2011-12-22

絆について

日本漢字能力検定協会が、今年一年の世相を漢字一文字で表す「今年の漢字」を「絆」だと発表したそうで、これは「きずな(きづな)」と読むのだろうけど、この字にはもうひとつ訓がある。それは「ほだし」という読みで、古文だとむしろこちらの語のほうがよく目にするものだ。ほだしというのはもとは馬などをつなぎ止めるために脚にはかせる綱のことで、転じて自由を束縛するものという意味を持っている。もとは「きづな」も動物をつなぎ止めるための綱のことを言っていたそうだから(梁塵秘抄などに見えるようだ)、ほだしもきずなも同じような言葉で、それでともに「絆」の字で表わすのだろう。

つなぎ止めるものという象徴的な意味でのほだしというのは、中古中世では、仏教思想の文脈から悟りを開くことの妨げという意味合いが強い。今流通している言葉でいうと、「しがらみ」といったニュアンスである。現代語の「きずな」も、岩波国語辞典には「断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし。」と定義しているから、この「断とうにも断ち切れない」という表現にその残滓を見ることができるといっていいと思う。

こんにち人と人との結びつきはその肯定的側面ばかりが強調されているが、本来人間同士の結びつきというのは、必要不可欠であると同時に、人に楽ばかりでなく苦をももたらす性質のものである。人はひとりでいさかうことはできない。そうした両義性を表わした比喩がきずな・ほだしであったわけだし、現代になったからといって人同士におけるその性質が変わったというわけではない。ただその一方の側面を見なかったことにしているだけである。

ところで、古文には「心の闇」という言いかたがある。これはたんに暗い胸中のありさまを一般的に表わしたものではなく、使われたときはほとんどの場合「子を思うあまりに理性を失って迷う親の心。子ゆえの迷い。」(旺文社全訳古語辞典)をとくに指して言っている表現である。わざわざ子を思う親の云々などという前置きはなくて、いきなり心の闇に、とその意味で書くのである。子を思う親の心というのも、こんにちではただ一途にその尊さのみ強調されているように思われるが、親バカなどという言葉もあるように、じっさいにはそれで人はずいぶん愚かなことをしてしまうものである。

ほだしや心の闇といった言葉に共通しているのは、どちらも人間の執着について着目した概念であるという点で、まあ、ここがいかにも仏教ということになるのだと思う。それを美化して今は愛と呼ぶが、なんのことはなくて、この「愛」というのももとは仏教語で「ものに対する激しい欲望。執着。」(旺文社全訳古語辞典)のことである。

大地震、大津波、原発事故により、多くの人びとがその生活に多大な影響を被ったが、また一方で多くの人同士が協力して、困難な状況にあった人びとを助けたり、不安に飲まれつつあった人びとを支えたりしたことも事実である。けれどもそうした救いの手というのは、多くそれまでまったく他人であった人同士のあいだで生まれた活動で、それだからすばらしいということになるのだけれども、それを絆という言葉でもって表わすのには正直どうもしっくりこないものを感じる。

それはさておき、大災害が起こったとき、親兄弟といった近親者のことが気にかかるのは人の情というものでこれはしかたない。ところがいざそのとき人に求められるのは、その場にたまたま居合わせた赤の他人と協力して現状を乗り切る(避難する)ことである。だからそこでは絆(きずな)ではなく、むしろそうした執着の範囲の外にいる人びとへと心を開かなければならない。いっぽうで、不安げにたたずむ隣の人をよそに親兄弟や近しい友人に電話やメールをしまくって通信回線をパンクさせるのはまさしく絆(ほだし)のなせる業である。

だからそういう意味で震災が絆の一字で表せるというのは間違ってはいないのだけど、まさかそういう意味で選んでいるわけではないだろうから、それはいくらなんでもひねりすぎの見方で、もちろん選んだ人びとにはそのような皮肉の気持ちは微塵もないはずだ。そうしてよかれと思って罪のない気持ちでみんなで選んだ言葉が執着の概念を含んだ一字であるというところに、欲望を肯定する世紀に生きる人びとが過去からつながる言葉をどのように読み替えていくのかというダイナミズムの片鱗が垣間見えるのはおもしろい。

余談だけど、古代の人びとが人同士のつながりに鋭くも執着という批判的な視点を持っていたのにその両義的側面がいまの言葉からは完全に剥ぎ取られてしまっているのはなんだか惜しい気もしなくはない。しかし、言葉というのは多くの人に流通すればするほど大味で直線的な意味に変質していくものだから、これはしかたないのだと僕は思っている。綾のある言い回しというのは、ある程度絞られた人数のコミュニティでないと、育っていかないもんだよね。

2011-12-02

松阪に行ってきた(続き)


6:00 に起きて朝食。

8:28 松阪 (近鉄特急京都行) 10:20 京都。

京都は都会だ。京都から地下鉄に乗って京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)へ。同じ敷地内に京都市立図書館がある。風俗博物館が「平成22年12月1日より約1年半休館」なので、その一部の展示がここに来ている。

期待して行ったけど、一フロアの特別展示室という感じで、ちょっと小さかった。平安京のジオラマと、「紅葉賀」の青海波のシーンがミニチュアで再現されたもの。参考にはなったけど。それにしても、青海波の場面は説明してくれたけど、ずいぶん忘れてるのかなあ。細かいところは「そんなのあったっけ」という感じだった。情けない。読みなおそう。

館内にはボランティアの説明員たちがうろうろして、来館者に話しかけては講釈をする。一人旅だからこちらも話し相手として慰めになるけど、ボランティアと聞くとなんだかうら悲しくも思う。京都の歴史や古典には(僕を含め)アマチュアがわんさかいるのだ。かれらは自分たちの話をしたくてしょうがない。それで定年後、ここで話し相手を漁るわけだ。なんだか自分が惨めに思えてきたよ……。ともあれ、東京の人間には京都市や平安京の大きさがわかりにくいという話などをした。

さて、枕草子に、碁盤の上に乗ってひとりでうんうんと苦労して格子を上げる場面がある。いままで僕はあれを、たまたまひとりだったからの臨時的な作業だと思っていた。つまり、ふだんは格子を上げる女房たちが、道具かなんか使ってひょいと上げるのだと思っていたのだ。ところが、ここのボランティアの方いわく、毎日毎朝ふつうに碁盤に乗って上げていたのだと説明する。僕は聞き返してしまった。ほんとうかなあ。なんだか行儀悪く感じるんだよなあ。正直なところ、この話はまだあまり信用できていない。毎日やる仕事なんだよ? 清少納言は碁盤運ぶのに、ひとりだからというのはあるけど、あんなに苦労してたじゃん。だいたい、碁盤に乗って上げるというのは(たぶんだけど)枕草子のあの箇所にしか出てきてないんじゃないかな。上げるのに道具のひとつもないというのも疑問を感じる。

牛車と引く牛について。牛は真っ黒なものを想像していたが、じつは黒地に白まだらの牛があって(もちろんホルスタインではない)これが珍重されたという。小笠原だかどこだかでいまでもいるらしい。見に行きたいな。これは知らなかった。乗るときは、脇に立つ従者が車の御簾を上げる。降りるときは、牛を離し、踏み台のようなものを出して前から降りる。源平盛衰記に、木曾義仲が車は後ろから乗って前から降りるのを知らなかったという話があるという(平家物語にもあったかな?)。

帰りはそのへんで蕎麦食って二条駅から地下鉄で京都へ帰る。観光はじゅうぶんにした。宣長だろうと式部だろうと、けっきょくは、古人はもう書き残された言葉の中にしかいない。観光地になっている旧跡を訪ねてみたり、当時を再現したセットを作ってみたりするのは、なにか、ほんとうにスパイス程度には想像に彩りを添えるが、そこには脈打って流れる古人の思考の現れはない。ときどき訪れて気晴らしをするにはいいけれども、最後にはまた言葉の中に潜って、書物の中に帰っていかなくてはならない、と思った。

2011-11-14

松阪に行ってきた


今回は作品とか文法とかぜんぜん関係ないです(笑)。番外編ということでお暇な方のみおつきあいくださいな。

じつは十月は私事でいろいろあり心身ともだいぶ疲弊してしまっていた。それで気分転換にどこかに行きたくなって、どこに行こうかと考えた末、松阪に宣長の足跡を訪ねることにしたのですよ。なんというか、古文が(というか文学が)自分を取り戻す秘密の居場所みたいな心境になってたなー。ところで、松阪は JR の駅名からすると、Matsusaka なのね。濁らない。知らなかった。

9:30 東京 (新幹線) 11:48 名古屋 11:35 (特急みえ鳥羽行) 12:46 松阪。

東京から新幹線で名古屋まで。そこから鳥羽行の特急「みえ」に乗り換える。名古屋から松阪の特急は、ほとんどずっと田畑の続くのどかな田舎風景。畦に沿って、ぽつんぽつんと飛び飛びに彼岸花がむらむらと腫れもののように咲いている。なんだか不吉な雰囲気のする花だ(そんなことない?)。

ホテルに荷物を預けて昼食をとってから、駅前の観光センターというところで宣長記念館への行きかたを教えてもらう。歩いて二十分くらいで行けるとのこと。けっこう歩くがタクシー呼ぶほどでもないかと、歩くことにした。そのとき道順を蛍光ペンでなぞってくれた地図をもらっていたのに、道中で落としてしまった……。

宣長記念館は松阪城趾敷地内にある。旧宣長邸の建物も、ここに移設されて残っている。屋敷のあった場所も、城趾からほど近いところに宣長邸跡としてちゃんと残されている。といってもこっちはただぽかんと空間が残されてるだけだったけど。

宣長の墓は見なかったなあ。というか普通の人が行って見られるものなのかな。これはまたこんどの課題。

宣長顔ハメ!
記念館には自筆原稿や宣長の残した各種覚え書きなどが展示されている。彼が使っていた箱入りの二十一代集が展示されていたが、三代集と新古今だけほかと比べて圧倒的に汚れている。つまりこの四篇をそれだけたくさん手に取ったということだ。これはまあ当然というか、納得。三代集と新古今が彼にとって特別な重要性を持った歌集であったことは、『排蘆小船』などから知られること。その汚れた四篇をじっと眺める。

贈答品リストから、家の歴史などまで、多種多様の膨大な覚え書きが並んでいる。宣長の記録マニアぶりが伺える。かれは源氏物語から四季の描写のみを抜き出したノートも作成していた。さすがだ。

ほかに面白かったのは、かれが十七歳の時に作成したという詳細で大きな一枚絵の日本地図。「端原氏系図及城下絵図」の件もあるし、やはり若い頃のかれには物語創作を夢見る設定マニアといった側面があったように思える。

そういえば、吉川幸次郎は日本思想大系40「本居宣長」の「文弱の価値」と題した解説において、江戸時代の学者の肖像が多く帯刀しているなか、「ひとり宣長の肖像は、刀と無縁である」と書いた。けど資料館には宣長の刀もちゃんとあった。さらに新しい刀が買いたいと母親にねだっている手紙まであった(笑)。僕はこの吉川の肖像からの洞察が好きなので茶々は入れたくないんだけど、かれがつねに刀と無縁であったわけじゃなかったんだな、と(笑)。

旧宣長邸には説明のおじさんが待ち受けていて、ここ(石段の上)に上がりなさいとか、写真を撮りなさいとか、石畳は三菱財閥のなんたらかんたらとか、開け放たれている二回の四畳半の床の間を指して、あそこで古事記伝が生まれたのですとか、よどみない説明をたたみかける。江戸時代から残る軒瓦が、二十枚だけ並んでいるというのを教えてくれた。裏に板を敷いていない、なんとも頼りない瓦。台風は大丈夫だったんですか、と聞いたら、説明を中断して自分で答を考えなければいけないのが面倒だという顔をしながらも、石垣に守られてるおかげでそんなにめちゃくちゃにはならずにすんだのだと言った。

邸の中へも通りながら解説してくれる。入ってすぐは診療の間(といってもかれは往診の人だったのでほとんど家にいなかったらしい)。それから講義をする間があって、その奥に二階へ上がる階段や行灯。棚になっている階段は上の書斎へと通じている。小林秀雄が、谷崎潤一郎がこれをじっと見つめておりましたと、おじさんは見てきたようなことを言う。谷崎はこれをスケッチしたと言うから、それならどこかで見られるんじゃないかな。聞いておけばよかった。

宣長の家は行灯ひとつで夜は薄暗い生活をしていたらしい。読むのも書くのも宣長はそれで過ごしたが、息子の春庭はそれで目が悪くなったのかもしれない。

その奥は竈や風呂場。ここでおじさんが「げすのかんぐり」にかけたつまらない洒落を棒読みで述べたような気がするが、はっきり聞き取れなかった。そこから中庭へ抜けて、勝手口からそとに追い出された。立て板に水を流すような説明で、これではゆっくり雰囲気に浸る余裕はない。あのおじさんがいなかったから、小林秀雄も谷崎もゆっくり宣長に思いをはせることができたのだ。

そういえば、例の有名な「大和心を人問はば」の和歌の載った自画像だが、あれを説明するときにおじさんは「太平洋戦争で言われました、たばこの名前になりました、宣長先生の言葉が戦争に悪用されてしまいました」と(いうようなことを)言った。たばこのことは知らなかったな。なんだろう。

城趾をあとにして、それから旧宣長邸跡に行く。向かいは長谷川邸といって、当時の大きな商人のお屋敷だった。松阪は木綿の町なのね。宣長の家も木綿商だった。いまもたくさんの木綿のお店が並ぶ。



そのすぐ近くに小さな喫茶店があったのでそこで休憩。お店の庭にカエルのかわいい彫刻が並んでいた。じつは僕はカエルが大好きなもので、思わず、「これ、かわいいですね」とお店のおばさんに言ったら、「せんとくんの藪内さんが作ったのよ」と教えてくれた。へえ。

コーヒー飲んで、そのあと、どうしても気になったので、最後に「カエルがかわいいので庭に出て写真を撮らせてください」とお願いしてしまった。


カエルかわいい
こういう写真が10枚くらいある(笑)
 旧宣長邸跡のすぐそばにあるこの「牛銀番茶亭」、この店自体も宣長の弟子の須賀直見のすまいの跡だったそうで。

ホテルに戻る途中でお土産のお菓子屋さんがあったので「宣長せんべい」を買う。普通のせんべいだが、宣長の名が入っているということに価値があるのである。友だちにあげたらうけるかなあ、と。あ、写真撮っときゃよかった。

夕食をとって松阪で一泊。まあ来てよかったのかなあ、とか思いながら眠りについた。翌日はちょっとだけ京都に寄ってから帰ることにしていた。ということでもうちょっと続きます。

2011-10-27

iPhone / iPod touch / iPad の古語辞典


体調がよくなくて、なにか書くと言ってからまただいぶ経ってしまった。リハビリがてら軽い話から。iPhone / iPod touch / iPad で使える古語辞典について。

現時点で古語辞典の名前を冠しているアプリは、「角川全訳古語辞典」と「旺文社全訳古語辞典」とふたつある。もうひとつベネッセのがあるけど、これはベネッセの会員でないと使えないらしいので無視。

角川全訳古語辞典
こちらのほうが先に出た。なので出た当時はほかに選択肢はなかった。基本的な機能に不満はないけど、ちょっと字組が読みにくい。それと iPhone / iPod touch 専用で、iPad の広い画面は生かせないのが残念。

旺文社全訳古語辞典
最近登場した。「大辞林」の物書堂なので組も綺麗だし文句はない、けど物書堂なら縦書きをやってほしかった! こちらは iPad にも対応しているので、両方持ってる人ならこちらのほうがいいかもしれない。大辞林との連携も便利。でも百人一首の読み上げ音声は容量の無駄遣いのような気がする。余談だけど、これに限らず和歌を普通の読み方で朗読する音声って意味あるのかな、と最近思う。

じつは基本的な古語なら「大辞林」でだいたい足りてしまったりしますが。とはいえ、つねに最低でも一冊は古語辞典を引ける状態にあるという安心感はすばらしい。あー岩波古語辞典はなんて書いてあるかなー、と気になることも多いけどね。

どちらのアプリも、図版類はとりあえず載せましたという感じでソフトウェアならではの見せ方になってないのが残念。というか、書籍版・電子版関わらず、古語辞典の付録の図版解説類はいいかげん再考の時期に来てるんじゃないだろうか。寝殿造とか。どれも同じようなのを義務的に収録しているという印象がある。いろいろアイデアあると思うよー。

そうそう『古典基礎語辞典』買ったよ。のんびり少しずつ読み進めるつもり。

2011-01-22

冬ごもり

ご無沙汰してます。最近は平家物語読んだりしています。

いろいろ思うところあって、古文を書くという無謀なことをはじめることにしました。筋トレのようなものです。「冬ごもり」というブログです。正直恥ずかしいし、おもしろくならないと思うので、読めとは言いませんが(笑)、とりあえずお知らせまで……。