2011-11-14

松阪に行ってきた


今回は作品とか文法とかぜんぜん関係ないです(笑)。番外編ということでお暇な方のみおつきあいくださいな。

じつは十月は私事でいろいろあり心身ともだいぶ疲弊してしまっていた。それで気分転換にどこかに行きたくなって、どこに行こうかと考えた末、松阪に宣長の足跡を訪ねることにしたのですよ。なんというか、古文が(というか文学が)自分を取り戻す秘密の居場所みたいな心境になってたなー。ところで、松阪は JR の駅名からすると、Matsusaka なのね。濁らない。知らなかった。

9:30 東京 (新幹線) 11:48 名古屋 11:35 (特急みえ鳥羽行) 12:46 松阪。

東京から新幹線で名古屋まで。そこから鳥羽行の特急「みえ」に乗り換える。名古屋から松阪の特急は、ほとんどずっと田畑の続くのどかな田舎風景。畦に沿って、ぽつんぽつんと飛び飛びに彼岸花がむらむらと腫れもののように咲いている。なんだか不吉な雰囲気のする花だ(そんなことない?)。

ホテルに荷物を預けて昼食をとってから、駅前の観光センターというところで宣長記念館への行きかたを教えてもらう。歩いて二十分くらいで行けるとのこと。けっこう歩くがタクシー呼ぶほどでもないかと、歩くことにした。そのとき道順を蛍光ペンでなぞってくれた地図をもらっていたのに、道中で落としてしまった……。

宣長記念館は松阪城趾敷地内にある。旧宣長邸の建物も、ここに移設されて残っている。屋敷のあった場所も、城趾からほど近いところに宣長邸跡としてちゃんと残されている。といってもこっちはただぽかんと空間が残されてるだけだったけど。

宣長の墓は見なかったなあ。というか普通の人が行って見られるものなのかな。これはまたこんどの課題。

宣長顔ハメ!
記念館には自筆原稿や宣長の残した各種覚え書きなどが展示されている。彼が使っていた箱入りの二十一代集が展示されていたが、三代集と新古今だけほかと比べて圧倒的に汚れている。つまりこの四篇をそれだけたくさん手に取ったということだ。これはまあ当然というか、納得。三代集と新古今が彼にとって特別な重要性を持った歌集であったことは、『排蘆小船』などから知られること。その汚れた四篇をじっと眺める。

贈答品リストから、家の歴史などまで、多種多様の膨大な覚え書きが並んでいる。宣長の記録マニアぶりが伺える。かれは源氏物語から四季の描写のみを抜き出したノートも作成していた。さすがだ。

ほかに面白かったのは、かれが十七歳の時に作成したという詳細で大きな一枚絵の日本地図。「端原氏系図及城下絵図」の件もあるし、やはり若い頃のかれには物語創作を夢見る設定マニアといった側面があったように思える。

そういえば、吉川幸次郎は日本思想大系40「本居宣長」の「文弱の価値」と題した解説において、江戸時代の学者の肖像が多く帯刀しているなか、「ひとり宣長の肖像は、刀と無縁である」と書いた。けど資料館には宣長の刀もちゃんとあった。さらに新しい刀が買いたいと母親にねだっている手紙まであった(笑)。僕はこの吉川の肖像からの洞察が好きなので茶々は入れたくないんだけど、かれがつねに刀と無縁であったわけじゃなかったんだな、と(笑)。

旧宣長邸には説明のおじさんが待ち受けていて、ここ(石段の上)に上がりなさいとか、写真を撮りなさいとか、石畳は三菱財閥のなんたらかんたらとか、開け放たれている二回の四畳半の床の間を指して、あそこで古事記伝が生まれたのですとか、よどみない説明をたたみかける。江戸時代から残る軒瓦が、二十枚だけ並んでいるというのを教えてくれた。裏に板を敷いていない、なんとも頼りない瓦。台風は大丈夫だったんですか、と聞いたら、説明を中断して自分で答を考えなければいけないのが面倒だという顔をしながらも、石垣に守られてるおかげでそんなにめちゃくちゃにはならずにすんだのだと言った。

邸の中へも通りながら解説してくれる。入ってすぐは診療の間(といってもかれは往診の人だったのでほとんど家にいなかったらしい)。それから講義をする間があって、その奥に二階へ上がる階段や行灯。棚になっている階段は上の書斎へと通じている。小林秀雄が、谷崎潤一郎がこれをじっと見つめておりましたと、おじさんは見てきたようなことを言う。谷崎はこれをスケッチしたと言うから、それならどこかで見られるんじゃないかな。聞いておけばよかった。

宣長の家は行灯ひとつで夜は薄暗い生活をしていたらしい。読むのも書くのも宣長はそれで過ごしたが、息子の春庭はそれで目が悪くなったのかもしれない。

その奥は竈や風呂場。ここでおじさんが「げすのかんぐり」にかけたつまらない洒落を棒読みで述べたような気がするが、はっきり聞き取れなかった。そこから中庭へ抜けて、勝手口からそとに追い出された。立て板に水を流すような説明で、これではゆっくり雰囲気に浸る余裕はない。あのおじさんがいなかったから、小林秀雄も谷崎もゆっくり宣長に思いをはせることができたのだ。

そういえば、例の有名な「大和心を人問はば」の和歌の載った自画像だが、あれを説明するときにおじさんは「太平洋戦争で言われました、たばこの名前になりました、宣長先生の言葉が戦争に悪用されてしまいました」と(いうようなことを)言った。たばこのことは知らなかったな。なんだろう。

城趾をあとにして、それから旧宣長邸跡に行く。向かいは長谷川邸といって、当時の大きな商人のお屋敷だった。松阪は木綿の町なのね。宣長の家も木綿商だった。いまもたくさんの木綿のお店が並ぶ。



そのすぐ近くに小さな喫茶店があったのでそこで休憩。お店の庭にカエルのかわいい彫刻が並んでいた。じつは僕はカエルが大好きなもので、思わず、「これ、かわいいですね」とお店のおばさんに言ったら、「せんとくんの藪内さんが作ったのよ」と教えてくれた。へえ。

コーヒー飲んで、そのあと、どうしても気になったので、最後に「カエルがかわいいので庭に出て写真を撮らせてください」とお願いしてしまった。


カエルかわいい
こういう写真が10枚くらいある(笑)
 旧宣長邸跡のすぐそばにあるこの「牛銀番茶亭」、この店自体も宣長の弟子の須賀直見のすまいの跡だったそうで。

ホテルに戻る途中でお土産のお菓子屋さんがあったので「宣長せんべい」を買う。普通のせんべいだが、宣長の名が入っているということに価値があるのである。友だちにあげたらうけるかなあ、と。あ、写真撮っときゃよかった。

夕食をとって松阪で一泊。まあ来てよかったのかなあ、とか思いながら眠りについた。翌日はちょっとだけ京都に寄ってから帰ることにしていた。ということでもうちょっと続きます。