2009年8月10日月曜日

須磨源氏

やっと「須磨」を読み終えた。

須磨源氏などという言葉があるが、たしかにここで頓挫する人は多かろうと思った。

すま げんじ【須磨源氏】 源氏物語が長編であるため、須磨の巻(第十二帖)あたりで読むのをやめてしまうこと。また、そうした人をからかっていう語。(『大辞林』)

「須磨」の巻は、源氏が左遷され、巻名にある須磨の地に隠れるというところなのだが、その須磨へ下ったり、下ってどうしたということについては、ほとんど記述がない。圧倒的大部分を占めるのは須磨に行く前の源氏の挨拶回りと、須磨に着いた源氏の京の人々との手紙のやりとりなのだ。読者からすると、あちこちに挨拶に行っては「このたびは……」みたいなことを言い合うくだりが延々と続いて、源氏はいつまでたっても旅立たないという印象を受ける。やっと出かけたかと思うと、肝心の須磨の地については行平の故事や歌枕をちりばめた常套句が並ぶばかりで、描写としてさっぱり現実味がない。そしてその須磨の地で、源氏はせっせと京に「あはれ」な歌を書いて送るのである。ここでは須磨の地は具体的な場所ではなく、もはや「流された人のいるところ」という意味の記号でしかない。

ストーリー的にもここは動きが少ない巻で、同じくらいの分量で「葵」みたいなダイナミックな筋運びをする巻を読んでしまっていると、正直この巻は退屈だ。歌について考えるときにはいろいろ示唆的な巻だとは思うものの、お話を楽しむという現代的な読み方からするとちょっときついところだと思った。

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