2009年6月18日木曜日

物語の末尾切断形式

最近、のんびりとだけど『大和物語』も読んでいる(小学館「新編日本古典文学全集」12)。いくつ並行して読んでるんだという感じだが……。

ひとつひとつの段が短くて、文の流れも自然で読みやすい。これは古文の入門にいいんじゃないのかな。どこか取り付く島のない感じの『伊勢物語』なんかよりも、ずっと教科書向きなんじゃなかろうか。教養としての重み付けからすると伊勢物語なんだろうけど。しかしいくつか古文読んできた者としての実感からすると、あれ、読みにくいよね。少なくとも、感情移入できる文ではないと思う。

さて、その大和物語を所収する小学館「新編日本古典文学全集」の解説で面白かったのは、「物語の末尾切断形式」というくだり (p. 432)。

『大和物語』の原型の最後は百六十九段と見られ、歌も含まれず、その末尾本文は「水くむ女どもあるがいふやう」と切断形式になっている。切断形式とは末尾本文が、内容的にも形式的にも完結していないものをいうのであって、余韻を持たせるための形式である。「あはれ」の内容を持った説話の集積の末尾としてはまさに生きた形式になっている。この形式は後に亜流を生んで、内容的には完結していても、形式的には完結していないかのように見せかけたもの、文章の上では内容的にも形式的にも完結していないが、その先の内容を読者が知っており、切断形式の実質的効果が上がっていないものなども出てくる。

(「大和物語」、新編日本古典文学全集12、p. 432、小学館)

作品としての物語をどう終わらせるのか、それについての当時の定石のひとつが切断形式だったのだろう。『源氏物語』の末尾はけっこう有名だと思うけど、あれがどうしてあんなふうな終わらせかたなのかと感じた人も多いと思う。結末を描く段落としては、一回転してかえって斬新さを感じさせる、すぱっとした終わりかたなんだよね。写本の系統によってその末尾が安定してないことには、この切断形式がひとつの型としては忘れられてしまったということにも一因があるのかもしれない。最近読み終えた「花宴」の末尾も切断形式をとっていたということか。

 「梓弓いるさの山にまどふ哉ほのみし月のかげや見ゆると
なにゆゑか」とおしあてにのたまふを、え忍ばぬなるべし、
  心いる方ならませば弓張りの月なき空にまよはましやは
と言ふ声、たゞそれなり。いとうれしきものから。

(「花宴」、新日本古典文学大系『源氏物語 一』、p. 284、岩波書店、一部表記を改める)

これで終わり。ここは、一度だけ会った朧月夜を探して源氏が右大臣邸をうろうろしていたところ、それとなく鎌をかけたりしてようやくその人を捜し当てた、という場面なんだけど、「いとうれしきものから」で終わっている。「いとうれしきものから」というのは「とても嬉しいけれど」というような意味だけど、思わせぶりな逆接を付けておいて、その先はない(次の巻もこれとは関係なく始まる)。

『落窪物語』の末尾についても、いろいろ詮索する一方で、そもそもこういう形式があるということを頭にとどめておく必要はあるね。

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