tag:blogger.com,1999:blog-33461660587008387982024-03-14T14:08:29.506+09:00pearlyhailstone「俺、お前と係り結びみたいな関係に、なれるかな……」mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.comBlogger115125tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-56058581248435885362024-02-17T19:39:00.000+09:002024-02-17T19:39:40.939+09:00令和五年度隠岐後鳥羽院和歌大賞に入賞しました<p> 令和五年度「<a href="https://www.gotobaintaisho.com/">隠岐後鳥羽院和歌大賞</a>」の結果が発表され、投稿歌を「城南宮 鳥羽殿賞」に選定していただきました。撰者の方々にお礼申し上げます。</p><p>歌題「秋浦」</p><p>受賞歌:</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><div style="text-align: left;">あさぼらけ浦にたなびく秋霧のたえまに見ゆる沖つ島かげ</div></blockquote><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">入選からは外れましたが一緒に応募しました投稿歌:</div><div style="text-align: left;"><br /></div><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><div style="text-align: left;"><div style="text-align: left;">秋くれば思ひなしにやふくごとにかなしさそふる浦の松風</div></div></blockquote><p>賞に応募するようになって三度目の正直で入賞の光栄にあずかることができました。一度目に入選していい気になってたら翌年は選外で残念でしたがあきらめずにやってよかった。</p><p>隠岐後鳥羽院和歌大賞は今年度も募集をしています。ウェブサイトでの告知はまだのようですが歌題は「島」 とのこと(結果のお知らせに要項が同封されていた)。締切はだいたい10月末です。古文を読むのが好きという方は、古文を書くことの実践としてもぜひ応募してみてください。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-70203945533747399832016-12-23T09:04:00.001+09:002016-12-23T09:06:30.603+09:00未来記<div>
断りなくいきなり更新。</div>
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<blockquote class="tr_bq">
「未来記」とは予言の書を意味する。和歌が衰退した将来に詠まれるであろう歌のさまを示した書、というくらいの意味で命名されたものか。 </blockquote>
<blockquote class="tr_bq" style="text-align: right;">
『新編国歌大観』第五巻、p. 1486</blockquote>
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『未来記』というものがあるのを先日知った。同ジャンルの書がいくつかあったらしい。解題には予言の書とかとかよくない歌の見本とかしかつめらしいことが書いてあるが、詠人に「前和歌得業生柿本貫躬」というふざけた名前(柿本人麻呂、紀貫之、凡河内躬恒のミックス、前和歌得業生は元大学院生みたいなニュアンスである)が掲げられているのだから、ようするにパロディだと思う。けどそう書かないのが国文学の謎。</div>
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載っている歌も一例を挙げれば「年の内に春は来にけり一年に二度かすむ四方の山のは」などとナンセンスぎりぎりのコラージュ和歌だ。解題はこれまた「縁語や懸詞などを多く用いて圧縮した」表現ととぼけているのはわかってるのかなんなのか。</div>
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<br /></div>
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おそらく、鎌倉時代ごろになると和歌も表現技法上の飽和期を迎え歌人たちには自分たちがある種のマニエリスムに陥っていることの自覚があったろう。自分たちはしょせん先達の作品の一部を切り貼りしているだけの存在ではないのか、この先それらを超える名歌は生まれないのではないかという文学的危機感は、俊成あたりの時代から芽生えてきていたと思われる。そこから、この調子でいくとそのうちこんなのが名歌ともてはやされるようになるぞ、というのがこの『未来記』だと思う。</div>
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<br /></div>
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いってみれば、20年後の芥川賞などと称してラノベ文体のコラージュ作品をでっち上げたようなものではないかな。</div>
mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-25880605143097527472015-11-08T15:07:00.000+09:002015-11-08T15:07:35.555+09:00たびしかはら阿部弘蔵『日本奴隷史』第八章「中世期奴隷の種類」に荼毘師というものが出てくる(p. 140)。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
守貞漫稿に嘉多比佐志をひきて、だびしかはらおさめみかはやうと云々、だびしは、荼毘師にて、今云隠亡なり。</blockquote>
<br />
枕草子や源氏物語に出てくる「たびしかはら」は「礫瓦」とされ「タビシはタビイシ(礫石)の約」(『岩波古語辞典』)などと説明されてきたが、それを見て、これは「荼毘師かはら」なのでは?と思った。タビイシは日本霊異記に例がある。タビシ単独の用例はと日国を引いたら『大日経治安三年点』(1023)に「礫石(タヒシ)と砕けたる瓦と〈略〉毒螫の類を除去す」というのがあるらしい。<br />
<br />
そもそも「たびしかはら」礫瓦説は岡本保孝『傍廂糾謬(かたびさしきゅうびゅう)』による(新体系『源氏物語 二』p. 139)。この本は先の引用の守貞漫稿で引かれた『傍廂』の誤りを指摘するために書かれた本だそうだ。となると、『日本奴隷史』の荼毘師はこのページにしか説明がないので、まさにこの箇所も岡本によって誤りとされた箇所なのではという気がしてきた。きっとそうだな。<br />
<br />
『傍廂糾謬』を読めれば早いんだけど。<br />
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mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-67399357444877662072014-07-10T01:48:00.001+09:002014-07-10T01:48:43.785+09:00Let It Go 古文訳<br />
ここも滅多に書かなくなっているけれど、自分にとっての古文まわりの出来事の記録として一応。といっても出来事というか、思ったことの日記みたいになってしまった。あ、少しずつだけどまだまだ古文は読んでるよ。<br />
<br />
ちょうどふた月ほど前に、『アナと雪の女王』の劇中歌、“Let It Go” の歌詞を擬古文に訳した替え歌をお遊びでツイッターで公開したところ、それが思いのほか好評でけっこう流行った(と言っていいと思う)。なんでふた月も前のを今頃書くかというと、当時忙しかったというのもあるけれど事態がひと月では収束しきれなかったほどだったからだ。<br />
<br />
出したときは古文訳と言っているけれど、正しく言うなら擬古文ですね。経緯やその反響などは <a href="http://togetter.com/li/665551">KITI さんの作ってくれたまとめ</a>をご覧くださいな(それと自分で書いた<a href="http://togetter.com/li/672720">歌詞解説もあります</a>)。<br />
<br />
いまでこそ落ちついてられるけど、RT が爆発的に始まったときはなかなかすごかったよ。通知で iPhone のバッテリーがもたないので(あったかくなってたからね)数日間は通知を設定で黙らせなければならなかった。<br />
<br />
それとフォロワーが——もともと少ない自分にしては——急増したのに困惑した。いや、増えてよかったろうと思うかもしれないけど、ふつうの人にとってはけっこう動揺があるんですよ。一気に増えたあとはなだらかにぽろぽろ減っていく毎日というのも慣れないことで(気にすることじゃないとわかっていても)気が滅入るし。ナイーブになって、わざと過激なことを言ってみたり、「あーもー新しく来た人全員ブロックするしか!」と自暴自棄になったりする(まあブロックはしないけど)。<br />
<br />
あまり古文と関係のない、どちらかというとツイッターの話になってしまったけど、こういう感じたことというのはまとめには書けないことなので残しておこうかなと。悪しからず。<br />
<br />
実際に歌ってみてくれた方がたくさん出て、古文の春が到来したと目頭が熱くなった。「古語は昔の現代語」と思っているので、「現代語のように使ってみせて」生き生きとよみがえらせたいというのはよく考えてたんですよ。それが、現代のミュージカルのメロディーにのせて古語をみんなが歌ってるんだから夢のようである。<br />
<br />
しかしせっかく現代によみがえった古文を、「雅楽で」「民謡歌手で」とみんなが過去に戻したがるのはちょっと意外だった。そうじゃなくて、古典というのは「つねに新しいもの」なんですよう。<br />
<br />
<a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm23543190">石敢當さんが歌ってくれたニコ動の動画</a>には「古文が好きになった」「古文やろう」みたいな前向きのコメントもたくさん付いて嬉しかったな(歌詞を書いてくれた PIROPARU さんの書もすばらしい)。さらに恐ろしいことに、「学校の授業で見せられた」「配られた」というツイートまで出はじめた。古文を楽しく学ぶきっかけになるのは本望だけど、「授業で使うから」と前もってわかってたらもっと正確さを期するべきだった!とかしょうもない後悔をしている。<br />
<br />
これでこの先「古文を書く」という方面にみんなが興味を持ってくれるようになったら嬉しいです。以前紹介した本で関連するのとか、現代語から古語を引く辞典とか、擬古文を楽しく書くのに使える情報を近いうち書こうかな。<br />
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……みんなに飽きられないうちにね。<br />
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mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-22272439661080045482013-08-16T17:53:00.000+09:002013-08-17T15:06:55.131+09:00和歌の字余りについて<p><a href="http://pearlyhailstone.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html">前回</a>の続き。</p>
<p>五七五七七と言われるけれども、和歌・短歌には字余りという現象があって、5字ということになっている初句や第三句がときとして6字になったり、7字といわれる第二・第四・第五句が8字になったりすることがあるということはよく知られている。</p>
<p>ちなみに5字、7字といっているけど、これは正確には字数ではなく前回言ったモーラ数である。念のため。5モーラのところが6モーラになったり7モーラのところが8モーラになったりすのが字余りである。現代の短歌は破格に対して寛容なので、五七五七七も「入れたい言葉が入らなければ仕方ないので余ってもよい」程度のガイドラインにしかすぎないと思われているのかもしれないけれど、もしかすると「チョコレート」がオーケーなら6字でいいってことじゃない、といった字数とモーラ数の混同がそういう傾向を後押ししているという面もあるかもしれない。……が、「チョコレート」は5モーラなので初句に使っても字余りではないよ。</p>
<p>余談だがモーラという語はあまり膾炙した言葉じゃないのでちょっと使いにくいね。「拍」とかのほうがいいのかな。まあいいや。世間の多くの説明ではモーラと言うべきところを音節と書いている、というのは前回書いた通り。</p>
<p>さて、この字余りというのは現代人からするとただの規則から逸脱した例外にしか見えないのだが、かつてはそうでなかったことがわかっている。</p>
<p>まず「字余りしている句は句中に必ず母音の字が含まれている」というのが国学の時代から知られていた。宣長『字音仮字用格』(<strike>1176</strike> 1776 追記: 刊行年間違っていたので訂正しました)はじめ、富士谷成章も同種の指摘をしていたらしい(未読だけど)。古今集の「としのうちに」などの例である。この原則は古今集の頃にはほぼ完全に当てはまっていて、新古今の頃だとそうでない、単に余ってるとしか言いようのない字余り句がちょくちょく見られるようになっている。とはいえ、和歌の字余りを説明するいちばんの原則がこれである。百人一首の歌はぜんぶ当てはまってるんじゃないかな。</p>
<p>句中の母音字が字余りの条件だというのなら、それはなにか古代の発音の流儀に関係しているのではないか?ということで、字余りと古代の音節との関係にまつわる研究が昭和になっていろいろ発表された。</p>
<p>それらの研究の鍵になる発想は、要は「語中の母音音節が直前の音節と一体化して発音された」という仮説だ。それで、「直前の音節と接触」して「不安定な状態に」なるとか(橋本進吉)、「先行音と一緒になってシラビーム的な一音節を構成する」(桜井茂治)などということが主張された(ただ名前を挙げたどちらもまだ直接読んでないので悪しからず)。</p>
<p>この「古代語はシラビームだった」というのはちょっと前の日本語関連の本にはよく出てきて、なんだよそれとか思うのだけどちゃんと説明してあるいい本はまだ見つけていない。が、直前の音節と一緒になって融合してしまうという話で、まあ字余りの問題を片付けるのに便利だったので人気だったのだろう。</p>
<p>しかし、これらの「母音融合説」は「字余りしてるけどこの説なら字余りじゃないことになるよ」というだけで、和歌の字余りにまつわる現象をすべて解決してくれるわけではない。たとえば、字余りは起こる場合と起こらない場合とがある。「こぞとやいはん」「ことしとやいはん」は文の構造としてはまったく同じだが、後者でのみ字余りが起きている。じゃあ字余りは任意だったのか、となるとそうでもなくて、じつは万葉集の結句はほとんど義務的に母音字を含む句が字余りになっている、といった現象がある。</p>
<p>古文の文法の説明で以前から僕が(勝手に)重視しているのが、「その説明で古文が書けるか」だ。母音が融合するとかシラビームだとかは結果の説明には使えるが、それにしたがって作歌すると万葉集や古今集と同じような調子になるかというと、どうもそれだけでは足りない。</p>
<p>それで、字余りの原則は和歌の詠唱法にもとづく必然だったとするのが、前回も紹介した坂野信彦の『七五調の謎をとく』(1996、大修館書店)と『古代和歌にみる字余りの原理』(2009、星雲社)である。上記に書いた字余り研究の概要は後者の「字余り研究小史」によっている。</p>
<p>うう、また長くなったので続く。</p>
mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-83860222798515960612013-07-17T00:06:00.000+09:002013-07-17T00:33:05.827+09:00音節とモーラ<p>僕がいつも読んでいるブログのひとつに、<a href="http://blog.query1000.com/">イジハピ!</a>があって、中の人の深沢さんは技術系だけどよく日本語についての記事も書かれています。こないだの記事<a href="http://blog.query1000.com/archives/29560970.html">「リニューアルかリニューワルか」</a>にコメントをしたのだけれど、そのやりとりでちょっと面白い話になってきたと思ったのでそこから思いついたお話をひとつ。もはや古文の話ですらないけど、日本語史に関わることではあるので一年ぶりにここで。もとの記事の本題だった表記の話とはぜんぜん関係ないのでコメント欄では気が引けるしね。いずれ書いておきたいことではあったんだ。といっても目新しいことではなくて、僕が読んできたなかでわかったことのまとめでしかないけれど。</p>
<p>深沢さんは「コピー」「シュガー」は2音、「タイマー」は3音とお書きになるのだけど、これは日本人ではちょっと珍しいタイプじゃないかな。単語を何音と数えるときには、「コピー」「シュガー」は3音、「タイマー」は4音だと言う人のほうがまだ一般的じゃないかと思う(調査したわけではないので推測だけど。なぜそう推測するかは以下に)。</p>
<p>じゃあこの「何音」というのはいったい何を数えているのか。</p>
<p>僕の挙げた後者の数えかたは、短歌や俳句で文字を消費していくときの数えかたで、交通安全標語などを書かせれば、日本語話者は小学生でもこの数えかたで五七五の標語を作る。この区切り単位は国語学ではよく「音節」といわれるのだけれど、言語学では「モーラ(拍)」という。音節とモーラはとても近いので、日本語に関する本にはこれを区別せずに音節と書いているものも多いけれど、たいていの場合はそういうときに言及しているのはモーラのほうである。「山田(ヤ・マ・ダ)」「コピー(コ・ピ・ー)」「神戸(コ・ー・ベ)」「会社(カ・イ・シャ)」は3モーラ、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」「タイマー(タ・イ・マ・ー)」「東京(ト・ー・キョ・ー)」「関東(カ・ン・ト・ー)」は4モーラである。</p>
<p>モーラというのは、「詩や発話における長さの単位」をいう(窪園、1999)。つまり、それぞれのモーラに対してだいたい同じような時間を割り振って単語が発音されるということだ。日本語では、長音(伸ばす音)や撥音(はねる音)にもモーラが割り当てられているから、「広島(ヒロシマ)」と「東京(トウキョウ)」を手拍子を打ちながら同じリズム、同じ長さで発声することができる(これは英語話者には難しいらしい)。ふだんの発話だけでなく短歌や俳句も音をモーラで数えている。もっとも、モーラなんて言葉をを知らなくても(日本語話者は)日本語を話せるし短歌や俳句も作れるわけだから、これはもちろんそういう現象を観察した結果に学者さんがあとから名前を付けたものである。</p>
<p>これに対して、深沢さんの数えかた(?)が言語学でいうところの「音節」、英語でいうシラブルだ。音節というのは「母音を中心とする音のまとまり」(窪園、1999)である。音節では日本語の音声でいう長音や撥音は独立した単位とは数えない。「コ・ピー」「神戸(コー・ベ)」「東京(トー・キョー)」「関東(カン・トー)」は2音節、「山田(ヤ・マ・ダ)」は3音節、「高橋(タ・カ・ハ・シ)」は4音節になる。それから二重母音もひとつに数える。「タイマー(タイ・マー)」「会社(カイ・シャ)」は2音節だ。</p>
<p>英語では、語の発音の区切りも、語の「長さ」も音節単位であるのに対して、日本語で単語の「長さ」と言えばモーラで計るのがふつうだ。</p>
<p>さて、そうなると「タイマー」を3音とする深沢さんの数えかたはじつは両者折衷なのだけど、二重母音は2つに独立してカウントする音節式、あるいは長音を数えないモーラ式といったところだろうか。深沢さんは翻訳をされているそうだから、日本語の音の区切り意識もちょっと音節ふうになってるのかもしれない(笑)。けれど長音を数えなければきちんと日本語で短歌を詠むことはできない。</p>
<p>そういえば、歌手の一青窈が俵万智に教わりながら短歌に挑戦する、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4046214287">『短歌の作り方、教えてください』</a>(角川学芸出版、2010)という本があるのだけれど、ここで一青窈が小さい「ょ」や「ー」「っ」を一文字として数えるのか数えないのかよくわからないんです、といったようなことをしょっちゅう言うのでびっくりした。現代語はそこが怪しい段階にまで変わっちゃったのかあ……、と思ったのだけど、あとで聞いた話では彼女は幼少期は台湾で育ったのだそうで、それでモーラによる数えかたがぴんとこなかったのだね。</p>
<p>閑話休題。音節は、英語では発音を区切る単位であり、またアクセント位置を決める単位でもある(英語だけの話をしているかぎり、モーラという概念は不要だ)。じゃあ日本語は発音をモーラ単位で区切るから、アクセントの位置もモーラ単位かというと、じつはこれがそうとは断言できないのがややこしい。モーラ単位で考えて多くの場合は説明が付くのだけれど、日本語標準語ではそれだけでは上手く説明できない現象が残るという。煩を避けてくだくだしい説明は省くけれど、アクセントの高低の位置が決まる法則は、モーラだけでなく音節区切りにもとづいた位置が大事な役目を担っている。ここで挙げている説明や例はすべて<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4000066927">『現代言語学入門2 日本語の音声』</a>(窪園晴夫、1999)という本にもとづいているので、このへんについて詳しく知りたければ同書をご参照くださいな。</p>
<p>というわけで、現代の日本語標準語は、モーラを基準としつつも音節に従う部分もあるというダブスタな(笑)音声構造をしている。奈良時代よりもっと以前の原始的な日本語では、単語に二重母音や撥音などが存在しなかったと推測されることから、おそらくひじょうに古い日本語は、「母音(V)」または「子音+母音(CV)」の組み合わせのみからなる単語を用いる、モーラすなわち音節であるような言語だったのだろうということがいえる。それが、ある理由によって音節とモーラとの間にずれが生じた。その理由というのは、外来語(漢語)の流入と音便である。</p>
<p>ここから和歌の話へと続けようと思ってるのだけど長くなってしまった。続きはまた。</p>
mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com5tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-24355836622026010742012-04-20T23:01:00.000+09:002012-04-20T23:23:07.495+09:00ラ変「持たり」の由来<blockquote>
<p>二三日<ruby><rb>内</rb><rp>《</rp><rt>うち</rt><rp>》</rp></ruby>にさぶらひ、<ruby><rb>大殿</rb><rp>《</rp><rt>おほとの</rt><rp>》</rp></ruby>にもおはする<ruby><rb>お</rb><rp>《</rp><rt>(を)</rt><rp>》</rp></ruby>りは、いといたく<ruby><rb>屈</rb><rp>《</rp><rt>く</rt><rp>》</rp></ruby>しなどしたまへば、心ぐるしうて、<ruby><rb>母</rb><rp>《</rp><rt>はゝ</rt><rp>》</rp></ruby>なき<ruby><rb>子</rb><rp>《</rp><rt>こ</rt><rp>》</rp></ruby><ruby><rb>持</rb><rp>《</rp><rt>も</rt><rp>》</rp></ruby>たらむ<ruby><rb>心</rb><rp>《</rp><rt>(ここ)</rt><rp>》</rp></ruby>ちして、ありきも<ruby><rb>静</rb><rp>《</rp><rt>しづ</rt><rp>》</rp></ruby>心なくおぼえ<ruby><rb>給</rb><rp>《</rp><rt>(たまふ)</rt><rp>》</rp></ruby>。(源氏物語「紅葉賀」新日本古典文学大系)</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>こと人の<ruby><rb>子</rb><rp>《</rp><rt>こ</rt><rp>》</rp></ruby><ruby><rb>持</rb><rp>《</rp><rt>も</rt><rp>》</rp></ruby>たまへらむとも、問ひ聞き侍らざりつる<ruby><rb>也</rb><rp>《</rp><rt>(なり)</rt><rp>》</rp></ruby>。(源氏物語「東屋」新日本古典文学大系)</p>
</blockquote>
<p>「持たり(原文「もたり」)」[ラ変]は古語辞典に載ってるけど、「持たまへり(原文「もたまへり」)」は載ってないね(『旺文社全訳古語辞典』第三版と『岩波古語辞典』補訂版で確認)。載ってないけど、たぶん「持たり」の尊敬語が「持たまへり」であろう。ということは、「持たり」は動詞「持つ」+完了存続の助動詞「り/たり」の縮まった形だろうと思われる。意味的にも同じでいけるよね。</p>
<p>で、あらためて「持たまへり」を見て、なんでこうなったのかを考えると、「持ち」の末尾「ち」のタ行と「たまへり」の頭のタ行とがくっついたんじゃないかと想像できる。</p>
<p>ということは、「持たり」のほうに起こったのもそういうことだったんじゃないかと考えられないかね。つまり、辞書には「『持ちあり』の転(旺文社全訳古語辞典)」「《持チ有リ》の約(岩波古語辞典)」とあるけども(『古代日本語文法』もそう言ってる p.78)、これは「持ちたり」の転なんじゃなかろうか。助動詞「り」の起源の説明からすれば、「持ち+あり」の転こそが「持てり」なわけでしょ。それなら「持たり」になったのにはそれとは別の説明をしないと。「たり」は四段動詞に付いてもいいわけだし。さらにふみこんで想像すると、発音も「モッタリ」に近かったかもしれない。まあ空想だけど。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-15941061190858663662011-12-22T21:48:00.000+09:002011-12-22T21:50:48.008+09:00絆について<p>日本漢字能力検定協会が、今年一年の世相を漢字一文字で表す「今年の漢字」を「絆」だと発表したそうで、これは「きずな(きづな)」と読むのだろうけど、この字にはもうひとつ訓がある。それは「ほだし」という読みで、古文だとむしろこちらの語のほうがよく目にするものだ。ほだしというのはもとは馬などをつなぎ止めるために脚にはかせる綱のことで、転じて自由を束縛するものという意味を持っている。もとは「きづな」も動物をつなぎ止めるための綱のことを言っていたそうだから(梁塵秘抄などに見えるようだ)、ほだしもきずなも同じような言葉で、それでともに「絆」の字で表わすのだろう。</p>
<p>つなぎ止めるものという象徴的な意味でのほだしというのは、中古中世では、仏教思想の文脈から悟りを開くことの妨げという意味合いが強い。今流通している言葉でいうと、「しがらみ」といったニュアンスである。現代語の「きずな」も、岩波国語辞典には「断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし。」と定義しているから、この「断とうにも断ち切れない」という表現にその残滓を見ることができるといっていいと思う。</p>
<p>こんにち人と人との結びつきはその肯定的側面ばかりが強調されているが、本来人間同士の結びつきというのは、必要不可欠であると同時に、人に楽ばかりでなく苦をももたらす性質のものである。人はひとりでいさかうことはできない。そうした両義性を表わした比喩がきずな・ほだしであったわけだし、現代になったからといって人同士におけるその性質が変わったというわけではない。ただその一方の側面を見なかったことにしているだけである。</p>
<p>ところで、古文には「心の闇」という言いかたがある。これはたんに暗い胸中のありさまを一般的に表わしたものではなく、使われたときはほとんどの場合「子を思うあまりに理性を失って迷う親の心。子ゆえの迷い。」(旺文社全訳古語辞典)をとくに指して言っている表現である。わざわざ子を思う親の云々などという前置きはなくて、いきなり心の闇に、とその意味で書くのである。子を思う親の心というのも、こんにちではただ一途にその尊さのみ強調されているように思われるが、親バカなどという言葉もあるように、じっさいにはそれで人はずいぶん愚かなことをしてしまうものである。</p>
<p>ほだしや心の闇といった言葉に共通しているのは、どちらも人間の執着について着目した概念であるという点で、まあ、ここがいかにも仏教ということになるのだと思う。それを美化して今は愛と呼ぶが、なんのことはなくて、この「愛」というのももとは仏教語で「ものに対する激しい欲望。執着。」(旺文社全訳古語辞典)のことである。</p>
<p>大地震、大津波、原発事故により、多くの人びとがその生活に多大な影響を被ったが、また一方で多くの人同士が協力して、困難な状況にあった人びとを助けたり、不安に飲まれつつあった人びとを支えたりしたことも事実である。けれどもそうした救いの手というのは、多くそれまでまったく他人であった人同士のあいだで生まれた活動で、それだからすばらしいということになるのだけれども、それを絆という言葉でもって表わすのには正直どうもしっくりこないものを感じる。</p>
<p>それはさておき、大災害が起こったとき、親兄弟といった近親者のことが気にかかるのは人の情というものでこれはしかたない。ところがいざそのとき人に求められるのは、その場にたまたま居合わせた赤の他人と協力して現状を乗り切る(避難する)ことである。だからそこでは絆(きずな)ではなく、むしろそうした執着の範囲の外にいる人びとへと心を開かなければならない。いっぽうで、不安げにたたずむ隣の人をよそに親兄弟や近しい友人に電話やメールをしまくって通信回線をパンクさせるのはまさしく絆(ほだし)のなせる業である。</p>
<p>だからそういう意味で震災が絆の一字で表せるというのは間違ってはいないのだけど、まさかそういう意味で選んでいるわけではないだろうから、それはいくらなんでもひねりすぎの見方で、もちろん選んだ人びとにはそのような皮肉の気持ちは微塵もないはずだ。そうしてよかれと思って罪のない気持ちでみんなで選んだ言葉が執着の概念を含んだ一字であるというところに、欲望を肯定する世紀に生きる人びとが過去からつながる言葉をどのように読み替えていくのかというダイナミズムの片鱗が垣間見えるのはおもしろい。</p>
<p>余談だけど、古代の人びとが人同士のつながりに鋭くも執着という批判的な視点を持っていたのにその両義的側面がいまの言葉からは完全に剥ぎ取られてしまっているのはなんだか惜しい気もしなくはない。しかし、言葉というのは多くの人に流通すればするほど大味で直線的な意味に変質していくものだから、これはしかたないのだと僕は思っている。綾のある言い回しというのは、ある程度絞られた人数のコミュニティでないと、育っていかないもんだよね。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-74233758462502148132011-12-02T21:00:00.000+09:002011-12-02T21:00:08.937+09:00松阪に行ってきた(続き)<br />
6:00 に起きて朝食。<br />
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8:28 松阪 (近鉄特急京都行) 10:20 京都。<br />
<br />
京都は都会だ。京都から地下鉄に乗って京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)へ。同じ敷地内に京都市立図書館がある。風俗博物館が「平成22年12月1日より約1年半休館」なので、その一部の展示がここに来ている。<br />
<br />
期待して行ったけど、一フロアの特別展示室という感じで、ちょっと小さかった。平安京のジオラマと、「紅葉賀」の青海波のシーンがミニチュアで再現されたもの。参考にはなったけど。それにしても、青海波の場面は説明してくれたけど、ずいぶん忘れてるのかなあ。細かいところは「そんなのあったっけ」という感じだった。情けない。読みなおそう。<br />
<br />
館内にはボランティアの説明員たちがうろうろして、来館者に話しかけては講釈をする。一人旅だからこちらも話し相手として慰めになるけど、ボランティアと聞くとなんだかうら悲しくも思う。京都の歴史や古典には(僕を含め)アマチュアがわんさかいるのだ。かれらは自分たちの話をしたくてしょうがない。それで定年後、ここで話し相手を漁るわけだ。なんだか自分が惨めに思えてきたよ……。ともあれ、東京の人間には京都市や平安京の大きさがわかりにくいという話などをした。<br />
<br />
さて、枕草子に、碁盤の上に乗ってひとりでうんうんと苦労して格子を上げる場面がある。いままで僕はあれを、たまたまひとりだったからの臨時的な作業だと思っていた。つまり、ふだんは格子を上げる女房たちが、道具かなんか使ってひょいと上げるのだと思っていたのだ。ところが、ここのボランティアの方いわく、毎日毎朝ふつうに碁盤に乗って上げていたのだと説明する。僕は聞き返してしまった。ほんとうかなあ。なんだか行儀悪く感じるんだよなあ。正直なところ、この話はまだあまり信用できていない。毎日やる仕事なんだよ? 清少納言は碁盤運ぶのに、ひとりだからというのはあるけど、あんなに苦労してたじゃん。だいたい、碁盤に乗って上げるというのは(たぶんだけど)枕草子のあの箇所にしか出てきてないんじゃないかな。上げるのに道具のひとつもないというのも疑問を感じる。<br />
<br />
牛車と引く牛について。牛は真っ黒なものを想像していたが、じつは黒地に白まだらの牛があって(もちろんホルスタインではない)これが珍重されたという。小笠原だかどこだかでいまでもいるらしい。見に行きたいな。これは知らなかった。乗るときは、脇に立つ従者が車の御簾を上げる。降りるときは、牛を離し、踏み台のようなものを出して前から降りる。源平盛衰記に、木曾義仲が車は後ろから乗って前から降りるのを知らなかったという話があるという(平家物語にもあったかな?)。<br />
<br />
帰りはそのへんで蕎麦食って二条駅から地下鉄で京都へ帰る。観光はじゅうぶんにした。宣長だろうと式部だろうと、けっきょくは、古人はもう書き残された言葉の中にしかいない。観光地になっている旧跡を訪ねてみたり、当時を再現したセットを作ってみたりするのは、なにか、ほんとうにスパイス程度には想像に彩りを添えるが、そこには脈打って流れる古人の思考の現れはない。ときどき訪れて気晴らしをするにはいいけれども、最後にはまた言葉の中に潜って、書物の中に帰っていかなくてはならない、と思った。<br />
<br />mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-81441722619862536762011-11-14T21:12:00.000+09:002011-11-14T21:12:00.281+09:00松阪に行ってきた<br />
今回は作品とか文法とかぜんぜん関係ないです(笑)。番外編ということでお暇な方のみおつきあいくださいな。<br />
<br />
<a href="http://2.bp.blogspot.com/-SOW1sG-F7AI/TsASYfC_GTI/AAAAAAAAAFA/BspCUzl41RI/s1600/IMG_0453.JPG" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" height="238" src="http://2.bp.blogspot.com/-SOW1sG-F7AI/TsASYfC_GTI/AAAAAAAAAFA/BspCUzl41RI/s320/IMG_0453.JPG" width="320" /></a>じつは十月は私事でいろいろあり心身ともだいぶ疲弊してしまっていた。それで気分転換にどこかに行きたくなって、どこに行こうかと考えた末、松阪に宣長の足跡を訪ねることにしたのですよ。なんというか、古文が(というか文学が)自分を取り戻す秘密の居場所みたいな心境になってたなー。ところで、松阪は JR の駅名からすると、Matsusaka なのね。濁らない。知らなかった。<br />
<br />
9:30 東京 (新幹線) 11:48 名古屋 11:35 (特急みえ鳥羽行) 12:46 松阪。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="http://3.bp.blogspot.com/-LRHteic0xls/TsATtuZYAyI/AAAAAAAAAGQ/jZ395V0CVQ0/s1600/IMG_0500.JPG" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" height="238" src="http://3.bp.blogspot.com/-LRHteic0xls/TsATtuZYAyI/AAAAAAAAAGQ/jZ395V0CVQ0/s320/IMG_0500.JPG" width="320" /></a></div>
東京から新幹線で名古屋まで。そこから鳥羽行の特急「みえ」に乗り換える。名古屋から松阪の特急は、ほとんどずっと田畑の続くのどかな田舎風景。畦に沿って、ぽつんぽつんと飛び飛びに彼岸花がむらむらと腫れもののように咲いている。なんだか不吉な雰囲気のする花だ(そんなことない?)。<br />
<br />
ホテルに荷物を預けて昼食をとってから、駅前の観光センターというところで宣長記念館への行きかたを教えてもらう。歩いて二十分くらいで行けるとのこと。けっこう歩くがタクシー呼ぶほどでもないかと、歩くことにした。そのとき道順を蛍光ペンでなぞってくれた地図をもらっていたのに、道中で落としてしまった……。<br />
<br />
宣長記念館は松阪城趾敷地内にある。旧宣長邸の建物も、ここに移設されて残っている。屋敷のあった場所も、城趾からほど近いところに宣長邸跡としてちゃんと残されている。といってもこっちはただぽかんと空間が残されてるだけだったけど。<br />
<br />
宣長の墓は見なかったなあ。というか普通の人が行って見られるものなのかな。これはまたこんどの課題。<br />
<br />
<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: right; margin-left: 1em; text-align: right;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="http://1.bp.blogspot.com/-L9JDX3JYOes/TsATKOJQ3dI/AAAAAAAAAFI/Pk9Sf9rB1tg/s1600/IMG_0461.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" height="200" src="http://1.bp.blogspot.com/-L9JDX3JYOes/TsATKOJQ3dI/AAAAAAAAAFI/Pk9Sf9rB1tg/s200/IMG_0461.jpg" width="149" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">宣長顔ハメ!</td></tr>
</tbody></table>
記念館には自筆原稿や宣長の残した各種覚え書きなどが展示されている。彼が使っていた箱入りの二十一代集が展示されていたが、三代集と新古今だけほかと比べて圧倒的に汚れている。つまりこの四篇をそれだけたくさん手に取ったということだ。これはまあ当然というか、納得。三代集と新古今が彼にとって特別な重要性を持った歌集であったことは、『排蘆小船』などから知られること。その汚れた四篇をじっと眺める。<br />
<br />
贈答品リストから、家の歴史などまで、多種多様の膨大な覚え書きが並んでいる。宣長の記録マニアぶりが伺える。かれは源氏物語から四季の描写のみを抜き出したノートも作成していた。さすがだ。<br />
<br />
ほかに面白かったのは、かれが十七歳の時に作成したという詳細で大きな一枚絵の日本地図。「端原氏系図及城下絵図」の件もあるし、やはり若い頃のかれには物語創作を夢見る設定マニアといった側面があったように思える。<br />
<br />
そういえば、吉川幸次郎は日本思想大系40「本居宣長」の「文弱の価値」と題した解説において、江戸時代の学者の肖像が多く帯刀しているなか、「ひとり宣長の肖像は、刀と無縁である」と書いた。けど資料館には宣長の刀もちゃんとあった。さらに新しい刀が買いたいと母親にねだっている手紙まであった(笑)。僕はこの吉川の肖像からの洞察が好きなので茶々は入れたくないんだけど、かれがつねに刀と無縁であったわけじゃなかったんだな、と(笑)。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="http://4.bp.blogspot.com/-WoCcdap7BXI/TsATNphTsDI/AAAAAAAAAFQ/IMKjdXS9xc4/s1600/R0013881.JPG" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" height="212" src="http://4.bp.blogspot.com/-WoCcdap7BXI/TsATNphTsDI/AAAAAAAAAFQ/IMKjdXS9xc4/s320/R0013881.JPG" width="320" /></a></div>
旧宣長邸には説明のおじさんが待ち受けていて、ここ(石段の上)に上がりなさいとか、写真を撮りなさいとか、石畳は三菱財閥のなんたらかんたらとか、開け放たれている二回の四畳半の床の間を指して、あそこで古事記伝が生まれたのですとか、よどみない説明をたたみかける。江戸時代から残る軒瓦が、二十枚だけ並んでいるというのを教えてくれた。裏に板を敷いていない、なんとも頼りない瓦。台風は大丈夫だったんですか、と聞いたら、説明を中断して自分で答を考えなければいけないのが面倒だという顔をしながらも、石垣に守られてるおかげでそんなにめちゃくちゃにはならずにすんだのだと言った。<br />
<br />
邸の中へも通りながら解説してくれる。入ってすぐは診療の間(といってもかれは往診の人だったのでほとんど家にいなかったらしい)。それから講義をする間があって、その奥に二階へ上がる階段や行灯。棚になっている階段は上の書斎へと通じている。小林秀雄が、谷崎潤一郎がこれをじっと見つめておりましたと、おじさんは見てきたようなことを言う。谷崎はこれをスケッチしたと言うから、それならどこかで見られるんじゃないかな。聞いておけばよかった。<br />
<br />
宣長の家は行灯ひとつで夜は薄暗い生活をしていたらしい。読むのも書くのも宣長はそれで過ごしたが、息子の春庭はそれで目が悪くなったのかもしれない。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="http://4.bp.blogspot.com/-lfVVoMDe-nA/TsATR54NwgI/AAAAAAAAAFY/hmNFFio4Sa8/s1600/IMG_0481.JPG" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" height="238" src="http://4.bp.blogspot.com/-lfVVoMDe-nA/TsATR54NwgI/AAAAAAAAAFY/hmNFFio4Sa8/s320/IMG_0481.JPG" width="320" /></a></div>
その奥は竈や風呂場。ここでおじさんが「げすのかんぐり」にかけたつまらない洒落を棒読みで述べたような気がするが、はっきり聞き取れなかった。そこから中庭へ抜けて、勝手口からそとに追い出された。立て板に水を流すような説明で、これではゆっくり雰囲気に浸る余裕はない。あのおじさんがいなかったから、小林秀雄も谷崎もゆっくり宣長に思いをはせることができたのだ。<br />
<br />
そういえば、例の有名な「大和心を人問はば」の和歌の載った自画像だが、あれを説明するときにおじさんは「太平洋戦争で言われました、たばこの名前になりました、宣長先生の言葉が戦争に悪用されてしまいました」と(いうようなことを)言った。たばこのことは知らなかったな。なんだろう。<br />
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<a href="http://1.bp.blogspot.com/-vd9Gq0Ry6c0/TsATVe9z_rI/AAAAAAAAAFg/7mlReYqOs1k/s1600/R0013882.JPG" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="133" src="http://1.bp.blogspot.com/-vd9Gq0Ry6c0/TsATVe9z_rI/AAAAAAAAAFg/7mlReYqOs1k/s200/R0013882.JPG" width="200" /></a>城趾をあとにして、それから旧宣長邸跡に行く。向かいは長谷川邸といって、当時の大きな商人のお屋敷だった。松阪は木綿の町なのね。宣長の家も木綿商だった。いまもたくさんの木綿のお店が並ぶ。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="http://3.bp.blogspot.com/-u8_4UmShkiQ/TsATZnWmxsI/AAAAAAAAAFo/waN8LDXKG4w/s1600/IMG_0490.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="239" src="http://3.bp.blogspot.com/-u8_4UmShkiQ/TsATZnWmxsI/AAAAAAAAAFo/waN8LDXKG4w/s320/IMG_0490.JPG" width="320" /></a></div>
<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="http://2.bp.blogspot.com/-pEUjaUpQqrw/TsATfLqT-5I/AAAAAAAAAFw/B3H4MPDGQ1s/s1600/IMG_0492.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://2.bp.blogspot.com/-pEUjaUpQqrw/TsATfLqT-5I/AAAAAAAAAFw/B3H4MPDGQ1s/s200/IMG_0492.jpg" width="149" /></a><a href="http://2.bp.blogspot.com/-pEUjaUpQqrw/TsATfLqT-5I/AAAAAAAAAFw/B3H4MPDGQ1s/s1600/IMG_0492.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><br /></a></div>
そのすぐ近くに小さな喫茶店があったのでそこで休憩。お店の庭にカエルのかわいい彫刻が並んでいた。じつは僕はカエルが大好きなもので、思わず、「これ、かわいいですね」とお店のおばさんに言ったら、「せんとくんの藪内さんが作ったのよ」と教えてくれた。へえ。<br />
<br />
コーヒー飲んで、そのあと、どうしても気になったので、最後に「カエルがかわいいので庭に出て写真を撮らせてください」とお願いしてしまった。<br />
<br />
<br />
<table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto; text-align: center;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="http://3.bp.blogspot.com/-dOMqLOfGpGw/TsATi0vV_wI/AAAAAAAAAF4/lQUElNs9cMM/s1600/R0013884.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" height="213" src="http://3.bp.blogspot.com/-dOMqLOfGpGw/TsATi0vV_wI/AAAAAAAAAF4/lQUElNs9cMM/s320/R0013884.JPG" width="320" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">カエルかわいい</td></tr>
</tbody></table>
<table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto; text-align: center;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="http://1.bp.blogspot.com/-Ym3gBgQug-4/TsATmGqCtyI/AAAAAAAAAGA/In-JaAqPzzM/s1600/R0013888.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" height="213" src="http://1.bp.blogspot.com/-Ym3gBgQug-4/TsATmGqCtyI/AAAAAAAAAGA/In-JaAqPzzM/s320/R0013888.JPG" width="320" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">こういう写真が10枚くらいある(笑)</td></tr>
</tbody></table>
<a href="http://1.bp.blogspot.com/-krcyd2IfqeQ/TsATqBD0f8I/AAAAAAAAAGI/GIHkWNgcc4I/s1600/IMG_0495.JPG" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" height="149" src="http://1.bp.blogspot.com/-krcyd2IfqeQ/TsATqBD0f8I/AAAAAAAAAGI/GIHkWNgcc4I/s200/IMG_0495.JPG" width="200" /></a> 旧宣長邸跡のすぐそばにあるこの「<a href="http://www.gyugin-honten.co.jp/bancya/index.html">牛銀番茶亭</a>」、この店自体も宣長の弟子の須賀直見のすまいの跡だったそうで。<br />
<br />
ホテルに戻る途中でお土産のお菓子屋さんがあったので「宣長せんべい」を買う。普通のせんべいだが、<b>宣長の名が入っているということに価値があるのである</b>。友だちにあげたらうけるかなあ、と。あ、写真撮っときゃよかった。<br />
<br />
夕食をとって松阪で一泊。まあ来てよかったのかなあ、とか思いながら眠りについた。翌日はちょっとだけ京都に寄ってから帰ることにしていた。ということでもうちょっと続きます。mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-91293694682409441462011-10-27T21:35:00.000+09:002011-10-27T21:35:00.492+09:00iPhone / iPod touch / iPad の古語辞典<br />
体調がよくなくて、なにか書くと言ってからまただいぶ経ってしまった。リハビリがてら軽い話から。iPhone / iPod touch / iPad で使える古語辞典について。<br />
<br />
現時点で古語辞典の名前を冠しているアプリは、「角川全訳古語辞典」と「旺文社全訳古語辞典」とふたつある。もうひとつベネッセのがあるけど、これはベネッセの会員でないと使えないらしいので無視。<br />
<br />
<a href="http://www.imagineer.co.jp/p/kogo/index.html">角川全訳古語辞典</a><br />
こちらのほうが先に出た。なので出た当時はほかに選択肢はなかった。基本的な機能に不満はないけど、ちょっと字組が読みにくい。それと iPhone / iPod touch 専用で、iPad の広い画面は生かせないのが残念。<br />
<br />
<a href="http://www.monokakido.jp/iphone/kogo.html">旺文社全訳古語辞典</a><br />
最近登場した。「<a href="http://www.monokakido.jp/iphone/daijirin.html">大辞林</a>」の物書堂なので組も綺麗だし文句はない、けど物書堂なら縦書きをやってほしかった! こちらは iPad にも対応しているので、両方持ってる人ならこちらのほうがいいかもしれない。大辞林との連携も便利。でも百人一首の読み上げ音声は容量の無駄遣いのような気がする。余談だけど、これに限らず和歌を普通の読み方で朗読する音声って意味あるのかな、と最近思う。<br />
<br />
じつは基本的な古語なら「大辞林」でだいたい足りてしまったりしますが。とはいえ、つねに最低でも一冊は古語辞典を引ける状態にあるという安心感はすばらしい。あー岩波古語辞典はなんて書いてあるかなー、と気になることも多いけどね。<br />
<br />
どちらのアプリも、図版類はとりあえず載せましたという感じでソフトウェアならではの見せ方になってないのが残念。というか、書籍版・電子版関わらず、古語辞典の付録の図版解説類はいいかげん再考の時期に来てるんじゃないだろうか。寝殿造とか。どれも同じようなのを義務的に収録しているという印象がある。いろいろアイデアあると思うよー。<br />
<br />
そうそう<a href="http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201103000881">『古典基礎語辞典』</a>買ったよ。のんびり少しずつ読み進めるつもり。<br />
<div>
<br /></div>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-44740969000094875142011-10-03T21:46:00.000+09:002011-10-03T21:46:00.214+09:00近いうちに少しだけなにか書くかも。mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-67925948255705097932011-01-22T08:52:00.004+09:002011-01-22T08:58:14.424+09:00冬ごもり<p>ご無沙汰してます。最近は平家物語読んだりしています。</p>
<p>いろいろ思うところあって、古文を書くという無謀なことをはじめることにしました。筋トレのようなものです。「<a href="http://huyugomori.blogspot.com/">冬ごもり</a>」というブログです。正直恥ずかしいし、おもしろくならないと思うので、読めとは言いませんが(笑)、とりあえずお知らせまで……。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-45431429112984776122010-07-30T21:43:00.001+09:002010-07-30T21:43:00.941+09:00後書き<p>予定していた百回を前回で超えたので、これでひとまずこのブログはおしまいです。一年の予定を半年以上もオーバーしてしまった。それでも読んだこと、考えたことのぜんぶは書ききれなかったな。しかし楽しかった。書きたいことがたまってきたらいつかまたここで再開するかもしれないので、記事は消さない。そのうち検索に引っかかって誰かの役に立つかもしれないしね。</p>
<p>『源氏物語』読了を報告できたのは延びてよかったことのひとつと言えるかもしれない。数年前まで古典の予備知識ほぼなしだった人間でも、こうして源氏を読めるとこまでいけるということを実証できた(笑)。</p>
<p>いろいろ出しゃばって無茶なことを書いてしまったかもしれない。引用はできるだけ出典を辿れるようはっきりと書くよう心がけたつもりだけど、間違った解釈で引いてしまったりしていないかだけが心配だ。記事を読んだ皆さまにおかれては、かならず明記した出典に直接あたってその妥当性を確認していただきたい。</p>
<p>今までよりペースは落ちるかもしれないけど、ここは書かなくなっても個人的には引き続き古文を読んでいきます。平安時代に限ってもまだ読んでいない作品はたくさんある。『大鏡』『宇津保物語』『狭衣物語』『栄花物語』等々。後半はあまり触れることができなかったけど、文法的な興味も尽きていない。また、ついに和歌についてはいまだに大きく理解が遅れていると感じている。それから、活字本ではなく古写本のままで少しでも読めるようにもなりたい。とりあえず次は『大鏡』かな。角川の文庫を買ってある。</p>
<p>タイトルについて。“pearly hailstone” というのは、宣長の著作「玉あられ」の我流英訳です。気づいた人はいただろうか……。</p>
<p>期間中ご指導ご感想のコメントをくださった方々ありがとうございました。更新はしなくなるけどメールやコメントは引き続き受け付けています(コメントのほうはスパムが入ったら状況次第で新規投稿を停止する可能性あり)。古文の話題であればなんでも遠慮せずに教えていただければと思います。</p>
<p>ではみなさん、ごきげんよう。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-61390640229958931942010-07-29T21:42:00.002+09:002010-07-29T21:42:00.173+09:00宇治十帖について<p>ようやく宇治十帖を読み終え、これで源氏物語はすべて読み果てたことになる。さて、その宇治十帖だが、源氏の他の巻々との雰囲気の違いから、これを紫式部の作でないのではないかとする説が古来より唱えられてきた。よく推定されるのは、式部の娘の大弐三位である。</p>
<p>本居宣長は宇治十帖も式部作であると考え、『紫文要領』でその証拠のひとつとして「浮舟」の巻にある「里の名をわが身にしれば」の歌が紫式部の歌として新拾遺集に入れられているということを指摘している(岩波文庫版 p. 10)。</p>
<p>「竹河」を式部作でないと指摘した武田宗俊は、それ以外の巻はすべて式部作であるとした。ちょっとどこを引用したらいいのかメモしておくのを怠ったせいで適切な個所を得ないのだけど、別件について論じているところで、「椎本」の巻の「奥山の松葉に積る雪とだに消えにし人を思はましかば」の歌が『伊勢大輔集』に式部の歌として載っている「奥山の松葉に凍る雪よりも我身世にふる程ぞはかなみ」を作り替えたものであるという指摘をしている(『源氏物語の研究』、p. 33)。</p>
<p>これら歌からの指摘はあながちに無視できないのではないかな。式部の文体は「若紫」から「帚木」「若菜」と見渡してみてもずいぶんの変遷をしてきている。文体だけからは安易にこれらをひっくり返して他者の作と認めることはできない。</p>
<p>また、大野晋は、自分は宇治十帖他作者説の可能性を捨てていなかったが『紫式部日記』の精読から宇治十帖も式部作と考えるようになったと言っている(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語(上)』中公文庫、p. 12 および大野晋『源氏物語』岩波現代文庫)。たしかに『紫式部日記』に垣間見える男性嫌悪的な態度は、「総角」や「浮舟」「蜻蛉」の巻などと通底する。</p>
<p>『紫式部日記』に、道長の側室腹の若君たちが女房の局への出入りを許されて乗り込んでくる場面がある。若い盛り(みな十五歳前後)の男たちに若い女房らも色めき立つが、年配である式部は奥のほうに隠れている。</p>
<blockquote>
<p>高松の小君達さへ、こたみ入らせ給ひし夜よりは、女房ゆるされて、まもなくとほりありき給へば、いとはしたなげなりや。さだすぎぬるを效にてぞかくろふる。五節こひしなどもことに思ひたらず、やすらひ、小兵衛などや、その裳の裾、汗袗にまつはれてぞ、小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる。</p>
<p>(『紫式部日記』岩波文庫、p. 56)</p>
</blockquote>
<p>若君にからまれて上げた女房の黄色い声を「小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる」と書く。僕はここを読んだ時ぞっとした記憶がある。この表現に式部の男女間の語らいへの強烈な嫌悪と不信が見えたような気がしたのだ。「蜻蛉」を読んだ時、浮舟がいなくなったあと、その慰めを求めて宮中の女房を漁る匂宮や薫の描写に、僕は日記のこのくだりを思い出した。</p>
<p>さて、そうした印象とは別に、もうひとつ小説としての技術的な視点からも思うところがある。「匂宮」で登場人物を紹介したあと、「橋姫」「椎本」ではひじょうに周到に伏線が張られている。この状況設定は「総角」での膨大な心理描写を導くためのものである。また、ストーリーが実質的に大きく動くのはさらにそのあと「早蕨」からである。僕は、別人が引き継いで書いたとするなら、こんな地味で周到な展開にはしない(できない)と思う。</p>
<p>デビューしたての物語作者は、ストーリーの早い段階で読者を引きつけなければならないので、目を引くエピソードを定期的に発信しようとする。『落窪物語』を思い出してみればいい。『源氏物語』でさえ序盤の紫上系ではそうだった。だが、ここでは「匂宮」の薫の体香という設定がやや好奇の目を引くものの、その後はじつに地味な展開が続く。読者の目を引くことに関心がないのではないかと思えるふしすらある。大野晋は宇治十帖を実験小説と言ったが、こう言ってよければ、作者は宇治十帖において、小説を自分の思考の道具として使っているような印象がある。これは散文を膨大に書き続けてきた人間の書きっぷりで、だれかがぽっと出てきて引き継いだ時に生まれるような文章ではない。</p>
<p>上記の印象から、よほど決定的な外部の証拠がない限り、宇治十帖が式部作でないというのは、なかなか受け容れがたいように思う。まあ問題は、自分の読解がどこまで信用できるかというところなのだが……。宇治十帖は「若菜」上下と同様、もう一度読む必要があるな。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-73967061674167409422010-07-26T21:41:00.001+09:002010-07-26T21:41:00.434+09:00『源氏物語』を読み終える<p>おおよそ一年半かかって、ようやく『源氏物語』を読み終えた。読み終えたというだけでもそれなりに感慨があるけれども、純粋に優れた作品を完読する機会を得られてよかったと思う。今後源氏に関係した言説に触れるたびにいちいち後ろめたい思いをする必要がないのもいいことだね。</p>
<p>以下は差し出がましいが、これから源氏を原文で読もうという人への助言。</p>
<p><strong>現行の巻の順序でなく書かれた順で読む。</strong>これがいちばん言いたいところ。新しい研究の成果を取り入れない理由はない。21世紀の人間が源氏読解においてアドバンテージを持てる唯一の要素。これを実践するだけで挫折率はそうとう下がると思う。ここでも紹介してきたけど、<a href="http://pearlyhailstone.blogspot.com/2010/02/blog-post_11.html">現行の巻の順序は書かれた順とは違っている</a>。詳しくは、<a href="http://pearlyhailstone.blogspot.com/2010/04/blog-post_29.html">武田宗俊『源氏物語の研究』</a>などを参照のこと。巻の順に読むというのは『銀河英雄伝説』や『ポーの一族』を時系列順で読むとか、そういうことに近い。つまり、二回目以降の人向けの読み方だといえる。書かれた順で読むほうが、頭に入ってきやすいはずである。とくに前半部は、巻順ではごちゃごちゃしているところが、たいへんすっきりとする。また後半では「紅梅」の位置に注意する。</p>
<p>ここでいう「書かれた順」とは、次のような順である。</p>
<ol>
<li>「1. 桐壺」。これはおそらく次の紫上系がある程度書かれた後にあらためて用意された巻とおぼしいのだが、どのみちストーリー的にはここから始まるとしかいえないので、これに限っては書かれた順でなく最初に読んでおけばいいと思う。が、必ずしも最初でなければならないわけでもない。紫上系を読んでいる途中で外伝的に寄り道して読んでもよい。</li>
<li><strong>紫上系</strong>。「5. 若紫」「7. 紅葉賀」「8. 花宴」「9. 葵」「10. 賢木」「11. 花散里」「12. 須磨」「13. 明石」「14. 澪標」「17. 絵合」「18. 松風」「19. 薄雲」「20. 朝顔」「21. 少女」「32. 梅枝」「33. 藤裏葉」。</li>
<li><strong>玉鬘系</strong>。「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」「6. 末摘花」「15. 蓬生」「16. 関屋」「22. 玉鬘」「23. 初音」「24. 胡蝶」「25. 螢」「26. 常夏」「27. 篝火」「28. 野分」「29. 行幸」「30. 藤袴」「31. 真木柱」。「玉鬘」以降は通称「玉鬘十帖」と呼ばれる。</li>
<li><strong>「若菜」以降</strong>。「34. 若菜上」「35. 若菜下」「36. 柏木」「37. 横笛」「38. 鈴虫」「39. 夕霧」「40. 御法」「41. 幻」。</li>
<li><strong>「匂宮」「紅梅」「竹河」、宇治十帖</strong>。ただし順序は「42. 匂宮」「45. 橋姫」「46. 椎本」「47. 総角」「48. 早蕨」「43. 紅梅」「49. 宿木」「50. 東屋」「51. 浮舟」「52. 蜻蛉」「53. 手習」「54. 夢浮橋」。「44. 竹河」は外伝として気が向いた時に適当に読む。</li>
</ol>
<p><a href="http://pearlyhailstone.blogspot.com/2010/02/blog-post_15.html">読書進捗の話をした時の表</a>もご参考に。</p>
<p>さらに、上記の読みかたを実践してもなお整合の取りきれない個所がいくつかあることも知っておいて損はない。これらはいずれも(偶然か意図的かは別にして)巻の欠落が原因のように見える。</p>
<ul>
<li>「1. 桐壺」と「5. 若紫」の間に明らかなストーリー上の欠落がある。この欠落部分については「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」にも書かれていない。ここには藤壺宮と源氏との密会、朝顔斎院や六条御息所と源氏とのなれそめが描かれていたはずである(宣長はこれを補完するために「手枕」を自分で書いた)。つまり、実質源氏物語は「5. 若紫」から、<strong>ストーリーの途中のところから始まっている</strong>。これはもうそれしか残ってないんだからしょうがない。上演時間に遅れてやってきた客のようなものと、あきらめるしかない。</li>
<li>「1. 桐壺」は「5. 若紫」以前の背景を描いたものだが、必要なぜんぶを説明してくれているわけではない。「14. 澪標」で語られる<a href="http://pearlyhailstone.blogspot.com/2010/02/blog-post_22.html">宿曜の予言</a>などはその例である。</li>
<li>紫上系、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間に欠落があるようで、夕霧や柏木の官位がここで飛んでいる(しかしここは明石の姫君の裳着の話が連続しているので、このふたつはそれほど離れた巻同士でないことは間違いない)。それが玉鬘十帖で説明されているかというとされていない。どうも、玉鬘十帖は、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間にあった巻を抜き取って、そこに差し替える形で挿入されたような感じである。玉鬘十帖に一時的に紫上系によく見られる華やかな描写が復活するのはそのことと関係があるかもしれない。</li>
<li>底本によっては、「47. 総角」で夕霧の官位が混乱している。これは「紅梅」の位置が誤られたことによる混乱からきているのだと思われる。あまり気にしなくてもいいっぽい。詳しくは武田宗俊の論を参照。</li>
</ul>
<p><strong>訳文はいらない。</strong>まず基本的に、全訳と名の付いている本の訳のほとんどは意味がない。意味のある訳を読みたいのなら、与謝野源氏なり谷崎源氏なり、それ自体を鑑賞の目的として耐えうるものを読めばいい。全集で全訳を載せているようなやつの訳文は、日本語とはいえない。あれは古語の助詞・助動詞を機械的に現代の助詞・助動詞に置換した人工言語みたいなものだ。難しければ難しい原文になるほど、訳文はあてにならなくなっていく。あれの無意味さはいくら強調してもしすぎることはない。それに源氏物語は大著だ。それを読もうという時に、それと同じかそれ以上の分量の駄文を並行して読むというのは時間と頭の無駄遣いだと思う。</p>
<p>以前<a href="http://pearlyhailstone.blogspot.com/2010/04/blog-post_29.html">脚注の落とし穴について</a>書いたことがあるけど、そうはいっても注は絶対に必要である。注の付いてない原文で読もうという原理主義にまでいくのはやり過ぎ。目で追ってても内容は理解できずに終わる。そういうのは二周目以降にとっておこう。</p>
<p><strong>巻ごとに解説書で復習する。</strong>ということは、なにか源氏物語の解説書を用意したほうがいいということです。巻ごとに、あらすじとか、見どころがまとまっているやつがいいかと。僕の場合はそれは対談『光る源氏の物語』だった。でも他の本でもなんでも、好きなやつでいいと思う(でも対談は読書の孤独を紛らわすのにはよかったかな)。ひと巻読み進んだ後に、そこで何が語られていたのか、ストーリーはどう動いたのかをそうしたガイドブックで復習しておく。前に読むと読む気がなくなるので後がいい。ちゃんと読めてればもちろん不要なことではあるけれど、保険としてあったほうが最期まであきらめずに読めると思う。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-32819776478522019782010-07-22T21:40:00.000+09:002010-07-22T21:40:00.377+09:00「匂宮」「紅梅」「竹河」について<p>大野晋と丸谷才一の対談『光る源氏の物語』では、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖についてその文章の拙さと冗長さとを挙げて式部作ではないとし、「読者はこの三巻を飛ばすほうがいい」と言っている(中公文庫版下巻、p. 274)。僕は源氏物語を読むにあたって当初この対談を大まかな羅針盤としていたので、「幻」のあとにはまず「橋姫」へと進み、飛ばした三帖は宇治十帖を読みながら適当なタイミングで読んでいこうと考えていた。</p>
<p>「匂宮」「紅梅」「竹河」を飛ばして、いきなり「橋姫」から読み出してもストーリー上破綻はないというのは、おおむね間違ってはいない。しかし要所要所で言及される薫の体香についての記述は、どうも「匂宮」の記述を前提としていると考えたほうがいいように感じた。</p>
<p>薫は女三の宮と源氏(実は柏木)の子で、自分の出生に疑問を持ち、そのせいか厭世的な性格を持つ人物である。彼には、なぜかその体からえもいわれぬいい匂いがするのだという設定が「匂宮」にある。おとぎ話を卒業して現実的な人間模様を描くことに成功した源氏物語が、ここでなぜまたこんな SF 的な設定を持ってきたのかというのが昔から疑問視されていて、それが「匂宮」他者作者説の唱えられる一因ともなっていた。</p>
<p>しかし、宇治十帖の前半部には、薫の放つ香についての言及が要所要所に出てくる。そういう個所に出くわすと、思い込みを防ぐために、それらが「貴人としての一般的な描写として素晴らしい香を焚きしめているのだと述べているだけではないか」と警戒しつつ注意深く読むようにしていたのだが、やはりそれでは苦しいように思われた。</p>
<blockquote>
<p>……宮は、いとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香のいと深くしみ給へるが、世の常の香《かう》の香《か》に入れたきしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしと咎め出で給て、いかなりしことぞとけしきとり給に、……</p>
<p>(「宿木」新日本古典文学大系『源氏物語(五)』、pp. 71-72)</p>
</blockquote>
<p>薫の体香について、はっきりとそれが「薫きものの香」であるように記述された個所は見つからない。むしろ上記引用などは、やはり彼自身の体香という設定を前提としていると考えたほうが自然である。「匂宮」が後から書かれたというのであれば、こうした記述に生じうる微妙な齟齬まで書き換えたと考えなければならず、それはちょっとありそうにない。</p>
<p>そんなことを考えながら読んでいたら、武田宗俊の『源氏物語の研究』でははっきりと「匂宮」「紅梅」は式部作と断ぜられていてなんだか拍子抜けしてしまった。式部作でないと思いながら読むからそうという理由がなくてもなんとなく疑わしく思ってしまうのだが、いったん疑ってしまったものをやはり式部作と断言するのは難しい。しかし決定的な証拠がなければ式部作に帰するのが自然である。丸谷才一は思い込みで文が拙いと言ってしまったのだろうか。</p>
<p>「紅梅」についても、諸所にそれを前提とした記述が見られる。この巻が式部作でないと疑われたいちばんの理由は登場人物の官位が合わないという点なのだが、これは武田宗俊の同書の論文で解決してしまった。「紅梅」を「早蕨」の後、「宿木」の前に入れるとその問題は起らない。この説が正しいように思う。「宿木」には「紅梅」の内容を前提にした記述が見られるので、これもよっぽどの理由が出てこない限り式部作だろう。</p>
<p>文章が拙いというのはなかなか証拠として挙げにくい事実である。自分の読解力がないだけかもしれないし。「紅梅」の文章がごちゃごちゃしているというのは、そもそも書こうとしている事実(人物関係)がごちゃごちゃしているせいかもしれない。また、あんまり上手くないと思った巻が他になかったわけではない。僕は「鈴虫」の巻で、これは名文とは言い難いのではと思った記憶がある。</p>
<p>「竹河」については以前書いたとおり、これは直接的な剽窃を指摘されているので、式部作でないこと確実だろう。しかしにもかかわらず文章の出来不出来からこれを式部作でないと判定するのは難しいと思う。結局のところ、文の格調が高いか低いかは、著作者の判定にはあまり信用できないということなのかもしれない。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-24276282213409212352010-07-19T21:39:00.000+09:002010-07-19T21:39:00.513+09:00書き残された言葉と死について その二<p>一条天皇の時代には『土佐日記』や『伊勢物語』が生まれてからすでに数世代が経過している。『蜻蛉日記』が書かれてからも一世代以上経っている(道綱母は生きていたかもしれないが)。中宮定子や清少納言は時の人ではなくなったが、『枕草子』は読み継がれていたようだ。</p>
<p>道綱母は『蜻蛉日記』がいつごろまで読み継がれるかを意識していただろうか。また、紫式部は『源氏物語』がいつごろまで読み継がれるかを考えていただろうか。千年以上とまでは想像しなかったかもしれないけど。</p>
<p>『蜻蛉日記』の作者はおそらく『土佐日記』『伊勢集』などを先行する存在として意識していただろう。紫式部まで下ると、そうして残された『蜻蛉日記』も強く彼女の意識に訴えていたに違いない。李杜をはじめとする、はるか昔の大陸の文人たちのことも考えたと思う。</p>
<p>さて、なんの話かというと、<strong>書き残されたものは自身の死を乗り越えてなお残る</strong>、というアイデアについてである。</p>
<p>『蜻蛉日記』や『源氏物語』には、さらには『賀茂保憲女集』にも、自身の書いたものが世の中に出回っているほかの読みものと同様に残ってゆくものであることへの自覚と、また残してやろうという意志が感じられる。その原動力は嫉妬だったり自責だったり卑下だったりするのだが、何にせよそうしたものを自分の存在とともに流れて消えてしまうものにはできないと、彼女たちが考えたであろうことが感じられる。僕はこれらの散文作品がそうした私的な動機だけによって生まれたとは考えないが、また一方でそれがまったく関与しなかったというのもあり得ないことだと思う。</p>
<p>(それをあまり感じない仮名文学もある。『落窪物語』には、人を楽しませようというサービス精神は感じるが、ここでいう思念のようなものは感じられない。『堤中納言物語』には趣向を凝らした心意気こそ感じるものの、その意識はひじょうに刹那的なところに留まっているように思える。『和泉式部日記』にも感じない。『枕草子』にもあまり感じない。ただ、その日記的章段群には、書かれた時点ですでに「もはや回顧することしかできない世界」が描かれておりその第一の消費者がおそらくは作者自身であったこと、またその結果として「書き残されたものが滅んだ後も生き残る」というテーゼを図らずも体現してしまっていることによって、同種の魅力を放っているようなところがある。)</p>
<p>だから、平安時代の仮名文学を読むということは、読み手にとってだけでなく、<strong>書き手にとっても</strong>やはり<strong>生死の境界を超えた対話</strong>であるということになる。古文を読むというのは、そういうところが多分にある。</p>
<p>……うーん。前回にもましてわけがわからないことを言っていると思われたことでしょう。前回のと合わせて、これらのことはまだ自分の中でもうまく考えが整理できてない。というか、もともと妄想じみているので、合理的に言語化するのは無理のような気もする。が、なんとなくここを終わらせる前に書いておきたかったので、わからないなりになんとか書いてみたという感じ。お目汚し御免。次から源氏の話に戻ります。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-70635556192979022962010-07-05T21:55:00.002+09:002010-07-05T21:55:00.711+09:00書き残された言葉と死について その一<p>古文というのは学ぶ側にとっては一種の語学ということになるわけだけど、ほかの多くの語学とは違い、それでほかの誰かとコミュニケートできるようになるわけではない。また一般的には、その言語で自分が新たになにかを書くということもない。英会話などと比べれば、なんとも孤独な語学だといえる。</p>
<p>また、読書というのもひじょうに孤独なものだ。読書会とか朗読会とかいったりするものの、本質的には、近代的な意味での読書というのはきわめて個人的で孤独な体験である。</p>
<p>ところが、その個人的で孤独な作業の中で、読書する人の頭の中に、生き生きと話す人物の息づかいや、雑踏の喧噪やらが鮮やかに聞こえてくることがある。それも読書の特徴である。古文で書かれた文章にあっても、それは起こりうる。死んだ言語である古文がかつて生きていたという当然の事実を再認識するのは、そういうときである。辞書や文法書をひっくり返した苦労がそれを助長するのかもしれないが、千年前の中流貴族の女性の言葉が「聞こえた」と錯覚するときがある。古文というのは死んだ言語であるから、その話者も当然この世の人ではない。すると、この錯覚がいささか怪談めいた可笑しなアイデアを呼び起こす。<strong>死んであの世で古代の人と会話する</strong>、というアイデアだ。</p>
<p>死んだ人とかあの世とかを本気で信じるわけではないのだが、生きた古文という矛盾したものをひねり出すには、頭の中でそういう無茶でもしないことにはうまくいかない。だけど、こういう夢想をしたのは自分だけではないんじゃないかな。</p>
<p>なにで読んだか忘れてしまったけど、かつて、大野晋は冗談で「僕は紫式部と当時の言葉で会話ができるんだ」とか、そんなようなことを言ったことがあったらしい。本当だとしたら、大学者の大野晋もあるいは同じようなことを考えていなかったとは言えないわけだ。本居宣長だってそうだ。『紫文要領』は、つまるところは式部が源氏物語を書いたときの意図に従って読めという趣旨だが、それは必然的に平安時代のライブな作者/読者という存在を意識することになる。彼が擬古文で各種の書物をものしたのには、ひとつには「平安時代の人間に提出して通用するものを書く」という愉快な規範意識もあったのではないだろうか、などと空想する。</p>
<p>空想したところで、そうだという証拠もないし、なにか有用な知見が得られるというわけでもないので、これはただ空想してそれだけのことなのだが、そんなことも考えるという話。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-36294961560461044292010-05-20T21:22:00.000+09:002010-05-20T21:22:00.681+09:00「夕霧」と「御法」「幻」について<p>「若菜」上下から「柏木」「横笛」までは、登場人物の行動や心理が物語の筋と緻密に絡み合い一体となっており、どの巻も前後の巻と切り離すことができない。作者の書き手としてのエネルギーがいちばん熱く注がれているのがこの四巻だと思う。一連のできごとが収束に向かうきっかけとなるのが柏木の死である。「横笛」から次第に、物語の熱がゆっくりと冷めてゆく。「夕霧」は「横笛」の続きであるけれども、同時に源氏の一族の「終わり」を語るその「始まり」ともなっている。</p>
<p>「夕霧」は彼の通称の由来にもなったその夕霧を主人公とした、独立性の強い構成の巻である。冒頭を「まめ人云々」で始め、結尾を雲居雁と藤典侍の子どもの話で終えることで、この巻は他ならぬ夕霧の物語であるということを作者ははっきりと示している。ということは、この巻それ単体で作者にはなにか書こうとしたテーマがあったということだと思うんだけど、それはなんなんだろう。</p>
<p>みんないろいろと意見があるとは思うけど、ひとつには源氏の「神話性の終焉」を宣言するものとしての役割があるんじゃないか。柏木の一件で源氏の不可侵性はすでに打ち破られている。それに追い打ちをかけるのが夕霧のどうしようもない通俗性というわけである。</p>
<p>この巻での夕霧はひどい。彼は未亡人となった落葉宮に言い寄るが拒否される。それはいいのだが、そのあとがひどい。関係はなかったのに、「関係したようだ」という世間の誤解を利用して落葉宮を絡め取っていく。それで落葉宮が母親の見舞いで山に籠もっている間に、落葉宮の自邸を勝手に改装して「ほら僕らの新居だよ」みたいに待ち構えている。こわい。でそのまま事実上結婚したみたいになる。でも本人が承諾してないもんだから結婚した後なのに文を送っては返事が来ないか待ったりしている。そのうち乗り込んできて「世間はそうは思わないだろうから、ここで折れておいたほうが身のためですよ」みたいな言い方で口説く。こんなやつに落葉宮がなびくわけがない。</p>
<p>(しかし柏木もそうなのだが、このかっこ悪さにはなんかこう、身をつまされるものがあるけどね。柏木といい夕霧といい、男の読者が源氏物語で感情移入できるのは若菜以降からだと思う。それ以前には、女はともかく男の登場人物にはあまり唸らされるようなキャラクターはいない。)</p>
<p>閑話休題。そういうわけで彼にはもはや父には備わっていた神通力がない。伊勢物語の「むかし男」に匹敵する、冗談みたいな好き人であった光源氏、その息子がこうして圧倒的な「普通」に着地してしまうというおかしさ。柏木と夕霧の二人は、意図したわけではないけど、結託して源氏の栄光を引きずり下ろす役割を担っている。</p>
<p>さてこの巻の終わりかたには、「私はこの夕霧という人物について書くことはすべて書き終えた」という「かたをつけた」雰囲気が漂っている。それに続くのが紫上と源氏の最期を描く「御法」「幻」。</p>
<p>「御法」は紫上の死を扱うための巻。それに焦点が当てられていて他のことには触れられていない。「夕霧」同様「御法」も「幻」も、中心人物が据えられてその人物とそれをとりまく人々の関わりという形で物語が描かれ、初期の、何月何日になった、という暦に従った物語進行から作者はもはや完全に解放されている。僕は紫上というキャラクターについて紫式部がどういう思いを抱いていたのかがまだはっきりとつかめないでいるので、この巻についてあまり言うことはないのだけど、その紫上という人物に対する作者の優しさは感じるよね。</p>
<p>「幻」は光源氏の最晩年の一年を歳時記ふうに綴っていく体裁。一年の節々で紫上を思いながら歌を詠んでゆく。年の暮れになって昔の恋文をまとめて焼かせる。それから年が明けたときの支度をいろいろ指図する。これで終わる。うまい。作者はこの終わらせかたを執筆のかなり前の段階から暖めてたんじゃないのかな。さて、このあと「雲隠」という名前だけの巻があることになっているが、まあ実際の本文はないだろう。恋文を焼いた話の出たあとにもう一巻だらしなく源氏の話が続くとはちょっとね。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-55985132535041684142010-04-29T21:54:00.003+09:002010-04-29T21:54:00.628+09:00武田宗俊『源氏物語の研究』<p>四月は忙しくてここにぜんぜん記事を書けなかった。百回までという決めた回数の残りもあるから、いいかげんなのでお茶を濁す気にもならず、間が空いてしまった。</p>
<p>ずいぶん前から読みたかった武田宗俊『源氏物語の研究』(岩波書店)を最近ようやく手に入れた。思ったよりも薄い本だったんだな。これは、<a href="http://pearlyhailstone.blogspot.com/2010/02/blog-post_11.html">以前に紹介した源氏物語の執筆順序</a>について、玉鬘系が紫上系にあとから追加挿入されたということを明らかにしたその論文が収録されている本だ。</p>
<p>それにしても、実物を読む前から薄々は感じてたけど、この人はほんとに頭いい人なんだなと思った。源氏関係の本でこんな明晰な文章初めて見た。そのうえ観察眼が鋭い。とくに玉鬘系の登場人物が紫上系に出ていないこととか、「竹河」の男踏歌の描写が「初音」の剽窃であることとか。これを指摘された当時の研究者たちはさぞくやしかったろうね。</p>
<p>この本は昭和二十九 (1954) 年に初版発行だが、昭和五十八 (1983) 年に復刊し、その際に吉岡曠氏の解説が付けられたようだ。僕が入手したのは平成六年 (1994) 年の第三刷。</p>
<p>1983 年に書かれたこの解説を見るに、武田氏の玉鬘系後記説がその時点でなおほぼ完全に孤立していたということがわかる。いまこうして源氏読んでるひとりの人間の感想として、これはなんとも驚くべきことだ。古文でいうなら「あさまし」。武田説に賛同している論のひとつ、大野晋『源氏物語』の刊行は 1984 年で、手元にはその岩波現代文庫版 (2008) があるが、それによれば、秋山虔「源氏物語――その主題性はいかに発展しているか――」(『日本文学講座Ⅱ 古代の文学 後期』河出書房、1950)、『源氏物語』(岩波新書、1968)、また山中裕「源氏物語の成立順序についての一考察」(「国語と国文学」1955年1月号)、吉岡曠『源氏物語論』(笠間書院、1972)を挙げて「武田氏の見解を積極的に発展深化させようとする意見の公式に発表されたものは右の他にほとんどない」としている(pp. 390-391)。</p>
<p>さすがにいまはもっと認められていると思うけど、定説とまでは至っていないのかな。今の国文の院生たちあたりの意識だとどんなもんなんだろうね。しかしこの本が出て半世紀以上たっている。</p>
<p>ウィキペディアなどではまるでこれがいまだ議論の最中にあるかのような書きぶりで両論併記がなされているが、これまで読んできたこと(源氏の本文含めて)から言わせてもらえば、これは議論の対象というよりは見つかった新たな事実というべきもので、なんだかわからないあやふやな事態についてそれらしいことを述べたもののひとつみたいな扱いをいつまでもしてるようなものではない。これが発見された時代に生まれたことを素直に喜んでおいたほうがいい。この情報があるとないとで、源氏物語の見通しと内容理解には圧倒的な差がつくだろうから。</p>
<p>しかし 20 世紀までこのことに誰も気づかなかったというのもまた驚くような話ではある。なんでこんなに発見が遅かったのか。これは、注釈書にその原因があったのかもしれない。といってもそれが不正確だとかいう話ではなくて、逆に充実しすぎていたせいではないかと思う。</p>
<p>新体系でもなんでもいいけど、古典文学の全集の本文にはびっしりと脚注が付けられている。「中将」とか「中納言」とかの官職名にはほぼ確実に注が振ってあって、それが「源氏」とか「薫」とか登場人物の通称でいうところの誰なのかがかっちりと書いてある。だから読者は「中将云々」とある文を「源氏云々」と頭の中で置き換えて読み進めていく。それはそれでいい。が、「中将」「中納言」とあったもとの言葉の存在を忘れてしまうと、そこに本来あった情報を見落としてしまうことになる。</p>
<p>たとえばある巻で「左少将がどうした」と書いてあったとする。注がついていて、この左少将は柏木だと書いてある。それで読者は、ああ、柏木がどうこうしたんだな、と思う。後の巻で「中将がどうした」と書いてあって、ここにも注がついていてこれが柏木だと書いてある。それで、ああ、ここでも柏木がどうこうしたんだな、と思う。こういう読みかたをしていると、巻が変わったところで人物の呼称が急に変わったことに気づかない。ふつう呼び名となっている官職名が断りなしに変わったりしたら読者は混乱するはずで、こんなのは当たり前のことなのだが、注釈と併走して進む読みかたにどっぷりだとそれを疑問に思わなくなってしまう。ひどいと古文ではそれが常識でみんなそれでわかるものなんだと思っている人もいる(なにを隠そう数年前までの古文知らない僕がそうでした)。そんなわけないのだ。「左少将が中将になった」という記述がなければ、中将の呼称の指すところが誰なのかは当然見失われてしまう。</p>
<p>注釈における人物名の引き当ては、前後の文脈や巻を先回りして当てはめた、一種のネタバレ情報だ。生まれた赤ん坊がずっと先で薫の中将と呼ばれているから「若菜」の巻でその赤ん坊を薫とわれわれは呼んではいるけれども、「若菜」を読解するにあたってはその知識は押しやって、書かれていることだけを知りうるものとして扱わなければならない。そういう意味では、たとえば赤ん坊の記述に注を付けて「薫」と書くようなのはよけいなお世話とも言える。同じことが古来の注釈にも言えたように思う。</p>
<p>あくまでも本文の意味が通らない時の補助としての注釈であって、古文を読むのが本文と注釈の対応関係を追っていくだけの作業になってしまわないよう気をつけないといけない。</p>
<p>それはさておき、こんな重要かつ明晰な本が学術書とはいえなかなか入手しづらいというのはよくないぞ。岩波書店はそろそろこの本を重版すべき。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-47431663092192067272010-04-09T00:16:00.001+09:002010-04-09T00:18:03.179+09:00<p>記事のストックがなくなって更新が遅れてしまった。</p>
<p>先週の話はエイプリルフールです。でもなにも言ってもらえなかったのでちょっと寂しかった。</p>
<p>今週は嘘じゃないけど、また輪をかけてどうでもいい話。最近ツイッターを始めた(@<a href="http://twitter.com/masaakishibata">masaakishibata</a>)。で、源氏物語の単語からでたらめに文章を綴っていくプログラム、「<a href="http://www.emptypage.jp/mechmurasaki/">メカ紫</a>」のツイッター版も作りました。@<a href="http://twitter.com/mechmurasaki">mechmurasaki</a>。だいたい一日に一回くらいのペースで何か書きます。フォローはご自由に。ていうかみんなぜんぜんフォローしてくれないので、してもらうと中の人が喜びます。</p>
<p>古文のサイト持ってる人でツイッターもやっているという人がいたら、メカ紫からフォローします。ハッシュタグ #mechmurasaki をつけて発言してもらえれば拾ってフォローしていきます。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-4586377201991502542010-04-01T21:27:00.002+09:002010-04-01T21:27:00.239+09:00<p>これはいにしへぶみを読みて二年あまりになむなりし。などかは読むばかりにてそのありさまを知るべき。さやうに考へまた書きてこそはあらめ。</p>
<p>さは、ここにても今よりはよろづのことすべていにしへざまにてこそ書くべけれ。さすがに今やうだち、え読まるまじきすぢなどうち交じらむとも、いかがはせむ。腰折れぶみも程々しくはよろしくもなるまじうやは。</p>
<p>返り事どもなむなほ今やうにてもうけたまはるべき。まいていにしへざまには。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-81328620758586071562010-03-25T21:32:00.004+09:002010-03-25T21:32:00.184+09:00「文献の計量分析」について<p><a href="http://www.meijishoin.co.jp/search/?BOOK_ID=ZAS003590">雑誌「日本語学」(明治書院)の2010年1月号</a>の特集「源氏物語のことば」に、「文献の計量分析」(村上征勝)という記事が載っていた。これを例に、以前から感じていたことをちょっと書きたいと思います。なぜですます調かというと、これから(また)たいへん生意気なことを書くからです。</p>
<p>源氏物語に限らず、古文の研究では時折こうした統計的な手法が使われる。また、そうした研究に基づく成果が、さまざまな問題に対する判断材料として参照されたりもする。「読解」にもとづく古典的な研究に対して、こうした研究は数式やグラフなど使ったりしていかにも科学的に見える。しかし統計的分析は注意して扱わないと、ともすれば恣意的な結論を導くことにもなりかねないと僕は思っている。統計は、それが意味のある統計なのかどうかをよく吟味してかかる必要がある。</p>
<p>「文献の計量分析」では、はじめに現代日本語文の計量分析の有効性について説明されている。そのこと自体は導入として自然な話だと思う。さて、ここで有効であるということが紹介されているのは、書き手の読点の打ち方の傾向についてである。</p>
<p>続いて記事は古文の計量分析の話に移り、『源氏物語』の宇治十帖他作家説について検討を試みる。しかしここで分析の対象にされているのは名詞や助動詞の出現率である。それが有効な手法であるかどうかについてはこの記事では説明されてないのにだ。こういうところで、僕はこの記事に対して大きく不満がある。それなら最初の読点の打ち方の話は何だったんだと。人を信じ込ませやすくするブラフか? もちろん古文にはもとから読点がないのは知っている。それでもじゃあなんでその話をしたのかという疑問はなお残る。あとの説明を納得できるようにしたいのであれば、現代日本語文の名詞や助動詞の出現率の評価の有効性について言及するべきではないか?</p>
<p>記事は名詞や助動詞の出現率が評価として有効なのかどうか不安を抱えたまま話は続き、<a href="http://pearlyhailstone.blogspot.com/2010/02/blog-post_11.html">以前ここでも紹介した源氏物語の成立分類</a>についての話になる。ここで、A, B, C, D がそれぞれ特徴的な偏りを示したという説明がなされる。これまでの学説と一致しているというわけである。だがここでも説明に物足りなさが残る。それは、その結果に意味があるのかという点である。偏り具合から個々の巻が A 系、B 系のどこに属するのかを判定できるということを意味しているのか、というもっともな疑問に対する答は書かれていない。</p>
<p>たとえば、無作為に分類した4つのグループでは絶対にこうした偏りは現れないのだろうか。そういうことが書かれていないのでその結果の価値がわからない。もし無作為では現れないというのであればなるほどそれは「これまでの定説は否定できない」という結論にはなるだろう。しかしそれだけではあまり意味がないのも確かだ。</p>
<p>さらに、たとえば B 系は、「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」「6. 末摘花」「15. 蓬生」「16. 関屋」「22. 玉鬘」「23. 初音」「24. 胡蝶」「25. 螢」「26. 常夏」「27. 篝火」「28. 野分」「29. 行幸」「30. 藤袴」「31. 真木柱」からなるが、仮に「2. 帚木」以外の15帖から偏りを算出した時に、その偏りをもとに「帚木」の巻を評価すると、はたして「帚木」はそのグループの巻であるという判定ができるのか、ということについても説明がほしい。こうしたテストは<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%B7%AE%E6%A4%9C%E5%AE%9A" title="交差検定 - Wikipedia">交差検定</a>といって、これを「帚木」に限らず B 系のすべての巻について行なっていくわけである。それが有効に機能したということになれば、はっきり言って源氏物語の成立問題は解決してしまうはずだから、まあそうなっていないのだろうとは思うけど。</p>
<p>こうしたことの説明がないので、結局この記事は「統計的手法をもって源氏成立論の定説の正当性を補強した」ものなのか「源氏成立論の定説をもって統計的手法の正当性を補強した」ものなのかよくわからないという印象を受ける。</p>
<p>まだある。ここで成立論の分類に使われた巻の構成そのものについて。別人の作による可能性が高いという「匂宮」「紅梅」「竹河」の3帖を C 系に入れて集計したのはなぜなのか。さらに慎重を期すなら成立時期に議論のある「桐壺」を A 系に入れて集計したのはどうなのか。</p>
<p>以上のことから、これだけ科学的に書かれているように見えながら、「有効性が説明されてない」「結果の意味するところが説明されてない」「統計を行なった過程に疑問が残る」という理由から、僕にはこの記事の内容を評価することができない。これは僕が馬鹿だからなのか? それは否定しないけど。</p>
<p>統計的手法のそのものを否定するつもりはまったくないですよ。たとえば森博達の『日本書紀の謎を解く』『古代の音韻と日本書紀の成立』で挙げられている諸データはまさに真実を浮かび上がらせるもので、統計以外の方法では明らかにならなかった成果だと思う。僕はこれらのデータが正しいかどうかは確認できないけど、「データが正しければ、それについての考察も正しいであろう」ということは読んでいて追うことができる。そこが大事なところだと思うのだ。もちろんなにからなにまでそんなにはっきりとした成果にはならないというのは理解できる。でもせめて、こういう結果ならこう推論できるとか、その思考過程だけは明確にたどれるようにしてほしいと思う。</p>
<p>生意気言ってすみません。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3346166058700838798.post-41893550166339457802010-03-18T21:19:00.000+09:002010-03-18T21:19:00.529+09:00「若菜」以降と「鈴虫」について<p>やっと「若菜」上下を読み終えた。けれどもじっくり読むべき所を先を急いで読んだところもけっこうある。いずれもう一度腰を据えて読みたいところ。「柏木」「横笛」も「若菜」に引き続き、大変近代小説的な巻で、おもしろい。おもしろいの一言で片付けてますが、うならされるような件りがいくつもある。</p>
<p>「鈴虫」の巻は、筋はほとんど進まない。「鈴虫」はあとから挿入されたという意見があるそうだけど(『光る源氏の物語(下)』中公文庫、p. 189)、別人の作という説はないのかな。</p>mshibatahttp://www.blogger.com/profile/02043584963099350300noreply@blogger.com0