2009-07-23

物名

物語のひとこまとして「『かきつばた』といふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」などということが述べられるのは、他に例がありません。この《伊勢物語》の場合だけが孤立しています。なぜ他に例を見ないか、ということよりも、なぜここにはこういったことが書かれているのか、と考えてゆくべきでしょう。

ここに「つま」として詠まれている女性は、二条の后高子です。ここに謎を解くカギがありそうです。

じつはこの《伊勢物語》は、初段、第二段に序章的な物語を置き、第三段以降に主人公と二条の后高子との恋物語が展開されています。その「二条の后物語」のひとこまとしてこの第九段があるのはだれもが知っていることなのですが、この二条の后という女性はまた、この《古今和歌集》巻一〇〈物名〉にも登場する人物なのです。

二条の后、春宮の御息所と申しける時に、めどに削花挿せりけるを、よませ給ひける  文屋康秀

445 花の木にあらざらめども咲きにけりふりにしこのみなる時もがな

「めど」の意味がよくわからないのですが、さほどくふうがある〈歌〉には見えません。《古今和歌集》巻一〇〈物名〉に収録されている他の〈歌〉と比べるならば、むしろ劣っていることが歴然としているようにさえ見えます。〈歌〉が秀逸だからこの〈歌〉が採られた、などとはとうてい思えません。

この《古今和歌集》巻一〇〈物名〉に〈歌〉の作者以外に登場するのはこの「二条の后」だけなのです。それ以外には、458 の詞書に「人」が登場していますが考慮しないでいいでしょう。

高子はおそらく「物名の〈歌〉好きの女性」として有名だったのでしょう。《古今和歌集》巻一〇〈物名〉にたったひとり登場するのも、そういった理由からでしょう。445 の〈歌〉も、高子にかかわる〈歌〉だから、というので採られたのでしょう。〈歌〉が秀逸であろうがなかろうが関係ないのでしょう。《伊勢物語》では、〈二条の后物語〉のひとこまだから、ということで、高子にかかわるストーリーだから、ということで、「『かきつばた』といふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」となったのでしょう。

そういったことを念頭に置いて、《伊勢物語》第三段をよんでみましょう。

《伊勢物語》第三段

昔、男ありけり。懸想じける女のもとに、ひじき藻といふものをやるとて、

思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも

二条の后の、まだ帝にも仕うまつり給はで、ただ人にておはしましける時のことなり。

ここに詠まれている〈歌〉、どうもあまりパッとしません。「ひじき藻」を詠みこんで「ひじきもの」というだけじゃどうも、…といった感じです。「ひじきもの」、通説は「引敷物」だと言うんですが、私はここは「ひしぎもの」つまり、目をふさぐ物、という意味だと思います。袖で目をふさごう、と言っているのでしょう。「おも火(おもひ)」「む暗(むぐら)」にかかわっての表現でしょう。それにしても、ヘンな〈歌〉です。

この第三段は、主人公があの「物名の〈歌〉好きの女性」二条の后にはじめて〈歌〉を贈ったことが描かれている章段なのです。

そのことを念頭に置いて始めてこの〈歌〉の「しかけ」が見えてきます。

この女性の気をひくにはなによりもまず言葉遊びでしょう。始めて贈るこの〈歌〉に言葉遊びの「しかけ」がない、などということは考えにくいことです。「物名」に決まっています。「沓冠」というしかけでしょう。

この〈歌〉、各行の最初の文字と最後の文字とを次の順に読むことによって、主人公が伝えたメッセージを読みとることができます。この順は「かきつばた」のばあいよりはちょっと複雑です。

もひあら(1)(6)
くらのやと(10)(5)
もしな(9)(4)
しきものに(8)(3)
てをしつつ(7)(2)

「おもはむにはそひねむ」「思はむには添ひ寝む」、好きだったらいっしょに寝よう、ということでしょう。

これが《伊勢物語》第三段で主人公が〈歌〉に託したメッセージなのです。

「物名の〈歌〉好きの女性」二条の后にはじめて贈った〈歌〉はやはり言葉遊びの技法を用いたものだったのです。

(出雲路修『古文表現法講義』岩波書店、2003年、pp. 113-116)

「ひしぎ」については、

ひし・ぎ【拉ぎ】
〔四段〕(1) 強く押しつぶす。「よもぎの車に押し―・がれたりける」〈枕二一四〉(2) 目をつぶる。「目を冥(ひし)いで坐り」〈三蔵法師伝五・院政期点

「めどに削花」については、

めど【蓍】
(1) 豆科の多年草。メドハギ。「蓍、女止(めど)、以其茎筮者也」〈和名抄〉(2) 「めどき」に同じ。また、それを用いて行う占い。「龜の卜(うら)、易の―などにて疑はしき事を勘(かんが)ふべきなり」〈尚書抄〉「筮、メド」〈いろは字〉(3) 目当て。「―が違うた」〈譬喩尽〉 ―に削り花「めど」(1) につけた、木を細かく削りかけて造った花。古今伝授の一とされた語。「―挿せりけるをよませ給ひける」〈古今四四五詞書

(ともに『岩波古語辞典』。)

2009-07-16

助動詞キの運用

小松英雄『丁寧に読む古典』に、補章として載せられている「助動詞キの運用で物語に誘い込む――物語冒頭文における助動詞キの表現効果」という一篇から。

『落窪物語』の冒頭には、最初の登場人物がつぎのように紹介されている。

今は昔、中納言なる人の、御娘あまたもち給へる、おはしき

平安時代の仮名文に多少ともなじんでいる読者なら、結びの助動詞キに、オヤ? と反応するに違いない。なぜなら、「今は昔」から予期される結びは、「おはしき」でなく「おはしけり」のはずだからである。当時の人たちは、ここにキが出てきたことに、現今の我々よりも、もっと敏感に反応したであろう。

(小松英雄『丁寧に読む古典』笠間書院、2008年、p. 274)

また、

古典文法の用語として〈過去〉は適切でない。平安時代の日本語は、現在と過去とを区別せずに文末が結ばれているので、現在か過去かの判断は文脈に委ねられているからである。ちなみに、未来表現には義務的に助動詞ムなどが添えられている。〈回想〉も使用をやめたほうがよい、言語は外へ向けた表出 (expression) であるから、内向きの回想 (recollection) を直接に表明する助動詞をもつことは原理的にありえないからである。

以上の検討から知られるように、助動詞キの機能は、それが話し手の行為、行動であったと積極的に表明すること、すなわち、事故の関与を読み手に認識させることである。「アフリカに象がたくさんいたよ」のタには、話し手の関与が表明されている。この場合のタの用法は、その点において平安時代のキの用法とほぼ同じである。現今と同様、昔の日本語も場面に即して柔軟に運用されていたことを、古典文法の専門家は忘れがちのように見える。

自分の経験を叙述するだけなら、過去の出来事であることは文脈から判断可能なので、特定の助動詞で表明する必要はない。

『落窪物語』冒頭の場合、「おはしき」という表現をとることによって、地位の高いその人物を自分は知っていたと明言していることになるから、読み手は、現実社会で実際に起こった出来事への好奇心をそそられ、話の展開に強く引き込まれることになる。

(同書、pp. 276-278)

助動詞「き」に関しての同書における既存古語辞典に対する批判は微妙なもので、要はそれが未来表現で「義務的に」現れる「む」などと違って「選択的な」助動詞であるということが明記されていないということへの不満に由来している。

総索引が整備され、電算機検索も容易になった現在では、読んだことがないどころか、表紙さえ見たこともないテクストから、文脈も確かめずに用例を剥ぎ取ることに後ろめたさを感じない風潮が蔓延し、すべての助動詞が義務的であるかのような説明がなされている。

(同書、p. 278)

まあ、実際にすべての助動詞が義務的なものとして書かれている、と「(読者から)読まれている」かというと、そんなことはないんじゃないかという気もするけど、辞書の編纂者としては厳密な態度でないといけないのかもしれない。

「アフリカに象がたくさんいたよ」という現代文での「た」との比較はおもしろいし、重要だと思った。

さて、同書のこの章では冒頭だけでなく、議論の多い『落窪物語』の結尾についても少しだが触れられている。

この物語の最後には、姫君の侍女であった「あこぎ」が現在は内侍典侍《ないしのすけ》になっているはずだとあり、「典侍は二百まで生けるとかや」と結ばれている。「あこぎ」は超人的長寿に恵まれたが、そのほかの登場人物は世を去って久しいから、現存する人物と結びつけて憶測したりしないようにと釘を刺したものであろう。冒頭のキと整合させれば、物語の書き手もまた「あこぎ」と同じだけ長寿だったという理屈になるが、そこまでは責任を持っていない。

(同書、p. 279)

2009-07-06

ここを始めて半年が経った。一年の予定なので折り返し地点だ。書いておきたいものの書けてないことがまだいくつかある。

日曜日に紀伊國屋書店をぶらぶらしてきたけど、なにも買わず。『自閉症の謎を解き明かす』の新版と、ピンカーの新刊(もう出て結構経ってたと思うけど)が気になったくらい。古文については、学習参考書のコーナーに新しい本がたくさん並んでた、が、どのみち自分は読むものがたまっているので手は出さず。

これは古文に限ったことじゃないけど、○○はこんなにおもしろい、みたいなタイトルの本ばっかり。僕は「わたしおもしろいのよ」などと自分から媚を売ってくるような本は好きじゃない。つい「だまされるものか」と身構えてしまうし、その手の本は自分のためにならないような気がする。というのは、それらは「なにがおもしろいか」を解説する本であるわけで、これがジョークの話だったら無粋もいいところの役回りじゃないか。なにがおもしろいかを発見することも含めての読書のおもしろさ、だと思うんだけど。

それに、たとえば「徒然草はおもしろい」みたいな名を冠する一群の本どもの読者層と、当の「徒然草」の読者層というのはまったく別のような気がする。僕はここを「古文はこんなにおもしろい」みたいな内容にすることもできたわけだけど、そういうのは避けた。この例でいうところの前者のような人々の興味を引いてもしょうがないと思ったからで、たとえば、いま「枕草子」を読んでいるもののなにが書いてあるかさっぱりわからん、みたいな人がいたら、そういう人がたぶん対象読者だね。僕は向き合ってくれる人よりも、同じ向きに歩いていく人を友とするのだ。

だいたい登山する人になにか書かせたら登山の記録になるのが普通じゃん。そういうこと。『玉勝間』みたいな書も、そういう態度がわかれば読めるようになる。

2009-07-02

「花ぞ昔の香に匂ひける」の「花ぞ」を、多くの注釈書が、「花は」と現代語訳しています。「花(ガ)匂ふ」にゾを挿入すると「花ぞ匂ふ」になりますが、「花は匂ふ」にゾを挿入することはありません。「匂ひける」のケルは、それが疑いのない事実であると認識したことを表わしています

ハとガの違いは日本語文法のメイントピックスのひとつなのに、それを混同してしまうのは、疎読、勘読で作り上げた筋書きに合わせて考えているからです。その筋書きとは、人間は裏切るがペットは裏切らない、などという〈~は、~は〉という形式の対比です。こんなことでは、文法的解釈という錦の御旗がボロボロです。間違いのもとは、「人はいさ、心も知らず」をひとまとめに把握してしまったことにあります。上の句と下の句とを安易に対比してしまったことも一因かもしれません。

三上章『象は鼻が長い』〔くろしお出版・1960〕は、日本語文法論のユニークな著作で、古典文法を重んじる立場をとる古語辞典の編者が知らないはずはありません。この本のタイトルの構文は、「ふるさとは花ぞ昔のかに匂ひける」とそっくりです。〈象は鼻長い〉に変えたら意味が違ってしまいます。

(小松英雄『丁寧に読む古典』笠間書院、2008年、pp. 28-29)