2013-07-17

音節とモーラ

僕がいつも読んでいるブログのひとつに、イジハピ!があって、中の人の深沢さんは技術系だけどよく日本語についての記事も書かれています。こないだの記事「リニューアルかリニューワルか」にコメントをしたのだけれど、そのやりとりでちょっと面白い話になってきたと思ったのでそこから思いついたお話をひとつ。もはや古文の話ですらないけど、日本語史に関わることではあるので一年ぶりにここで。もとの記事の本題だった表記の話とはぜんぜん関係ないのでコメント欄では気が引けるしね。いずれ書いておきたいことではあったんだ。といっても目新しいことではなくて、僕が読んできたなかでわかったことのまとめでしかないけれど。

深沢さんは「コピー」「シュガー」は2音、「タイマー」は3音とお書きになるのだけど、これは日本人ではちょっと珍しいタイプじゃないかな。単語を何音と数えるときには、「コピー」「シュガー」は3音、「タイマー」は4音だと言う人のほうがまだ一般的じゃないかと思う(調査したわけではないので推測だけど。なぜそう推測するかは以下に)。

じゃあこの「何音」というのはいったい何を数えているのか。

僕の挙げた後者の数えかたは、短歌や俳句で文字を消費していくときの数えかたで、交通安全標語などを書かせれば、日本語話者は小学生でもこの数えかたで五七五の標語を作る。この区切り単位は国語学ではよく「音節」といわれるのだけれど、言語学では「モーラ(拍)」という。音節とモーラはとても近いので、日本語に関する本にはこれを区別せずに音節と書いているものも多いけれど、たいていの場合はそういうときに言及しているのはモーラのほうである。「山田(ヤ・マ・ダ)」「コピー(コ・ピ・ー)」「神戸(コ・ー・ベ)」「会社(カ・イ・シャ)」は3モーラ、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」「タイマー(タ・イ・マ・ー)」「東京(ト・ー・キョ・ー)」「関東(カ・ン・ト・ー)」は4モーラである。

モーラというのは、「詩や発話における長さの単位」をいう(窪園、1999)。つまり、それぞれのモーラに対してだいたい同じような時間を割り振って単語が発音されるということだ。日本語では、長音(伸ばす音)や撥音(はねる音)にもモーラが割り当てられているから、「広島(ヒロシマ)」と「東京(トウキョウ)」を手拍子を打ちながら同じリズム、同じ長さで発声することができる(これは英語話者には難しいらしい)。ふだんの発話だけでなく短歌や俳句も音をモーラで数えている。もっとも、モーラなんて言葉をを知らなくても(日本語話者は)日本語を話せるし短歌や俳句も作れるわけだから、これはもちろんそういう現象を観察した結果に学者さんがあとから名前を付けたものである。

これに対して、深沢さんの数えかた(?)が言語学でいうところの「音節」、英語でいうシラブルだ。音節というのは「母音を中心とする音のまとまり」(窪園、1999)である。音節では日本語の音声でいう長音や撥音は独立した単位とは数えない。「コ・ピー」「神戸(コー・ベ)」「東京(トー・キョー)」「関東(カン・トー)」は2音節、「山田(ヤ・マ・ダ)」は3音節、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」は4音節になる。それから二重母音もひとつに数える。「タイマー(タイ・マー)」「会社(カイ・シャ)」は2音節だ。

英語では、語の発音の区切りも、語の「長さ」も音節単位であるのに対して、日本語で単語の「長さ」と言えばモーラで計るのがふつうだ。

さて、そうなると「タイマー」を3音とする深沢さんの数えかたはじつは両者折衷なのだけど、二重母音は2つに独立してカウントする音節式、あるいは長音を数えないモーラ式といったところだろうか。深沢さんは翻訳をされているそうだから、日本語の音の区切り意識もちょっと音節ふうになってるのかもしれない(笑)。けれど長音を数えなければきちんと日本語で短歌を詠むことはできない。

そういえば、歌手の一青窈が俵万智に教わりながら短歌に挑戦する、『短歌の作り方、教えてください』(角川学芸出版、2010)という本があるのだけれど、ここで一青窈が小さい「ょ」や「ー」「っ」を一文字として数えるのか数えないのかよくわからないんです、といったようなことをしょっちゅう言うのでびっくりした。現代語はそこが怪しい段階にまで変わっちゃったのかあ……、と思ったのだけど、あとで聞いた話では彼女は幼少期は台湾で育ったのだそうで、それでモーラによる数えかたがぴんとこなかったのだね。

閑話休題。音節は、英語では発音を区切る単位であり、またアクセント位置を決める単位でもある(英語だけの話をしているかぎり、モーラという概念は不要だ)。じゃあ日本語は発音をモーラ単位で区切るから、アクセントの位置もモーラ単位かというと、じつはこれがそうとは断言できないのがややこしい。モーラ単位で考えて多くの場合は説明が付くのだけれど、日本語標準語ではそれだけでは上手く説明できない現象が残るという。煩を避けてくだくだしい説明は省くけれど、アクセントの高低の位置が決まる法則は、モーラだけでなく音節区切りにもとづいた位置が大事な役目を担っている。ここで挙げている説明や例はすべて『現代言語学入門2 日本語の音声』(窪園晴夫、1999)という本にもとづいているので、このへんについて詳しく知りたければ同書をご参照くださいな。

というわけで、現代の日本語標準語は、モーラを基準としつつも音節に従う部分もあるというダブスタな(笑)音声構造をしている。奈良時代よりもっと以前の原始的な日本語では、単語に二重母音や撥音などが存在しなかったと推測されることから、おそらくひじょうに古い日本語は、「母音(V)」または「子音+母音(CV)」の組み合わせのみからなる単語を用いる、モーラすなわち音節であるような言語だったのだろうということがいえる。それが、ある理由によって音節とモーラとの間にずれが生じた。その理由というのは、外来語(漢語)の流入と音便である。

ここから和歌の話へと続けようと思ってるのだけど長くなってしまった。続きはまた。

5 件のコメント:

  1. そういえば、ぼくもいぜん和歌を書いたら字の数え方がおかしいと俵万智さんからちょくせつ薫陶を受けたことがありますw
    https://twitter.com/query1000/status/332650651077201920

    コピーが3音、というのは日本語に音訳したあとの話ですね。

    元ブログでは「外来語を音訳するとき語尾を延ばすかどうか」という話題だったので、たしかに音節で話をしていました。
    というのは、コンピュータと書こうが、パラメタと書こうが、実際の会話においてはcomputer、parameterと言うと思うからです。
    まずカタカナ化し、長音も踏まえてモーラを数え、それを踏まえて語尾の長音を切るかどうか決める、という話ですね。
    了解です。

    ところで、サトウ・ハチローとか、キノ・トールとか、キダ・タローとか、60~70年代の文化人は名前を長音に音訳する人が多いですね。
    これ、当時のアンチ国粋主義というかリベラル思想と関係あると思うんですけどどうでしょうね。

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  2. ふかざわさん、こんにちは。

    そうか、訳す前の英単語の音節数で考えてたんですね。なんか噛み合わないと思ってました(笑)。そうそう、JISの表記の音数云々はカタカナにした後の話です。それに気づかず失礼しました!

    「実際の会話においてはcomputer、parameterと言う」かについては僕はちょっと……(笑)。翻訳業界だとそうなのかもしれない……帰国子女みたいな感じでしょうか。うーん。外来語として輸入したらそれはもう日本語ですよ。「コンピュータ」は「宣教師」と、「パラメタ」は「まな板」と同じような発声・アクセントで使われてませんか。

    それで思いましたが、末尾の長音を付けるか付けないかは、音節数的には変わらないのですが、モーラとしては1つコストが増えますよね。カタカナ語が多い技術系界隈だと、発話の「長さ」を短くしたいというコスト意識が長音抜き人気の秘密になってるのかもしれません。技術系の人は実際の発音でも最後の音を伸ばさずに「宣教師」「まな板」方式で発音してますよね(しない!?)。

    表記の話は、僕は一般向けには長音付けたほうが普及してるからそうしたほうがいいけど、技術業界はそれで流通してるからなしでいいんじゃないのーという感じですねえ。なにもしないでいいという。中庸はだいたいどっちからも叩かれますけど(笑)、専門家の集団に(技術者は専門職でしょう)それ特有の用語系ができちゃうのは、それはそういうもんなんじゃないですか、と。軟弱かな?

    それはさておき、「ハナエ・モリ」とかには外国で活躍する日本人として外国人の視点に仮託した意識があると思いますし、そういう人はまあリベラルだろうとは思いますが、サトウ・ハチローはどうなんだろう(笑)。だれでも読めるようにかもしれないし、ちょっとわかりませんね。60年代だと反体制するなら反国粋主義というよりは安保でむしろ反米でしょうし。戦後の国語改革で漢字がマジで廃止されるかもしれないくらいの雰囲気だったことが関係あるケースとかはあるかもしれませんが……。そもそも戦中までの時点でカタカナ表記において長音を音引きで書くことが外国語表記に特有のことであるというコンセンサスがあったかどうかから調べる必要があるような気がします。

    お読みいただきありがとうございます。なんか話がふたつに割れちゃって申し訳ないです。あと俵万智さんに添削してもらって羨ましいです!

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  3. 「コンピュータ」と書いていながら発音するときは伸ばしている、伸ばしていないについては水掛け論になるから避けます。私は外資系でローカライズを長くやっていたのですから、確かに偏っていますが、業界で支配的なM社でもI社でもS社でも「コンピュータ」と切る人を見たことがありません。

    「外来語として輸入したらそれはもう日本語」「技術書、通俗書は慣例で分けた表記をそれぞれ使う」
    というのは、言う人いるんですが、現実論に見えて、空想論だと思います。
    コンピューターという言葉を、computerという英語からきたものと知って、知りつつ、通俗書であるからコンピューター、技術書であるからコンピュータと、単一の言葉の2つの表記を管理し、いま書いている俺のこの文書は通俗書なのか技術書なのか?ということでいちいち悩めということですね。
    その無意味なコストが払いきれるとは到底思えないからです。

    今後あらゆる分野にIT技術はどんどん浸透していきますし、逆に学際的な研究、たとえば機械翻訳にソシュールが絡むとか、そういう人文系の人に「工業界では音引きの省略ということを行っていまして・・・これはラッパと書いていますがwrapperのことです」などといちいち説明するものでしょうか?

    日本のソフトウェア業界はアメリカの技術の輸入翻訳が半分以上を占めます。しかもその適用範囲はどんどん増えている。新しい概念や用語がどんどん生み出されているからです。そのすべてに通俗用の自然な表現と工業的な管理された表現を生み出すのは無理筋だと思います。

    また、今後知的生産に関わる人は、英語は避けて通れません。マニュアルやエラーメッセージは訳さないでいいよね、という風潮が増えていくと思います。

    あと、カタカナ語の表記は英語におもねって変わります。漱石の文章にスタビリチーという言葉が出てきますが、これはスタビリティですね。最近はウ点が復活していて、賛否両論ありますが、あればヴァイタルと言う言葉がヴィヴィッドという言葉と同じ語根で、バイナリーと言う言葉とは違う由来であると区別したい、という欲求からきたものだと思います。つまりカタカナ語は英語になりたがっていると思います。

    「カタカナ語に輸入した時点で」と言う人は、そのカタカナ語が固定し、流通し、受け継がれていくと思っているんでしょうか。一方ぼくは「カタカナ語なんて英語のアドホックな表記に過ぎないし、にしかなりえない」と思っています。

    ただ、ぼくは技術系専門書はローマ字書きのママでいいとも思っています。「interface宣言でインターフェイスを作ります」とかウザいです。あと、理工系は英語が公用語になるかもしれません。それを思えば、音引き省略の伝統を守るかどうかなんて議論は、洪水の日にこぼしたお茶を拭くような話かもしれませんw

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  4. あ、JIS の表記の基準でとかについては、それを世間一般の感覚に近い方向に改めようとかいう動きに反対するものではないです。どんどん議論してブラッシュアップしてくのがいいと思います(JISの表記自体も)。で、現状表記に揺れがあるときにいちいち考えるのとか、他業種に説明するの、というのはまあそうしていけばいいじゃないということでした。僕はなんか「表記を改革しよう」という発想に警戒心が強くて……。

    英語の技術文書の量と翻訳の限界というのは、本業の方の言うことですし、じっさい僕もそう思うから異論はありませんが以下のくだりは……

    > あと、カタカナ語の表記は英語におもねって変わります。漱石の文章にスタビリチーという言葉が出てきますが、これはスタビリティですね。最近はウ点が復活していて、賛否両論ありますが、あればヴァイタルと言う言葉がヴィヴィッドという言葉と同じ語根で、バイナリーと言う言葉とは違う由来であると区別したい、という欲求からきたものだと思います。つまりカタカナ語は英語になりたがっていると思います。
    >
    > 「カタカナ語に輸入した時点で」と言う人は、そのカタカナ語が固定し、流通し、受け継がれていくと思っているんでしょうか。一方ぼくは「カタカナ語なんて英語のアドホックな表記に過ぎないし、にしかなりえない」と思っています。

    いま人々はできるだけ英語の音に近くしたようなカタカナ表記を好んでいる、ということであればそれは仰るとおりだと思います。でもカナで書く以上日本語化してますよ。Personal computer が「パソコン」、smartphone が「スマホ」になる世界ですよ。モーラで区切られた、日本語の音世界じゃないですか。「パソコン」「スマホ」「リストラ」「スイーツ」は英語になりたがってますか? むしろ日本語になりたがっているように見えませんか。

    V音を「ヴ」で書いたり「ty」を「ティ」にしたりするのはよそ行きのお洒落みたいなもので、見かけの印象ほど日本語に影響を与えていないと思います。外国語のできる人がそこに万感の矜持を込める、ということはあるかもしれませんが。

    それでアドホック云々ですが、読み手からすると、書き手がわざわざ音を借りてカタカナで日本語の文章に持ち込んだ語なのだから、それがなにか覚えるに値するような新しい実体/概念を伴っているのではないかと期待をするのは自然なことではないでしょうか。書き手がそれで固定されることを予定してなくて、流通する必要があるとも思ってなくて、すぐ忘れられてもいいと思いながら英語をカタカナにして混ぜているのだとしたら、読み手はそんな語を含む文書をいったい何のために読んでいるんだということになりませんか。そこだけ僕はぴんときませんでした。

    お返事ありがとうございます。がっつり疑問をぶつけてくださるのでとても読み応えがあって、大変ですが嬉しいことです。長くならないように削ったので肝心のところに答えてないということになってたらごめんなさい。では。

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  5. はじめまして。
    短歌を嗜んでおりまして、上代日本語の研究もしているので、「シラビーム」でググって辿り着きました。
    『おそらくひじょうに古い日本語は』と書かれているのですが、古いほど複雑で、母音が8~9個あったり、促音・撥音・長音もあったし、拍の中での下降調・上昇調アクセントもあったし、子音+母音+子音(CVC)の音節も二重三重母音もあったんですよ。

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