2009-06-22

たそたそ

男の云く、「去来《いざ》給へ。伯父父《をぢちち》の許に将《ゐて》奉らん」と。児、何心も無《なく》打□て、「母堂に告奉らん」と云へば、男、「人に不令聞《きかしめ》で、密に御《おはし》ませ」と云云。児、嬉気に思て走り行《ゆく》後ろ手の、髪のたそたそとして可笑気《をかしげ》なるを見《みる》に、かはゆく難為《しがたく》思へ共、人に憑《たのも》し気をし見えんと思へば、木石の心を発《おこ》して、馬に鞍置きて曳将《ひきゐて》来ぬ。

(巻第二十六「陸奥の国の府官大夫の介の子の語 第五」池上洵一編『今昔物語集 本朝部(下)』岩波文庫、p. 36)

古文を読んでいると、いまでは使われなくなってしまった擬音語・擬態語に出くわすこともある。走っていく子供の髪の揺れる様子をして「たそたそ」と言っているのだけど、これなんていかにもで、ああ、たしかにたそたそしてるよなあ、と思う。

2009-06-18

物語の末尾切断形式

最近、のんびりとだけど『大和物語』も読んでいる(小学館「新編日本古典文学全集」12)。いくつ並行して読んでるんだという感じだが……。

ひとつひとつの段が短くて、文の流れも自然で読みやすい。これは古文の入門にいいんじゃないのかな。どこか取り付く島のない感じの『伊勢物語』なんかよりも、ずっと教科書向きなんじゃなかろうか。教養としての重み付けからすると伊勢物語なんだろうけど。しかしいくつか古文読んできた者としての実感からすると、あれ、読みにくいよね。少なくとも、感情移入できる文ではないと思う。

さて、その大和物語を所収する小学館「新編日本古典文学全集」の解説で面白かったのは、「物語の末尾切断形式」というくだり (p. 432)。

『大和物語』の原型の最後は百六十九段と見られ、歌も含まれず、その末尾本文は「水くむ女どもあるがいふやう」と切断形式になっている。切断形式とは末尾本文が、内容的にも形式的にも完結していないものをいうのであって、余韻を持たせるための形式である。「あはれ」の内容を持った説話の集積の末尾としてはまさに生きた形式になっている。この形式は後に亜流を生んで、内容的には完結していても、形式的には完結していないかのように見せかけたもの、文章の上では内容的にも形式的にも完結していないが、その先の内容を読者が知っており、切断形式の実質的効果が上がっていないものなども出てくる。

(「大和物語」、新編日本古典文学全集12、p. 432、小学館)

作品としての物語をどう終わらせるのか、それについての当時の定石のひとつが切断形式だったのだろう。『源氏物語』の末尾はけっこう有名だと思うけど、あれがどうしてあんなふうな終わらせかたなのかと感じた人も多いと思う。結末を描く段落としては、一回転してかえって斬新さを感じさせる、すぱっとした終わりかたなんだよね。写本の系統によってその末尾が安定してないことには、この切断形式がひとつの型としては忘れられてしまったということにも一因があるのかもしれない。最近読み終えた「花宴」の末尾も切断形式をとっていたということか。

 「梓弓いるさの山にまどふ哉ほのみし月のかげや見ゆると
なにゆゑか」とおしあてにのたまふを、え忍ばぬなるべし、
  心いる方ならませば弓張りの月なき空にまよはましやは
と言ふ声、たゞそれなり。いとうれしきものから。

(「花宴」、新日本古典文学大系『源氏物語 一』、p. 284、岩波書店、一部表記を改める)

これで終わり。ここは、一度だけ会った朧月夜を探して源氏が右大臣邸をうろうろしていたところ、それとなく鎌をかけたりしてようやくその人を捜し当てた、という場面なんだけど、「いとうれしきものから」で終わっている。「いとうれしきものから」というのは「とても嬉しいけれど」というような意味だけど、思わせぶりな逆接を付けておいて、その先はない(次の巻もこれとは関係なく始まる)。

『落窪物語』の末尾についても、いろいろ詮索する一方で、そもそもこういう形式があるということを頭にとどめておく必要はあるね。

2009-06-15

岩波文庫版『今昔物語集』

岩波文庫版『今昔物語集』(池上洵一編)は注も丁度よくて、コンパクトでいいと思うんだけど、「振り仮名は現代仮名遣いに改めた(本文の仮名遣いは原文通りとした)」(凡例)というのが理解しがたい。なんだそのちぐはぐな方針は。学習者が古語辞典を引けなくなるじゃないか! それを抜きにしてもこの不自然な方針をよく一貫できたものだとも思う。

あとやっぱり本編ぜんぶ文庫で読めたらよかったのにな。岩波文庫の『今昔』は全体の四割程度しかない抄出版なのだ。岩波にはもういっそのこと、新日本古典文学大系の文庫版を出してほしい。

2009-06-08

雑纂

『枕草子』中の「……(なる)もの」で始まる章段群は、雑纂的章段と呼ばれている。この形式の原点として唐の李商隠による『雑纂』という本がある。僕はこれを漢文の入門書、『詳解漢文』(昇龍堂出版)から知った (p.435)。

それがどこか読めるところはないかと探してみたら、早大の図書館が「古典籍総合データベース」と称して古典籍の写真を公開していて、そこに江戸末期に出版された『雑纂』があった。やるじゃんワセダ。『雑纂. 上,下』墨江岸田桜(岸田吟香)校訂、文久二 (1862) 年。李商隠のオリジナルは上巻のほうである。あとは後人によるもの。(現在読める出版物で『雑纂』を所収しているものがあったら教えてください。)

さてその内容は、

必不

酔客逃席、客作偸物去 逐王侯家人、把棒呼狗、窮措大喚妓女

また、

殺風景

花間喝道、看花涙下、苔上鋪席、斫却垂柳、云々

この『雑纂』というのは『詳解漢文』によれば、「だいたい酒令(勝負に負けたり、しくじったりした者に酒を飲ませること)のために、問題のうまい答えを書いたものといわれています」とのこと(同頁)。ネタ帳のようなものか。題があって、それにふさわしいものを機知を交えて挙げるという形態は、たしかに枕草子と共通している。

分量は枕草子のそれと比べるとずいぶん少ない。また内容的に共通しているものは見られないようだ(ざっと見た限りでは)。古今の序文に見られるような、漢籍からの直接的な影響の一例としては同列には語れない雰囲気である。清少納言の頭に『雑纂』はあったろうが、内容的にはあくまで自分の思うままに書いたといったところかね。

2009-06-04

和歌のことについて

和歌について。中古の古典を読んでいるというからには、和歌について触れないわけにはいかない。いかないんだけど、これがなかなか難しい。

歌がどういう意味かは辞書や註と格闘すればなんとかなる。だけど、その場面でその人に、いったいどういう頭の中の働きによりその歌が出てきたものなのかというのは依然として謎だ。自分で歌を作ったことがないから、人がそういうときにどんな歌を詠んだというのが非現実的なのだろう。しゃべってていきなり朗詠モードに入ったわけ? わからん。

それと、和歌そのもののよさがまだ自分にはよくわかっていない気がする。私家集でも物語でも、歌はたいていその前に詞書きというものがあって、かくかくしかじか、どういう経緯で、ああなってこうなって、それで詠んだ、歌、というふうに書いてある。時にはそれにひどく感心させられることもあるのだが、さて自分が歌に感心したのかそれとも詞書きに感心したのかというと、どうも後者のような気がする。結局読んでる頭は散文の頭なんだよなあ。

僕は自分で読解力はあるほうだと思っていて、空気を読むのは苦手だが行間を読むのは得意のつもりでいる。ところが和歌は一行しかないので、そこに行間はない。歌には歌のアタマがあって、それを悟らない限り、歌はずっと自分にとって「外」の言語芸術のままなんだろうな、と思う。

それでも歌にはちょっといいなと思うところもある。それは形式を担保にして言いにくい本音も伝えられることだ。言いたくても言えないことというのはなかなか結構あるもので、それを直接でなく形式的に解消できる風習があったというのはちょっとうらやましいな。

2009-06-01

下衆のことばには必ず文字あまりたり

小松英雄『日本語はなぜ変化するか』(笠間書院、1999年)では、『枕草子』の「下衆《げす》のことばには必ず文字あまりたり」というくだりについて、これが庶民層においてすでに表出していた終止形の連体形化現象のことではないかと推測している (p. 167)。ここはおもしろかった。

中古の動詞の連体形は、四段および上一段(あと「蹴る」一語の下一段)活用動詞では終止形と(文字の上では)変わらないが、その他の動詞ではすべて見かけ上終止形に「る」が付いた形になっている。音節としてはひとつ「あまる」ことになる。

以前同書から引用した、やはり枕草子中の、「いはんとす」と言うべきところを「いはんずる」と言う者がいる、という箇所を思い出すと、なるほど後者は連体形終止の形をとっている。このことは枕草子を読んだ時から気になってたんだけど、清少納言の癪に障ったのは、音便縮約のほうもあるのかもしれないが、ここではむしろ連体形終止のことを言っていたかもしれないわけか。そしてそれを考えると、「下衆のことばには云々」が連体形終止の言葉遣いを批難するものだったというのには説得力がある。