2009-05-25

源氏物語の話を全然書いてないけど、ちゃんと読んでるよ。まだ挫折してない。まだ数巻分しか読んでいないので(じつは頭から順には読んでない)、なにか書こうということもまだないだけで。もとより今年中に読み終わる分量ではないから、このブログには書けずじまいになるかもしれない。

2009-05-21

(3) 何事を言ひても、そのことさせむどす、言はむどす、何とせむどす、といふと文字を失ひて、ただ、言はむずる、里へ出でむずる、など言へば、やがていとわろし、まいて、文に書いては言ふべきにもあらず

仮名は清音/濁音を書き分けない文字体系であるために、「いはむとす/せむとす/いてむとす」などと表記されているが、当時の日本語では鼻音音節ムのあとのは濁音化していたので、それぞれ、イハムドス/セムドス/イデムドスと発音されていた。

(小松英雄『日本語はなぜ変化するか』笠間書院、1999年、pp. 162-163)

ここの「鼻音音節ムのあとのは濁音化していたので、それぞれ、イハムドス/セムドス/イデムドスと発音されていた」というところがよくわからない。「濁音化していたので」のあと、「いはむする/いてむする」は「イハムズル/イデムズル」と発音されていた、という流れならわかるんだけど……。

2009-05-18

CSS の "Music Is My Hot Hot Sex" を聴いてたら、ふと「たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり」を思い出してしまった。まあこの曲と仮名序は似てるといえなくもない。

2009-05-14

老女と十二月の月夜

第一本妻者、齡既過六十而、紅顏漸衰。夫年者、僅及五八而、好色甚盛矣。蓋弱冠奉公之昔、偏耽舅姑之勢徳、長成顧私之今、只悔年齡懸隔。見首髮、皤々如朝霜。向面皺、疊々如暮波。上下齒缺落、若飼猿頬。左右乳下垂、似夏牛〓(※モンガマエに「由」)。雖到氣装、敢無愛人。宛如極寒之月夜。……

(藤原明衡著、川口久雄訳注『新猿楽記』平凡社、東洋文庫、1983年、p. 36)

上の文の読み下し。

第一ノ本《モト》ノ妻《メ》ハ、齢既ニ六十ニ過ギテ、紅顔漸ク衰ヘタリ。夫ノ年ハ、僅ニ五八ニ及ビテ、好色甚ダ盛ナリ。蓋シ弱冠ニシテ公ニ奉《ツカヘマツ》リシ昔ハ、偏《ヒトヘ》ニ舅姑《シウトシウトメ》ノ勢徳ニ耽《フケ》リ、長成シテ私ヲ顧《カヘリミ》ル今ハ、只年齢ノ懸隔ナルコトヲ悔ユ。首《カウベ》ノ髪ヲ見レバ、皤々《ハハ》トシラゲタルコト朝《アシタ》ノ霜ノ如シ。面《オモテ》ノ皺ニ向ヘバ、畳畳《デウデウ》トタタメルコト暮《ユウベ》ノ波ノ如シ。上下ノ歯ハ欠ケ落チテ、飼猿《カヒザル》ノ頬《ツラ》ノ若《ゴト》シ。左右ノ乳《チ》ハ下ガリ垂レテ、夏ノ牛ノ〓(※モンガマエに「由」)《フグリ》ニ似タリ。気装《ケシャウ》ヲ致ストイヘドモ、敢ヘテ愛スル人無シ。宛《アタカ》モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ。……

(同書、p. 37)

そして同書の証注から。

▽極寒ノ月夜ノ如シ―師走(十二月)の寒夜にいくら月が明らかに照っても、賞玩する人がないようなものだ、の意。当時の諺。『二中歴』十列に「冷ジキ物 十二月ノ月夜 十二月ノ扇 十二月ノ〓(※クサカンムリに「ヨヨ」「尒」)水 老女ノ仮借《ケシヤウ》」。
『河海抄』に「清少納言枕草子 すさまじき物 おうなのけさう しはすの月夜と云々」とある。

(同書、p. 41)

これは藤原明衡《あきひら》という人の『新猿楽記《しんさるがくき》』という本からの引用。この作品自体の紹介もまたあとで書くつもり(仮名文学じゃないんだけど)。成立は1052年前後(同書、p. 320)というから、枕草子や源氏物語から半世紀ほど下ったあたりである。

引用したところは、右衛門尉という人物の第一の妻を描写したところである。源氏の源典侍をさらにグロテスクにしたような怪女だが、ここに「宛モ極寒《シハス》ノ月夜ノ如シ」とある。

証注の引用を見ると、『二中歴』と『河海抄《かかいしょう》』からの用例が引かれている。『二中歴』という本は僕は知らなかったのだけど、ウィキペディアによれば鎌倉時代の事典とのこと。『河海抄』はいわずと知れた源氏物語の注釈書である。

さて、この「しはすの月夜」が『枕草子』で「すさまじきもの」として挙げられているというのは古文の世界では有名なんだけど、にもかかわらず、現存する枕草子の「すさまじきもの」の段にはこの「しはすの月夜」は入っていない。ではなんでそれが有名になってるのかというと、『源氏物語』で紫式部が清少納言へのあてこすりとして、「十二月の月を『すさまじきもの』とか言った、わかってないヒトもいたそうですが云々」みたいなことを書いたからである(大野晋、丸谷才一著『光る源氏の物語』上、中公文庫、p. 354)。『河海抄』や『紫明抄』が書かれた当時の枕草子にはまだこの記述が残っていた。だからこれらの本の注釈に(当時の)枕草子からの引用が残っていて、それでこんにち知られているというわけ。

雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつゝ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮れに、人の御かたちも光まさりて見ゆ。「時々につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、この夜のほかの事まで思ひ流され、おもしろさもあはれさものこらぬをりなれ。すさまじきためしに言ひおきけむ人の心あささよ」とて、御簾巻き上げさせ給ふ。

(新日本古典文学大系『源氏物語』二「朝顔」、p. 268、一部表記を改める)

「御簾巻き上げ」のダメ押し付き。

この「しはすの月夜」「おうなのけさう(老女の化粧)」が「すさまじ」というのは、清少納言の(漢籍などによらない)オリジナルだったのだろうか(『新猿楽記』の注には「当時の諺」って書いてあるけど……)。もしそうだとしたら、明衡がこの箇所を書いた時には、明らかに(当時の)枕草子が念頭にあったということだよね。そして鎌倉時代の事典にもすっかり定着していたと。そう考えると、平安時代の女流文学のメインストリームっぷりにあらためて驚かされる。

また「しはすの月夜」云々のくだりはどうして現存していないのか、素人ながらそれをいろいろ想像するのも楽しい。

あともう漢文は引用したくないと思った。超めんどくさい。

2009-05-11

寛和元年(九八五)二月十三日、円融院が子の日の遊び(正月のはじめの子の日に、野に出て小松を引き若菜を摘んで長寿を祝う宴遊)をされた時のこと、紫野《むらさきの》にお出かけになった院は、大中臣能宣・源兼盛・清原元輔・源玆之《しげゆき》・紀時文《ときふん》というような、当時の主な歌人を、かねてお召しになっていましたので、それらの歌人たちはみな衣冠を正し、正装して参会していました。

院の近くには公卿の座が設けられ、その次に、殿上人の座が設けられ、その末の方に、幕にそって横の方に、歌人たちの座が設けられています。院が座におつきになり、公卿、殿上人、歌人たちも座につきましたが、そこへ、烏帽子をつけ、狩衣袴姿という、当時の公卿の服装としては普段着のみすぼらしい格好で現れ、歌人の座の末に着いたものがいます。人びとが、何者が来たのかと思って見ると、曽禰好忠です。殿上人たちが、「おまえは曽丹《そたん》ではないか、どうして来たのか」と、そっと尋ねます。

「曽丹」というのは、曽禰好忠は丹後掾《たんごのじょう》という官についていましたところから、「曽禰」の「曽」と「丹後掾」の「丹」とをとって呼ばれていたものです。初めは「曽丹後掾」と号されていたのですが、その後、「曽丹後」と呼ばれるようになり、さらに略されて「曽丹」といわれるようになったので、好忠自身、いつ「そた」と呼ばれるようになるであろうかといって嘆いたと伝えられています。

(安田章生《あやお》『王朝の歌人たち』NHKブックス、1975年、pp. 94-95)

2009-05-04

へん

また平安時代から外れてしまうのだけど番外編ということで。徒然草の話。

(第百三十六段)

医師《くすし》篤成《あつしげ》、故法皇の御前に候て、供御《ぐご》のまゐりけるに、「今日まゐり侍る供御の色々を、学問も、功能《くのう》も、尋ね下されて、空に申侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。ひとへに申誤り侍らじ」と申ける時しも、六条の故内府まゐりたまひて、「有房《ありふさ》、ついでに物習《なら》ひ侍らん」とて、「まづ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏《へん》にか侍らむ」と問はれたりけるに、「土偏に候」と申たりければ、「才のほど、すでに顕れにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、どよみにて、まかり出でにけり。

(新日本古典文学大系39『方丈記・徒然草』岩波書店、1989年、一部表記を改める)

もう二年近く前の話だけど、区の図書館が主催する日本の古典の講演があって、それを聴きに行った時に『徒然草』のこの段が紹介されていた。僕は徒然草はまだ読んでないけど、それでこのエピソードを知ったのだ。

医師の和気篤成が、法皇(ここでは後宇多法皇かという)のお膳が来たのを見て、そのひとつひとつ、どれでもその名前と効能を書物にあるとおりにそらんじてみせようと自慢した。そこへ源有房がやって来て、それではついでに教えていただこう、「『しほ』といふ文字は、いづれの偏にか侍らむ」と尋ねた。篤成が「土偏に候」と答えると、有房に、学問の程度が早くも露呈してしまったな、その辺にしておきなさいと言われ、篤成は一座の哄笑を買ったという話。

さて、このやりとり、「いづれの偏にか侍らむ」「土偏に候」について、新体系の脚注は、「土偏でございます。篤成は『塩』の字を考えて答えた」「有房は正字の『鹽』でなければ正解としない立場である」と解説している。講演の先生もそれに従って講義されていた。また、それを承けて「聞いただけではどちらの『しほ』かわからないのだから、意地悪な質問だ」ともコメントしていた。

これを聴いていた時はふーんと聞き流していただけだったのだけど、聞きながらなんか変な感じはしていた。それが後世に伝えるほどの機知のある会話かな、というようなことを思ったのだ。

ところが後日、『いろはうた』という本を読んでいたら、この「へん」というのはまったく別の意味だったということがわかってしまった。

アクセントそのものは変化してしまっていても、語頭音節における高低一致の法則が保存されていたなら、「山のく」と「く山」との「お」の高さが違うということにはならなかったはずであるから、その法則も十四世紀末には失われていたことが、これによって知られる。もとより、長慶天皇としては、それが、アクセント史のいたずらであるとは気づいていない。「緒の音・を」「尾の音・お」とあるから、音が基準になっているのかと思うとそうでもない、といっているところを見ると、この「緒の音・を」「尾の音・お」という趣旨も正しくは理解されていないようである。まして、ここでは「を・お」以外の同音の仮名までも、やはり高低に基づいて書き分けられているはずだという前提で検討されているので、結局、

音にもあらず儀(=義)にもあらず、いづれの篇につきて定めたるにか、おぼつかなし

という評価をくだすほかはなかった。

医師篤成が「しほといふ文字は、いづれの篇にか侍らん」と尋ねられ、見当違いの答えをして恥をかいたという話が『徒然草』一三六段に見えている。ここに「いづれの篇に」といっているのも、やはりその場合と同じように、どういう典籍に、という意味であるから、要するに、定家による規定は根拠不明だというのである。あるいは「旧き草子」というのを、そういう事柄を記した特定の典籍として理解したものであろうか。

(小松英雄『いろはうた――日本語史へのいざない』講談社学術文庫、pp. 310-311)

徒然草の同段は、「どの典籍に出ているのか」と問うた有房に対して、篤成が「土偏である」と見当違いの答えをしたという話だったのだ。それで有房は「程度が知れる」と呆れたのである。それなら笑い話としてちゃんと納得のいく筋になっている。