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「未来記」とは予言の書を意味する。和歌が衰退した将来に詠まれるであろう歌のさまを示した書、というくらいの意味で命名されたものか。
『新編国歌大観』第五巻、p. 1486
『未来記』というものがあるのを先日知った。同ジャンルの書がいくつかあったらしい。解題には予言の書とかとかよくない歌の見本とかしかつめらしいことが書いてあるが、詠人に「前和歌得業生柿本貫躬」というふざけた名前(柿本人麻呂、紀貫之、凡河内躬恒のミックス、前和歌得業生は元大学院生みたいなニュアンスである)が掲げられているのだから、ようするにパロディだと思う。けどそう書かないのが国文学の謎。
載っている歌も一例を挙げれば「年の内に春は来にけり一年に二度かすむ四方の山のは」などとナンセンスぎりぎりのコラージュ和歌だ。解題はこれまた「縁語や懸詞などを多く用いて圧縮した」表現ととぼけているのはわかってるのかなんなのか。
おそらく、鎌倉時代ごろになると和歌も表現技法上の飽和期を迎え歌人たちには自分たちがある種のマニエリスムに陥っていることの自覚があったろう。自分たちはしょせん先達の作品の一部を切り貼りしているだけの存在ではないのか、この先それらを超える名歌は生まれないのではないかという文学的危機感は、俊成あたりの時代から芽生えてきていたと思われる。そこから、この調子でいくとそのうちこんなのが名歌ともてはやされるようになるぞ、というのがこの『未来記』だと思う。
いってみれば、20年後の芥川賞などと称してラノベ文体のコラージュ作品をでっち上げたようなものではないかな。
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