2009-11-19

冷泉家 王朝の和歌守展

(11/20 追記あり。)

東京都美術館でやっている、「冷泉家 王朝の和歌守展」を観てきた。こりゃやばい、鼻血出そうだったぜ。俊成、定家、為家筆の古写本類がどっさり。正直こんなとこに置いといちゃいけないのではないか、と思わせるようなシロモノばかりが並んでいる。デフォルト重文、たまに国宝みたいな。

いちいち書いてたらうるさくなるので書かないけど(紫式部メソッド)、みんなが素通りしそうな細かいとこを挙げると、以前ここで紹介した「賀茂保憲女集」(賀茂女集)があったよ。表紙に定家のあの独特の文字ででっかく「一首無可取哥」と書いてある。後世この人物の評価を決定してしまった、定家本人からしてみればあくまで実用的なつもりで書いたこの覚え書きに「これかあ……」とつくづく見入ってしまった。

あと、源順のけったいな私家集の「雙六盤の歌」(だと思う)も必見。手元に展示品リストがあるが、どうも前期のほうが内容がおもしろいような気がする。

メジャーどころでは『明月記』の展示部分が定家の父俊成の死の場面(元久元年冬)であったのがよかった。僕は堀田善衞の『定家明月記私抄』でこの記述を知ったのだけど、父の死というのはヨーロッパの小説には時折凄まじいものが出てくるが(『チボー家の人々』とか)、これにはそれらに匹敵する迫力があるなと思っていたのだ。また、この場面は日本語の表記の歴史について考えるときにも大事なところだと思う。

俊成は九十一歳、雪が食べたいと言い、定家の家令の文義がこれを探して来る。臨終の日、十一月卅日の日記は漢文の中に、父の言葉としての和文が入ってくる、珍しいものである。すでに日本での生活の中での漢文の限界というものが明らかに見えて来ているのである。雪を口にして、
「殊令悦喜給、頻召之。其詞、めでたき物かな猶えもいはぬ物かな。猶召之。おもしろいものかな。人々頗成恐、取隠之。」(傍点筆者)

日本の文章が漢字仮名まじりにならなければならなかった必然が、この危急の瞬間にすでにあらわになっているのである。右の文をいままでのように読み下すとすれば、
「殊に悦喜《ヨロコ》バシメ給ヒ、頻リニ之ヲ召ス。其ノ詞……猶之ヲ召ス。……人々頗ル恐レヲ成シ、之ヲ取リ隠ス」となる。

「此の天明ノ程ニ仰セラレテ云フ、しぬべくおぼゆト。此の御音ヲ聞キ、忩《イソ》ギ起キテ御傍ニ参ズ。申シテ云フ、常よりも苦シクオハシマスカト。頷カシメ給フ。申シテ云フ、さらば念仏して、極楽へまいらむと思食《オボシメ》せト。……」

齢九十一歳、老衰死ということもあるであろうが、父が、死ぬべくおぼゆ、と言い、子が、さらば念仏して極楽へまいらむとおぼしめせ、と言いきかせ、かくて父が死んで行くのである。

死ぬべくおぼゆ、と言って死んで行った人を私は他に知らない。

(堀田善衞『定家名月記私抄』ちくま学芸文庫、pp. 211-212、引用にあたり傍点は太字に置き換えた。)

そしてここで引用されている部分がまさに展示されている(展示入れ替えがあるから、23日まで)。原典には、

卅日 天晴
 ……
 ……
              …… 殊令悦喜
給頻召之其詞めでたき物かな猶えもいはぬ物かな
猶召之おもしろいものかな人々頗成恐取隠之
 ……
               …… 此天明
之程被仰云しぬへくおほゆ聞此御音
忩起参御傍申云常よりも苦御座令頷給
申云さらは念仏して極楽へまいらむと思食せ

とある(と思う――自信ないけど)から、これから行く人は確認してみよう。

余談。会場はオバサンばっかりなので注意(何が)。「思ってたのとちがうワ、帰りまショ」とか言ってるオバサンもいたらしい。「お宝」目当てだと、本ばっかりだから当てが外れるだろうな。

追記。きょう (11/20)、もう一度ゆっくり見ようと思って平日の午前中に行ってきた(ちなみにあんまり空いてなかった)。ら、展示されてたのは十一月じゃなくて十二月からだった! これは展示内容が変わったんじゃなくて、前に見たときもそうだった(俊成の葬儀についての話があったのは覚えていたので)。

要は、もともと僕の頭の中に俊成の死についての『明月記』の記述が印象にあって、たまたま展示でその年の十二月の葬儀の段が出てて「ああ、あの場面か」と認識し、図録を買って帰ったらそこにちょうど十一月のくだりが載ってたので、それで十一月の分も展示されてると思い込んだのだった。あてにしてた人がいるとは思わないけど、いたらゴメンネ。(追記ここまで)

2009-11-15

技術的な話で申し訳ないのですが……。

Windows Vista/7 上の IE7/8 でここを表示したときにおかしなフォントでレンダリングされる場合があったようだ。一年も気づかなかったとはきついな……。それとも Vista なんてだれも使ってないから大丈夫だったかな? なんと、Vista/7 の IE8 は XP の IE8 とはレンダリング結果が違う。けっきょく複数の OS、ブラウザで確認する泥臭い作業がいまだに必要なんだな……。

「vista ie7 css フォント 異常」あたりでググるといくつかこの件について出てくるが、ちょっと情報が錯綜していて、正確に現象を把握するのがむずかしい。ていうかこれあちこちで起こってると思われるんだけど、ひどくないか。

スタイルシートを修正したので今は大丈夫だと思うけど、Windows 7 の IE8 でしか確認していない。ほかの環境でおかしかったら言ってください。

2009-11-14

先月、宝生能楽堂の普及能という催しで、はじめて能を観てきた。能が観たい観たいと言ってたら、友人が招待券を取ってくれたのだ。ありがとう。

古文を読むようになってから、能も一度観てみたいと思ってたんだ。要は「古文でやる劇作品」なわけだから、今なら結構いけるんじゃないかと。その一方で、複数の筋から「能は寝る」という証言も聞かされていた。僕は劇でも演奏でも映画でも行けばたいてい面白いと思えちゃうので、眠ったりは今までほとんどないんだけど、「何度か観たが今まで行った公演で寝なかったものはない」とまでいう人もいたので、そこまで言われるとさすがにちょっと不安だった。

寝なかったよ。全然いけるな、これは。事前準備さえしておけば恐れることはないね。逆に、あれを事前の予習なしで行くのは自殺行為だとも思った。それではよほど慣れてない限り寝ても仕方ないと思う。このへん観に行くときの心構えがあると思うんだけど、それはもう何度か観て自分の憶測が正しいことを確認してから書こうかな。

あと、古文を読んでいる人は、能も絶対に観た方がいいと思った(ていうか常識かしら)。さかのぼって室町とか江戸初期だし、どうせ新しいんだろ? とか思うかもしれないけど、どうしてなかなか、実際に歌や台詞を聞いてみると刺激的ですよ。

2009-11-09

わたくしは、こどものころから、歌に限らず俳句やら川柳やらの短い定型の作品を読みますたびごとに、その横に親切に付けられている口語訳とか、現代語訳というものに、違和感を覚えておりました。子どもが違和感ということを知るはずがありませんから、それは要するにいわくいいがたい、落ち着かない感じのようなものであったのだと思います。なにか違うのではないか、と。

(上野洋三『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』、1999年、臨川書店、p. 3)

(略)どちらの段階を通じても、わたくしは先学の解説、先人の注釈とあちらこちらでぶつかり合いました。承伏しがたい先注に出逢うたびに、無視するか否定するかして行きます。寂しく恐ろしい気分におそわれます。それを学生の前で語り、また文章に表して行くときは、そのつど跳び降りるような気がしました。やがてその日々の中から、作者がなつかしくなりました。いまわたくしが進んでその作品のことを人に告げたいと思う、これを作った人としての作者が、その時は唯一の同行《どうぎょう》のように思われたからです。

(同書、p. 6)

2009-11-07

最近『源氏物語』関連で大きい発見が続いている。まだ新しいものが見つかるもんなんだねえ。そのうち「かかやく日の宮」が出てくるかもとか、絶対ないとはいえないよなあ、こりゃ。

前者の「花宴」の末尾については、ここで以前取り上げたことに関係しているだけに興味深い。「蜻蛉」のほうはまだ読んでないのでいまはなにも言えないけど。

ところでさあ……、asahi.com の記事は、最初「花宴」のくだりを説明するのに「20歳の源氏が、恋心を寄せる朧月夜(おぼろづきよ)に車ごしに歌を詠みかけると、」と、確かにそう書いてあったんだよね。それで「車ごしじゃないだろ、何見て書いてんだ」ってここに書いてやろうと思って「花宴」読み返したりしてたのだ。ところがいま見ると「20歳の源氏が、恋心を寄せる朧月夜(おぼろづきよ)に、部屋を仕切る几帳(きちょう)ごしに歌を詠みかけると、」って、こっそり直してやがる。これがオトナのやることだぜ、みんな。

「はてなブックマーク」のエントリには、これを書いている現在でもページが取得された時点の「車ごし」の記述がぎりぎり残っている。キャッシュが更新されたら消えちゃうけどね。

誤字や「てにをは」ならこっそり直したって気にしないけどさ、こういうのはあんまり感心しないよなあ。しかし新聞社のウェブサイトではままこうしたことは見かける。

2009-11-06

『近世宮廷の和歌訓練』

さて、またここの対象とは時代が違うのだが、上野洋三『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』(1999年、臨川書店)という本について。

この本は、江戸時代初期の『万治御点(まんじおてん)』という書物についての著者による講義をまとめたもの。

『万治御点』というのは、江戸時代初期に後水尾院という人が後西天皇や飛鳥井雅章らに古今伝授のため歌学の勉強会を開いた、その添削の記録で、参加者の歌作とそれについての院による批評が記された文書である。

江戸時代初期ということで平安時代とは随分隔たっているわけだけど、当時の歌学の学習者、つまり歌の上級者ではなく中級者くらいの人々の歌作とその添削を見るのはなかなかおもしろい。

和歌というのは、平安時代の貴族階級の間ではおそらく教養であると同時に実生活でもあったように思われるが、やがて宮廷文化の衰退とともに特定の「家」に伝えられるような秘儀へと変化していったように見える。この変化の前後に横たわる断絶はあまりに大きく、生活とともにあった和歌というそのありさまは、いまの人間の想像からするとどこか童話的・神話的で、現実感の希薄な印象がつねにともなう(まあそれがみんなの言う「みやび」ってことなのかもしれないけど)。

後水尾院も後西天皇もその他の廷臣も、貴族皇族でありながらすでにこの断絶の「こちら側」の人間だ。このなかで、講義を行う院だけが、その言動から、こちら側から「あちら側」へと渡ることのできた、その境地へ達した存在であるかのように見える(後西天皇たちの目にも、院の姿はそう映ったに違いない)。和歌がわかった人間とまだわかってない人間との対比が、この文書に現れているわけだ。なかにはいかにも作り慣れてない感じの(それが僕みたいな人間にも感じられる)歌があったりして微笑ましい。

いっぽうで、『袋草紙』に見られた、しょうもないその場しのぎの実用テクニックやら、やたら細分化された歌の「病」に関するドライな形式的考察を髣髴させるものは、院の批評の言には見られない。歌が具体的・実際的なものではなく、「感じる」「体で覚える」秘儀へと変容しているからだ。