2010-02-04

八の字形の「は」を「ハ」と翻刻することについて。

なんだそりゃ、と思うかもしれませんが……。

仮名が現在の一音一字に整理されるより以前は、ひらがなにはひとつの音価に対して異なる漢字に由来する複数の仮名があった。「尓」に由来する「に」とか「者」に由来する「は」(蕎麦屋の暖簾でよく見られるやつ)など。こんにちそれらは変体仮名と呼ばれている。

そういう変体仮名のなかに、「八」に由来する「は」がある。カタカナの「ハ」と同じ形なんだけど、仮名文字の文章中に普通に使われてるんだからひらがなだ。現在の仮名の中にも、「り」と「リ」、「へ」と「ヘ」のように、ひらがなとカタカナとで同じ見かけをしているものがある。「八」に由来する「は」もそういうもののひとつということになる。

ところが、展示会なんかの解説パネルや、ものの本では、この「は」を「ハ」の字形で活字にしているのをよく見かける。これってどうなの?

現代の読者のために翻刻しているのなら、これは「は」で起こすべきだと思うのだ。変体仮名もそのまま起こすのなら、「尓」に由来する「に」や「者」に由来する「は」もそうすべきで、「は」だけ特別扱いする理由はない(あるのか?)。たまたま「ハ」の活字がカタカナにあったから入れただけなのだろうか。しかしそれで誰が得するというのか。展示会などでこれを目にした人たちは普通「ハ」はカタカナだと思うから、「どうしてこの書の『は』はカタカナで書いてあるのかな?」などの余計な疑問を抱かせるだけだと思うんだけど。

女「どうしてこの本の『は』はカタカナで書いてあるの?」
男「それはね、昔の『は』にはカタカナの『ハ』と同じ形のひらがなもあったからなんだ」
女「まあすてき、ユウ君ったら、なんでも知っているのね」
とか、デートで使えるようにそうしてるのだろうか。

つまりその、なんか自己満足っぽくない?

現代のようにコンピュータで扱うようになると、これは検索などの都合からしてもなおよろしくない。文字コード U+30CF(ハ)は「KATAKANA LETTER HA」という「意味」を担っているからだ。同じようなことは、「ミ」の字形の「み」なんかについてもいえる。

2010-02-01

待ち合わせで数年ぶりに高田馬場の芳林堂書店に入ったところ、「日本語学」という雑誌(明治書院)が「源氏物語のことば」という特集を組んでたのを見つけてつい買ってしまった。源氏読み終わるまでは「源氏についての本」はあんまり読まないことにしてるんだけど、『古代日本語文法』の小田勝センセイの名前もあったので、たまにはと。源氏本文に疲れたときにでも読もう。

えーと、今日は、これだけ。日記だ(笑)。

2010-01-28

源氏物語の初巻桐壺は、主人公光源氏の母桐壺の更衣の寵愛の話より始めて、源氏の出生、周囲の嫉視による桐壺の苦難、桐壺の死、桐壺の母の嘆き、帝の悲嘆、源氏の幼年時代、桐壺に酷似せる藤壺の更衣の入内、藤壺と源氏との関係、源氏十二歳の元服、同時に源氏と葵上との結婚、などを物語っている。しかるにそれを受けた第二巻帚木の初めはこうである。

光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎おほかなるに、いとどかかる好色事《すきごと》どもを、世の末にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍び給ひける隠ろへ事をさへ、語り伝へけむ人の物言ひさがなさよ。さるはいといたく世を憚かり、まめだち給ひけるほどに、なよひかにをかしき事はなくて、交野の少将には笑はれ給ひけむかし。

この個所はどう解すべきであるか。「光る源氏、光る源氏と評判のみはことごとしいが、たださえ欠点が多いのに内緒事までも言い伝えた世間はまことに口が悪い」と解すべきであろうか。もしそうであれば口の悪い世間の言い伝えはその「評判」のうちにははいらず、従って世間の評判のほかに別にことごとしい評判がなくてはならぬ。「評判のみはことごとしいが、世間には口の悪い評判がある」とはまことに解しにくい解釈である。それでは「名のみ」を文字通りに光源氏という名の意味に解して、「光源氏という名は光るなどという言葉のためにいかにもことごとしいが、それは名のみで、実は言い消されるようなことが多いのに、なおその上内緒事まで伝えた世間は口が悪い」と解すべきであるか。そうすれば前の解のような不可解な点はなくなるが、その代わり「さるは」とうけた次の文章との連絡が取れなくなる。なぜなら右のように口の悪い世間の評判を是認したとすれば、次の文章で源氏をたわれた好色人でないとする弁護と矛盾するからである。で、自分は次のごとく解する。「光源氏、光源氏と、(好色の人として)評判のみはことごとしく、世人に非難される罪《とが》が多い。のみならずこのような好色事を世間の噂にされたくないときわめて隠密に行なった情事をさえ人は語り伝えている。世間はまことに口が悪い。しかしそれは名のみである、濡れ衣である。というのは、源氏は世人の非難を恐れて恋をまじめに考えたために、仇めいた遊蕩的なことはなく、交野の少将のような好色の達人には笑われたろうと思われる人だからである。」――自分はかく解する。が、この解釈いかんにかかわらず、この書き出しは、果たして第一巻を受けるものとしてふさわしいであろうか。

我々は第一巻の物語によって、桐壺の更衣より生まれた皇子が親王とせられずして臣下の列に入れられたことを、すなわち「源氏」とせられたことを、知っている。またこの皇子がその「美しさ」のゆえに「光君」と呼ばれたことも知っている。しかし物言いさがなき世間の口に好色の人として名高い「光源氏」については、まだ何事も聞かぬ。幼うして母を失った源氏は、母に酷似せる継母藤壺を慕った。しかしまだ恋の関係にははいらない。我々の知るところでは、光君はいかなる意味でも好色の人ではない。しかも突如として有名な好色人《すきびと》光源氏の名が掲げられるのは何ゆえであろうか。

和辻哲郎「源氏物語について」「和辻哲郎全集第四巻所収『日本精神史研究』」、岩波書店、pp. 130-131(強調部は原文傍点。)

2010-01-25

コメントで訊かれたからってわけじゃないんだけど、三省堂の『例解古語辞典』第三版を買ってしまった(ポケット版)。三冊目だ……(電子版も数えれば四つ目)。特徴は端的にいうと「小松英雄氏の辞典」ってとこか。もうずっと改訂されてなくて、『丁寧に読む古典』で編著者自らが「改訂作業が中断されたまま」と言っているけど、やっぱり「全訳」じゃないと売れないのかね。しかし全訳なんてにぎやかしのシャミセンである。解説と用例とを充実してくれたほうがありがたい。

ところで、贅沢をいうと用例はふたつ以上挙がってたほうがうれしい。というのは、辞書で意味を調べて、それから用例を知ろうと思うと、そこにはまさに辞書を引くきっかけになった原文そのものが載っていたということが多いんだよね。どの辞典も用例が同じだった、ということも多い。意味を多角的に推測するには、同じ用法で違う例文があるのならそれを見ておきたい(孤例も多いだろうけど)。

さて買ったからにはどんどん引いていかなければ。まだ源氏物語は六割ちょっと残っている。

2010-01-21

長月の在明の月はありながら 続き

引き続き貫之の「長月の」の歌について。

新体系の脚注では、この歌について「『有明の月』は翌朝も残っているから、明日十月一日になっても残っているわけだが…の意」とし、「長月の有明の月は明朝もまだあり続けるけれども、秋ははかなく最後の今日を過ぎてしまうようであるよ」という歌意だとしている(しかし「ようであるよ」って、典型的な古文訳語文体だよね……)。小松英雄『丁寧に読む古典』でも「秋の最後の日に出た月が翌朝にも出ている状態だけれど、はかなくも秋は確実に過ぎ去りつつあるようだ、ということです」としている。晦日に月が見えてたっていいじゃない、という立場である。しかし暦のことを考えるとそれは信じがたいんだよな……。

ところで、2010年1月16日は、計算が正しければ宣明暦で12月1日にあたるのだが、これは朔の時刻が(計算値で)18:07分と、ぎりぎりで進朔が行われている(西日本では日食になる)。ということは、進朔がぎりぎりで行われなかったときの月の見え方(それが宣命暦で晦日に見えうる月の最大限である)に近いものが、その前日、15日の日の出・月の出で見られるはずだ。もし見えるのならね。遅い初日の出を拝みに行くかと真剣に考えた。そこで国立天文台のサイトで15日の東京の日の出・月の出を調べたところ、日の出6:50、月の出6:41であった。9分しか違わない。おそらく日の出と近すぎるので見えないだろう。歌詠む余裕なんかあるわけない。見に行くのはやめた。

(……と、思ったけど一応15日は早起きしてみた。けど都内じゃ日の出を見られるところなんかないね……。近所に陸橋があったのでそこで観察したけど、7:05頃になってようやく太陽が見えた。月は見えなかった。まあそういうこと。)

そもそも、有明の月とは夜に昇った月が朝になっても残っているのをいうのではなかったか。太陽がもう昇るというぎりぎりに昇ってきてすぐ見えなくなる月は「残っている」とはとてもいえない。

やはり晦日に月は見えないはずだ。

で、図書館でコピーしてきた新大系の当該ページを見ながら頭を抱える。後撰集の貫之の歌には、次のように躬恒の歌が続き、それをもって秋下の巻は終わっている。

 九月のつごもりに つらゆき

長月の在明の月はありながらはかなく秋は過ぎぬべら也

 同じつごもりに みつね

いづ方に夜はなりぬらんおぼつかな明けぬ限りは秋ぞと思はん

躬恒の歌を見てふと思った。この配置からすれば、そしてこれが「秋の歌」であることを考えれば、貫之の歌の「在明の月」は晦日の夜から朔日の朝にかけての月のことを指しているのではない、と考えられないだろうか。というのは、「明けぬ限りは秋ぞと思はん」という、秋への未練を精一杯歌った歌で締めているのだから、その前の歌で十月朔日の朝になっても残る月(前述のようにそんな月はどうもなさそうなのだが)のことを詠んでいたのでは、ちょっとだらしなくなってしまう気がするのだ。時間的に前後してしまっているじゃないか。

「あり」には、「存在する」という意味のほかに、「ぬきんでている」「すぐれている」という意味もある(岩波古語辞典)。九月の有明の月を愛でることについては、「白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも(万・2229)」という歌がある。ちょっと解釈が過ぎるかもしれないが、「九月の有明の月はすばらしいものだ、だが秋は永遠ではない、そのすばらしさにもかかわらず無情にも過ぎ去っていくものなのだ」――こういうことなのではないか。もしそういう歌意なら、躬恒の歌とあわせて配置的・展開的にもぴったりだし、晦日の有明の月という怪しい存在を仮定しなくてもすむ。

これですっかり腑に落ちたというわけではないんだけど、今のところはそう考えて自分を納得させることにする。いずれにせよ、晦日に有明の月が出てたという解釈に戻ることはないと思う。