2009-05-11

寛和元年(九八五)二月十三日、円融院が子の日の遊び(正月のはじめの子の日に、野に出て小松を引き若菜を摘んで長寿を祝う宴遊)をされた時のこと、紫野《むらさきの》にお出かけになった院は、大中臣能宣・源兼盛・清原元輔・源玆之《しげゆき》・紀時文《ときふん》というような、当時の主な歌人を、かねてお召しになっていましたので、それらの歌人たちはみな衣冠を正し、正装して参会していました。

院の近くには公卿の座が設けられ、その次に、殿上人の座が設けられ、その末の方に、幕にそって横の方に、歌人たちの座が設けられています。院が座におつきになり、公卿、殿上人、歌人たちも座につきましたが、そこへ、烏帽子をつけ、狩衣袴姿という、当時の公卿の服装としては普段着のみすぼらしい格好で現れ、歌人の座の末に着いたものがいます。人びとが、何者が来たのかと思って見ると、曽禰好忠です。殿上人たちが、「おまえは曽丹《そたん》ではないか、どうして来たのか」と、そっと尋ねます。

「曽丹」というのは、曽禰好忠は丹後掾《たんごのじょう》という官についていましたところから、「曽禰」の「曽」と「丹後掾」の「丹」とをとって呼ばれていたものです。初めは「曽丹後掾」と号されていたのですが、その後、「曽丹後」と呼ばれるようになり、さらに略されて「曽丹」といわれるようになったので、好忠自身、いつ「そた」と呼ばれるようになるであろうかといって嘆いたと伝えられています。

(安田章生《あやお》『王朝の歌人たち』NHKブックス、1975年、pp. 94-95)

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