2009年9月10日木曜日

逆説の条件節が強調表現になるとき

※ ものものしい題を付けていますが、中身はただの与太話です。

駅のホームで高校生らしき集団がバカ話に花を咲かせては爆笑していて、僕は停車中の電車の中からそれをぼーっと見ていた。すると、その中の女の子がひとしきり笑ったあと、

「まじうけるんだけど(笑)!」

と言った。これを聞いたとき、この「逆説の条件節が強調表現になるとき」という言葉が頭に電撃のごとくひらめいた。「うけるんだけど」どうだというのか? どうでもないのだ! これだ、と思ったね。

「けど(けれど)」はもちろん接続助詞で、辞書の言葉を借りると「(ア)実際に起こった、または確かな事柄をあげ、それにもかかわらず(普通にはこれと矛盾するような)他の事柄が成り立つ意を表す(「けれど」『岩波国語辞典』)」。それともうひとつ、「《(ア)の用法で「けれど」のあとを表現せず言いさしのままで》相手の反応を待つ気持を表す。「行きとう存じます—」。転じて、ものやわらかな表現として使う(同項)」というのがある。しかし上記の例は「ものやわらかな表現」とはほど遠い。

これは強調だよね。この「けど」は、もはや逆説とかなにかの言いさしじゃない。「あんたうざいんだけど」と言われたら、それは「あんたうざいんだけど(、ほんとはお慕いしています)」の省略とかではなく、ただただうざいと思われているだけだ。勘違いしちゃいけない。

さて、条件節が強調表現になるといえば、コソ+已然形の係り結びだ。「昨日こそ早苗取りしかいつのまに」の「こそ」と「しか(キ)」。これは大野晋『係り結びの研究』に詳しい話なんだけど、コソ+已然形はもとは条件節を表す表現だった。それが古今集の頃には単純な強調表現になっていく。

たとえば先ほどの歌は「つい昨日早苗をつまんだばかりだというのに、いつのまにか」秋になってしまったなあ、という意味だから、まだ逆接の気持ちが残っている。ところが、

あふ坂の関に流るる岩清水いはで心に思ひこそすれ(古今五三七)

あたりの逆説か単純強調か微妙な表現を経由して、

雪ふりて年のくれぬる時にこそ遂にもみぢぬ松も見えけれ(古今三四〇)

のような単純強調表現が完成する(同書、p. 128)。するんだけど、逆説表現が強調になるって言われても、よく考えるとすんなりとは思い描きにくいところがないでもない。だけど現代語のこういう例を考えると似たようなもんなのかもね。

雪のいと高うはあらで、うすらかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ。(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、p. 229)

雪があまり積もらずにうっすらと降っているのとか、まじをかしいんだけど!

ああ、わりといけるな。

(一応お断りしておきますが、これは与太話だからね。コソ+已然形が現代語の「けど」と同じニュアンスだとか本気で思わないように。)

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