2009年9月3日木曜日

平安貴族の自然観

以前、「須磨」の巻の話で、情景描写が記号化しているという感想を書いたけど、馬淵和夫『奈良・平安ことば百話』(東京美術選書、1988年)という本に、同じような印象が述べられている。

「若紫」の巻で、源氏が北山へ出かけるところ、北山の描写がある。

やや深う入る所なりけり。やよひのつごもりなれば、京の花ざかりはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひも、をかしう見ゆれば、かかるありさまもならひ給はず、ところせき御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峯高く深きいはの中にぞ聖入り居たりける。

そこはやや山深くはいる所なのであった。三月晦日なので、京の花盛りはみな過ぎてしまったが、山の桜はまだ盛りであって、段々山の奥へ入っていらっしゃるにつれて、霞の様子もおもしろく見えるので、こんな様子もまだご経験にならない窮屈な御身であるので、珍しくお思いになられた。寺の様子もまことにしみじみとした味わいがある。高い峯の深い岩崛の中に聖は入って座っていた。

さてこの文で、おかしなことは、具体的な情景はさっぱりわからないことで、よく読んでみてもどういう景色なのかまったくイメージがわかない。筆者紫式部の感想も、「霞のたたずまひ」も「をかしう」見えた(勿論文脈から言えば源氏の感想ということになるが)というのと、「珍しう」と感じたのと、お寺の様子が「あはれ」というだけである。どんなところが「あはれ」なのか、読者にはさっぱりわからない。

同じく若紫の巻に、お供の者が、地方の景勝の地を源氏に語るところは、

これはいと浅く侍り。人の国などに侍る海山の有様などをご覧ぜさせて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしの嶽。

とあり、これも「御絵がお上手になられましょう」というだけだ。ついで別の者の言った言葉には、「面白き浦々磯のうへ」というだけで、景勝の地を「面白き」というだけである。

(中略)

古来名文だと言われてきた「須磨」の巻の須磨の描写は、

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞えて、またなくあはれなるものは、かかるところの秋なりけり。

から始まるけれども、これも住居が海に近いというだけで、景色がどうだというわけでもない。

前栽の花いろいろ咲きみだれ面白き夕暮に、

とあるのも、前栽の花が色美しく咲き乱れた景色が夕方になって暮れて行く情景を「面白し」ととらえたというだけである。

要するに、『源氏物語』をひもといてみても、『枕草子』をくってみても、自然描写のこまかなものはない。これは女房たちの生活の中に大自然と対決するというような場面がなかっただろうから、要求するほうが無理なのだろう。

(同書、pp. 20-22)

同書ではその印象の原因について、女房たちがそもそも自然と対峙する機会がなかったからであろうと考えている。それはもちろんそうだろうけど、それに加えて、平安時代の貴族の自然観そのものが記号化された自然観だったせいもあると思う。記号化された自然観というのは、ようするに歌枕を通じて把握された世界ということ。

こうした世界観については、谷知子『和歌文学の基礎知識』(角川選書、2006年)という本に述べられてたと思うんだけど、残念ながらいま手もとにその本がない。またあとで紹介します。

それはそれとして、当時の貴族たちは自然の中に歌枕の語彙しか見なかった、そう言ってもいいと思う。これは現代でいうと、景勝地に行っても写真を撮るのにばかり夢中になって、実際にその地がどうであるかにまったく関心を払わない観光客のようなものだ。また、あまりに広漠とした大自然を前にして「ドラクエのようだ」などと興ざめするような感想をうっかり漏らしてしまいがちな我々(ある世代以降)と似ているともいえる。

さて、そういうことで思い出す『枕草子』のくだりがあるんだけど、長くなったので次回書くことにする。

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