2010-07-19

書き残された言葉と死について その二

一条天皇の時代には『土佐日記』や『伊勢物語』が生まれてからすでに数世代が経過している。『蜻蛉日記』が書かれてからも一世代以上経っている(道綱母は生きていたかもしれないが)。中宮定子や清少納言は時の人ではなくなったが、『枕草子』は読み継がれていたようだ。

道綱母は『蜻蛉日記』がいつごろまで読み継がれるかを意識していただろうか。また、紫式部は『源氏物語』がいつごろまで読み継がれるかを考えていただろうか。千年以上とまでは想像しなかったかもしれないけど。

『蜻蛉日記』の作者はおそらく『土佐日記』『伊勢集』などを先行する存在として意識していただろう。紫式部まで下ると、そうして残された『蜻蛉日記』も強く彼女の意識に訴えていたに違いない。李杜をはじめとする、はるか昔の大陸の文人たちのことも考えたと思う。

さて、なんの話かというと、書き残されたものは自身の死を乗り越えてなお残る、というアイデアについてである。

『蜻蛉日記』や『源氏物語』には、さらには『賀茂保憲女集』にも、自身の書いたものが世の中に出回っているほかの読みものと同様に残ってゆくものであることへの自覚と、また残してやろうという意志が感じられる。その原動力は嫉妬だったり自責だったり卑下だったりするのだが、何にせよそうしたものを自分の存在とともに流れて消えてしまうものにはできないと、彼女たちが考えたであろうことが感じられる。僕はこれらの散文作品がそうした私的な動機だけによって生まれたとは考えないが、また一方でそれがまったく関与しなかったというのもあり得ないことだと思う。

(それをあまり感じない仮名文学もある。『落窪物語』には、人を楽しませようというサービス精神は感じるが、ここでいう思念のようなものは感じられない。『堤中納言物語』には趣向を凝らした心意気こそ感じるものの、その意識はひじょうに刹那的なところに留まっているように思える。『和泉式部日記』にも感じない。『枕草子』にもあまり感じない。ただ、その日記的章段群には、書かれた時点ですでに「もはや回顧することしかできない世界」が描かれておりその第一の消費者がおそらくは作者自身であったこと、またその結果として「書き残されたものが滅んだ後も生き残る」というテーゼを図らずも体現してしまっていることによって、同種の魅力を放っているようなところがある。)

だから、平安時代の仮名文学を読むということは、読み手にとってだけでなく、書き手にとってもやはり生死の境界を超えた対話であるということになる。古文を読むというのは、そういうところが多分にある。

……うーん。前回にもましてわけがわからないことを言っていると思われたことでしょう。前回のと合わせて、これらのことはまだ自分の中でもうまく考えが整理できてない。というか、もともと妄想じみているので、合理的に言語化するのは無理のような気もする。が、なんとなくここを終わらせる前に書いておきたかったので、わからないなりになんとか書いてみたという感じ。お目汚し御免。次から源氏の話に戻ります。

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