそ大事だということと、それについて考えるための方法論について、世の中の教科書はもっと重視したほうがいいね。高校の頃に見た教科書は、いってみればなんでもわかっているふりをしていたわけで。

話がそれた。あと、この本では今世紀に入ってからの新しい研究成果を取り入れているのも特徴。大野晋とか、おもしろいんだけど、やっぱり新しくても90年代なので、その後の進展も知りたい。現在の研究状況を概観するのにもいいかと。いや、僕は研究しないから他の方々にとってということでね。

文法事項ごとの解説の集積なので、頭から順番に読んでいく読みものにはならないけど、リファレンスとして脇に置いておくのにはいいです。今後も何度か引用すると思う。

さて、じつは以前この本からの引用を載せたとき、著者である小田氏からホームページ経由でコメントをいただいてしまった。ここがインターネットだということを忘れていたぜ。もとは大学用のテキストとして書かれた本だったそうです。また内容を増強した一般向けの「詳説版」も来年秋(「今年」の間違いじゃなければ、ずいぶん先の話だ)に出されるとのこと(こんなところに書いても宣伝にはならないけれど)。

2009-02-02

第二には、つねに実証的に、実例に即して考察することを重んじる。実例に即すとは、つねに上代、平安から鎌倉に及ぶそれぞれの時代の具体的な例、場合によっては現代に及ぶ実例を検討し、それによって考察を進めることである。こうした実例を重んじる研究の方法は、言語の史的研究においては何も係助詞の研究に限ることではないが、ことに係り結びの研究ではそれが必要である。なぜなら、係り結びという事象は、奈良時代においては極めて顕著であるが、平安時代になると少しずつではあるが変化が進行し、室町時代になるとハなど一部を除いては古典語が持っていた体系としては全体として消滅した。したがってそのような時代的変化の顕著な現象を対象として行う研究は、最も古い時代の状態、次の時代の状態、さらに次の時代の状態という具合に、変化の跡を忠実に追っていかなくてはならない。係り結びということの本質的部分を明確にするためには、ことに最古の時代の状態を明確に把握することが是非必要である。それには、万葉集や続日本紀宣命などの用例を精しく見て、それに対して綿密な考察を加えなければならない。私は本書においてそれに最も力を注いだ。

奈良時代の例を精査せずに平安時代の用例だけを材料としてコソやナムやヤの本質に関して推論し、判断を下すならば、コソの用法が奈良時代と平安時代との間で大きな差異を生じたことが分からないだろう。奈良時代の例を見ずに、平安時代の例を見ただけでは到底コソの本質的な用法を把握することはできない。またもっぱら源氏物語の用例を中心にして係助詞ナムやヤを研究して、続日本紀宣命や万葉集の用法との比較対象を加えないならば、係り結びの本質を把握することは困難だろう。なぜなら係助詞は、平安時代にすでに用法上も曖昧なものが増加していて、口語の世界では鎌倉時代以後になると性質が希薄になり、その用例も減る。その頃の例についてはさまざまな解釈が可能になることが少なくない。だから、平安時代以後の限られた実例だけに目を向けて係助詞全体の本質を論じるならば、誤った結論に至ることを、本書は示すだろう。

極端な例ではあるが、係助詞ハの役割を考えるにあたっても、古典の文例を分析せず現代語ばかりを対象として考察していたのでは、その本質を把握するのは難しい。なぜなら現代語ではハとガとが構文上対立的な役割を演じているが、古典語にはハと並ぶ助詞モと助詞ゼロの形式とがあった。

  梅は 咲きにけり(千載四六八)
  花も 咲きにけり(詞花四〇二)
  花  咲きにけり(古今二一八)

このようなハとモと助詞ゼロとの三つがそれぞれ文構成上どんな役割を果たしているかを深く考えてはじめて、係助詞の中にハとモとがある意味が理解される。これら三つについて深い考慮を加えずに、日本語の文の構成法あるいは係り結びの本質をとらえようとしてもそれは難しいことである。

(大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年、pp. 14-17)