2010-01-18

長月の在明の月はありながら

前回の続き。

宣明暦をその通りに運用している限り、晦日の晩や朔日の明け方に月が見えることはないように思われる。

しかしそうなると、『丁寧に読む古典』にも挙げられている、後撰集にある「九月のつごもりに」詠んだという貫之の歌「長月の在明《ありあけ》の月はありながらはかなく秋は過ぎぬべら也」は解釈しづらい。九月晦日の未明(正確には十月朔日の明け方)に月が見えていたのか?

気になったのは、宣明暦計算の基準である長安(東経108度)と京都(東経135度)の時差(約1時間50分)だが、二時間弱の時差が月の見える見えないに影響するだろうか。また、仮に見えたとして、あっという間に見えなくなる細い月を、「有明の月」などと呼べるだろうか。二時間弱の時差は、進朔限がその分切り下げられていることに相当するわけだから、これは長安よりも晦日未明の月は残る可能性が高いことにはなるはずなんだけど、このへんは自信がない。

それとも、その場に月が出ていたのでこの歌を詠んだという前提がやはり間違っているのだろうか。

(続く。)

2010-01-14

月を隠す

眠れないので適当に本を取ってめくっていたら『丁寧に読む古典』にこんなことが書いてあるのを見つけた。

太陰暦(陰暦)は、本来、月球(歴月(ママ)と区別するために中国語から借用しました)の盈《み》ち虧《か》けに基づいています。しかし、盈ち虧けの周期は 29.53 日、十二回で 354.36 日ですから、毎年、十一日ほど足りなくなるので、ほぼ三年に一度、閏月を設けて調整されていました。四月のあとなら閏四月を挿入して、その年は十三ヶ月になります。したがって、歴月の日付と月球の満ち欠け(ママ)との間にかなりのズレが生じるのはふつうのことでしたが、月球が隠るはずのツキゴモリの日に月球が見えるのは不都合なので、歴月の末日を指す語として、*ツキゴモリの[キ]を脱落させて月球のイメージを消したツゴモリが形成されました。

新月が姿を見せるときが*ツキタチ(月立ち)ですが、右と同じように、歴月の初日がその日にあたるとは限りません。というよりも、ズレルのがふつうだったので、このほうはツキの[キ]を[イ]に変えて月球のイメージを消し、ツイタチが形成されました。

小松英雄『丁寧に読む古典』、笠間書院、2008年、pp. 42-43

買って読んだ当時は「ふーん」と読み流していたが、宣明暦について調べた今の自分には、ここはたいへんあやしく思われる。

この説明は、月球(この言葉はたしかに便利なので使わせてもらう)の運行周期と太陽の運行周期とに生じるずれを、暦月(引用には「歴月」とあるが、意味からすれば「暦月」だろう)の日付と月齢とに生じるずれと混同している。そして、暦月の日付と月齢は、太陰太陽暦ではずれないのだ。今年は元日が日本で有史以来はじめて満月になった年だという話がニュースにあったが、じつはこれは明治の太陽暦採用以来ということで、太陰太陽暦が用いられていたそれ以前ではそもそも月の第一日はつねに必ず新月だったからである。

さて、厳密に考えれば、月球の満ち欠けの周期(朔望月という)は一昼夜の長さのきっちり整数倍にはならないので、朔の時刻がその日の夕刻以降になってしまい、晦日となる前日の未明から早朝にかけて月が昇ってきたまま夜が明けるということは起こりうる。ところが、宣明暦では晦日に月が見えるのを避けるために、そういうときには「進朔」といって、わざわざ月の第一日を一日先に延ばしてしまうという処理を施していた(内田正男『日本暦日原典』第四版、雄山閣出版、1992年、p. 497)。そうするとどうなるかというと、その日の夜に朔が起こるわけだから、当然その晩は月は見えない。だからこの晩を「月隠り」としたほうが人間の感覚からすれば自然だというわけである。

つまり、現実には、ツゴモリが「月隠り」ツイタチが「月立ち」であることに当時の人々はきわめて意識的であったし、たとえ形式上のことであっても(進朔の処理は暦の計算上は行なわなくてもなんの問題もなく、むしろ計算の手間がひとつ増えているだけである*1)、その原則が崩れそうなときには暦に修正を加えてまで月が見えなくなる日を晦日にしていたのである。

だからツイタチやツゴモリの音変化が、「ツキ」という語の存在感を意図的に消すためであったという説は受け容れがたい。

そう思ってこれを書き、ますます目がさえてしまった。

*1
しいていえば、進朔は、午前零時を区切りとする暦学上の一日と、日の出を区切りとする生活上の一日との感覚のずれを解消させるための処理といえる。

2010-01-07

係助詞ナムについて

あけましておめでとう。昨年末書いたように、もうしばらく古文の話を続けたくなむ。

『古代日本語文法』によれば、係助詞ゾ・ナム・コソを用いた表現での意味の違いについてはまだはっきりしたことはわかっていないという(「『ぞ・なむ・こそ』の表現価値」、p. 187)。しかし、古文をある程度以上読んでくると、やはりそれぞれがそれぞれなりに「適切な」箇所で使われているという感覚を誰もが抱くようになるのではないだろうか。それは現代日本語で、たとえその人自身が使用基準を理論立てて説明できない場合でも、ハやガの使い分けを間違えることがないのと同様の言語感覚だ。

だから難しいのはその使われ方をどう説明するか、ということなのだが……。

たとえばナムについて(枕草子や源氏物語だと「ナン」のほうが多いような感じなんだけど、辞書では「ナム」の形で載ってるのでそれに倣うことにする)。これも古文を読んでいる人なら「ここで使うのは自然だ」「ここにあったら変な感じがする」という感覚までは身につくと思う。ところが、感覚を身につけるところまではいきながら、古語辞典を開けばその意味についてはおそろしく頼りないことしか書いていない。

たとえば、旺文社の『全訳古語辞典』ではこんなふうである。

**なむ ナン

(係助)〔「なん」とも表記される〕まさにそれであると強調する意を表す。

  1. 主語・目的語・連用修飾語・接続語などに付く。 〔竹取〕竜の頚の玉「竜(たつ)の頚(くび)の玉をえ取らざりしかばなむ殿へもえ参らざりし」[訳]竜の首の玉を手に入れられなかったそのことでお邸(やしき)へも参上できなかったのだ。[文法]「え取らざりしか」「え参らざりし」の「え」は副詞で、下に打消の語(ここでは「ざり」)を伴って不可能の意を表す。 〔伊勢〕2「その人かたちよりは心なむまさりたりける」[訳]その人は顔かたちよりはとりわけ心がすぐれていたのだった。 〔伊勢〕9「橋を八つ渡せるによりてなむ八橋(やつはし)と言ひける」[訳]橋を八つ渡してあることでそれで八橋というのであった。
  2. 文の結びの「ある」「言ふ」「侍る」などを省略した形で余情を表す。 〔源氏〕蜻蛉「わたくしの御志も、なかなか深さまさりてなむ〔侍る〕」[訳]私(=時方)個人としての(浮舟(うきふね)の侍女であるあなた方へ)お寄せする気持ちも、(浮舟の死後)かえって深さがましておりまして。 〔源氏〕桐壺「かかる御使ひの、よもぎふの露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ〔侍る〕」[訳]このような(おそれ多い桐壺帝の)ご使者が、雑草の生い茂った所の露をわけておいでくださるにつけても、たいそう気がひけまして。
  3. 「なむ」を受けて結びになるはずの用言に接続助詞が付いて、さらに次に続く。 〔土佐〕「年ごろよく比べつる人々なむ別れがたく思ひて」[訳] この数年来たいそう親しくつきあってきた人々は特別に別れがたく思って。 〔大和〕3「…となむいへりけるを、その返しもせで年こえにけり」[訳]…とだけ言ったのを、その返歌もしないで年が改まってしまった。

[接続]体言、活用語の連体形、副詞、助詞に付く。連用修飾語と被修飾語との間で用いるときは連用形に付く。

[参考]上代には「なむ」に相当する語として「なも」があった。(1) は「ぞ」「や」「か」と同じように、文中に用いられると、文が活用する語で終わるときには、連体形になる。係り結びの法則である。「なむ」は「…だよ」と相手に念を押す気持ちを含んでいるので、会話文に用いられることが多い。引用句の中には使われるが、和歌にはほとんど使われない。「ぞ」とはこのような点で相違がある。

旺文社 全訳古語辞典第三版

「まさにそれであると強調する意を表す」「余情を表す」「相手に念を押す気持ちを含んでいる」とな。だがこれでは係助詞ゾ・コソや終助詞カシとの違いが不明である。もし同じ意味ならば、交換可能だということになる。交換可能なのか? と聞かれれば、古文をやっている人はふつう可能じゃないと答えるだろう。交換可能だ、と言う人がいたら……えーと、以下に述べることにとくに意味はないと思うので、その、ご縁がなかったということで、以下は読まなくて結構です。

交換可能でないとすると、ナム固有の表現価値とはなんなのか。

大野晋は『係り結びの研究』において、平安時代のナムについて「私は以前、ナムを『侍り』にほぼ相当すると解説したことがあった」と書いている (p. 225)。しかし、「……になむ侍る」という表現が存在する以上、「侍り」そのものと見なすことはできないとも自ら述べている (p. 227)。しかし結局、同書ではナムは丁寧語が持つような「礼儀のわきまえ」を表明するということで落着している (p. 241)。ナムについて論じたこの節は、全編通じて明晰な同書の中で正直唯一歯切れの悪い箇所になっていると思う。

ナムは敬語表現なのだろうか。敬語だとするとうまく説明できない用例がいくつかある。たとえば『枕草子』の最終段、中宮定子が藤原伊周より草紙を贈られて清少納言に「これに何を書いたものだろうか」と相談する、そこで中宮が言った言葉。

宮の御前に、内の大臣のたてまつり給へりけるを、「これになにを書かまし。上の御前には、史記といふ書をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、……

池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 348

中宮は女房の清少納言になんの遠慮もかしこまりも必要ないはずだ。あるいはこれは帝に対する敬意を示すのか。それは帝に対する「せ給へる」という最高敬語表現で果たされている。主従ながら丁々発止のやりとりで才気を見せつけあうような定子と清少納言の間柄で、ここだけ「礼儀のわきまえ」を含む表現を使うというのはそぐわない気がする。

もうひとつ。『係り結びの研究』にも挙げられている例だけど、『源氏物語』から。紫上が明石の姫君の入内について、姫君の母である明石上も同行させてあげてはどうかと源氏に進言する。源氏はなるほどと思いそれを明石上に伝える。

「此折に添へたてまつり給へ。まだいとあえかなるほどもうしろめたきに、さぶらふ人とても、若々しきのみこそ多かれ。御乳母たちなども、見およぶことの、心いたる限りあるを、みづからはえつとしもさぶらはざらむほど、うしろやすかるべく」と聞こえ給へば、いとよくおぼし寄る哉、とおぼして、「さなん」と、あなたにも語らひの給ひければ、いみじくうれしく、思ふことかなひ侍る心ちして、人の装束、何かのことも、やむごとなき御ありさまにおとるまじくいそぎ立つ。

「藤裏葉」新日本古典文学大系『源氏物語 三』、p. 189

これも、源氏は明石上に遠慮する立場にはない。ナムは多く女房や使者が貴人に何らかの申し伝えをする文脈で使われるので、たいていの場合は「礼儀のわきまえ」と解釈して矛盾は生じないが、それでもこのような例があることは無視できない。

  • 「これになにを書かまし。上の御前には、史記といふ書をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、
  • 「さなん」と、あなたにも語らひの給ひければ、
  • 渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、(伊勢・9)
  • 袂より離れて玉をつつまめや これなんそれとうつせ 見むかし(古今・425)
  • そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を「ふじの山」とは名づけける。(竹取)

こうした例をまんべんなく説明できる解釈が必要なのだが、それはどういったものになるのか。平安時代の古文をいくらか読んできて、僕はナムについては今のところ次のように考えるといいんじゃないかと思っている。それは、

  • 話者にとって自明で聞き手にとって自明でない事柄について述べる際に自然と表れる表現。

という説明だ。「自明」というのはちょっと堅苦しいので「話者は知っているが聞き手は知らないことを述べるときに使われる」と言ってもいいのだけど、知っての通り話者の心理について述べる際に使われることも多いので、自分の心理を「知っている」というのはなんか違和感があってこのようにしている。「話者にとって既知(旧情報)で聞き手にとって未知(新情報)」と言ってもいいかな。

この説明を思いついてから、ナムの使われている文に出会ったらそれが当てはまるか何度か試してみてるんだけど、今のところうまく当てはまっていると感じている。

すでに述べたように、ナムは貴人に対する伝言など下→上という流れの情報伝達の際に使われているので、そこに敬語意識に近いものが含まれているようにも一見思われるのだが、これは、貴人は人を介して外部の情報を得るので、外部で得た情報を貴人に伝えるというシチュエーションがしょっちゅう発生しているということから来ているのではないか。そこでは、従者は自分が得た、そして貴人がまだ知らない情報を、貴人の前で述べる。「となむ」という連語が多く出てくるのはそういう事情によると考えられる。

ナムが敬語や丁寧語ではなく、上記定義のような性質の語であるとするなら、先に引いた枕草子や源氏物語の例も問題なく説明できる。

定子はもらった紙の話を清少納言にする。その時に、自分が知っている情報を参考として付け加える。帝がその草紙に『史記』を書いたということは、定子は知っていて、清少納言はまだ聞いていないことである。だからナムが使われた。

紫上の意見を源氏が明石上に伝える。源氏はすでに紫上の意見を聞いている、明石上はまだ聞いてない。だからナムが使われた。

「あの鳥はなんですか」と問われた渡守は、自分の知っている情報を、問うた人々に提供する。「これなむ都鳥」と。当然ナムが使われる。

語り手は、物語の最後に「富士の山の名はこのようなところから来ているのですよ」と聞き手に由来を明らかにする。語り手の持つ情報を、聞き手に提供することから、ナムが使われた。「……なむ……ける」という表現が多いことは『係り結びの研究』にも指摘されているが、その理由も、物語の「語り手が聞き手に述べる」という性質上自然なものと考えられる。

ナムが話者の気持ちを述べるときに表れるのは、自分の気持ちは話者にとってはむろん自明のことで、それを聞き手に知らせることからくるのだと考えられる。

ナムは歌には用いられないことが知られているが、これも上記の説明だと当然のことになる。なぜなら、歌とはその定義からして「心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだ」したものだからである。そういう前提であることがわかりきっているので、わざわざナムを使う必要が無いのだ。上記の古今の例は歌にナムがある珍しい例だが、これは引用だし、じつはひとつ前の歌の返歌である。前の詩で詠われている「浪の玉」を持ってきて見せてくれ、と歌っているのである。だから「浪の玉」を見せるとき、前の歌の詠者は「これなむそれ」と言うだろうというわけである。

ちょっと理論武装して長くなってしまった。

平安時代に使われている用例に限っていえば、だいたいこの説明でいいんじゃないかと思ってるのですが、どうでしょう。上代の使われ方や宣命での用例については検討してないし、あるいは平安時代になってここでいう形に変化した、その原型の意味があるのかもしれないけれど。

なにはともあれ、今年もこんな感じで自由にやっていくのでよろしくね。

2009-12-28

ロスタイム

今年ももう終わる。年の初めに「一年間」と書いたけど、まだいくつか書いておきたいこともあるし、もう少し続けることにします。夏場や師走の今の時期のように、いろいろな理由でぜんぜん書けない期間もあって、なかなか思った通りにはいかないね。仮に週二回のペースでずっと続けられていたら、今ごろは100回を数えていたはず(もちろんそんなペースが守れるとははじめから思ってなかったけど)。なので、とりあえず100回分になるまではなにか書こうと思います。あいかわらず、ここがわからん、あれがわからん、みたいな与太話だと思うけど。

しかし古文を読むようになって二年くらいたつけど、ちょっとは読めるようになってるのかね。正月休みでどこまで読めるか。まあそれはさておき、みなさんよいお年を。

2009-12-16

『ちんちん千鳥の鳴く声は』

忙しかった。源氏物語もなかなか進まない。いまは「少女」を読んでるんだけど、読み始めてから二か月近くたつのにまだ半分くらいだ。まあまたちょっとずつ進み出したので、そのうち読み終わることであろう。途中『戦争と平和』並行して読んでたりしたし。

山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は』(講談社学術文庫)という本について。最初に単行本が出たときにも話題になった本だそうだけど。鳥の鳴き声を昔の日本人はどう聞いてきたか、ひとつには擬音語として、もうひとつにはいわゆる「聞きなし」として、どう文字に写してきたかということについての研究。

僕は鳥が好きなので、そういう自然科学的なおもしろさと、言葉の研究としてのおもしろさとが相まって、なおさら楽しめた。

平安時代にすでに、ホトトギスは「死出《しで》の田長《たをさ》」という異名を持っていた。冥途の農夫のかしらで、死出の山を越えてやってきて農事を励ます鳥と信じられていたらしい。「死出の田長」という異名は、時にはホトトギスの鳴き声とも考えられたようで、『古今和歌集』にこんな歌がある。

いくばくの 田を作ればか ほととぎす 死出の田長を あさなあさな呼ぶ
(=ホトトギスは、いったいどのくらいの田を作っているからというのだろうか、「シデノタオサ」と毎朝叫んでいるよ)

「死出の田長」が、ホトトギスの鳴き声とも考えられている。  ホトトギスは、冥途からの使者だから、あの世にいる人のことも尋ねればわかるはずだ。平安時代の人は、こうも詠む。

死出の山 越えて来つらん ほととぎす 恋しき人の 上語らなん
(『拾遺和歌集』哀傷)

「死出の山を越えてきたに違いないホトトギスよ、あの恋しい人のことを語ってほしい」。毎年、夏になるとどこからともなくやって来て、激しく鳴くホトトギスは、冥途からの使者と感じられたのであろう。

(山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は 日本語の歴史鳥声編』講談社学術文庫、p. 84)

田植えの歌とホトトギスというのは、前に枕草子の話で書いたことがあるが、それにはこういう背景がある、と。平安時代の例としてもうひとつ。フクロウについて。

『源氏物語』でも、フクロウの声は、不気味な「から声」をあげる鳥として登場している。

夜半《よなか》も過ぎにけんかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、梟はこれにやとおぼゆ。(「夕顔」)

光源氏が、青春の情熱をかたむけて愛した女性は、夕顔。その夕顔が、物怪にとりつかれて、はかなく死んでしまった。光源氏は、今、その女の屍体を前に呆然としている。時刻は、夜半すぎ。あたりには、風が荒々しく吹き、鬱蒼と茂る木々がさけび、異様な鳥がしゃがれ声で鳴く。どうやら、それは、フクロウの声らしい。

フクロウは、「気色ある鳥(=ひとくせある怪しげな鳥)」であり、「から声」で鳴いている。

「から声」とは? 「老人のような低く濁ったしゃがれ声」のこと。「枯声《からごゑ》」「嗄声《からごゑ》」と書く。「うつろな声」とする説もあるが、うつろなことを意味する「空《から》」ということばは、この時代にはまだ存在していない。

(同書、p. 165)

個人的にとくに面白かったのは、平安時代ではないんだけど、ヌエ(鵺、トラツグミ)がなぜ怪物の名前になったのかというくだりと、ウトウヤスカタというへんてこな名前の鳥についてのところ。鳥や鳥が出てくる古い本の写真がたくさんあるのもよい。

ところで、僕は前までスズメというのは鳴き声が鈴みたいだからそういうのかなあ、となんとなく勝手に思い込んでいたんだけど、そうではなかった。この本にも控えめに触れられているが、大野晋と丸谷才一の対談に「雀はチュンチュンだからスズメでね」とあって(『日本語で一番大事なもの』中公文庫、p. 16)、これも鳴き声からきていたのであった。上代にはサ行の音は /ch/ に近い音だったから(森博達『日本書紀の謎を解く』中公新書など)そうなるのだろう。