2009年4月9日木曜日

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし

落窪物語は、枕草子にもその名が見えている。

雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)

拙訳。

雨は風情のないものとの思い込みがあるからだろうか、少し降るだけでも嫌なものである。高貴なこと、明媚なこと、尊くめでたいことも、雨が降ってしまえばそれだけで台無しになってしまう。男が文句を言いながら濡れてやって来るところがいいなどと、どうしていうのであろうか。

交野の少将を非難していた落窪の少将などはまあ例外である。とはいえ、それも前夜、前々夜があってのことで、足を洗ったりなどしてひどいものである。不潔だ。

雨の日に濡れながら男がやってくるのがいいというのは、「身を知る雨」といって、雨が降ると男がめんどくさくなって女のもとに来なくなる。それで「ああ、その程度の愛情だったのか」と女が「身の程を知る」という、そういう当時の通念みたいなものがあった。そこから来ている。雨にも負けず男が来るのというのが、当時の(一部の)女性たちにとっての憧れのワンシーンみたいになっていたのだろう。そういう阿呆な幻想に対して異を唱えているわけである。落窪の少将(男君)は雨の夜に女君のもとに通ってきたが、それは三夜続けて通って結婚が成立する、その大事な三夜目だったからいいのだと。

参考歌。

かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(古今和歌集、恋 4)

『蜻蛉日記』に、作者道綱母とその夫兼家との切れそうで切れない関係を表す鍵として、この身を知る雨というのがたびたび出てきたように思う。あとで見つけたらここに載せよう。道綱母は兼家に見捨てられたと思って悲しんだり怒ったりするのだが、兼家が嵐の日とかに突然やってくると、(それが兼家のご機嫌取りの作戦だとわかっていながら、)なんだかんだいって内心嬉しくて浮かれたりするのである。人間ってバカだよね。

「足洗ひたる云々」の話はまた後日。

2009年4月12日追記。なんかむちゃくちゃな展開の文章になっていたので修正。

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