2009年10月31日土曜日

和歌は、限られた世界で共有され、その中で研ぎ澄まされた文化です。たとえ自然を詠んでいても、人間の心情を詠んでいても、和歌に詠まれる限りは、自然そのものでも、ありのままの心情でもありません。荒ぶる自然は箱庭化し、人間にとって理解できる文化へと変質させたうえで、初めて和歌の素材となりうるのです。和歌に詠まれた自然が、実は人工的な箱庭であったり、絵画であったりすることは、よくあることです。また、歌枕という名所を歌に詠む行為も同様です。富士山は煙が立っているものとして詠むものであり、逢坂は恋人が会うイメージでとらえるもの、というように、土地の「本意」(もっとも価値ある姿)が最優先して詠まれるのです。自然の実際の姿は、さほど問題ではありません。これは、写実主義とは相反する姿勢と言えるでしょう。人は自然をありのままに理解するのではなく、和歌によって文化へと変質させてから、初めて理解していたのです。つまり、和歌は、日本人が自然や人間の心情を理解し、解釈するための装置でもあったのです。

谷知子『和歌文学の基礎知識』角川選書、2006年、pp. 11-12

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