2010年7月22日木曜日

「匂宮」「紅梅」「竹河」について

大野晋と丸谷才一の対談『光る源氏の物語』では、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖についてその文章の拙さと冗長さとを挙げて式部作ではないとし、「読者はこの三巻を飛ばすほうがいい」と言っている(中公文庫版下巻、p. 274)。僕は源氏物語を読むにあたって当初この対談を大まかな羅針盤としていたので、「幻」のあとにはまず「橋姫」へと進み、飛ばした三帖は宇治十帖を読みながら適当なタイミングで読んでいこうと考えていた。

「匂宮」「紅梅」「竹河」を飛ばして、いきなり「橋姫」から読み出してもストーリー上破綻はないというのは、おおむね間違ってはいない。しかし要所要所で言及される薫の体香についての記述は、どうも「匂宮」の記述を前提としていると考えたほうがいいように感じた。

薫は女三の宮と源氏(実は柏木)の子で、自分の出生に疑問を持ち、そのせいか厭世的な性格を持つ人物である。彼には、なぜかその体からえもいわれぬいい匂いがするのだという設定が「匂宮」にある。おとぎ話を卒業して現実的な人間模様を描くことに成功した源氏物語が、ここでなぜまたこんな SF 的な設定を持ってきたのかというのが昔から疑問視されていて、それが「匂宮」他者作者説の唱えられる一因ともなっていた。

しかし、宇治十帖の前半部には、薫の放つ香についての言及が要所要所に出てくる。そういう個所に出くわすと、思い込みを防ぐために、それらが「貴人としての一般的な描写として素晴らしい香を焚きしめているのだと述べているだけではないか」と警戒しつつ注意深く読むようにしていたのだが、やはりそれでは苦しいように思われた。

……宮は、いとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香のいと深くしみ給へるが、世の常の香《かう》の香《か》に入れたきしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしと咎め出で給て、いかなりしことぞとけしきとり給に、……

(「宿木」新日本古典文学大系『源氏物語(五)』、pp. 71-72)

薫の体香について、はっきりとそれが「薫きものの香」であるように記述された個所は見つからない。むしろ上記引用などは、やはり彼自身の体香という設定を前提としていると考えたほうが自然である。「匂宮」が後から書かれたというのであれば、こうした記述に生じうる微妙な齟齬まで書き換えたと考えなければならず、それはちょっとありそうにない。

そんなことを考えながら読んでいたら、武田宗俊の『源氏物語の研究』でははっきりと「匂宮」「紅梅」は式部作と断ぜられていてなんだか拍子抜けしてしまった。式部作でないと思いながら読むからそうという理由がなくてもなんとなく疑わしく思ってしまうのだが、いったん疑ってしまったものをやはり式部作と断言するのは難しい。しかし決定的な証拠がなければ式部作に帰するのが自然である。丸谷才一は思い込みで文が拙いと言ってしまったのだろうか。

「紅梅」についても、諸所にそれを前提とした記述が見られる。この巻が式部作でないと疑われたいちばんの理由は登場人物の官位が合わないという点なのだが、これは武田宗俊の同書の論文で解決してしまった。「紅梅」を「早蕨」の後、「宿木」の前に入れるとその問題は起らない。この説が正しいように思う。「宿木」には「紅梅」の内容を前提にした記述が見られるので、これもよっぽどの理由が出てこない限り式部作だろう。

文章が拙いというのはなかなか証拠として挙げにくい事実である。自分の読解力がないだけかもしれないし。「紅梅」の文章がごちゃごちゃしているというのは、そもそも書こうとしている事実(人物関係)がごちゃごちゃしているせいかもしれない。また、あんまり上手くないと思った巻が他になかったわけではない。僕は「鈴虫」の巻で、これは名文とは言い難いのではと思った記憶がある。

「竹河」については以前書いたとおり、これは直接的な剽窃を指摘されているので、式部作でないこと確実だろう。しかしにもかかわらず文章の出来不出来からこれを式部作でないと判定するのは難しいと思う。結局のところ、文の格調が高いか低いかは、著作者の判定にはあまり信用できないということなのかもしれない。

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