2009年8月3日月曜日

古文を書く

前回引用した出雲路修著『古文表現法講義』という本は、これまで取り上げた種々の本とはすこし趣向が違っている。これは古文を読むことについての本ではなくて、書くことについての本なのだ。同書の冒頭から一部引用する。

物語を作ってみましょう。

物語というのは、《竹取物語》や《伊勢物語》や《大和物語》や《落窪物語》や《源氏物語》や《堤中納言物語》、といった、あのものがたりのことなんです。

「物語を作る」ということを、この講義は目指します。「平安時代の物語を作ってみよう」ということです。

(中略)

この講義で私たちがめざしているのは、平安時代の物語文化のなかに生きていた人々に「物語」として享受されうる言語表現を、実践することなんです。それをかんたんに「平安時代の物語を作ってみよう」と言っているわけです。平安時代日本語実習といったところです。

じっさい、始めてみればわかることなんですが、平安時代の物語めいたものを作るのは、そんなにむずかしいことじゃありません。古語辞典と簡単な文法書とがあれば、だれにでもすぐにできます。

いままでにこの講義と同じような内容の講義を何度かおこなってきました。そのときの試験の答案があります。力作ぞろいで、私はわくわくしながらよんだのですが、そのうちのいくつかを、今回の講義ではとりあげて、鑑賞し、添削めいたこともしてみたいと思っています。引用した答案は、ほぼ原文のままなんですが、かなづかいの誤り・活用の誤り・現代語の混用など、ケアレスミスと思われるものは、すでに訂正してあります。私自身もこういったミスがひじょうに多いので、ここを非難されたくない気持ちは十分に理解できます。ケアレスミスはまず除外して考えてゆきます。

(出雲路修『古文表現法講義』岩波書店、2003年、p. 1-2)

同書は著者が2001年から2002年にかけて大学でおこなった講義の記録をもとにしている。

古文といえば自然「古きを知る」という受動的な面に重きが置かれがちで、それを「書く」というと、すでに通用しない言語を使ってなんの意味があるのかという疑問も湧くかもしれない。けれども、たとえ実際に自分で擬古文を書くことはないとしても、書き手が「どうしてこういう文を書いたのか」ということを了解するためには、古文を書くときの思考の手続きというものを考えないでは済まされないものではないかと思う。自分ならこう言いたいときにはこう書く、という認識なしに、他人がこう書いたのはこう言いたいからだ、ということが正しく把握できるはずがない。それに、「知る」だけなら現代語訳でもいいわけだしね。

この講義のなかでは平安時代の物語の持つ特質について述べることもしてゆきます。私たちのめざす物語(けっきょくは空想の世界のものなんですが)をもう少しはっきりさせようということです。言ってみれば、どこにゴールすればいいのかといったことや、ゲームのルールの確認なんです。こういったルールの確認が必要なところが、現代文ではない古文の表現法の特徴なんです。

(同書、p. 2)

書いてみることで、あるいは少なくとも同書に載っている人たちが実際に書いた擬古文を読んでみることで、あらためて明らかになるような現代語と古典語の違いというのもある。たとえば、古文には出てくるが現代人が書いた擬古文には出てこない語句や言いまわしに気付いたり。係助詞「なむ」あたりはなかなか現代人には出てきにくいらしい(そりゃそうか)。推量や疑問を述べる場面で選択される表現も傾向が違う。おもしろい。

違うというのを言い出すと、現代の学生どころか、本居宣長の擬古文だって本物の古文とはどこか違っているわけだけど。

「物語」を作るにあたって、既存の歌を導く形で創作をするというアプローチもおもしろい。もちろん理想をいえば歌も自分で作れれば言うことないのだが、その前にこういう形で散文から入っていくのは、現代人にとって歌を理解するのにかえっていいのかもしれない。

まあ、そんな堅苦しいことを言わなくても、古文で遊ぶというのはおもしろそうだし、みんなもやってみるといいよ。

1 件のコメント:

  1. 素晴らしい記事、教えてくれてありがとう!戻って私のブログに来てすることを忘れないでください。インドネシアブロガーの挨拶:)

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