2010-07-30

後書き

予定していた百回を前回で超えたので、これでひとまずこのブログはおしまいです。一年の予定を半年以上もオーバーしてしまった。それでも読んだこと、考えたことのぜんぶは書ききれなかったな。しかし楽しかった。書きたいことがたまってきたらいつかまたここで再開するかもしれないので、記事は消さない。そのうち検索に引っかかって誰かの役に立つかもしれないしね。

『源氏物語』読了を報告できたのは延びてよかったことのひとつと言えるかもしれない。数年前まで古典の予備知識ほぼなしだった人間でも、こうして源氏を読めるとこまでいけるということを実証できた(笑)。

いろいろ出しゃばって無茶なことを書いてしまったかもしれない。引用はできるだけ出典を辿れるようはっきりと書くよう心がけたつもりだけど、間違った解釈で引いてしまったりしていないかだけが心配だ。記事を読んだ皆さまにおかれては、かならず明記した出典に直接あたってその妥当性を確認していただきたい。

今までよりペースは落ちるかもしれないけど、ここは書かなくなっても個人的には引き続き古文を読んでいきます。平安時代に限ってもまだ読んでいない作品はたくさんある。『大鏡』『宇津保物語』『狭衣物語』『栄花物語』等々。後半はあまり触れることができなかったけど、文法的な興味も尽きていない。また、ついに和歌についてはいまだに大きく理解が遅れていると感じている。それから、活字本ではなく古写本のままで少しでも読めるようにもなりたい。とりあえず次は『大鏡』かな。角川の文庫を買ってある。

タイトルについて。“pearly hailstone” というのは、宣長の著作「玉あられ」の我流英訳です。気づいた人はいただろうか……。

期間中ご指導ご感想のコメントをくださった方々ありがとうございました。更新はしなくなるけどメールやコメントは引き続き受け付けています(コメントのほうはスパムが入ったら状況次第で新規投稿を停止する可能性あり)。古文の話題であればなんでも遠慮せずに教えていただければと思います。

ではみなさん、ごきげんよう。

2010-07-29

宇治十帖について

ようやく宇治十帖を読み終え、これで源氏物語はすべて読み果てたことになる。さて、その宇治十帖だが、源氏の他の巻々との雰囲気の違いから、これを紫式部の作でないのではないかとする説が古来より唱えられてきた。よく推定されるのは、式部の娘の大弐三位である。

本居宣長は宇治十帖も式部作であると考え、『紫文要領』でその証拠のひとつとして「浮舟」の巻にある「里の名をわが身にしれば」の歌が紫式部の歌として新拾遺集に入れられているということを指摘している(岩波文庫版 p. 10)。

「竹河」を式部作でないと指摘した武田宗俊は、それ以外の巻はすべて式部作であるとした。ちょっとどこを引用したらいいのかメモしておくのを怠ったせいで適切な個所を得ないのだけど、別件について論じているところで、「椎本」の巻の「奥山の松葉に積る雪とだに消えにし人を思はましかば」の歌が『伊勢大輔集』に式部の歌として載っている「奥山の松葉に凍る雪よりも我身世にふる程ぞはかなみ」を作り替えたものであるという指摘をしている(『源氏物語の研究』、p. 33)。

これら歌からの指摘はあながちに無視できないのではないかな。式部の文体は「若紫」から「帚木」「若菜」と見渡してみてもずいぶんの変遷をしてきている。文体だけからは安易にこれらをひっくり返して他者の作と認めることはできない。

また、大野晋は、自分は宇治十帖他作者説の可能性を捨てていなかったが『紫式部日記』の精読から宇治十帖も式部作と考えるようになったと言っている(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語(上)』中公文庫、p. 12 および大野晋『源氏物語』岩波現代文庫)。たしかに『紫式部日記』に垣間見える男性嫌悪的な態度は、「総角」や「浮舟」「蜻蛉」の巻などと通底する。

『紫式部日記』に、道長の側室腹の若君たちが女房の局への出入りを許されて乗り込んでくる場面がある。若い盛り(みな十五歳前後)の男たちに若い女房らも色めき立つが、年配である式部は奥のほうに隠れている。

高松の小君達さへ、こたみ入らせ給ひし夜よりは、女房ゆるされて、まもなくとほりありき給へば、いとはしたなげなりや。さだすぎぬるを效にてぞかくろふる。五節こひしなどもことに思ひたらず、やすらひ、小兵衛などや、その裳の裾、汗袗にまつはれてぞ、小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる。

(『紫式部日記』岩波文庫、p. 56)

若君にからまれて上げた女房の黄色い声を「小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる」と書く。僕はここを読んだ時ぞっとした記憶がある。この表現に式部の男女間の語らいへの強烈な嫌悪と不信が見えたような気がしたのだ。「蜻蛉」を読んだ時、浮舟がいなくなったあと、その慰めを求めて宮中の女房を漁る匂宮や薫の描写に、僕は日記のこのくだりを思い出した。

さて、そうした印象とは別に、もうひとつ小説としての技術的な視点からも思うところがある。「匂宮」で登場人物を紹介したあと、「橋姫」「椎本」ではひじょうに周到に伏線が張られている。この状況設定は「総角」での膨大な心理描写を導くためのものである。また、ストーリーが実質的に大きく動くのはさらにそのあと「早蕨」からである。僕は、別人が引き継いで書いたとするなら、こんな地味で周到な展開にはしない(できない)と思う。

デビューしたての物語作者は、ストーリーの早い段階で読者を引きつけなければならないので、目を引くエピソードを定期的に発信しようとする。『落窪物語』を思い出してみればいい。『源氏物語』でさえ序盤の紫上系ではそうだった。だが、ここでは「匂宮」の薫の体香という設定がやや好奇の目を引くものの、その後はじつに地味な展開が続く。読者の目を引くことに関心がないのではないかと思えるふしすらある。大野晋は宇治十帖を実験小説と言ったが、こう言ってよければ、作者は宇治十帖において、小説を自分の思考の道具として使っているような印象がある。これは散文を膨大に書き続けてきた人間の書きっぷりで、だれかがぽっと出てきて引き継いだ時に生まれるような文章ではない。

上記の印象から、よほど決定的な外部の証拠がない限り、宇治十帖が式部作でないというのは、なかなか受け容れがたいように思う。まあ問題は、自分の読解がどこまで信用できるかというところなのだが……。宇治十帖は「若菜」上下と同様、もう一度読む必要があるな。

2010-07-26

『源氏物語』を読み終える

おおよそ一年半かかって、ようやく『源氏物語』を読み終えた。読み終えたというだけでもそれなりに感慨があるけれども、純粋に優れた作品を完読する機会を得られてよかったと思う。今後源氏に関係した言説に触れるたびにいちいち後ろめたい思いをする必要がないのもいいことだね。

以下は差し出がましいが、これから源氏を原文で読もうという人への助言。

現行の巻の順序でなく書かれた順で読む。これがいちばん言いたいところ。新しい研究の成果を取り入れない理由はない。21世紀の人間が源氏読解においてアドバンテージを持てる唯一の要素。これを実践するだけで挫折率はそうとう下がると思う。ここでも紹介してきたけど、現行の巻の順序は書かれた順とは違っている。詳しくは、武田宗俊『源氏物語の研究』などを参照のこと。巻の順に読むというのは『銀河英雄伝説』や『ポーの一族』を時系列順で読むとか、そういうことに近い。つまり、二回目以降の人向けの読み方だといえる。書かれた順で読むほうが、頭に入ってきやすいはずである。とくに前半部は、巻順ではごちゃごちゃしているところが、たいへんすっきりとする。また後半では「紅梅」の位置に注意する。

ここでいう「書かれた順」とは、次のような順である。

  1. 「1. 桐壺」。これはおそらく次の紫上系がある程度書かれた後にあらためて用意された巻とおぼしいのだが、どのみちストーリー的にはここから始まるとしかいえないので、これに限っては書かれた順でなく最初に読んでおけばいいと思う。が、必ずしも最初でなければならないわけでもない。紫上系を読んでいる途中で外伝的に寄り道して読んでもよい。
  2. 紫上系。「5. 若紫」「7. 紅葉賀」「8. 花宴」「9. 葵」「10. 賢木」「11. 花散里」「12. 須磨」「13. 明石」「14. 澪標」「17. 絵合」「18. 松風」「19. 薄雲」「20. 朝顔」「21. 少女」「32. 梅枝」「33. 藤裏葉」。
  3. 玉鬘系。「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」「6. 末摘花」「15. 蓬生」「16. 関屋」「22. 玉鬘」「23. 初音」「24. 胡蝶」「25. 螢」「26. 常夏」「27. 篝火」「28. 野分」「29. 行幸」「30. 藤袴」「31. 真木柱」。「玉鬘」以降は通称「玉鬘十帖」と呼ばれる。
  4. 「若菜」以降。「34. 若菜上」「35. 若菜下」「36. 柏木」「37. 横笛」「38. 鈴虫」「39. 夕霧」「40. 御法」「41. 幻」。
  5. 「匂宮」「紅梅」「竹河」、宇治十帖。ただし順序は「42. 匂宮」「45. 橋姫」「46. 椎本」「47. 総角」「48. 早蕨」「43. 紅梅」「49. 宿木」「50. 東屋」「51. 浮舟」「52. 蜻蛉」「53. 手習」「54. 夢浮橋」。「44. 竹河」は外伝として気が向いた時に適当に読む。

読書進捗の話をした時の表もご参考に。

さらに、上記の読みかたを実践してもなお整合の取りきれない個所がいくつかあることも知っておいて損はない。これらはいずれも(偶然か意図的かは別にして)巻の欠落が原因のように見える。

  • 「1. 桐壺」と「5. 若紫」の間に明らかなストーリー上の欠落がある。この欠落部分については「2. 帚木」「3. 空蝉」「4. 夕顔」にも書かれていない。ここには藤壺宮と源氏との密会、朝顔斎院や六条御息所と源氏とのなれそめが描かれていたはずである(宣長はこれを補完するために「手枕」を自分で書いた)。つまり、実質源氏物語は「5. 若紫」から、ストーリーの途中のところから始まっている。これはもうそれしか残ってないんだからしょうがない。上演時間に遅れてやってきた客のようなものと、あきらめるしかない。
  • 「1. 桐壺」は「5. 若紫」以前の背景を描いたものだが、必要なぜんぶを説明してくれているわけではない。「14. 澪標」で語られる宿曜の予言などはその例である。
  • 紫上系、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間に欠落があるようで、夕霧や柏木の官位がここで飛んでいる(しかしここは明石の姫君の裳着の話が連続しているので、このふたつはそれほど離れた巻同士でないことは間違いない)。それが玉鬘十帖で説明されているかというとされていない。どうも、玉鬘十帖は、「21. 少女」と「32. 梅枝」の間にあった巻を抜き取って、そこに差し替える形で挿入されたような感じである。玉鬘十帖に一時的に紫上系によく見られる華やかな描写が復活するのはそのことと関係があるかもしれない。
  • 底本によっては、「47. 総角」で夕霧の官位が混乱している。これは「紅梅」の位置が誤られたことによる混乱からきているのだと思われる。あまり気にしなくてもいいっぽい。詳しくは武田宗俊の論を参照。

訳文はいらない。まず基本的に、全訳と名の付いている本の訳のほとんどは意味がない。意味のある訳を読みたいのなら、与謝野源氏なり谷崎源氏なり、それ自体を鑑賞の目的として耐えうるものを読めばいい。全集で全訳を載せているようなやつの訳文は、日本語とはいえない。あれは古語の助詞・助動詞を機械的に現代の助詞・助動詞に置換した人工言語みたいなものだ。難しければ難しい原文になるほど、訳文はあてにならなくなっていく。あれの無意味さはいくら強調してもしすぎることはない。それに源氏物語は大著だ。それを読もうという時に、それと同じかそれ以上の分量の駄文を並行して読むというのは時間と頭の無駄遣いだと思う。

以前脚注の落とし穴について書いたことがあるけど、そうはいっても注は絶対に必要である。注の付いてない原文で読もうという原理主義にまでいくのはやり過ぎ。目で追ってても内容は理解できずに終わる。そういうのは二周目以降にとっておこう。

巻ごとに解説書で復習する。ということは、なにか源氏物語の解説書を用意したほうがいいということです。巻ごとに、あらすじとか、見どころがまとまっているやつがいいかと。僕の場合はそれは対談『光る源氏の物語』だった。でも他の本でもなんでも、好きなやつでいいと思う(でも対談は読書の孤独を紛らわすのにはよかったかな)。ひと巻読み進んだ後に、そこで何が語られていたのか、ストーリーはどう動いたのかをそうしたガイドブックで復習しておく。前に読むと読む気がなくなるので後がいい。ちゃんと読めてればもちろん不要なことではあるけれど、保険としてあったほうが最期まであきらめずに読めると思う。

2010-07-22

「匂宮」「紅梅」「竹河」について

大野晋と丸谷才一の対談『光る源氏の物語』では、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖についてその文章の拙さと冗長さとを挙げて式部作ではないとし、「読者はこの三巻を飛ばすほうがいい」と言っている(中公文庫版下巻、p. 274)。僕は源氏物語を読むにあたって当初この対談を大まかな羅針盤としていたので、「幻」のあとにはまず「橋姫」へと進み、飛ばした三帖は宇治十帖を読みながら適当なタイミングで読んでいこうと考えていた。

「匂宮」「紅梅」「竹河」を飛ばして、いきなり「橋姫」から読み出してもストーリー上破綻はないというのは、おおむね間違ってはいない。しかし要所要所で言及される薫の体香についての記述は、どうも「匂宮」の記述を前提としていると考えたほうがいいように感じた。

薫は女三の宮と源氏(実は柏木)の子で、自分の出生に疑問を持ち、そのせいか厭世的な性格を持つ人物である。彼には、なぜかその体からえもいわれぬいい匂いがするのだという設定が「匂宮」にある。おとぎ話を卒業して現実的な人間模様を描くことに成功した源氏物語が、ここでなぜまたこんな SF 的な設定を持ってきたのかというのが昔から疑問視されていて、それが「匂宮」他者作者説の唱えられる一因ともなっていた。

しかし、宇治十帖の前半部には、薫の放つ香についての言及が要所要所に出てくる。そういう個所に出くわすと、思い込みを防ぐために、それらが「貴人としての一般的な描写として素晴らしい香を焚きしめているのだと述べているだけではないか」と警戒しつつ注意深く読むようにしていたのだが、やはりそれでは苦しいように思われた。

……宮は、いとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香のいと深くしみ給へるが、世の常の香《かう》の香《か》に入れたきしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしと咎め出で給て、いかなりしことぞとけしきとり給に、……

(「宿木」新日本古典文学大系『源氏物語(五)』、pp. 71-72)

薫の体香について、はっきりとそれが「薫きものの香」であるように記述された個所は見つからない。むしろ上記引用などは、やはり彼自身の体香という設定を前提としていると考えたほうが自然である。「匂宮」が後から書かれたというのであれば、こうした記述に生じうる微妙な齟齬まで書き換えたと考えなければならず、それはちょっとありそうにない。

そんなことを考えながら読んでいたら、武田宗俊の『源氏物語の研究』でははっきりと「匂宮」「紅梅」は式部作と断ぜられていてなんだか拍子抜けしてしまった。式部作でないと思いながら読むからそうという理由がなくてもなんとなく疑わしく思ってしまうのだが、いったん疑ってしまったものをやはり式部作と断言するのは難しい。しかし決定的な証拠がなければ式部作に帰するのが自然である。丸谷才一は思い込みで文が拙いと言ってしまったのだろうか。

「紅梅」についても、諸所にそれを前提とした記述が見られる。この巻が式部作でないと疑われたいちばんの理由は登場人物の官位が合わないという点なのだが、これは武田宗俊の同書の論文で解決してしまった。「紅梅」を「早蕨」の後、「宿木」の前に入れるとその問題は起らない。この説が正しいように思う。「宿木」には「紅梅」の内容を前提にした記述が見られるので、これもよっぽどの理由が出てこない限り式部作だろう。

文章が拙いというのはなかなか証拠として挙げにくい事実である。自分の読解力がないだけかもしれないし。「紅梅」の文章がごちゃごちゃしているというのは、そもそも書こうとしている事実(人物関係)がごちゃごちゃしているせいかもしれない。また、あんまり上手くないと思った巻が他になかったわけではない。僕は「鈴虫」の巻で、これは名文とは言い難いのではと思った記憶がある。

「竹河」については以前書いたとおり、これは直接的な剽窃を指摘されているので、式部作でないこと確実だろう。しかしにもかかわらず文章の出来不出来からこれを式部作でないと判定するのは難しいと思う。結局のところ、文の格調が高いか低いかは、著作者の判定にはあまり信用できないということなのかもしれない。

2010-07-19

書き残された言葉と死について その二

一条天皇の時代には『土佐日記』や『伊勢物語』が生まれてからすでに数世代が経過している。『蜻蛉日記』が書かれてからも一世代以上経っている(道綱母は生きていたかもしれないが)。中宮定子や清少納言は時の人ではなくなったが、『枕草子』は読み継がれていたようだ。

道綱母は『蜻蛉日記』がいつごろまで読み継がれるかを意識していただろうか。また、紫式部は『源氏物語』がいつごろまで読み継がれるかを考えていただろうか。千年以上とまでは想像しなかったかもしれないけど。

『蜻蛉日記』の作者はおそらく『土佐日記』『伊勢集』などを先行する存在として意識していただろう。紫式部まで下ると、そうして残された『蜻蛉日記』も強く彼女の意識に訴えていたに違いない。李杜をはじめとする、はるか昔の大陸の文人たちのことも考えたと思う。

さて、なんの話かというと、書き残されたものは自身の死を乗り越えてなお残る、というアイデアについてである。

『蜻蛉日記』や『源氏物語』には、さらには『賀茂保憲女集』にも、自身の書いたものが世の中に出回っているほかの読みものと同様に残ってゆくものであることへの自覚と、また残してやろうという意志が感じられる。その原動力は嫉妬だったり自責だったり卑下だったりするのだが、何にせよそうしたものを自分の存在とともに流れて消えてしまうものにはできないと、彼女たちが考えたであろうことが感じられる。僕はこれらの散文作品がそうした私的な動機だけによって生まれたとは考えないが、また一方でそれがまったく関与しなかったというのもあり得ないことだと思う。

(それをあまり感じない仮名文学もある。『落窪物語』には、人を楽しませようというサービス精神は感じるが、ここでいう思念のようなものは感じられない。『堤中納言物語』には趣向を凝らした心意気こそ感じるものの、その意識はひじょうに刹那的なところに留まっているように思える。『和泉式部日記』にも感じない。『枕草子』にもあまり感じない。ただ、その日記的章段群には、書かれた時点ですでに「もはや回顧することしかできない世界」が描かれておりその第一の消費者がおそらくは作者自身であったこと、またその結果として「書き残されたものが滅んだ後も生き残る」というテーゼを図らずも体現してしまっていることによって、同種の魅力を放っているようなところがある。)

だから、平安時代の仮名文学を読むということは、読み手にとってだけでなく、書き手にとってもやはり生死の境界を超えた対話であるということになる。古文を読むというのは、そういうところが多分にある。

……うーん。前回にもましてわけがわからないことを言っていると思われたことでしょう。前回のと合わせて、これらのことはまだ自分の中でもうまく考えが整理できてない。というか、もともと妄想じみているので、合理的に言語化するのは無理のような気もする。が、なんとなくここを終わらせる前に書いておきたかったので、わからないなりになんとか書いてみたという感じ。お目汚し御免。次から源氏の話に戻ります。

2010-07-05

書き残された言葉と死について その一

古文というのは学ぶ側にとっては一種の語学ということになるわけだけど、ほかの多くの語学とは違い、それでほかの誰かとコミュニケートできるようになるわけではない。また一般的には、その言語で自分が新たになにかを書くということもない。英会話などと比べれば、なんとも孤独な語学だといえる。

また、読書というのもひじょうに孤独なものだ。読書会とか朗読会とかいったりするものの、本質的には、近代的な意味での読書というのはきわめて個人的で孤独な体験である。

ところが、その個人的で孤独な作業の中で、読書する人の頭の中に、生き生きと話す人物の息づかいや、雑踏の喧噪やらが鮮やかに聞こえてくることがある。それも読書の特徴である。古文で書かれた文章にあっても、それは起こりうる。死んだ言語である古文がかつて生きていたという当然の事実を再認識するのは、そういうときである。辞書や文法書をひっくり返した苦労がそれを助長するのかもしれないが、千年前の中流貴族の女性の言葉が「聞こえた」と錯覚するときがある。古文というのは死んだ言語であるから、その話者も当然この世の人ではない。すると、この錯覚がいささか怪談めいた可笑しなアイデアを呼び起こす。死んであの世で古代の人と会話する、というアイデアだ。

死んだ人とかあの世とかを本気で信じるわけではないのだが、生きた古文という矛盾したものをひねり出すには、頭の中でそういう無茶でもしないことにはうまくいかない。だけど、こういう夢想をしたのは自分だけではないんじゃないかな。

なにで読んだか忘れてしまったけど、かつて、大野晋は冗談で「僕は紫式部と当時の言葉で会話ができるんだ」とか、そんなようなことを言ったことがあったらしい。本当だとしたら、大学者の大野晋もあるいは同じようなことを考えていなかったとは言えないわけだ。本居宣長だってそうだ。『紫文要領』は、つまるところは式部が源氏物語を書いたときの意図に従って読めという趣旨だが、それは必然的に平安時代のライブな作者/読者という存在を意識することになる。彼が擬古文で各種の書物をものしたのには、ひとつには「平安時代の人間に提出して通用するものを書く」という愉快な規範意識もあったのではないだろうか、などと空想する。

空想したところで、そうだという証拠もないし、なにか有用な知見が得られるというわけでもないので、これはただ空想してそれだけのことなのだが、そんなことも考えるという話。