2010-03-04

「夕顔」「末摘花」について

「夕顔」は、小説的な視点でいうと、それまで読んできた巻のなかで一番おもしろかった。「帚木」「空蝉」と合わせ、このあたりは若かった源氏のユーモラスな失敗談となっている。素性の知れない女にぞっこんになり、危険な所へ連れ出したあげく女を死なせてしまって慌てる源氏の姿は、かわいそうではあるんだけど、どこか滑稽だ。すっかりしょげかえってしまう源氏の描写といい、この巻はなかなかふるっている。

とはいえ、こうしたおかしさというものも華々しい貴公子光源氏という概念が前提となってはじめて成り立ちうるものだ。

「末摘花」については実際に読む前から、才女の作者にしては感心しかねる醜女に対する残酷さという面が語られているのを知っていた(大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語』上、中公文庫)。また、『紫式部日記』のほうはすでに読んでたから、そこにある他人への辛辣な批評やら暗く渦巻く内面の吐露やらを思い起こせば、さもありなんという意識も持っていた。

そのうえで、実際に読んでみると、意外にも残酷さというのはそんなにないのではないかという印象がした。不器量で変わり者の末摘花については、作者は容赦がないというよりは、むしろ思い入れがないといったほうが近いように思った。結局、変わり者の擁護をするのは紫式部って人の役じゃないんだよ。(とはいえその後「藤袴」あたりで末摘花は近江の君という人物と並んでひどい歌を詠ませられて作者から徹底的にこき下ろされている。こっちのほうがキツイ。)

「帚木」前半のいわゆる雨夜の品定めの議論から始まって、「空蝉」「夕顔」そしてこの「末摘花」と続く一連の流れでは、源氏の失敗譚が語られる。

空蝉、夕顔、末摘花はそれぞれ「帚木」前半の雨夜の品定めの議論における女の「品」についての上中下に対応していると思われる。

空蝉は品定めの議論では一番とされた「中の品」にあたるが人妻である。源氏ははやって懸想をかけるが、女はかたくなに抵抗し、ついになびくことがなかった。

夕顔は素性も知れない「下の品」の女だったが源氏はこれにぞっこんになる。あげく危険なところに連れ出してそのせいで女を死なせてしまう。

末摘花は、窮しているものの血筋は優れた「上の品」の女である。それが源氏のロマンをかき立てる。しかし対面してみれば器量振る舞いすべてにおいて奇天烈な女であった。

それで、ああやっぱり「品」なんてものじゃ女は語れないんだな、ということを源氏は悟る。大まかに言えばそういう流れになっている。末摘花の一件後、源氏が空蝉のことを思い出すくだりにはこうある。

かの空蝉の、うちとけたりしよひの側目には、いとわろかりしかたちざまなれど、もてなしにかくされてくちをしうはあらざりきかし、劣るべきほどの人なりやは、げに品にもよらぬわざなりけり、心ばせのなだらかにねたげなりしを、負けてやみにしかな、ともののをりごとにはおぼし出づ。

(「末摘花」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 228)

ところで、よく知らないのだけど、夕顔を憑き殺す物の怪についてこれを葵上同様の、六条御息所の生き霊によるものととる解釈があるのかな。しかしそんなことは「夕顔」のどこにも書いてない(後の巻にあるというのであれば別だけど……)。小説の構成的には、夕顔が死ぬのは源氏がはやって彼女を危険なところに連れて行ったことのしっぺ返しということで十分かたがついている。物の怪か、物の怪ならすわ六条御息所に違いないと飛びつくのは、何にでも無理に意図性を求めようとする悪しき解釈癖だと思う。

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