2010-05-20

「夕霧」と「御法」「幻」について

「若菜」上下から「柏木」「横笛」までは、登場人物の行動や心理が物語の筋と緻密に絡み合い一体となっており、どの巻も前後の巻と切り離すことができない。作者の書き手としてのエネルギーがいちばん熱く注がれているのがこの四巻だと思う。一連のできごとが収束に向かうきっかけとなるのが柏木の死である。「横笛」から次第に、物語の熱がゆっくりと冷めてゆく。「夕霧」は「横笛」の続きであるけれども、同時に源氏の一族の「終わり」を語るその「始まり」ともなっている。

「夕霧」は彼の通称の由来にもなったその夕霧を主人公とした、独立性の強い構成の巻である。冒頭を「まめ人云々」で始め、結尾を雲居雁と藤典侍の子どもの話で終えることで、この巻は他ならぬ夕霧の物語であるということを作者ははっきりと示している。ということは、この巻それ単体で作者にはなにか書こうとしたテーマがあったということだと思うんだけど、それはなんなんだろう。

みんないろいろと意見があるとは思うけど、ひとつには源氏の「神話性の終焉」を宣言するものとしての役割があるんじゃないか。柏木の一件で源氏の不可侵性はすでに打ち破られている。それに追い打ちをかけるのが夕霧のどうしようもない通俗性というわけである。

この巻での夕霧はひどい。彼は未亡人となった落葉宮に言い寄るが拒否される。それはいいのだが、そのあとがひどい。関係はなかったのに、「関係したようだ」という世間の誤解を利用して落葉宮を絡め取っていく。それで落葉宮が母親の見舞いで山に籠もっている間に、落葉宮の自邸を勝手に改装して「ほら僕らの新居だよ」みたいに待ち構えている。こわい。でそのまま事実上結婚したみたいになる。でも本人が承諾してないもんだから結婚した後なのに文を送っては返事が来ないか待ったりしている。そのうち乗り込んできて「世間はそうは思わないだろうから、ここで折れておいたほうが身のためですよ」みたいな言い方で口説く。こんなやつに落葉宮がなびくわけがない。

(しかし柏木もそうなのだが、このかっこ悪さにはなんかこう、身をつまされるものがあるけどね。柏木といい夕霧といい、男の読者が源氏物語で感情移入できるのは若菜以降からだと思う。それ以前には、女はともかく男の登場人物にはあまり唸らされるようなキャラクターはいない。)

閑話休題。そういうわけで彼にはもはや父には備わっていた神通力がない。伊勢物語の「むかし男」に匹敵する、冗談みたいな好き人であった光源氏、その息子がこうして圧倒的な「普通」に着地してしまうというおかしさ。柏木と夕霧の二人は、意図したわけではないけど、結託して源氏の栄光を引きずり下ろす役割を担っている。

さてこの巻の終わりかたには、「私はこの夕霧という人物について書くことはすべて書き終えた」という「かたをつけた」雰囲気が漂っている。それに続くのが紫上と源氏の最期を描く「御法」「幻」。

「御法」は紫上の死を扱うための巻。それに焦点が当てられていて他のことには触れられていない。「夕霧」同様「御法」も「幻」も、中心人物が据えられてその人物とそれをとりまく人々の関わりという形で物語が描かれ、初期の、何月何日になった、という暦に従った物語進行から作者はもはや完全に解放されている。僕は紫上というキャラクターについて紫式部がどういう思いを抱いていたのかがまだはっきりとつかめないでいるので、この巻についてあまり言うことはないのだけど、その紫上という人物に対する作者の優しさは感じるよね。

「幻」は光源氏の最晩年の一年を歳時記ふうに綴っていく体裁。一年の節々で紫上を思いながら歌を詠んでゆく。年の暮れになって昔の恋文をまとめて焼かせる。それから年が明けたときの支度をいろいろ指図する。これで終わる。うまい。作者はこの終わらせかたを執筆のかなり前の段階から暖めてたんじゃないのかな。さて、このあと「雲隠」という名前だけの巻があることになっているが、まあ実際の本文はないだろう。恋文を焼いた話の出たあとにもう一巻だらしなく源氏の話が続くとはちょっとね。